丹波篠山でまさかの名古屋コーチン!?【丹波篠山まつかぜ屋】

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富岡健先生をお迎えして

2009年07月29日 | Weblog
丹波篠山の混声合唱団「シルバーエコーささやま」は、来る9月13日(日)に開催予定の、創立25周年記念演奏会(丹波篠山築城四〇〇年祭協賛)に向けて、本格的な準備段階に入っています。

昨日の練習日(火曜日)には、富岡健先生をお招きし、ご指導を仰ぎました。

先生は、同コンサートに賛助出演してくださる、「滋賀男声合唱団」や「篠山少年少女合唱団」の指揮もなさっておられます。

私たちにも分かりやすく、的確なことばでのアドバイスもさることながら、お手本に、実際に歌われる、その歌声や声量に圧倒されます。

下手をすると、お一人で、我が合唱団全員よりも豊かだと感じるほどの声量でした。

☆富岡 健先生のホームページ☆

☆滋賀男声合唱団のホームページ☆

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再びシェーンブルン宮殿を訪れて

2009年07月29日 | Weblog
最後に、元団員の酒井弘子さんの記事をご紹介します。

『1996年6月、私は再びシェーンブルン宮殿を訪れた。昨年、この世界的な財宝といわれる黄色の宮殿で、シルバーエコーが三国国際交流のコンサートを行った思い出の場所だ。

ウィーンの街は、緑にあふれていた。街路樹の、昨年通った道を経てシェーンブルン宮殿についた。

一生に再び出会うことのない、シェーンブルン宮殿でのコンサートの取材。田舎の新聞社に勤めて二年余の駆け出し記者には、大きすぎる仕事であった。他の国の一流記者と伍して、コンサートを目の当たりにして取材させて頂いた思い出は、一生消えることがない。胸が熱くなって足が震えたのを思い出す。

一年を経たシェーンブルン宮殿は、あの当時とそっくりのまま、監視カメラで何かに触れようか、でブザーが鳴り、監視員が飛んで来る有り様であった。一番関心を持ったのは、あのコンサートの開かれた大広間であった。他を圧する天井絵、豪華なシャンデリア。「会議は踊る」で使われた大広間は、あの時と同じように世界の財宝の数々が詰まった凄い広間であった。あの時使われたグランドピアノが控えの間にあった。物静かな感じで、最近コンサートが行われた様子はなかった。

宮殿の広間は様変わりしていた。今夜も屋外コンサートが開かれるらしく、出店がいっぱい出ていた。この様子を見ると、屋外コンサートは毎夜行われているが、シェーンブルン宮殿大広間でのコンサートはあまり行われていない。私たちのコンサートが、どんなに希有なことかを知った。

シルバーエコーの歌声はすばらしかった。着物風な衣装。奏でられる日本の歌の数々。小嶋先生の蝶の舞のような指揮。何もかもが異国情緒豊かに観衆にアピールした。私たちは日本を代表する歌声をシェーンブルン宮殿に残してきたのである。

私たちコンサートに参加した者たちは、この世界的な大事業を、あまり大きく評価していないのではないか。取材記者という大きな仕事をさせてもらった幸せを再び彼の地を訪れて思い、使命と責任を感じた。

ウィーンの森は緑濃く、街並は緑にあふれていた。住民が必死で守り通している緑と歴史、丹波人として学ぶことの多いウィーンの街である。』
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ウィーンの思い出

2009年07月29日 | Weblog
次は、松尾政子さんです。

『この旅の親善の旅に参加させていただき、一生の思い出のアルバムに素晴らしい一齣を加えることができました。

オーストリアの首都ウィーンは、さすが世界に誇る”音楽の都””森の都”と言われるだけあって市内いたる所に、その面影を偲ぶことが出来ました。

殊に感激一入だったのは、シェーンブルン宮殿でした。その外観、広々とした美しい庭は言うに及ばず、その部屋数が144室とかで、一部屋一部屋の天井から側壁に至るまで豪華絢爛たる金箔が張りめぐらされ、数々の歴史の舞台となったそうで、目を見張るばかりでした。

