天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思う

本質は無関心

2013年10月11日 | Weblog
春秋 2013/10/11付 日経

 「言葉尻だけを捉えるのはつまらない話です」。政治家の言葉をやり玉にあげるマスコミに、6年前に死去した作家の城山三郎がくぎを刺した。ただ「その人の本質を表すような言葉が出たときには、それはもう容赦なく批判すべきですね」(「『気骨』について」)。
▼これから書く話は城山さんも分かってくれるだろう。安倍首相が水俣条約の会議に寄せたメッセージで「水銀による被害と、その克服を経た我々だからこそ、世界から水銀の被害をなくすため先頭に立って力を尽くす責任がある」と述べた。これに水俣病患者の側から「被害は克服されていない」と反発が出ているという。
▼「原発の汚染水はコントロールされている」という五輪招致演説に重なる何ものかを感じとった人も多いのではないか。国際舞台で、外向けに、日本の実力を誇って胸を張る。見えを切る姿は頼もしくさえあるのだが、国内で現にいま苦しんでいる人々へのまなざしが感じられない。考えてみればどちらも同じ構図である。
▼五輪を東京で開く。世界を水銀の汚染、あらたな水俣病から守るために指導力を発揮する。どちらも大義ある話だ。首相が国を引っ張るのも当然だろう。しかし、その公式発言に「コントロール」や「克服」が紛れ込む。二語に共通する何ものかは「言葉尻」なのか。いや、どうしても「本質」と思えてならないのである。

 「言葉を読んでいる」ということでしょう。「コントロール」している、「克服」したのは自分ではなく、関心もない。誰かが空想した言葉をそのまま読めるのは、そのことに関心がなく、知らないから。

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