応仁は二年で文明と改元した。1470年文明二年、信乃十一歳、母を亡くして三年以来、父に仕えてますます親孝行を尽くしていた。
その間に犬塚番作は歩行不自由なことに加えて、早くに男やもめとなってしまったので、年を取るごとに気力が衰え、齢五十にもなっていないのに、歯が抜けて、頭髪は真っ白になってしまった。病み患う日も多くなり、なお手習いの教え子を集めては教え続け、しかし教え子たちが騒ぐからと言って手習いの書を取り上げたりすることなかった。
しかし日頃から里人たちの助けによって、親子三人、いや親子二人と一匹は飢えることもなく凍えることもなく過ごせていた。犬塚番作は里人のこれからのために何もせずに、ただ余命を貪って生きていくことをよしとはせずに考えていた。
里に利益を遺して、里人たちの恩義に報いるには、とかねてから思い、病の合間を見ては、洪水と日照りの手当て、凶作の年の食料備蓄などすべて農家の日用のことのみを述べ記して、一巻の巻物を里の老人たちに贈った。巻物を見た者たちは、皆感心した。
「犬塚殿は筆跡は見事な上に、武芸も良くするだけではなく、農業養蚕のことまで詳しく、人の知らないところまで良くご存じである。この書は不変の賜物だ。筆写して秘蔵せよ。本当にこんなお武家を埋もれさすのはもったいないのだが」
と言わない者はいなかった。
蟇六は巻物のことを伝え聞いて、妬んだことは言うまでもない。
早く書物を見せよと何度も乞い求めたが、里の長老たちは一向に従わなかった。今日は誰それが筆写しており、写し終わるまでお待ち下され、と言われるとなすすべもない。しばらく経ってから人を遣わしても、誰それがどこかに又貸しをしており、行き先が分からないとの返答である。
蟇六はますます腹を立てて、
「よし分かった。その書物は見るまでもない。村長を承っているほどの儂が、そんなことを知らない訳がない。番作は若いころから田畑の中でふらふらしていたが、不具の者にも劣る腰抜けだ。鍬や鋤も持ったことがなく、田畑耕作のことをなぜ知っているというのか。みっともないことだ」
と言葉きつく悪口を叩いたが、里人たちはその口を憎んで、とうとう例の書物を見せようとはしなかった。
蟇六と亀篠は、親族と他人の区別なく、能力を妬む傾向があった。ものに対して愛惜が深く、心が僻みやすく、とにかく人を貶めよう、また悪口を言うけれども、元から見識や知識ががないので、人のまねばかりをしていた。
犬塚番作の犬、与四郎はこの年十二になった。里で一番の老犬だが、歯も丈夫で毛並みのつやも衰えず、ますます元気で健康だった。
他の犬たちは与四郎に威圧されてしまい、勝つことができない。蟇六は犬のことも妬ましく思い、何匹となくいろいろとりかえひっかえ犬を飼ってはみたが、すべて与四郎に噛み負けてしまった。中には即死してしまった犬もいる。喧嘩に負けて怪我する犬もいたので、蟇六の恨みはますます憤った。
従者に以前から言い含めておいて、与四郎を見かけた際には主従で棒をかざして左右から打とうとするが、肝心の与四郎は飛ぶ鳥の様にかわして、走り去り、とうとう一度も打たれることはなかった。迫って打とうとすれば噛みつこうする勢いなので、蟇六の従者たちは後になると密かに恐れ出し、与四郎が出てきても主人には告げなくなってしまった。蟇六も根負けして、遂には犬を飼うことを止めてしまった。
それ以来家にやってくる客に対して、
「犬は家の門を守ると言って、家ごとに飼うものだが、今どきの犬は物をもらえば、主人を吠えて、盗人に尾を振ってなつく奴もいる。家の門を守るには役立たずで、その辺りに糞を巻き散らして他人様に踏ませることしかしない」