いよいよ明日は、この宮殿で日本・オーストリア・アイルランド三国の親善コンサートが催されると思うと、その興奮に酔いしれ、あまり眠れなかったのを思い出します。

当日、慣習は凡そ700人。同僚の顔々はみな緊張の色に染まっていました。小嶋星子先生の指揮、溝畑清美先生の伴奏のもと、私達は一斉に感情こめて力いっぱい歌いあげました。観衆の惜しみない拍手が、いつまでもいつまでも続き、思わず涙ぐんだのを覚えています。音楽って、国境を越えて感じ合えるものだと実感して味わうことが出来ました。

その他、ウィーンは数多くの文化遺産があるのにも驚きました。又、あの名高いドナウの渓谷観光も脳裏に焼き付いています。シルバーハウスを訪問して、環境がすごく明るく入居されている方達も朗らかで、ゆったりと生活されていて、とてもよい印象をうけました。町を行く人達も日本とは少し違っていました。人間性でしょうか。出会う人みんなに、私達にもニコニコと「ハロー」「ハロー」と愛想のよいのに感動し、言葉はわからなくても、心で通じ合えることが嬉しいでした。まだまだ楽しい思い出、いっぱいいただいた旅でした。ありがとうございました。』
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シェーンブルン宮殿で歌って

2009年07月29日 | Weblog
次に登場するのは、今村允地子さんです。

『ウィーンに着いて3日目の6月10日、シェーンブルン宮殿で、オーストリア、アイルランドの合唱団との交流コンサートで合唱することが出来たのは、いつまでも忘れられない思い出です。

映画「会議は踊る」で有名なウィーン会議の舞台となった大広間で歌えたのは、夢のようです。シャンデリアのまぶしいばかりの輝き、天井の華麗なフレスコ絵を目にしながら歌うことの幸せをつくづく感じ、一生懸命歌いました。一曲、一曲に会場いっぱいの観客から、温かい大きな拍手をいただき、トリッチ・トラッチ・ポルカを歌い終わった時には、立ち上がって鳴り止まないほどの沢山の拍手を頂き、胸があつくなりました。最後にオーストリア、アイルランドの合唱団と一緒に三ヶ国語で「楽しい時間」を歌い感動いたしました。

多くの方達とふれあうことが出来たことを、感謝しています。ありがとうございました。』
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ウィーンでのコンサート

2009年07月29日 | Weblog
次は、同じく団員の、美濃一雄さんのコメントです。

『シェーンブルン宮殿内の大広間で行われた3国合同によるコンサートは万雷の拍手の内に終わりを告げた。

この大広間は現在もオーストリア政府主催の行事に利用されており、また「会議は踊る」の舞台で使われた有名な場所との事だった。

天井に描かれているバロックとロココ調をとり入れた絵画、ローソク状のシャンデリアに灯が入り、とても豪華な雰囲気であった。

ウィーンの人々がこの宮殿の大広間に夕刻を待ちかねた様に集まり、合唱が始まると一心に耳を傾け一曲終わる毎に惜しみなく拍手をする姿に感動を覚えた。

最後に3国の合唱団員が「リード、アンディーフロイデ」「楽しい時間」の2ky句を1番は英語で、2番はドイツ語で、3番は日本語で歌った。歌い終わって、私たちはお互いに握手をして喜び合い、客席は拍手がいつまでも鳴り止まず、胸にこみ上げるものを感じた。』
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合唱交流団に参加して

2009年07月28日 | Weblog
続いても、1995年6月10日に開催された、~シェーンブルン宮殿での、ウィーン・アイルランド・日本の、三カ国合同コンサートを記念して~、というサブタイトルのついた、小冊子からの抜粋です。

今回は、「シルバーエコーささやま」団員の、中野眞智子さんの文章をご紹介します。

『初めての海外旅行でした。音楽の都、ウィーンで歌が歌えるという事で、行く事に決めました。素晴らしいシベリアのツンドラ地帯を下に見て、ウィーンに着きました。回りが団員ですので少しも外国に来ている感じはなく、ウィーン滞在中、朝食はずっと日本食が食べられ私には最高でした。

