介護はイヤだ

両親への積極的な介護をしていなかった(両親は平成24年度に相次いで死亡)、ダメな子供の戯言を書いています。

墓石の手配

2012-10-29 17:23:45 | 日記
順番に書くつもりでしたが、チョット最近のことに飛びます。

10/27(土)
 我が家は約30年前に町内の共同墓所を購入済み[注1]なので、常々、私と母の二人で「後は墓石だけ」と話しており、100万円程度は用意して母方の従兄の知人が仲介してくれる石屋に頼む心算でした。これまでは色々とあり、その話は宙を浮いておりましたが、父の死去により、急遽、石屋を紹介してもらうこと。
 余計な途中経過は省いて・・・その石屋(社長さんが応対してくれました)は霊園も経営しており、石の現物の他に、色々なタイプの墓を見せて下さったおかげで次のように仮決定。
  ・和風
  ・石の色は白系統
  ・母が高齢なので、階段は無し
  ・墓石(正式には、あの角柱を指すそうです)には座布団[注2]
 ここで決まらないのがお値段。墓地の広さもありますが、こちらの方で予算と言う物を考えていなかった。カタログを見ながら私が言いよどんでいると、同行した従兄が「この前やってもらった○○家は、通常だとどのくらい?」と聞いてくれ、250万円との回答。これを聞いて内心『えぇ~、そんなに金を予定していないよ』と思ったのが顔に出ていたのか、石屋から「色々と△△(従兄のこと)さんにはお世話になっておりますので、こちらも勉強させていただきますから、今のところ無理の無い金額を言ってください」とか「長い方は10年程度のローンを組んでいますよ」と言ってくれたので、『定期預金で150万円程度有るから、200万円までで出来ますか?』と、金額提示。
 最初は石屋さんが単独で確認して図面を持ってくる話しになっていましたが、話しの流れで、このまま現地確認をすることになる。
 *** で、場所が変わって共同墓地 ***
 関係者立会いの下での現場確認って大切と痛感させられました。というのも、覚えているだけでもこれだけのことを現場で決めました。
 1 墓地の広さ及び境界の確認。
  昔のことなので境界の石や杭は見つからなかったけれど、我が家の墓地は角地だったので、「多分この範囲内」ということに。その上で測ってみたところ、1坪程度(6尺四方)だと思っていたら「7尺×7尺」と、予想以上に広かった。斜め向かいの墓は「幅6尺」、横の墓は「幅6尺欠け」とか「6尺5寸」と言う感じでバラバラ。我が家が広いのは40年前の権利買取の際に、道として大きくとられそうな話しを母が「仏の頭に掛かってしまうから」と言って、道として取られる部分を少なく抑えた結果だと思う。
 2 基礎の高さ
  墓所内の道は整備されていないので、土がむき出しの凸凹状態。隣の墓と高さを合わせると、道より低い箇所から土や水が浸入してくるので、基礎は道の最も高い位置に合わせることに決定。
 3 墓石の大きさと色合い
  くどいようですが、和風の場合に「○○家」と大抵は縦に彫られている角柱の部分を業界では「墓石」と呼びますが、この墓石を何寸にするのか?
  廻りの状況と、次に書く墓地の広さなどからバランスを考えて・・・確か8寸か9寸に決定。色合いは「白」。
 4 墓の向き
  角地なので「西向き」でも「北向き」でも可能な状態だったから迷っていると、石屋が「私達のようなお墓に携わる家の者は、子供の頃から西向きに作る物(拝む人は東に向くことになる)と教わっています」とアドバイスしてくれた。そこで「西向き」。
 5 墓を掘り起こす際の確認(骨の掘り起こし)
  仏が1体埋まっていることから、「骨上げ」が必要なことは双方で確認済みなので、「どの程度まで掘るのか?」と言う点と、40年前に埋めたので「地層(地盤)の移動によって仏が移動しているかも知れないから他の場所まで掘るのか?」の2点。特に「他の場所」となると市の許可が面倒らしい。
  で、改めて「何年前に埋めたか」ということで話していると、母がすごい勘違い[注3]をしてくれたおかげで、「多分、もう骨は出てこないだろう」となり、墓地内を掘り起こすだけで決着。小さな骨壷を用意し、もしも骨が出てきたら納めるし、出てこなかったら土を入れることになる。
 6 工事日程
 ソモソモ、現地確認を直ぐに行う事になった原因の1つは、「49日(12月1日)に納骨するから間に合わせて欲しい」と言う母の一言。
 今回は1箇月未満で仕上げてくれる事となりましたが、余裕を持って2箇月以上前に発注した方がよいのではないかと思った。