と負け惜しみを言うのである。
「であるからして、これから飼うべきは猫だ。特に農家は、収穫した作物を守るためにねずみを防ぐことを第一とする。猫がいなければ不便であろう。儂は犬が嫌いで、猫を飼おうと思う。良い猫があれば譲ってくれないか」
来る者たちにその様に頼み続けていると、ある人が雉毛の肥えた猫を贈ってくれた。自分の物となると愛情深い性であるため、蟇六はもちろんのこと、亀篠も浜路も可愛がり、深紅の首輪と珠を掛けさせた。三人で交互に膝に乗せ、或いは抱き、或いは懐に入れて、一瞬も離そうとはしなかった。
蟇六は猫の名を何と呼ぼうか決めかねて、近在の物知りに問うと、その人は答えた。
「昔、一条院の飼われた猫は命婦(みょうぶ)のおとどと名づけられました。翁丸(おきなまる)という犬がその猫を追い出してしまったので、勅命で勘当を蒙ったこともあるのです。この他に猫の呼び名が記された記録を見たことがありません。ご主人のお好きに名づけて下さい。故事も相性もいりませんでしょう」
と言われて、蟇六は密かに喜んだ。亀篠のところへ走って帰り、
「猫は犬より貴いものだそうだ。昔、一条院の御代には、猫にも爵位が与えられて、命婦のおとどと名づけられたそうだ。しかし儂の様な者は官位などないから、飼い猫を命婦とは呼べない」
命婦とは、従五位下以上の位階を有する婦人のことなのである。
「番作の犬は四足が白いから四白、そこから与四郎と呼ぶらしい。うちの猫は雉毛だから紀二郎と名づけよう。今日から召使いにも言い聞かせて、紀二郎と呼ばせてくれ」
と言えば、亀篠もそれを聞いて笑った。
「めでたくも良い名です。浜路も承知するように。紀二郎はどこにいる。紀二郎、紀二郎」
と呼び立てて、ますます寵愛する様になった。
如月(二月)の末の頃、恋の季節に盛る他の猫たちの呼び声に浮かれて、紀二郎も落ち着かず、屋根から屋根を伝い歩くようになった。時には他の猫と唸り合って、うるさいとばかりに家の主が長い竿で屋根を突つかれたりすることもあった。腹を空かせたまま、知らない人の家の屋根を宿にして夜を明かして、三日四日ほど家に帰らないこともあったのだ。
【牝を追って紀二郎、糠助の屋棟に挑む】
うーむ、私も猫が好きなので可愛いと思ってしまいます(笑)
ある日、紀二郎は犬塚番作の裏口に近い百姓糠助の便所の屋根で、他の猫と吠え合っていた。その声が遠くから聞こえてきたので、亀篠は耳を澄まして、召使いを呼んだ。
「南向いに声がするのは紀二郎ではないか。見てきなさい」
召使いたちは命令に従って、一人は犬塚番作の庭に行き、もう一人は糠助の家の方へ、猫の声を頼りに探しに行った。すると紀二郎は、けんか相手の猫に酷く嚙まれて堪えきれなかったのか、ころころと転んで、糠助の便所の近くへ落ちてきた。
その時犬塚番作の犬の与四郎は、裏口辺りで腹ばいになって伏せていた。紀二郎が今落ちてきたのを見て、身を起こして走って行った。
与四郎は噛もうとして近づいたのだが、紀二郎は驚きながらも爪で犬の鼻っ柱を引っ搔こうと前足を一閃させた。与四郎はものともせずに飛び掛かって、左の耳を嚙み咥えてしまい、一振りすれば紀二郎は耳元から引きちぎられてしまった。命限りと逃げ出した紀二郎だったが、与四郎はなおも逃がすまいとまっしぐらに追い掛けていく。
蟇六の召使いたちは三丈(約9メートル)ばかり離れたところからこの光景を見て、驚き騒いて叫んで、与四郎の後を喘ぎながら追った。どこまでも続くかと思われたが、氏神の社の近くにひとすじの小川があった。
小川の辺りで紀二郎は逃げ道に困って慌てふためき、引き返してまた逃げようとした瞬間、与四郎が素早く飛び掛かって、猫のうなじをがぶりと咥えて、一噛みに殺してしまった。
