このところ、盲目の方や車椅子の方をテーマにした映画をたまたま立て続けに見た。
これに関連して自戒を込めて拙い経験を少し振り返ってみることにする。
身障者というだけでなく、肉体的・精神的・社会的に異質なものやいわゆる社会的弱者から、目を逸らし排除し差別しようとする空気は、意識的又無意識的にいつの時代にも存在する。
そして当然の如くそれは自分自身にも内在する。
実は高校時代JRC(青少年赤十字)という何とも似つかわしくないクラブにひっそりと在籍していた。奉仕とか福祉活動とか何と上から目線な言葉だろうとは思いつつ、たぶん何某かのクラブ活動に所属すべきといった程度の同調圧力が動機だったと思う。
或る時市内の盲学校との交流会を企画した。
それなりのやり取りが何とか終了して、ある一人から別れ際に突然「友達になって下さい。」と小さな声で囁かれたのだ。しかし如何にも思慮が無かったのか(その可能性が高い)、或いは自分の度量を咄嗟に察してか、その時そこには彼を受け止めきれる自分はいなかったのだ。今でもふと彼の事を思い出し、只々申し訳なかったと思うばかりだ。
又或る時は、福岡市東区にあるS園という養護施設に慰問(これも何だかいやな言葉だ)に行った。ここは日本及び東洋太平洋ライト級王座になったS氏が在籍していたところでもある。
子供たちとの距離感と不調和感に何の芸も仕掛けも無く、ただ出来ることといったら一緒に遊ぶことだけだ。それでも帰る頃には、やっと手の温もりや笑顔が少しだが感じられるようになる。「又来てね。」と言ってくれる子供も出てくるのだ。
しかし数回の訪問も結局長くは続かなかった。体のいい御飯事というところだし、結局子供達にとってはその場限りのいい迷惑だったかもしれない。
話は少し逸れるが、当時学内に白血病の同級生がいて、献血車を呼ぼうということになり、それについて学内討論というようなことになった。
大方が優秀で裕福なお坊ちゃまお嬢様のご意見は、私の勝手な解釈では、一人の一個の人生の重さではなく、「万一事故が起こった時、お前は責任が取れるのか。」であった。
論破するだけの理論武装した頭脳など有る筈も無く、それに対する私の反論は、
「やってくれる人だけがやってくれればいい。」という議論以前のお粗末な回答だったと思う。
それでも、数少ない献血者の大半は私と同類のおバカな劣等生仲間達だったのはせめてもの救いだった。
結局クラブの活動は、校内に花を飾ろうといったような当り障りのないものに収斂して行くのだった。
さて何とか社会人となった営業職時代に躁鬱病の部下ができた。
営業成績も良く、普段はテンションも高く陽気なのだが、ご存じのように営業職はストレスも過重で、強靭な精神力を持っているか、あるいは極度の楽天家でないと勤まらない。ナイーブな彼は何分落差が激しく、入退院を繰り返すこととなった。
身寄りのない彼の病院には誰も寄り付こうとはしなかった。私はそれでも何回か見舞いに訪れたのだが、面と向かうと言葉が見つからないのだ。
(頑張れは禁句だと言うし)
結局は次第に疎遠になってしまい、彼の人懐っこい笑顔が今も忘れられない。
又農業を営んでいる時、アルコール依存症の方を雇用する機会があった。
専門病院にも連れていき、AA(アルコホーリクス・アノニマス Alcoholics Anonymous)に参加したり、地元の断酒会にも同行、シアナマイドやノックビンという抗酒剤服用の管理も私自身がかってでたのだが、これも私の力不足で再起は叶わなかった。
又、パニック障害や引きこもりの方を何とか雇用できないかと画策したこともあったのだが、これも結局不発に終わっている。
そしてやがて高齢者という社会的弱者に今足を踏み入れようとしている自分がいる。
因果応報。自業自得ということか。