10/28(日)
 お昼を済ませてボ~としていると、昨日の石屋から「墓の図面が出来たので、今からお伺いしても宜しいでしょうか」との電話が入った。
 10分も経たずに石屋が尋ねてきて、図面を広げて説明と確認(本来であれば、CADを使ってきれいな図面を書くのだけど、今回はこちらが急がしたので昔ながらの製図らしい)。
 1 今回作る墓の大きさは、外柵付き「幅6尺8寸 × 奥行7尺」
   ⇒境界が明確ではないし、何かあった際に隙間があったほうが良いので、
    左右を1寸ずつ空けておくことにした。
 2 石は白御影石で、土の部分は残さない。
   ⇒玉砂利を敷く方も居るが(私もそうしたかった)、母が高齢であるから
    草むしりをする手間を省くために。
 3 墓石等は3段座布団つき。
 4 カロート(納骨スペース)の床も御影石
   ⇒見えない場所と言うこともあり、基礎のコンクリートをそのまま使う業者や
    建立者(墓の発注者)が居るが、コンクリートは地下水により劣化が早いので、
    こまめに掃除しないと泥水で汚れてしまうからとの事でした。
 5 基礎の高さは、前日に話したとおりに。
 6 墓の形は↓に似た感じで、入り口に段差は無い。
   入り口の奥行きは1尺8寸取ってあり、滑り止めの加工もしてある。
    
 7 納期は11/27を予定
 8 墓の門には・・・
    向かって右には「家名(縦書き)」
    左には「家紋」を彫ってもらう。
 9 墓誌への彫り込みは、「死亡日順」や「続柄順」等があるが、今回は次のようにした。
    「××家 先祖代々」
    「父」
    「子」
 10 家紋は「墓石」「中台」「花立」の何れに彫るのか?ということに対して、「中台」に彫ってもらう。
 11 墓石の裏には彫る建立者名は私
 12 震災などによる破損や一部倒壊に対しては、無料で補修
なんだか、家格に比べて立派過ぎのですが・・・値段を落とすと空きスペースが増えてみすぼらしくなるから、『これでお願いします』ということに。で、「お値段は、税込み155万円ですが・・・」というのでその安さ(相場がわかっていない)にビックリ。因みに、今回添付した写真はフジタ石材様[http://www.fujitasekizai.co.jp/boseki/100/110/index.html]の物を勝手に使っておりますが、参考価格190万円です。

28日 別の話し
 葬儀に依頼していた父の位牌が完成しました。

※教 訓※
 1 お墓とお金の準備は早めに!
 2 常識程度に予算を伝えましょう


[注1]
 それより前は、持ち回り制の「墓守役」に手間賃程度を支払って、共同墓所内の好きな場所に土葬していた。
[注2]
 墓石とその下の中座との間に『蓮の花』等を模った石が挟まっていることがありますが、それを「座布団」と呼ぶそうです。
 http://www.fujitasekizai.co.jp/boseki/stone03.html
[注3]
 我が家の墓地と背中合わせに親戚(父の妹宅[2軒合葬])の墓地があるのですが、そこに入っている仏は今のところ1体だけで、私が保育園(2年保育でした)に入る前に死亡。そして我が家の仏は私が小1の時に死亡。でも母は、向こうの方が後で死んだと勘違い。その間違い訂正の中で、両家共に死んだのは乳児だということを石屋は初めて知る。
 成人とは異なり乳児は40年も経てば骨は無くなっている事が多いとの事。母も昔は「もう土に還っているから骨は出てこない」と言っていた。