その時召使いたちは近づいて、
「あれは、あれは」
と叫ぶだけで、一本の棒すら持たずに、小石を拾い上げて投げながら近づいてくる。それを見た与四郎は早くも道を横切ってどこかへ去ってしまった。
ことの騒動が大きくなってしまったので、百姓の糠助も遅れてやってきた。蟇六も騒ぎを聞いて、そのまま棒を持って、額蔵という十一二歳の子供の召使いを引き連れて到着した。しかし紀二郎はもはや嚙み殺されており、猫の仇である犬はいない。
事件の経緯を尋ねると、
「番作の犬、与四郎のせいだ」
召使いたちが細かく告げたので、蟇六は丸い眼に涙を流した。召使いたちが猫を救えなかったことを恨み、かつ怒り、罵って、棒で地上を叩いてこう言った。
「あの廃人風情はどうしてここまで儂を侮るのか。奴の姉は儂の妻だ。儂は大塚の後継ぎであるだけでなく、ここの村長でもあるのだ。奴の無礼はもちろんのことだが、飼い犬まで主人に倣って、我が家の愛猫を殺害し、あくまで儂を辱めるのか。眼の前で犬を殺してやり、紀二の恨みを雪がずにこの熱い怒りを冷ますことはできん。お前たち二人は糠助と一緒に番作の家に行って、犬畜生を引きずり出して連れてこい。口上はこの様に言うのだぞ」
蟇六は詳細に至るまで命じた。先に来ていた二人の召使いは急いで糠助を連れて、犬塚番作の家に行き、蟇六は額蔵に猫の亡骸を抱かせて、帰る道すがらもくどくどと罵り続けるのだ。
今、この辺りに掛かる橋を簸川(ひかわ)の猫貍橋(ねこまたばし)という。紀二郎のことがその由来である。
【関連図】
猫貍橋(江戸名所図)斎藤月岑 作
猫貍橋とはまたおどろおどろしい名前ですねえ。
蟇六の二人の召使いは糠助とともに犬塚番作の家に行き、番作に会って、紀二猫の最期と与四郎が噛み殺したことを説明した。
「主人蟇六はここ最近、たくさんの犬を飼いましたが、あなた様の犬に傷つけられて、すぐに死んでしまったものもいます。それでも蟇六はなおも穏便に図ろうとして、一度も恨みを言いませんでした。互いに犬を飼っているからこそ争いの原因となるとされ、仕方のないことと思い返して、犬を飼うことを止めました。奥様とお嬢様の愛するままに、最近では猫を飼われましたが、こちらもまたこちらの犬によって、すぐに失われてしまいました。犬同士のけんかであれば、どちらが悪いなど決められませんが、猫は犬と争ったりいたしません。見れば恐れて逃げ出してしまいます」
犬塚番作は無表情で話を聞いている。
「それなのに猫を追い掛けて、殺してしまうのは犬に罪があるのです。犬をお渡しいただき、猫の仇に報いるつもりです。事件については糠助さんの家の近くで起きたことですので、証人として連れて来ました。こちらに犬をお渡し下さい。主人の口上は以上でございます」
二人の召使いは声をそろえて同じことを言ったが、糠助は独りだけ困った様な面持ちで言った。
「とにかく村にはことなかれ、といつも皆が言っていますが、今回はとんでもないことに関わってしまい、心が苦しいです。穏便な返答がなければ、私もほとほと困ってしまいますので、よろしくご返答下さい」
しかし犬塚番作は笑いながら、
「こんなことであなたに難儀は及びませんよ。使者殿の口上は要領を得ないと言うしかない。言ったことは一見理屈がある様に似ているが、それは人倫の間の話であって、畜生は五常、すなわち仁・義・礼・智・信を知らないのだ。弱い獣は強い獣に征服させられ、小は大に従うのだ。だから猫はねずみを狩ったりするが、犬には絶対勝てはしない。犬は猫に傷つけられることはあるが、山犬や狼には勝てはしない。すべて力が足らないから、また大きさの問題によるものだ」