12区、13区のシルバーハウスでのコンサート、シェンブルン宮殿での美しい声の地元のミカエル合唱団、アイルランドのモア合唱団のバラエティに富んだ合唱、力いっぱい演奏した丹波・羽曳野合唱団。3国合同の「喜びの歌」「楽しい時間」のコーラスに会場いっぱいの客席から、はちきれんばかりの拍手が送られました。

いつの間にか会場は一つになっていました。「来てよかった。」感激いっぱいの旅でした。

国旗が至るところでなびき、緑いっぱいの自然、言葉が笑顔で通じ、困った時には、国民全体で支え合い解決される国、オーストリアが好きになりました。』
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あこがれのシェーンブルン宮殿での『夢のコンサート』 (4)

2009年07月27日 | Weblog
翌朝早く、スイスへと向かった。今までのはりつめた緊張がとけ、心地よい疲労と未知の世界スイスへの期待感で皆の表情は明るかった。

このすばらしい経験の背後にあるたくさんの方々の努力と支えに感謝する。

丹波の森協会、丹波合唱の会より参加して下さった方々、和楽器と踊りで色をつけて下さった方々、特に羽曳野市とはびきの女性合唱団の皆様にはとてもお世話になった。日にちがせまり、これまで声をかけていた合唱団の不参加でどうしようか、と思案に暮れていた時、急に誘いをかけ、その上合同練習が二度という不都合なインスタントな合同合唱団が、立派にシェーンブルン宮殿という大舞台で大成功をすることが出来たのは、はびきの女性合唱団の実力のある演奏があったならばこそ、と心から御礼と感謝を申し上げる。この大成功は、私たちを支えて下さった方々の結集した努力の賜物である。

皆様に感謝しつつ、この実績を次のステップとしてさらに飛躍していきたいと願う。ほんとうにありがとうございました。』

以上が、小嶋星子先生の記事です。
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あこがれのシェーンブルン宮殿での『夢のコンサート』 (3)

2009年07月25日 | Weblog
いいお天気のウィーンであった。13区のシルバーハウスでは、13区長はじめ議員たちが私達の演奏の後で、沢山の御馳走を用意して大歓迎のパーティをして下さった。人懐こい何十年来の友のような歓迎振りに、案じていた、もろもろの不安がけし飛んでいく感じがした。シルバーハウスでの演奏が、いい練習の場となって、シェーンブルン宮殿での演奏に備える事が出来た。

あこがれのシェーンブルン宮殿。映画”会議は踊る”の舞台になった、ゴージャスな大広間。まばゆいばかりのシャンデリアに囲まれて、夢の世界へ誘うような気持になった。奥にステージが置かれ、脇には心配していたピアノが用意されていた。リハーサルの途中から、入口には聴衆が詰めかけて、アッという間に700席が満席になっていた。前席に13区長と各国の指揮者が座り、議員やそれに続く人達が後に続いた。13区長のあいさつの後、演奏が始まった。

はじめに、ラデツキー行進曲でオーストリアのミカエル合唱団が入場した。白いブラウスに赤いスカート、オーストリアの旗を思わせる衣装がさわやかだった。日本をはじめ、いろんな国の曲を演奏してくれた。アイルランドのモイ合唱団は、白のブラウスに黒のスカート。若い女性指揮者はグリーンのドレスで現れた。タップダンス、合奏、ソロなどバラエティに富んだ合唱を聞かせてくれた。いよいよ日本の番になった。

ピンク、紫などの日本の古典柄の着物風ブラウスに黒のベルベットのスカート、金色のベルトでアクセントをつけた。外国人には袴を思わせる衣装である。男性は紫に赤のふちどりのハッピコート。少人数でも貴重な存在の男性は存在感があった。多くの色柄を引き締めるために、指揮の私は後ろ姿が大切なので、真紅に縫いとり紋のある着物ブラウス、金の帯をもってきた。