16日の出来事-その2(再度の呼び出し)

2012-10-25 07:59:26 | 日記
思い込みによる状況説明を一通り終わらせ、早目の夕食と入浴を済ませて寛いでいると・・・

午後8時35分~
 電話が鳴るので出てみると、父が入院している病院の事務局(?)。
 「日中に病院に来られたご家族の方ですか?」と聞いてきたので、『はい、そうです。』と返答すると、「病棟に替わります。暫らくそのままお待ちください」とのアナウンス。この時点では、『もしや危篤?』と言う気持ちが9割で、『逝ってしまった?』が1割だったと思います。
 さほど待たされず病棟につながると、電話口から聞こえたのは「ただいまお父様の呼吸が止まった状態です」との事務的な通知。こちらも『はい、判りました。これから向かいます』と事務的に受け答えして電話を切る。
 振り返って、居間で足の傷口に薬を塗っている母に『お父さん、死んだよ。息していないって』と告げると、母も覚悟が出来ていたのか取り乱すことが無かった。
 二人で服を着替え、私は近所に住む従兄宅へ一応報告へ。その間、家に残っていた母は自分の妹へ電話を入れて、父が死亡した事と数日の内に葬儀を行うのである程度都合をつけて欲しい旨を他の親戚へ通知してくれる様に依頼。
 従兄宅を訪ねると、夕方に父の様子を話した嫁さんの方が出てきたくれたので、父が死んだことを告げる。当然ビックリした嫁は「お父さん、大変だから直ぐこっちに来て」と旦那(従兄)を呼び出す。改めて病院から電話が入ったことを伝えると、従兄は薬(腰痛持ちなので)を飲んでしまって車を運転できないので、嫁さんの運転で4人で病院へ行く事に。

午後8時50分頃
 従兄が出かける支度が整ったと言って来たので、病院へ向かうことに。
 車が走り出して1~2分後に、母が「葬儀社だけど・・・以前、そちらが使った***に頼もうと思うの」と従兄に話しかけたら、従兄の方が「今は運転に集中させたいから、その話は後でもいいでしょう」と言って、話を打ち切らせる。
 病院の名前と住所を言っていなかったのではないかと思い、私が告げたら、何故だか既に知っていた[今になって考えてみたら・・・知っていたから何も言う前から車を走らせていたんですね]。
 車の中の空気が重たいので、私が『これで、昼間のように、私達が着いたら息を吹き返し居たら、それはそれでお笑いなんだけどね』と言ってみたけれど、誰も反応なし。

多分、午後9時15分頃~
 病院入り口に到着し、私と母が先に病院の中へ入る。
 車を置きに行った従兄と嫁さんが戻ってきたので、私が「夜間出入口」から入るように指差したのに、二人して通常の出入り口を無理やり開けようとしている。私の指差している方に出入り口があることに気付きやっと合流。
 エレベーターでD病棟へ上がりナースセンターに声を掛けると、当直の看護師が病室へ案内してくれた。
 父は両目と口がかすかに開いていたので、まどろんでいるかのようだった。苦しんだ様子は無かった感じがした。従兄の嫁だけが泣き崩れてしまう。
 病院でのやり取りはとても事務的。
 当直医が看護師に連れて来られて、死亡時間の告知。
 看護師から「ご遺体に着替えさせる服は?」と聞かれたので、持ってきていない旨を言うと、病院の寝巻きを貸してくれた。
 遺体の引取業者を聞いてきたので、従兄が「この病院で契約している***と言う葬儀社に頼みたいから、病院から連絡を取って欲しい」と要求すると、看護師は一旦ナースセンターへ戻って調べてくれたが、「該当する葬儀社は無い」と言って葬儀社のパンフを綴っているファイルを見せてくれる。確かに、そのファイルの中には従兄が言った「***」と言う葬儀社のパンフは無く、「***ニ-センター」と言う葬儀社があるだけなので・・・院内では携帯電話がつかえないから・・・前回、病院で確認した携帯電話利用可能とされている1階へ降りて公衆電話エリアへ。