糠助と二人の召使いは犬塚番作の発言を待つしかない。
「もし犬を猫の仇とするのであれば、猫はねずみの仇とせねばならん。また仇として死を以って償うということは、人間であるからである。畜生のために法を調べて、復讐や死刑制度の沙汰のあるなしは、いまだ聞いたことがない。また」
「また」
と召使いは聞かずにはいられない。
「また猫は飼われて屋敷内にいたはずだ。屋敷内におれば良いものを、そぞろに地上を歩き犬のために落命するとは、みずから死地に入ったと言えないか。また犬は屋外で飼われているのにも関わらず、家の中に入って暮らす様になれば、皆不審に思うでしょう。私のところの犬がお宅の屋敷内に入ったのであれば、打ち殺されても恨みはない。猫の死を償うために、犬を引き渡すということは絶対にしない。お帰りになってこれらの旨をよろしくお伝え下さい。ご使者、大義であった」
と鷹揚に、また弁舌は水が流れる様に、理屈を極めた犬塚番作の返答に、二人の召使いはかしこまる他はなかった。猫に袋を被せた様に、尻を高くして頭を下げ、後退りして出て行った。
それを見た糠助も不安に思いながらも、犬塚番作に別れを告げて、召使いの後を追い掛けて行った。
蟇六の屋敷では、亀篠や浜路たちが紀二郎の死骸を抱いて泣き叫び、犬を罵り、そして犬の主人を恨みつつ、召使いの帰りを待っていた。
今にも仇である犬を連れて帰って来るかと、長い間待っていたのだ。しかし二人の召使いたちは、糠助と一緒に手を空にして帰ってきて、犬塚番作の返答をそのまま告げた。
それを聞いた亀篠は怒りを我慢できず、
「姉を姉とも思わぬ番作の片意地は今に始まったことではないが、詫びを入れられる口を持っていながら、人を嘲り誇る非法の返答、今回はもう我慢ができない」
激怒した亀篠は続けて召使いたちに申し渡した。
「お前たち、再び番作のところに行き、有無を言わせず犬に荒縄掛けて連れて来なさい。今までが手ぬるかったのだ」
と大きな声で命じたが、蟇六は急に妻を止めて、
「番作は足が悪いが、奴の武芸は侮れん。儂は一郷の村長として、一匹の猫のために争いをした結果、双方ともに傷つくことがあれば、道理があっても落ち度とされてしまうだろう。公の訴訟というものは心もとないものだ。裁判をしないとしても、恥をそそぐすべがある」
どうやら蟇六には考えがある様だ。
「奴は自分で言ったな。例の犬がもし儂の屋敷に入ったら、打ち殺されても恨まないと、口走ったのが幸いなのだ。犬を屋敷内の敷地にわざと誘い込んで、竹やりで仕留めてしまおう。皆、竹やりの用意をせよ」
と得意気に説明すると、亀篠はようやく考え直した。そして召使いたちを見て、
「糠助はお前たちと一緒に来たと思ったが、いなくなっている。竹やりのことを聞いていたか」
尋ねると、召使いは後ろを見返り、
「今までここにいましたが、帰るのを見ていません」
亀篠は眉をひそめて、
「あの糠助は番作の家の裏口に住んでいて、前から親しいと聞いている。夫のはかりごと、糠助の口から洩れはしないか。しくじった」
不満気に舌打ちをして後悔すれば、蟇六も同意して、
「ああ、失敗した失敗した。計略は秘密であれば良いというのに、都合が悪い奴に聞かれてしまった。まだ遠くには行っていないだろう、追い掛けよ。子供は足が早い、額蔵行ってきなさい」
急がされた額蔵は、返事をすると同時に外へ裳裾を掲げて走り去った。
ところでこの額蔵は年に似合わず、実はいろいろ知恵に長けていているのだが、普段隠しており表に出ない様にしていた。
