とある文化ホール。指定避難所にもなっている敷地内の腰かけです。
2011年・3月11日・東日本大震災の発生後にここの建物に避難しました。多くの人々がホール内で不安な日々を過ごしました。電気はとまり、建物の中ではラジオの電波は届かないので、ここの花壇にラジオを置き、ここに立ち寄っては世の中の被害状況を聴いていました。
そこで夕方から夜にかけ津波の被害状況がアナウンスされるようになりました。僕はその晩、ほぼここで夜を過ごしました。ラジオからは一晩中地震や津波被害の安否確認や被災情報が鳴り響いていました。
ホールに避難したものの、トイレはすぐに満杯になり、夜中にようやくここの腰かけの前に仮設トイレが並びました。
朝になると数台の給水車が止まり。多くの在宅被災者で水を求め行列になりました。その翌日には、滋賀県長浜市からの給水車が毎日水を給水していました。その様子はここに並ぶ腰かけから毎朝眺めてました。
文化ホールはまち自慢のホールでした。設計にはとくに音響効果は他のまちの文化ホールより良いと、当時、ここに文化ホールを建てることを奨めていた議員さんは言ってました。そして施設にはその当時の技術で耐震設計がなされてました。
ここはかつて、小学校が建てられていた場所で、その頃の小学校は木造建築で大きさはありましたが、その時あった大地震で傾き、衝立で補強された小学校でもありました。僕が在学中には宮城県沖地震(1978)をここにあった校舎で体験しました。
宮城県沖地震(1978)の時は、まちで一番大きな体育館が壊れてしまい被害に遭いました。そこには多くの歌手や文化人を招いてショーが行われていました。僕が観たのは・さとう宗幸さんと千昌夫さんのコンサートを観ました。当時流行りのコンサート内容でした。千昌夫さんのボストンバックを持ちながらのショーを生の姿で見れたことが思い出にあります。
それから時が経ち、ここに文化ホールが建てられ、指定避難所にもなりました。ここに立ち夜をすごしていると「だいじょうぶですか?」と一言あったりもしました。夜はここで寝泊まりし、昼は自宅にもどり片付け作業の日々が続きました。ラジオからは地震被害、津波被害、原発事故の情報がアナウンスされていました。一週間はここで過ごしました。その後も帰れない人々や水道が通らない世帯もいて、給水車はずっとしばらくここで給水作業を行ってました。
長浜市と記された給水車のことが忘れられなくて、その後、滋賀県長浜市の長浜城まで訪ねました。駅についてタクシーの運転手さんに震災当時のことを伺いました。滋賀県は震度3の地震があったようで、当時停車中に揺れを感じたそうです。「最初、誰かが車を揺らしていたんじゃないか、と思った」と、おっしゃってました。この辺でもあまり体験したことのない揺れだったようです。
琵琶湖に面したまちから、給水車両が駆けつけてくれました。
あの日のことが思いだす。まちの避難所の腰かけです。
あれから10年。なにもいいことがない10年になりました。コロナ過になって「何かあなたにいいことはなかったですか?」と尋ねられても「何もなかった。悲しい気持ちになるだけでした」。率直にそう答える言葉しが頭に浮かびませんでした。
震災から10年。小中をともにした同級生が、年齢的には若くして4人は亡くなりました。毎日、消されるような思いをしながら、未来のない暮らし。高卒でいれば大卒。大卒。大卒。大卒以下は消去。
震災時、おにぎり一個で過ごしましたが、いまだにおにぎり一個だけで暮らしているようなものです。自分を誤魔化せば100個にでも200個にでもなりますが、誤魔化さなくなると、どんどんと減ってゆき、気が付けば見えなくされてます。「何かあなたにいいことはありましたか?」「なにもなかったですね」。
いいことがあったとしても、波に消される日々。それが震災から10年目を迎えた現在です。
思い出すのは給水車両が遠くから来てくれて「ありがたいなー」と思ったぐらいで、その後は、高卒以下は消去、消去、消去されてるんだなと、思うようになりました。
内閣府が大学進学支援事業を広報しても、やっぱり高卒以下は消去してたんだな。と思うだけでした。
自分には何もいいことはない。辛くて悲しいだけです。あの時、死んでればよかった。そう振り返るだけです。