馬鹿琴の独り言

独り言を綴ります。時にはお相手して下さい。

超意訳:南総里見八犬伝【第七回 安西景連、奸計により麻呂信時を売る/金碗孝吉、節義により義実の元を辞す】

2024-03-29 11:50:30 | 南総里見八犬伝

 東條城から駆けつけた杉倉氏元の使者、尼崎輝武が首を持ってきたので、里見義実は首実検を行った。
 そして尼崎輝武を近くに招いて、合戦の詳細を自ら尋ねた。
「滝田攻めの軍の兵糧が乏しいことは、杉倉殿も以前から心配しておりました。百姓に命じて運ばせようと思っておりましたら、安西景連と麻呂信時は、早くも山下定包に騙られて海と陸の道を塞ぎ、荷駄を取ろうと我らを待っておりました。この難儀を杉倉殿は憂いておりましたが、いたずらに日数が立ってしまいました。しかし、景連の使いがある夜やってきまして、杉倉殿に言ったのでございます」

 山下定包は逆賊である。
 中国戦国時代の外交家である蘇秦、張儀が百回も千回も説得に来ても、私を納得させるものではないが、麻呂信時にそそのかされて、奴がために道を塞ぎ、杉倉殿の兵士を苦しめてしまったのは我ながら浅ましい行いだ。
 後悔してほぞを噛んでみたものの、麻呂信時はひたすらに弓矢を磨いており、里見を攻める気である。説得しても思い直すつもりはない様だ。
 これもまた歯がゆいことだが、つらつらと良く考えると、麻呂信時は思慮も分別もなく、自己の利益のために義を忘れて、貪るだけで満足しない男なのだ。
 安西景連は里見殿との旧交を思うために、麻呂と一旦は力を合わせるが、麻呂が過ちを改めないのであれば、これ以上一緒に歩むことはできない。

 力を合わすことはやめて、まず麻呂信時を討ち果たす。そして兵糧運送の道を守って、里見殿に協力し、逆賊山下定包を討滅して大義を示そうと思うのです。
 以前には思いがけず訪れなさった里見氏を大切にしなかった安西景連の非礼は、例の麻呂信時が拒んだからなのです。

 願わくは、城代殿が城を出て、大至急攻め掛かかり下さい。
 麻呂信時は猪武者です。敵を見て思慮もなく一気に進むでしょう。その時こそ安西景連が背後から挟み撃ちにして、信時を捕まえることは手の平を返すより簡単でしょう。逡巡して大事を間違えませんように。
 ご返信をお待ちする。

「しかし杉倉殿は敵の罠かもしれんとお思いになって、軽々しく従いませんでした。使者の往還を何回か重ねて、ようやく安西に嘘偽りが無いように思えましたので、それでは麻呂信時を討とうと、安西と打合せしました。五月雨の雨が降ったりやんだりする真夜中に二百余騎を率いて、出撃しました。馬には音を出させない様、口に棒を咥えさせ、轡でつぐませてあります。そして麻呂信時が屯していた浜荻に建てた柵に向かって、前後から攻めて、鬨の声を上げて、遮二無二に突っ込んだのです」

 