大望があるので、日ごろから主人の嫉妬や虚栄心を心痛く思ってはいたが、表面上は逆らわずにいた。この日も主人の目論見を何と馬鹿なことを考えているのだ、思わずにはいられなかった。しかし言われるままに急いで出て行ったが、遠くまで行かずにしばらくしてから帰って来た。
「道では追いつくことができませんでしたので、お宅まで行って参りましたが、糠助さんはまだお帰りではありませんでした。あのお方は去年の秋の年貢の借りがあると聞いています。どうして村長を敵にして、自滅を招くことをするのでしょうか。捨てておいても、犬塚様に口を利くことはないと思いましたので、これ以上探しませんでした。それとも探した方が良かったでしょうか」
もっともらしく作り話をすれば、蟇六は聞いてうなずき、
「お前の言う様に、奴は年貢の借りがある。その身を大事に思うのなら、儂のために悪いことはできまい。もし計略を洩らしたとしても、あの犬には四本の足があり、主人の番作と違ってその辺をうろついている。しばらくは家に繋いでいたとしても、日が経てば出て来るはずだ。その時に屋敷内に呼び入れて、突き殺すことは簡単だ、竹やりの準備を怠るな」
と手配をする様に召使いたちに伝えて、犬の与四郎が外に出て来るのを待つことにした。
百姓の糠助は蟇六の目論見を犬塚番作に知らせようと、黙って外に抜け出した。急いで走って番作の家に行き、蟇六夫婦が喋ったことを小声で話し、
「こう言えば、はしたなく、どちら側をも中傷する様に似ているが、私は村長には年貢の件で借りがあり、村長が悪く思われる様に言っているのではない。例え義絶した親類とは言え、村長の奥様はあなた様の姉ではありませんか。犬のことでますます恨みを買い、仲が悪くなることが良いとはとても言えません。ですからあの与四郎を近所に行かせなされ。せめて犬だけでもここにいなくなれば、村長たちの恨みも自然となくなるでしょう。いかがでしょうか」
と囁くと、犬塚番作はじっと考え込んでいたが、やがて口を開いて、
「今に始まったことではないが、あなたの親切、ありがたいことこの上ない。しかしながら、蟇六側が智謀の限りをつくしてはかりごとを巡らせたとしても、私は露ばかりも恐れはしない。戦うすべはまたいくらでもあるのだ」
犬塚番作は糠助に軽く頭を下げた。
「ただ恨めしいのは、この足のことと最近ますます多病になっていることなのだ。私に道理があるが、争いを好きこのんでいるのではない。また犬畜生には知能はあるが、知恵がない。安全か危険かを見分けられないから、蟇六に欺かれて、外に出て打ち殺されてしまえば我が恥となる。糠助殿、どうかよろしく計らっていただき、犬の与四郎を遠ざけていただけないか」
と糠助の話を承諾したので、当の糠助は大いに喜んだ。そして信乃にもことの次第を告げて、与四郎に多めの食べ物を与えた。
その夜、犬を滝野川付近に連れて行き、信乃が世話になった寺に預けたが、与四郎は糠助より早く帰ってきてしまい、犬塚番作の家に戻っていた。
「お寺では近かった。川を渡ってしまえば、帰るまい」
と考えて、東南の方角へ今度は連れ出し、宮戸川(隅田川)を渡って、牛嶋(東京都墨田区向島・吾妻橋・東駒形辺り)まで行って捨ててきたが、そこからも帰って来た。同じ様に二三回、五六日を費やしてみたが、苦労してみてもその甲斐なく、与四郎は帰って来るので、糠助は呆れ果てて、遂に犬を捨てることを諦めた。
【関連図】
大塚から牛嶋まで、大体8キロくらいありますよ。
その時、信乃は思った。
与四郎は主人を慕っており、災いがその身に及ぼうとしていることが分かっていない。