16日の出来事-その1(呼び出しから)

2012-10-22 12:21:24 | 日記
暫らくの間、父の葬儀までのことを小出しに書いていきます。

午前10時
 先週書きましたように病院より
  『痰を培養したら悪い菌がたくさん出ている(注)ので、病室を移しました。
   今日と明日は先生が居ないので、先生の指示に従がった点滴を行っています。
   状況を説明したいので今日は何時になっても構いませんから
   一度、病院に来てください』
 というような内容の呼び出しの電話が入る。
[注] 電話で聞いた時点では「菌が検出された」と言う意味に聞こえたが、どうも「菌を排出していて、院内感染の感染源になる」と言う意味ではなかったのかと考える。

午後0時20分
 悠長に昼食を取っていると、社長から早く向かえと急かされたので、病院へ向かうことにする。
 同僚には「病院から電話が入ったら、2時台の循環バスに乗れるように出ている」というようにお願いしておいた。

午後0時45分頃
 地下鉄の大手町に到着。
 病院が出している循環バスの時刻表と、乗った電車の到着予想時刻を見比べたら、当初予定していたM駅の3つ先まで行った方が病院へは早く着けそう。M駅からK駅までの所要時間が約10分なので、取りあえず電車に乗ってから降りる駅を判断することに。

午後13時30分頃
 M駅に到着。K駅まで乗車することにする。

午後13時40分頃
 K駅に到着。
 前回病院から戻る時に使った路線バスはK駅が終点だったので、そのときに降りたロータリーへ向かう。

午後13時50分~
 病院の循環バスが到着予定時刻になっても来ない!
 乗って来た電車の折り返しが14:00だったと思うので、M駅まで戻れば当初予定したバスに乗車可能だけど・・・先ほどから少し先に病院の前を通る路線バスが止まっているので、路線バスで向かうことにした。私が乗車するとすぐに発車したから、躊躇していたら路線バスにも循環バスにも載れないという最悪の状態になる可能性があったと思う。
 路線バスに乗ってから気付いたけれど、M駅には反対側にもロータリーが有り、普通に考えればそちらからの方が病院に行き易い。

午後14時10分ごろ??
 病院に到着。直接、病棟に上がり、ナースセンターに声を掛けると師長が隔離病室に案内してくれる。滅菌した帽子・マスク・手袋・服・シューズカバーをつけさせられたのはこれが多分初めて。
 父は酸素マスクを当てており、呼吸が苦しそう。師長が声を掛けると反応したので、「先ほどまでは何も反応が無かったのだけど、反応が返ってきたから安心ですね。血圧も50だったのが80に上がっていますよ」と状況を説明してくれた。このときに、先ほど書いたように「排菌状態だから隔離した」のだと気付き師長に母の病状を説明したら、この部屋から一般病室へ移るまでは面会に来ない方が良いとのアドバイスを受ける。
 当初の電話で「ご家族の方が揃って」と言っていたことから、『母が来られないのだったら、父の妹達や甥・姪を呼んでだ方がいいの?』と思い至り、師長に『家族と言っても私と母の二人だけですから・・・母が来られないのだったら、叔母とかを呼んでもいいですか?でも、いっぺんにきても入室できませんし・・・急がなくても大丈夫ですよね』というような事を言ったら、師長からは積極的な回答は貰えなかったが、来ても面会が難しいという点だけは同意してくれた。
 別れ際に『先生の丁寧な説明は理解できた心算ですが、結局父の病気は「肺炎」と「軽度の腎不全」ですか?』と師長に問いかけると、「その通りです」との返事を貰う。

午後2時25分~
 病院の循環バス(M駅方面)が出るまでの間に、念のために自宅に電話を入れてみると、母が定期検査から戻っていた。手早く説明をして、父が入所している施設には16時頃に説明に行く旨を伝えるように母へ依頼。
 M駅に到着。思っていた通り、私が待っていたのと逆のロータリー。
 電車の出発までに10分弱有ったので、会社に『父、無事』と連絡を入れる。