曲目は”ふるさと””箱根八里””赤とんぼ””夕焼け小焼け”、最後に”ブラームスの子守歌”を羽曳野女性合唱団の中野彰先生が指揮。その後日本の楽器、日本舞踊の入った”さくら さくら””狸々寺の狸ばやし””黒田節””荒城の月””合津磐梯山”最後にヨハンシュトラウスの”トリッチ・トラッチポルカ”を私が指揮した。最後の一節、トリッチ・トラッチの発声とともに、後列真ん中でオーストリアの国旗、全員が赤と白のハンカチを掲げてオーストリアを讃えた。「ブラボー」の掛け声、いつまでも続く拍手を聞きながら、夢見心地の中で成功を実感、胸が熱くなった。最後にラデック氏の指揮で三カ国合同合唱、第九の”歓びの歌”をドイツ語で、”別れの歌”をドイツ語、英語、日本語で、声高らかに宮殿いっぱいに歌った。まだに国を越えて心は一つ、と感じられる一瞬であった。

オーストリアの観衆の反応は一曲一曲、長い拍手の中に伝わってきた。”狸ばやし”の様に、はぎれのいいものは喜ばれた。”合津磐梯山”の様な日本古来の民謡の、三味線の音色がエキゾチックだった。三味線、大正琴、和太鼓で日本情緒を表せたし、日本舞踊は観衆の目を楽しませると同時に、日本古来の伝統を伝えてくれた。度重なる練習で得た合唱の美しさに加えて、少しでも日本の音楽を伝えることが出来たと思う。

13区長はじめ議員さんたちが、何度も成功を喜んでくれた。私達仲間は、夢ではないかとホッペをつねってみたり、涙が止まらなかった人もあり、感激を口々に語ってくれた。日本大使館の方も「こんな宮殿で日本人が演奏したのは最初ですよ。そして多分これが最初の最後になるでしょう」と語ってくれた。姉妹提携のお蔭とはいえ、心から「13区長、そしてみなさん”ありがとう”」と叫びたい。私にとっても二度と訪れないであろう、一生で最大の感激であった。
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あこがれのシェーンブルン宮殿での『夢のコンサート』 (2)

2009年07月24日 | Weblog
(小嶋星子先生の記事の続きです。)

音楽を通じての国際交流、メンバーの人たちもどんなにか感激が大きいだろう。しかし、計画が次第に本格的になっていった折も折、平成7年1月17日の阪神・淡路大震災が起こった。神戸と篠山は近い関係にあり、篠山の人たちの家族、親戚縁者は阪神間にいる。私宅も被災した親せきを預かったり、ボランティアで神戸へ行ったり、大変な時期を経験した。こんな阪神大震災の時に、と企画を断念しようかと考えていた時、13区の区長から電話が入った。「6月10日に、シェーンブルン宮殿の大広間で『オーストリア』『アイルランド』『日本』の三カ国の国際コンサートを計画したい」との事。私は阪神大震災の現状を話し「篠山も神戸には大変ゆかりのある地域です」と話した。彼らはすでに大震災の惨状を知っていて、見舞を送ったという。しかし篠山と神戸との地域的なつながりは知らなかった。「とりあえず、二、三週間返事を待ってほしい」私はそれしか言えなかった。丹波の森協会や社会情勢に詳しい人に早速相談した。

「大切な国際親善に役立つことで、兵庫県に明るいニュースが作れます。復興にもつながる事です。前向きに考えなさい」とアドバイスを受けた。しかし、現実問題は厳しかった。第一、シルバーエコーの参加希望者の数が減った。参加予定の宝塚の合唱団も不参加になった。大震災からまだ数カ月の海外公演である。未曾有の震災の後には、仕方のないことであった。丹波地方の合唱団に呼びかけ、三味線、大正琴などの和楽器演奏者、日本舞踊の人達にも声をかけた。全て自費負担にもかかわらず、各パーツから数名の参加が決まった。日本独特の曲を日本独特の雰囲気で、演奏できる喜びは、ひとしおであった。

しかし、合唱の方で、ハーモニーを作る各パーツのバランスが合わず悩んだ。その時、ウィーン13区と姉妹提携を予定している羽曳野市に合唱団があることを知り、丹波の森協会を通じて、参加をお願いした結果、三十数名が参加して下さった。日が迫っており、練習も合同で二度というものであったが、こうしたかかわりが、二つの地域が交流を深めるきっかけとなった。

「はびきの女性合唱団」は、指揮者は中野彰氏で、すばらしいハーモニーで声量もあり、実力をもった合唱団だった。「この合唱団と一緒に演奏が出来る」と思うと、不安がだんだん希望に変わっていった。