もし与四郎が果たして殺されてしまうと、きっと父の怒りは激しく、何が起きるか分からないことになる。恐ろしいことだ、願うは与四郎が殺されず、伯母夫婦の恨みも晴れて、すべてが無事におさまることだが、そんな策がないかと密かに知恵を絞っていると、たった一つだけ思いついたことがあった。
これは父には言えない、糠助に相談してみようと思って、、行方を探しに行くと野良仕事の最中だった。他に近くで耕す者もいないので、これが機会とばかりに、近づいていく。
思いついた意中の秘密の策について説明し、
「あの与四郎を伯母夫婦の屋敷近くに入れて行き、犬に向かって罵ってみようと思う。この畜生が訳もなく村長が愛する猫を殺してしまい、親族が互いに恨みを重ねる災いを作ってしまった。仕方なく何度も捨てても、懲りずに帰って来て、自分から死地に入ってしまっていることに気づいていない。もはやどうしようもない。せめてお前を殺して我が伯母夫婦の恨みを晴らそうと思うだけだ。覚悟しろ、と罵って杖で犬を打てば、必ず逃げ出すでしょう」
信乃も必死になって語った。
「逃げるのを追い掛けてまた打って、跡をつけて我が家に帰り、しばらくの間犬を繋いでおけば、伯母夫婦は声を聞き、光景を見て必ず思うはずだ。父の番作が子供に犬を打たせて、猫を殺した罪を詫びているのだ、と分かってもらえれば、恨みも消えて犬を殺すのを諦めてくれると思う。決死の与四郎を救えば、我が父に恥をかかすことなく、親族の間の恨みを重ねるという悲しみもなくなる。この策はどうでしょう」
と聞けば糠助は考える間もなく、
「ああ、賢い賢い、坊っちゃんはまだ十一歳、でも昔の楠公の様だ。またそのお考えは、親のためでもあり、伯母のことを思う孝であり義でもある。私も一緒に行きましょう、さあ行こう行こう」
信乃を急がせるのだった。
糠助の助けを得て、信乃はますます勇気づけられた。
忙しく家に走って戻っては、家の門のところにいた与四郎を誘って、糠助と一緒に蟇六の家へ向かう。
策略通り大きな声を出して、犬を罵っては責め出した。棒を振りかざして、あるいは杖を取って、与四郎をはたと打つ。打たれた犬は訳も分からず、糠助さえいつもと違って叩いてくるので、驚き慌てた。そして我を失って信乃の家への道には逃げずに、蟇六の屋敷内を巡り出し、裏口の方へ走り出した。
これを見て信乃と糠助は失敗だと思って、裏口ではなく犬塚の家に向かえ、と言わんばかりに、左右に分かれて道を開けたまま、杖を持って追い掛けるのだった。犬はいよいよ狼狽えて、また騒ぎ、走って逃げようとするが、この場所はひょうたんの様に口が一つ、つまり通路が一つしかなく、向かい側は行き止まりで道がない。
与四郎はやむを得ず蟇六の家の裏門から中に入ってしまい、勢いに任せつつ座敷の中に身を躍らせて飛び込んで行った。
獲物がやって来たとばかりに蟇六は召使いたちに命じて、出入り口を閉めさせた。
ここか、あそこだ、とどよめく声がうるさく聞こえてきて、糠助は慌てて、しかも戸惑いながら、信乃のそでのたもとを引いて、
「他人の欠点を暴こうとして、かえって我々の自分の弱点をさらけ出してしまった様だ。もしうかうかとこのままここにいたら、たちまち不慮の災いに遭ってしまう。さあ、逃げよう」
と言いながら、持っていた棒を懐に隠し走り出したが、足に絡まってしまい、股間を打ちながらうつぶせに倒れた。転びながら、ああと叫んで、棒を放り出してしまった。ようやく身を起こすと、膝が破れ、鼻血が流れている。それを見返る間もなく、顔をしかめて膝を撫で、糠助は足を引きずって逃げて行った。
