きょうちゃんの春の運動会の画像が送られてきました。
じっと目をこらさないと、どれがきょうちゃんなのかわかりません。
真ん中あたりで、こちらを向いて笑顔をみせているのがそうでしょうか!?
こうなると、もうさっぱり。
目の前で運動会を見ていれば別ですが・・・。
もともとは【松風地どり】のお客さまですが、「縁は異なもの」という風にして、お知り合いになった若い友人から、山口県の角島大橋(つのしまおおはし)の風景写真が送られてきました。
山口県生まれの私としては、とても懐かしい景色です。
それに大好きな海!
何しろ海まで歩いて五分、というところで生まれたものですから。
ちょっと遠いですが、行ってみたくなりました。
今月2日、竹田城に登るため料金所で1人500円を支払い、渡されたパンフレットの写真です。
雲海に浮かぶ神秘的な竹田城の光景ですが、こんな写真は、さまざまな条件がそろわないと撮れるものではありませんね。
パンフには「全国屈指の山城遺構」とあります。
スマホで写した写真を拡大しているせいか、とてもピンボケになってしまいました。
竹田城についてもっと詳しく知りたい方のために、このパンフの説明文も以下に引用させていただきます。
【歴史】として
「嘉吉元年(1441)、嘉吉の乱勃発後、山名氏と赤松氏の間に深刻な対立が生じていました。竹田城は、この時、赤松氏に対する山名氏の最前線基地のひとつとして築城されました。以後、太田垣氏7代にわたり城主となりますが、天正5年(1577)、羽柴(豊臣)秀吉の但馬攻めにより、羽柴秀長が城代となりました。これ以降、竹田城は織豊方の拠点城郭として機能しました。
天正8年(1580)、羽柴秀長は出石・有子山城に入り、その後、竹田城は秀長の属将・桑山重晴に預けられました。さらに、天正13年(1585)、桑山重晴が紀伊和歌山城代に転じると、赤松広秀が城代となりました。」
【遺構】として
「竹田城は、播磨・丹波・但馬の交通上の要地に築城されました。築城当初の姿は不明な点が多いが、石垣遺構周辺に存在する曲輪から判断しますと、現在の本丸・天守台の存在する山頂部から三方に延びる尾根上に車輪を連続的に配置し、堀切や堅堀で防御性を高めていたものと思われます。
一方、織豊期以降の竹田城は、最高所の天守台(標高353.7m)をほぼ中心に置く石垣城郭となり、本丸以下南方には、南二の丸、南千畳が、北方には、二の丸、三の丸、北千畳を築いています。さらに、天守台の北西部には、花屋敷と称する曲輪があります。ここは、主郭の中でも搦め手の位置にあたるため、南北には、向かい合った石塁を築き、防御性を高めています。これらの石垣遺構周辺には、多くの石取場が確認されています。大堅堀や登り石垣なども確認され、倭城の築城形態に倣った作りとなっています。なお、竹田城の規模は、南北約400m、東西約100mを測り、今もなお当時の威容を誇っています。」
我が篠山城の築城は1609年ですから、竹田城はそれより168年前に造られたものだと知りました。
石垣は、どちらも穴太(あのう)積みですね。
今は、この写真を撮ったときより少しは明るくなってきていますが、今日も寒そうです。
まだ、スタッドレス・タイヤをはいたままで良かった~。
きのうは、久しぶりのお天気だったので、きょうちゃんは植物公園(広島市)に連れて行ってもらったようです。
買ってもらった、大好きなアイスクリームは、本気で食べなくちゃね。
一方、テニスの錦織圭選手は、すごい快挙を成し遂げてくれましたね。
同じ日本人として、とても誇らしいです。
残っているのは、優勝の二文字のみ。
最近のプレーで発揮している本気モードで、勝ちにいって欲しいものです。