午後4時ごろ
 施設に到着。碇さんが不在で、看護士の資格を持つ女性職員が話を聞いてくれた。女性職員によると、父が出している悪い菌とは「黄色ブドウ球菌」ではないかとの事だった。
 施設を後にして家を目指してトボトボ歩いていると、町会の人数名と行き違うが、簡単な挨拶だけで込み入った話はしなかった。
 自宅のすぐ近くに住む従兄の嫁には父の状態を告げたが、親戚に連絡する程ではないと病院は考えている様だと言っておいた。

父 危篤?

2012-10-16 10:57:42 | 日記
つい先ほど、父が入院している病院の病棟師長から会社に居る私へ電話が入りました。
[本日は、母は定期検査で別の病院に行っている為]

師長は「今日明日でどうこうするとは限らない」と言っては居りましたが、「夜になっても構わないので家族の方全員で来て下さい」とも言っております。
家族といったって私と母の二人ですから・・・心優しい社長に断って、これから病院へ向かいます。

母=退院 父=入院

2012-10-04 12:12:06 | 日記
話しを作っているように感じてしまうかもしれませんが、2日に題名の通りの事が発生してしまいました。

 7:30頃
  母が退院するので、予定通りに家を出る。
 9:00頃
  母が入院している病院へ到着。
  病室に着くと、既に母は着替えを済ませていたが、荷造りが上手く出来ていなかったので、私が改めて荷造りを行う。
 9:20頃
  本当は着替えと荷造りが終了したらさっさと病室を出て行かなければならないのだけど、母が「入院中に渡された薬の中の一部が持ち帰っていいのかどうかが判らない」というので、看護師に確認しようと言うことで、病室で待機。
  持ち帰りOKといわれたので、ロビーへ移動。
10:30頃
  看護師から会計の書類を渡されので私が1階に降りて会計を済ませ、ナースセンターへその旨を通知して、再び母の待っているロビーへ
11:00頃
  看護師から保険証やケアマネージャーへ渡す書類を貰って、退院手続きは終了。
  院内の売店で昼食用のお弁当等を購入。
11:40頃
  タクシーを使って自宅に到着。
  すぐ近所に住む従兄に退院した旨を報告しに行くが、農作業で外出中。
11:50頃
  農耕機の重低音が響いたので再び従兄宅へ向かう。途中で出会ったので退院の報告。
13:00頃
  母を担当するケアマネージャーへ退院の報告の電話を入れるが、ケアマネージャーは席を外していた。
  この電話を切って然程時間が経たない内に電話が入ったので母が電話に出た所、施設から「父を病院へ連れて行く」との連絡。
13:30頃
  母を担当するケアマネージャーから15時ごろに家に来るとの連絡が入る。
15:05
  ケアマネージャー到着。
  私、母、ケアマネージャーの3名で今後のケアプランを話し合い、毎週1回の掃除を復活すると共に、当分の間は隔週1回のデイサービスを毎週1回に変更することにした。
15:40頃
  電話が鳴ったので、再び母が電話に出る[別の要件で電話を掛けようとしていたため]。
  施設から父が入院となった旨と、家族が入院手続きに行かなければならないという内容だったが、母は話の一部が理解できないので私が代わることになる。
  電話だけでは説明が難しい点があり、私が施設に出向くことにした。
16:00頃
  施設に到着。
  要は、
  ・健康保険証は家族が病院へ持参しなければダメなので、私に返却
  ・入院手続きは「平日は16時。土曜は午前中」なので、近日中に手続きを
  ・病院への行き方は某駅を通る病院の循環バスが便利なので、私に時刻表を渡す
  そして、入院となった原因は、父本人が食事拒否をしていたための栄養不足。
17:00頃
  施設に行った序に、馴染みの薬局へ足を伸ばし、母が要求している包帯を購入して帰宅すると、再び施設から電話。
  今度は私が出ると、施設の碇氏。16時に施設で聞いた内容を繰り返し説明して来た後に、入院手続きに行ける日時が決まったら、早々に病院へ連絡を入れて欲しいとの事。