それでも信乃は引き返さず、まずいことをしたと百回も千回も悔やんだが、なすすべもなかった。何とか与四郎を救い出せないかと思い、あちこち歩いて犬が飛び出してくるのを待ったが、すべての扉が閉ざされており、与四郎が出られる道はなかった。
犬が苦しそうな呻き、また吠えるのが聞こえてきた。
「ああ、与四郎が殺されてしまう。まずいことをしてしまった」
と信乃は独り言を言い、杖にすがって、今も蟇六の家の裏門にいた。
しかし犬を救う算段も思いつかず、とうとう家に帰る他なかった。そして家にいた父に何も隠さず、事情を話した。
犬塚番作は怒ることなく、すべてを聞いてからため息を吐いて、
「お前はまだ子供だが、人より優れた才覚がある。そうは言ってもその知恵において不覚を取ったということは、まだ人というものを知らないという過ちだ。我が姉はもはや心が歪んでしまっているし、蟇六は他人の能力を妬む小人だ。お前が策を弄して犬を打ったとしても、彼らはそれに満足して怒りを解いたりする者ではない」
言い聞かせる様に言う。
「しかしだな、こちらから犬を追い込んで打たせたのは、不覚の様で不覚ではない。奴らから犬を呼び入れられて殺されない限り、私は悔しく思わない。与四郎の死は不憫だが、悔しがっても今更詮なきこと。とにかく今は事実を確かめなさい」
という言葉が終わらぬうちに、例の犬が庭から現れた。その姿は血にまみれ、動きは起きては転び、転んでは起き上がりながらである。よろよろと入って来て、そのままはたと伏してしまった。
信乃は与四郎を見て、
「何と痛ましいこと、与四郎が帰って来ました」
と言いながら、走り降りて犬の様子を見る。犬塚番作は、急いで柱を使って身を起こし、縁側に出て眺めて、
「こんなに槍傷を受けても倒れずにここまで帰って来たのは、老いてもさすが立派なものよ、与四郎は。しかしこの先、生き延びるのは厳しいだろう、日陰へ入れてあげなさい」
信乃は父の言いつけに従って、縁側の下に藁のむしろを敷いてやった。そして手負いの犬を助け起こして、
「与四郎よ、苦しいか。お前を危険な目に合わせまいと思って、私はいろいろ策を弄してみたけれど、お前は逃げ道を見失ってしまった。私たちを恨む伯母夫婦の裏口に入ってしまい、この様に命を落としかねないことになってしまった。私の過ちだ、やってみるのではなかった」
と自分を責めて、与四郎の口に水を注いでやり、薬を傷口に塗ってやり、心の底から看病したが、これ以上生きていけるとはとても思われなかった。
そうこうしている間に蟇六は憎かった与四郎が思い掛けなくも裏口からが入って来て、座敷に入り込んだので、召使いたちに扉を閉めさせた。
そして主従併せて五六人が竹やりを脇に挟んで追い掛けて、駆り立てて、仕留めようとするが、例の犬は足も速くて、槍の下を潜り抜け、脱出できるべき道を探していた。しかし前後の門は閉ざされており、進退は窮まっている。
数か所傷を受けて猛り狂った与四郎は、決して倒れることもなく、板塀の下をどうにか突破し、外へ出て行った。
「あれを逃がすな」
蟇六主従は扉を開いて追い掛けたが、捕まえられずにとうとう諦めて引き返した。
しかし蟇六は意気揚々と、召使いたちをねぎらって、
「今日の働き、抜群であった。惜しむらくは犬を仕留められなかったことだが、あれだけの深手を負わせたからには、必ず道の途中で死ぬだろう、そうではないか」
と誇らしげに威張って、槍を庇に立て掛けて、縁側に腰掛けた。
【恨みを返して、蟇六は召使いたちの労をねぎらう】
蟇六と亀篠、竹やりを持った召使い軍団。左は賢そうな額蔵くん。
すると亀篠は背後から扇で風を送ってやり、
「今日という今日は紀二郎の仇をようやく討つことができた。思えばあの犬畜生は。残念ながらここでは死ななかった。お前たちは怪我はなかったか」