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 尼崎輝武は報告を続けた。
「敵が襲ってくるとは思ってもみなかった麻呂の軍勢は慌てて混乱し、繋いだままの馬に鞭を当てたり、弦のない弓に矢を添えたりしていました。もう防戦するまでもなく、逃げるしかない、そんな戦況になったのですが」
 里見義実たちは、声も出さずに熱心に聞いている
「その時、麻呂信時は大きな声を出し、頼りない者ども、敵は少ない。押し包んで戦え、前原にいる安西景連に笑われるな、と厳しく命令をしたのでございます。そして真っ先に馬に乗って飛び出し、槍を振って、攻め込むお味方を突き倒しました。その勢いは正に群がる羊に襲い掛かる猛虎の勢いでした。麻呂の軍勢はこれに励まされ、後陣の安西が援軍で来ると思ったのでしょう、逃げようとした者も踵を返し、喚きながら向かってきました。心ならずも味方の先陣は押し返され、道の泥濘に足を取られてつまづく者もおりました。その時でございます、杉倉氏元殿が眼を怒らせ、大きな声で申しました」
 ごくりと誰かが咽喉を鳴らした。
「一旦は破った敵の柵を追い返されるとは何ごとか。名を惜しみ、恥を知る者は我に続け、と言いながら、采配を腰に差して、鐙を鳴らして馬を進めました。杉倉殿の長刀は闇の中でも煌めき、水車の様に振り回していました。そのまま麻呂信時に討って掛かりました」
 誰もが口を開かないでいる。
「かがり火の向こうから、麻呂はきっと見て、汝は氏元か、良き敵なり。そこを動くな、と呼び掛けて、槍を突けば、杉倉殿は受けては跳ね返し、麻呂が引けば杉倉殿が斬り掛かって、互いの技を尽くしたのでございます。双方の大将がこの様に激しく戦っておりましたので、味方も敵も死力を振り絞っており、誰も手出しができません。そのうちに麻呂が焦って突き出した槍の穂先を杉倉殿が左手で払い除け、大声で叫びました。杉倉殿は、麻呂が見上げたところを長刀の柄で兜の額の部分を激しく突いたのです。正面から突かれて、さしもの麻呂も急所の痛手に我慢できず、槍を持ったまま馬から落ちてしまいました。その音に、私たちは急いで駆けつけて、麻呂の首を取ったのでございます」
 尼崎輝武は言葉もせわしく報告した。
 報告をじっくりと聞いた里見義実は、口を開いた。
「氏元の勲功、称賛するに値するが思慮が足らん。安西景連がにわかに裏切って麻呂信時を討とうとしたこと、理由があるのだ。安西と麻呂の両雄はそもそも並び立たない。もし二人が私を討ったとしても、早々に勝たなければ、必ず異変が起きただろう。それを思いがけず安西にそそのかされて、氏元が麻呂を討取ったのは味方のためには利がなく、安西のためになってしまった。その安西は今どうしている」
 尼崎輝武はかしこまって返答した。
「はい、安西景連はその夜、味方のためには矢を一本も放ちませんでした。いつのまにか前原に構えていた柵からも退却しておりました」
 その返答を聞いて里見義実は扇で膝を打ち、
「それであれば、すでに安西景連の奸計は明らかだ。我々が滝田を攻めていた時、勝敗は分からなかったのだろうが、山下定包は神々に見放された逆賊だ。一時は籠城戦で有利になることもあるが、最終的には安西も見切りをつけたのだろう。定包が滅亡し、この義実が城を落とすに及んで、安西は麻呂信時が頼りにならない猪武者と思ったのだ。ともに無謀の戦で戦えば脆くも負けてしまうことを恐れて、里見と連携したのだ。そして杉倉氏元に麻呂を討たせ、安西はその虚に乗じて、平舘城を攻め落とし、朝夷郡を横領して互角になろうとしているのだ。この推量は合っていると思うぞ」
 安西景連の遠謀を細かく分析していると、杉倉氏元からの次の使者が再度の注進をしにやってきた。
「麻呂信時が討たれましたので、残兵がしきりに乱れ騒ぎ、逃げていくのをそのままにして、杉倉氏元殿は軍勢をまとめて東條に帰陣しました。何を思ったのか、安西景連はとっくに前原から退却して、平舘の城を乗っ取り、麻呂の領地朝夷郡をすべて己のものとしました。犬がせっかく獲物を仕留めても、鷹に奪われた様なものです、杉倉殿は苦労だけなさって、功がございませんでした。殿が軍勢を差し向けるおつもりであれば、先鋒を承って、朝夷郡はもちろん安西景連の根拠地を攻め落とし、この鬱憤を晴らしましょう、この様に申しておりました」
 と金碗孝吉、堀内貞行に書簡を渡した。二人もここに至って、主君の叡智に感服して、
「早く安西を討ちましょう」
 としきりに勧めたが、里見義実は首を振って否定した。
「いや、安西を討ってはならん。山下定包を倒したのは私一人の利益を考えたのでなく、民の塗炭の苦しみを救うためだ。皆の力によって、長狭、平群を治めることになったが、この上ない幸運ではないか。安西は梟雄ではあるが、山下定包の類ではない。奴の本意はともかく志を我々に寄せながらも、杉倉氏元が麻呂信時を討つ際に、いち早く平舘城を落としたことを妬んで、戦を起こして土地を巡って争うなど。それは蛮触の争いと言って、了見が小さくつまらないことで争うことであり、人々を余計に殺し民を失う、ということはしたくない。安西の奸計によって平舘を取り、なお飽き足らずにこちらへ攻めて来るのであれば、一挙に決着をつけよう。今は領地の境を守って、こちらからは手出しを出してはならん。皆にこの旨を心得よ」
 主人が丁寧に説明すれば、金碗孝吉、堀内貞行はもちろんのこと、左右に侍っていた近習たちや尼崎も一緒に感銘を受けた。
「昔の聖賢は、うちの殿様よりも立派だったのだろうか」
 とひたすらに称賛した。