ウィーンのミカエル合唱団の指揮者、ラデック氏からの電話、FAXなどで打ち合わせが始まった。「演奏は30分以内、ピアノなし」との事。オールドコーラスはヨーロッパの人達のようにアカペラに慣れていないので、ポータブルピアノを持参する交渉中、ピアノの準備が出来たとの知らせを受け、ほっとした。

日本の歌をオーストリアの聴衆に分かってもらうために、一曲一曲をドイツ語で注釈した。しかし、日本の風景、情景を翻訳するのはむずかしい。”夕焼けの美しさ””カラスの鳴く情景””山寺で狸や和尚さんが木魚を叩く光景”日本民謡の由来と意味、などなどを聴衆にどう理解してもらえるか悩んだ。その時私は、日本に来て間もないチバガイギーのスイス人に、ドイツ語の特訓を受けていたが、彼に日本の風習を理解できれば、彼の地の聴衆も・・と思ったが、なかなか難解なことであった。

日本の楽器を洋風の合唱の楽譜に合わせて演奏することも大変なことであった。渡欧の日が迫ってくる。カレンダーと、にらめっこしながらの多忙な日々が続いた。

いよいよ6月7日、七十数名のウィーン、シェーンブルン宮殿での第演奏会に向けてのツアーである。二つのグループに分かれて、機上の人となった。大切な時間を使って、期待して参加してくれた七十数名の人達に満足してもらえる演奏が出来るだろうか。私は人間関係も含めて全責任を負っている自負で心が重たかった。

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あこがれのシェーンブルン宮殿での『夢のコンサート』 ~日本人の誇りに胸躍った日~

2009年07月23日 | Weblog
1995年6月10日に開催された、シェーンブルン宮殿でのウィーン・アイルランド・日本の、三カ国合同コンサートを記念して、小冊子が編さんされています。(完成:平成8年11月3日、編集責任者:酒井 弘子さん)

今日は、その中の小嶋星子先生(=シルバーエコーささやま指揮者)の寄稿を掲載させていただきます。

『「シルバーエコーささやま」は結成されて12年、地域の中で親しみをもって声を掛けて頂くことが多くなった。各種イベントや福祉大会などあらゆる所で活動をしている。その中で海外公演の経験がなく、団員の中からも「一度は海外公演を」という声があり、旅行社などを数々当ってみたが、海外の公演となると、演奏場所を見つけ、観衆を集めるのはそう簡単なことではなかった。

そんな折、丹波の森協会から平成5年6月予定のウィーン13区と姉妹提携のための親善旅行に参加しないか、とのお話しがあった。

シルバーハウスでの演奏会を、とのことであったが、一般の人達と一緒で年寄りの方にはハードスケジュールで、10名の参加しか出来なかったが、大庭園いっぱいのお年寄りを前に合唱演奏できたことは、感激であった。

高台でゆかた姿で日本の歌を歌った。デカンショを踊りながらねり歩いたり、13区の合唱団や議員さんたちと共に歌ったり、しゃべったり、時の立つのも忘れた一時だった。

そして11月、ウィーン13区と丹波の森の姉妹提携の調印が出来、友好都市になった。シルバーコーは提携都市調印の一翼をになったのだと感無量だった。

平成6年の6月、私たちのコンサートには13区長、一議員からメッセージを頂いたり、コンサートのために来日、公演を計画してくださる議員もいた。こうしてシルバーエコーは、ウィーン13区と次第に親しくなっていった。

「今度こそ、団員揃ってウィーンで演奏したい」その願いがだんだん膨らんできた。10月には単身ウィーンへ。13区長はじめ議員さんたちと出会ったり、ミカエル合唱団という三十数名ではあるが、すばらしい合唱団を紹介され、練習を見学させてもらった。

「シルバーエコーがウィンで演奏会をするのなら、喜んで協力するよ」と皆が協力を約束してくれた。海外で準備するのは困難なのに演奏できるなど、本当に有り難いと思った。私のレッスンも含めて、見通しも明るく帰国した。「ウィーンでなら、たとえ病人が出てもどうにかなる」などと13区の人たちの温情を思い、前向きに企画を始めた。

(※続きは、また・・・)
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