ファーマータナカの今日のお言葉。
脳内は自己愛とエロス満タンでも、キリストの「愛」にふと立ち止まることだってある。
崇高で清らか、昔通った学校のせいか、口語訳がしっくりくる。
4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
8 愛はいつまでも絶えることがない。
(コリント人への第一の手紙第13章4~8節)
愛と訳されるギリシャ語はエロス(性的愛)、ストルゲー(家族的愛)、フィリア(友の愛)、そして聖書が伝えようとするアガペー(無償の愛)がある。
一方仏教では元々愛とは愛着執着で、欲望の一種煩悩の一つにすぎず、捨て去るべきものでエロスに近い。
又フィロス(知的な愛)にも惹かれるが、これだって欲の一種に違いない。
結局立ち止まって愛に思いを巡らせたからって、欲まみれの四苦八苦の現世にとどまるしかない、そういう現実そういう己を知ることに幾ばくかの意味がある、ってことにする。
(いらない附録)
私は不寛容であり、薄情だ。又妬んでばかりで、意味なく高ぶり、誇らし気だ。
不作法で、自分の利益ばかりを求め、苛立ち、恨みを抱く。
不義を悦び、真理を喜ばない。
そして、全てに堪え性がなく、全てが信じられず、全てが耐えられない。
私の欲望はいつまでも絶えることがない。
(懲りん人の最期の呪文…単なる自己分析で、聖書を貶める意図も力も一切ございません)