 こうして里見義実は、自ら杉倉氏元に感状を与えて褒めながらも、諭して安西を討たない様に命じた。
「人の物を取ろうとする時は、自分の手の届く範囲を忘れるな。ことわざに言う、満足することを知らない鷹は、爪が裂けると。籠城以外はしてはならない」
 そう戒めて、尼崎輝武らを東條城に戻したのだった。

 そのうちに初夏の寒いはずの、卯月、五月は晴れ渡り、風を待ちわびる水無月の夏の土用も半ばを過ぎたころ、安西景連は蕪戸訥平(かぶととつへい)という老臣に幾つかの土産を持たせて、滝田の城に遣わした。
 蕪戸訥平は、山下定包を討ち、里見義実が家を再興させたことを祝い、友好を求めると述べた。
 更に、
「先に館山でお顔を合わせた時からずっとお慕いしておりました。ただ麻呂信時に祝うべき席を邪魔されて、思わぬ無礼を働いたことが恥ずかしいのです。それは晋の文公が曹の国を通った時、曹の君主が無礼な仕打ちをしたことと同じことでしょう。しかしそれが里見殿を逆に励ましたことによって、大業をなさったのではありませんか。本当のことを申し上げると、最初から里見殿に心を寄せていた景連はいささかの考えがありまして、わざとつれなくふるまってあなたをもてなしたのでございます。こうして愚見を申し上げましたが、里見殿のために麻呂信時を討ったので、良いことが起きたのですよ。私も不思議とあなたの影響を受けて、平舘の城を取る功をなしとげました。一国四郡を二つに分けて、互いに境を侵略することなく、助け合い、子孫代々までおつきあいができれば、素晴らしいことでございましょう。些少のつまらないもので親睦のためにはならないかもしれませんが、馬三頭、白布百反をお贈りいたします。ただいついつまでも交わりの変わらないことを祈るのみでございます。どうかお収め下されば幸いでございます」
 丁寧に言うので、堀内貞行も取り次いで、使者の口上を里見義実に伝えた。すると主君は疑う気色もなく、堀内貞行と金碗孝吉に蕪戸訥平を饗応させることにした。
 更に、
「私自身も使者に会おう。良くもてなしをするのだぞ」
 と言うので、堀内貞行と金碗孝吉は喜べない。
「賢い我が主君ですら、あの安西の様な古狸に欺かれてしまいますな。奴が本当に善であり、我が殿の徳を慕う者であれば、安房当国にはいない鯉を探させて、謀殺しようとはしないはずだ。今更になって空々しい祝辞を述べ、友好を通じ、少しの物品を贈ってきたのは、後ろめたいところがあるからだ。今もなおその奸計を知ることができない。使者をもてなしなさるとか、ご対面はもったいないことでございます」
 と密かに諫めたが、里見義実は微笑んで、
「安西景連が本心からではなく、うわべだけで友好を結ぼうとしていても、今聞く限り、見た限りでは憎むべき者ではない様だ。しかし私が執拗にその旧悪を咎めて、親交を断つということは、彼に背くことになってしまう。そうして争うことになれば、人々は私を不義とみなすだろう。不義になって、戦いに勝つことになっても、この義実の願いではない、皆、安西を疑ってはならない」
 と返す返すも不満顔の家臣を説諭して、里見義実は自ら使者の蕪戸訥平に対面し、帰る際には返答の例として金碗孝吉を安房郡へ遣わした。安西の贈り物に答える形で返礼の贈り物を届けさせて、いよいよますますの親交の誓いを立てて、互いに破るまいと誓わせた。
 安西景連は非常に喜び、金碗孝吉を重くもてなし、自ら誓紙を書いて里見義実に送るのだった。

 これより以後、安西景連は安房と朝夷の二郡を、里見義実は神余光弘の旧領である長狭と平群の二郡を領地とした。互いに犯すことなく、争うことなく、世の中は平穏となり、杉倉木曽介氏元は東條城から滝田城に呼び戻されて、ようやく安堵することができた。
 里見家は君臣上下の隔てなく笑い合い、すべての者が平和を楽しんだ。