3日の日に会社で複数の人に頭を下げて、とりあえずは5日(金)の午後に病院へいけるようになりました[土曜日はグループ会社内の、ネットワーク工事で1日立会いだから]。
前回、詳しくは書かなかったトラブル(継続中)もあり・・・今回の入退院には精神的に参ってしまいます。

母 退院決定

2012-10-01 18:09:55 | 日記
母の退院日が決まりました。

9/27(木)
切開した足を包帯で巻いているため、それまで履いていた草履(和装用)では用を成さないということで、前回はいらないといっていた「スリッパ」をもってこいとの電話が入ったのが昨日の26日。
 家に有るスリッパを通勤用鞄に入れて出社。話のわかる社長は定時前でも帰っていいといってくれたけれど、定時を過ぎた18:10に会社を後にすることになりました・・・帰る段になってた私が事務所内で使っているサンダルの方がいいような気がして、衛生的には疑問があったけれど、そのサンダルも通勤用鞄に入れて病院へ向かう。
 19:30に病院受付に到着し、面間時刻は過ぎていたけれど届け物だということで入館させてもらう。
 母にスリッパとサンダルを見せると、迷わずサンダルの方をチョイス。そのとき、「来週月曜日に退院になった」との急な話し。
 来週月曜日とは即ち10月1日。毎月第1営業日は月初の諸々の仕事で休むことが困難だけど、10月1日から私の下に人が配属されるので絶対無理だから伸ばせないのかと話していたら、いつの間にか看護士の方が私達の話を聞いており、取りあえず月曜日は無理だということは認められた感じになる。こちらの希望としては木曜日か金曜日[今回、土曜日はある事情から出社を頼まれている]を申し出たけれど、看護士からは「先生に相談してみますが、それは難しいと思いますよ」との仮回答。
 面会時間を元から超過しているので、急いで病棟を後にしたけれど、病院受付口を出たのは20:00チョット前。

9/28(金)
 朝方、大変なことが起きてしまったが・・・それは今回は割愛。
 お昼前に母から退院日が火曜日となったとの連絡が入ったので、社長に母の退院が決まった旨を報告。だけど、新人を配属したその翌日に休むこととなるので渋い顔をなさっていた。
 後に社長には別の理由を言ってとぼけたが、この日はシステムへの月末データ最終処理日(実際には9月30日まで入力可能)なので21:00まで仕事を片付けていた。帰ろうとしてFAXを見ると、親会社OBの訃報が入っていたので、社長へ一報を入れて、土曜日に出社することになる。

9/29(土)
 ホボ何時もどおりに会社に出社。10月1日には通常業務が出来ないと思うので、コンピューターで事前に出来る作業を片付ける。
 お昼を過ぎても社長が来ないので、帰ろうとしていると13:00に社長が出社。訃報に関しての事務処理を行う物だと高をくくっていたら、別のお仕事をなさっているので、15:00に私は先に失礼することに。
 17:00チョット前に母の病室を訪ね、何か事前に持ち帰る物はないかと尋ねたが、何も無いとの返事。母が許されている行動範囲は「病棟階のみ」なので購買に行ってジュースや軽食を買うことが出来ないと嘆いていたので、私が購買へ行ってゼリーを1カップ購入してくる。

9/30(日)
 朝起きて何時ものように洗濯を済ませた後で、私の体が急に脱力感に襲われ、感覚的には「生き死にの分かれ目」。無意識にご飯を炊いて何時もの倍の量を食べると一先ず収まったので・・・長年に亙って米飯で暮らしていたのに、母の入院以降はパンとウドンのみの食生活体に体が不調を訴えていたのではないかと素人判断で納得。
 朝食の後は強い眠気に襲われて、父の所へ行くことができませんでした。