と聞けば、召使いたちはむき出しにしていた肩をしまって、
「いえ、何ともございません。おっしゃる通り、強い犬でございました。我々の企てには乗りませんでしたが、ご主人のご威光でどうにかこうにか痛手を負わすことができました」
と言うので、蟇六もそうであろうと鼻を高くして自慢気のまま、座敷の中に入っていった。
その中で額蔵だけは召使いたちと騒ぐものの、犬を追った振りをするだけだった。犬を痛めつけたと妻子に誇る主人の顔をつくづくと見て、心の中で軽蔑しながら外に出て行った。
しばらくして蟇六は亀篠を小さい部屋に招き、襖を引き立てさせた。そして額を突き合わせて、声を潜めて、
「今、召使いたちから聞いたのだが、番作の犬が思わぬことに裏口から入って来たのは、信乃が追い込んだからだそうだ。その際、番作の子せがれが犬を責めて、何々と罵るのを聞いた者もいる。それは信乃独りだけではなく、糠助も一緒にあの犬を打ったらしく、きっと何か理由があるのだろう。今、考えてみたが、番作は表向きは強きを示しているが、自分から争うのが難しいと思って、自分の子に言いつけて犬をこちらに送ったのではないか」
蟇六はにやりと笑った。
「この勢いに乗ってうまく謀れば、招かずして番作をこちらに降参させ、例の村雨の刀も遂に我が手にすることができるかもしれん。儂は大塚の名跡を継いだが、系図もなく、昔のことを記した文書もない。大塚匠作殿の長女であるそなたの婿というだけなのだ」
それなりに蟇六も負い目を感じているのだった。
「ところで鎌倉の足利成氏殿は、山内顕定、扇谷定正の両管領と仲が悪くなられて、前にも鎌倉を追い落とされ、古河の城のにお籠りなさっている。今も絶えることなく合戦されているということだ。従って当初の陣代、大石様もいつの間にか鎌倉へ出仕されて、両管領に仕えていらっしゃる。儂は足利成氏殿の兄君、春王と安王の世話係であった大塚氏の後継ぎであるから、両管領に大きな忠誠を示さねばこの村の安泰が心もとない。あの村雨の刀を鎌倉へ献上すれば、儂に野心がないことを知らせるだけではなく、恩賞は抜群に違いあるまいと思うのだ」
蟇六は更に声を低くした。
「そう思って、ここ最近はいろいろ手を替え、品を変え、刀を取り上げようとして策を弄じてみたが、番作もそれに気づいたのか、まったく家に来なくなってしまった。宝刀を深く隠してしまい、他人にも見せないのでどうすることもできず、いまだ儂の望みを遂げられないでいる。どにかく番作を儂に帰順させて、あの刀を手中にすれば、我が家の繫盛隆盛は疑いない。しかし番作はなかなか智勇に長けている。そこでだ」
何やらまた考えついたようだった。
「もし糠助を使わなければ上手くいかんだろう。糠助は番作の小せがれと一緒に犬をこちらの敷地に追い込んで来たのは、都合の良いことなのだ。お前、密かに糠助を呼び寄せて、この様に説得しろ。番作に智勇があるといっても、進退を窮まることになれば、可愛い子供のことで迷わない訳がない。必ずことは十分に成就する。計画はこの様にな」
と亀篠の耳に近づき何ごとかを囁いた。当の亀篠は驚き、そして笑いながら、夫を見上げた。
「この企ては良く考えられているし、優れている。番作は弟ではあるが、母が違う。考え方が合わないとしても、百歩の間に住んでいながら、今まで一度も訪れて来たことがない。姉の悪口を言う愚かな弟に罰を当ててやり、悩ましてやるのはこの時。それでは」
召使いを呼んで糠助を呼ぶ様に命じた。
つまるところ、亀篠が糠助にどのようなことを言うのであろうか。
それはまた次の巻にて分かるだろう。
(続く……かも)