 文月、七月の七夕の星祭りの夜、里見義実は、夕刻から杉倉、堀内、金碗の功臣のみを集めて茶を立てた。(昔里見の家例には点茶の例というものがあった。このことは房総志料という書物に載っている)
 茶をふるまいながら、昔を語りつつ、功臣たちにも思い出を語らせていくうちに、
「私が幸いにも二郡を得てから、波風はあまり立っていないと思うが、とにかくにも忙しくて、出陣の折に祈った神社にも詣出ていない。またお前たちにも論功行賞を行えていない。これでは晋の文公に仕えた介之推が、褒美をもらう時に山へ隠居してしまった故事の通りになってしまう」
 里見義実は功臣たちを見つめた。
「さて、杉倉氏元、堀内貞行、お前たちは今は亡き父君の遺命を受けて、わが艱難辛苦に良く従ってくれた。その忠義と信実は今更言うまでもない。しかし白箸川のほとりで、金碗孝吉に逢わなければ、どうして家の再興ができたであろうか。また鳩が檄文を伝えてくれなかったら、山下定包の首を取ることができただろうか。この二つが第一の勲功である。そうでなければ安西らの奸計によって、鯉を釣れずに斬られていたかもしれない。また滝田の城攻めの時も兵糧が尽きて、飢えと疲れで逆に敵軍に捕らわれていたかもしれない。どちらにしろ酷い目にあっていただろうなあ」
 立てた茶を勧めて、里見義実は続けた。
「ようやく涼しくなってきて、七夕の物語で二人は結ばれる。詩歌を作るとすると、今宵は彦星と牽牛の二星が出会うそうだ。星にもいろいろ決まりがあるそうで、人々の吉凶はこれに関わってくるという。私はもう天に誓ったのだが、当城の八隅には八幡宮を建立し、秋ごとに祭りを奉納しようと思う。また領内には、鳩を捕まえることを禁じるよう告知をしようと思う」
 里見義実は、金碗孝吉を見つめ、そして杉倉、堀内に視線を移していく。
「金碗八郎孝吉には長狭の半郡を与え、東條の城主としよう。氏元、貞行にはそれぞれ五千貫を知行しよう。この旨どうか承知して欲しい」
 と心から伝えて、したためた一通の感状をまず金碗孝吉に与えた。
 金碗孝吉はゆっくり感状を読み、そして三度額に当ててから、そのまま主君に返した。そして席を変えて、
「お家譜代の補佐の老臣の方々より先にいただく恩賞をご辞退させていただくのは気が引けてしまいますが、私は初めから名誉と利益の二つを望んでおりませんでした。今は亡き故主神余光弘のために、逆臣を倒すことだけを考えていたのでございます。真に、里見の君のご威光によって宿願を果たしましたので、これ以上の望みはございません」
 と言えば、里見義実は笑いながら、
「世間での評判や名声に関わらず、功を成して身を退くというのは、義士の志としてこの様にあるべきことだが、古代中国前漢の張良は故主韓王成のために秦と楚を滅ぼし、その後、漢から留侯として封じられた。私には前漢の劉邦ほどの徳はないが、そなたの忠義は張良の孤独な忠義に似ている。だから功のある者を賞しなければ、誰がその志を、忠孝節義を励ますことができるだろう。どうか曲げて私の意を組んで賞を受けて欲しい」
 と諭した。
 杉倉氏元も堀内貞行も賞を受ける様に勧め、例の感状を渡すと、金碗孝吉はやむを得ないことと受け取って、再度読み始めた。
「これを辞退してしまえば、私はわがままを押し通して、恩義を知らない者になってしまう。しかし受けてしまえば、今更ながら故主に対して不忠になってしまう」
 金碗孝吉の顔色は蒼白だった。
「賞を受けて、しかし受け取れないこの孝吉が、この世とあの世の君のためにできることは、こうするしかありません」
 と言った瞬間、刀をぎらりと引き抜いて、感状を刀身に巻きつけつつ、腹へぐさりと突き立てた。
 これは、と主従三人は思わず近づき、里見義実は傷口を見つめ、
「切っ先深く入っていて、とても助かるまい。しかしこのままこときれてしまえば、誰もが狂い死というだろう。痛いだろうが、どうかこらえて、思うところを全部言うが良い」
 その声を聞いて、金碗孝吉はきっと里見義実を見上げて、息を吐いた。
「故主の横死を聞いて、この腹を早く切らねばならなかったのですが、ただ山下定包を討つことばかり考えて、生きながらえていました。ただこの身一つでは何もできず」
 金碗孝吉は苦しげに言った。
「時と縁を得て、里見の君にお逢いすることができました。我が功に過分な恩賞を今更に受けては、亡くなった故主の横死が私の幸福になってしまいそうで、これ以上生きていることができない理由の一つです。そ、それだけではありません、あの日、落羽岡で山下定包と勘違いして領主を傷つけて喪ってしまった杣木朴平、洲崎無垢三は、元々私の家の家僕。彼らの武芸は私が太刀筋を伝えましたので、知らないことと言いながら生兵法が大傷の元とは良く言ったもので、この孝吉の誤りです。これ以上生きて行くことができない理由の二つ目です」
 金碗孝吉は古代中国の故事を引いた。
「かの漢朝の軍師張良の気持ちは分かりかねますが、項羽と劉邦の間で立ち回った田横が自死した後、彼の食客たちも五百人すべてが自決したその潔さ、志を慕うのです。せっかくの点茶の楽しき遊興の席を汚す非礼の罪は、どうかお許し下さい」
 と膝を突いて、刀を腹の奥に更に押し込もうとする。
「孝吉を止めよ」
 さすがの里見義実も焦って言い、杉倉氏元や堀内貞行が金碗孝吉にすがって、
「殿のご命令だ、とにもかくにも冥土への旅路を急いではならんぞ」
 と言葉を掛けた。
 里見義実は何回も嘆き、
「孝吉の志を知らない訳ではなかったが、こうなるとは思わなかった。なまじ恩賞の沙汰をしたことで、孝吉の死を促してしまった様なものだ。我が生涯の誤りである。孝吉、黄泉路へ帰るお主の門出に、この義実が餞別を贈ろう。氏元、例のご老人を呼べ」
 と命じた。
 杉倉氏元はすぐに返答をして、縁側に立ち上がって、
「上総の一作、早く来るのだ」
 と声高に呼んだ。
「承知しました」
 と言う声はすでに鼻声であり、目には涙を溜めた六十余りの旅姿の百姓が右手に菅笠、左手には五才ばかりの男児の手を引き、腰を屈めて立っている。百姓は木立の奥の庭の折戸の陰から現れたのだった。
「さあ、こちらへこちらへ」
 杉倉氏元が招くと、百姓は急いで近づき、縁側に手を掛けて伸び上がり、
「やあ、八郎孝吉殿、上総から参りました、一作です。これはあなたが娘の濃萩に産ませた子です。ようやく訪ねて会った日に切腹されるとは何ごとですか。もう、それ以上ものを言うこともできませぬか」
 一作と名乗った老人は、恨み言を言うのも、泣くのも憚れて、まして貴人の茶会の席で後ろめたい様子だった。
 金碗孝吉は、一作と名乗った声を聞いて、目を見開いたものの、老人と子供を見るだけで口を利くことができないでいた。
 その時、杉倉氏元は金碗孝吉に向かって、
「金碗殿、あれを見なさい。私が殿の館に参ろうとした時、あちらのご老人が路地に立たれていた。金碗殿の屋敷はどこか、と私の従者に聞かれたのだ。さすがにこれは聞き捨てならず、事情を伺えば、この様にこの様にと男児のことまで言われるので、金碗殿が屋敷にいないことを話し、会いたいのであれば付いてくる様に言い、殿のおいでになるここまでお連れしたのだ」
 堀内貞行にも、里見義実にも、老人の訪れた旨を話してあり、特に里見義実が興味を示し、金碗孝吉の子供であれば末頼もしい者になるだろうと言われて、義実が自ら引き合わせようとした。それまでは孝吉には内緒にしておこうという旨を話した。
 それによって一作老人を幼児と一緒に庭の折戸の陰に忍んで、里見義実の指示を待っていたのだと、杉倉氏元は説明した。
「なのに、金碗殿。まだ言う前にそなたが自決しようとは。外で見ていたご老人の心のうちはどうだろうか。せめて今は親と子の名乗りをさせようと、殿がお思いになったのだ、のう、金碗殿」
 と杉倉氏元が呼べば、金碗孝吉はやや頭をもたげて、
「この期に及んで親子の名乗り、それは仕方のないことだ。私は主君を諫めることができず、滝田を立ち去った時、上総の国、天羽郡関村の百姓に一作、即ち例の老人です。彼は私の父の若党でしたので、私はしばらくこの老人のところを宿所として足を休めることにしたのです。何日かいる間にご老人の娘、濃萩(こはぎ)と結ばれ、契ってしまいました。枕の数が重なるうちに、ただならぬ身に、つまり懐妊したと濃萩が言ってきたので驚きました。正に色欲は思わぬ悪事と世間で言うのは、私の身の上のことなのです。行方を決めていない旅の空、ここはずっといるべきところではないので、契ってしまった娘との浮名を立ててしまい、誠実な一作老人の娘を傷つけてはと思い、今更親の一作が許しても顔を合わすことができません。私は浅ましき所業をしてしまったと百回も千回も悔い、後悔が立ちませんので、人目を避けて濃萩には堕胎しろとは勧めました。別に考えがあり、詫び状一通を一作老人に残して、関村を去り、あちこちをさすらって、五年目の夏、この日に故主神余光弘の横死を聞き、山下定包を討とうと密かに帰る故郷への途中の道でしたが、一作の元を訪れませんでした。濃萩のことも手紙で問合せもしませんでした。しかしその子は無事の様子で、良く育ててくれて、一作老人の誠が分かり、まったく面目がございません」
 金碗孝吉の声は今にも途切れそうであった。

 

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「なるほど、分かりました」
 と一作は言ったものの、慰めかねて鼻を啜った。
「さすがに勇ましい武士も恋には脆い人情、ましてあなた様は妻も子もない旅の身の上、慰めようとした我が娘の濃萩は、淫乱奔放に似て、決してそうではありません。あなた様の氏素性は自分の故主、その子を宿し、娘は天晴れ果報者、良き婿を迎えたと、心の中では婆と一緒に喜んでおりました。しかし事情を知らない私はいろいろ考えている間に、あなた様は出て行ってしまい、帰らなかった。行方を探すこともできずに娘は、程なく臨月に産み落としたのは男の子でした。めでたいめでたいと祝う間もなく、濃萩は募るもの思いからか産後の肥立ちも悪く、とうとう十万億土のあの世に逝ってしまいました」
 濃萩は亡くなっていたのだ。一作の声が震えた。
「その初七日、二七夜、本当に忙しく過ごし、乳をもらいながら生死をさまよい続けての三界流転、苦しみをすべて言い尽くすことはできませぬが、赤子は健やかに育ちました。あなた様と娘の形見と思えば、見るたびに可愛く、少しでも目を離したくなくて、昼はずっと懐に入れて、夜は一晩中爺と婆が逝ってしまった濃萩の代わりに添い寝していました」
 一作老人は涙を流し続けた。
「この子が年を重ねて四つになった去年の秋から、婆が寝込むようになり、子守片手の看病は高い棚に置いた薬鍋がなかなか取れず、泣く赤子の世話にかまけて鍋を焦がしてしまうこともありました。その年の大みそかに婆は往生しました。片腕をもがれた人形と幼児と私の三人で、棺を守って新年を迎えた門松は冥土の旅の一里塚、禅僧の坊主顔で悟った振りをしてみても、なかなか悟りきれないのが私の様な凡夫の心。六十八の今年こそ、一生涯の憂苦艱難、再び、三度の大厄難なのです。孫にも恥じずに泣く老いた我が身は、春の気配も近づき、無心で真似て唱える念仏にも欠伸の混じる宵惑い。短い夜の春は過ぎ、卯月(四月)の末から上総まで、隣国安房のこと、あなた様のこと、合戦のことが聞こえてきました。私も一度は驚きましたが、心が勇んで、訪れてみよう、と思い立ちました。しかし歩くのが不便な老人が幼児を背負って、戦場に行くのは危険です。時を待てばと思い直し、ようやく敵を討った話を聞きましたので、今日ここへ参りました。しかし、来る甲斐のない今際の対面です。宿世の報いを想像するこの一作の悲しみは、言うに及ばず、この赤子が大人になった後、両親の顔を知らないのが残念でなりません。なあ、加多三(かたみ)、あれがお前の父親だ、顔を覚えておくのだよ」
 一作が指を差すと傍らの幼児は伸び上がって、
「もし、父様」
 声を掛けて呼んでも、親の金碗孝吉は見上げるばかりであった。何かものを言いたげに動かした唇の色も変わりつつ、臨終が近いと思われた。
 里見義実は幼児を近くに呼び寄せて、顔をよく見て、
「この子の面影は父の八郎孝吉に良く似ている。名前は何というのだ」
 と聞けば、一作老人は膝を折ったまま、里見義実を見上げて、
「決めた名前はございません。金碗殿と我が娘濃萩の形見ですので、加多三、加多三と呼んでおります」
「そうか、そうであったか。この子を私に預けよ。父孝吉は私を助けて、多大なる勲功があった。これをこの子の名前にして、金碗大輔孝徳(かなまりだいすけたかのり)と名乗って、父の忠義を受け継ぐが良い。成人してからは長狭半郡を与えて東條の城主としよう。一作は祖父であるから、大輔孝徳と共にいて彼を後見せよ。当座の褒賞として五百貫をこの幼児に取らすぞ。これを冥土の土産に成仏するのだ、孝吉」
 力づけられた金碗孝吉は鮮血に塗れた左手を上げ、主君である里見義実を拝んだ。瞬間、刀で腹を引き回し、
「介錯を頼みます」
 と言うのを末期に、うなじを伸ばすが堪えきれない。
 これ以上の苦痛をさせまいと、里見義実は帯びていた刀を引き抜き、金碗孝吉の後ろに立って一振りした。

 哀れ、儚くも金碗八郎孝吉の首が落ちたのである。

 覚悟をしていても我慢できずに、一作は声を出して泣き、老いの繰り言を繰り返した。杉倉氏元と堀内貞行はそれを慰め続けてはいるが、幼児は事情もまた良く呑み込めずにおろおろと狼狽し、涙ぐみ、こと切れた親の顔を恐々と覗き込むのだった。

【一子を遺して金碗孝吉、大義に死す】

右から杉倉氏元、切腹する金碗孝吉、里見義実と怨霊玉梓、左下には一作老人と大輔ちゃん。

本当だ、堀内さんが描かれていません!

 

 その時、金碗八郎孝吉が果てた時、星は落ちて、七月七日の月は西に入り、めらめらと鬼火が閃いた。次第に女子が影の様に現れて、幼児の金碗大輔孝徳の身に重なって、消えていった。

 里見義実だけがそれを見た。他の者には見えなかったのだ。
 杉倉氏元と堀内貞行に、金碗八郎孝吉の葬儀と大輔孝徳の養育を細かく命じた。
 里見義実はすべてを終えると、寝所へ引き上げた。水時計は高く音を鳴らして、時は亥の刻(午後10時ごろ)になっていた。

 作者が言うには、この段は七月の初旬であるが、挿絵は冬の衣装に見える。現に薄衣は描いても色彩がないと、分かりにくい。
 これらは画家の好みに任せて、敢えて時節に拘ってはいない。こういうことは実は多い。
 読者よ、激しく咎めないで欲しい。

 また同じ様に断るが、この挿絵には杉倉氏元のみ描かれていて、堀内貞行が省かれてしまっている。大事な登場人物ではあるが、ここではさせることがないので、版画の彫刻を行う人を助けた。

 また物語の最初の第一回、結城合戦の下りからここに至るまでわずかに四か月、1441年嘉吉元年四月に起こって、同年七月までである。指を折って数えればその間、八十余日のことになる。
 第八回に至っては、年月がかなり経過して十六七年のことになる。
 その間には里見義実の娘である伏姫の成長を主に述べていく。余計な話はすべて省略して、しつこくは書かない。
 これはいつものことであるが、細かいところもそうでないところも互いに趣旨が違うのであるけれども、丁寧に読まない人のために作者自ら注意を促すことにした。

(続く……かも)


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2 コメント

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難しいですよねえ (馬鹿琴)
2024-03-29 23:10:59
意訳して自分なりに平易な文章にしたり(つもり)、ですが、自分でも難しいと思います。

いちいち中国の古典を持ってこなくてええのんよ、馬琴翁よ(笑)
少し見直しますね。

怨霊がとうとう来ましたね~
返信する
おもしろかった。 (栗八)
2024-03-29 17:58:01
今回は、難しかったです。

玉梓の怨霊が乗り移ったのでありますか?
いよいよですね!
返信する

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