達也が駅ホームでゆみと運命的な遭遇をした日より数ヶ月前のある小春日和の土曜日であった。達也は朝の三時頃に目が覚めてから寝付けず、図書館から借りた本を読んで夜が明けた。
その為か頭がスッキリしないまま、招かれた旧勤務先の記念行事に出席し昼食を戴いた。午後の講演会への参加は見合わせ、帰宅後横になりウトウトまどろんだ。
夕方、同窓会に参加するため会場である割烹へと出掛けた。
達也以外の参加予定者は既に到着しており、受付後直ぐに記念撮影となった。
総勢数百人の学年であったが、このところ参加者は二十人強と少なく、さらに、半分以上が常連である。
達也は地元に戻ってからは、仕事の都合での一、二回を除いて毎回参加し、懐かしい人との再会に心を躍らせている。
特に中学から高校にかけて淡い恋心を抱いた昭子との再会、さらにはゆみのお姉さんに会えないかと期待を持って会場に入るのであった。
ゆみのお姉さんに会いたいのは、別れてからのゆみに対する想いを彼女に伝えて欲しいためであった。それは、
達也はゆみと別れた直後から彼女を失ったことを後悔していて、出会った女性の中ではゆみとは一番価値観を共有出来たのではないかという思いが増してきている為である。
さらには、ゆみが現在のご主人と結婚するに当たり、「“○○の方と結婚したかった”と漏らしていた」と彼女の友達が達也の母に話したそうである。
何故、ゆみのことがこれほど気になるのだろうか?
達也がこれまで出会い、その気になれば一緒になれたと思われる女性の中には一面だけ見れば、美人ということではミス○○もいたし、頭脳の良さでは兄が東大出の女性もいたのに。
好き嫌いは理性と感情とが複雑に絡んだ結果だし、全人格としてのゆみを好きになってしまったのだからどうしようもない。
韓国ドラマ「冬のソナタ」で「人を好きになるのに理由はない」と言うセリフがあったが、当にそのとおりだと思う。
別れる時点でもゆみを好きなことに変わりはないのに、自分のネガテイブな想像や周囲の意見に自分を見失い、ちゃんと心で納得しなかったためだろうか。
ゆみと別れてから、達也は自然と耳に入ってくる以外に積極的に彼女の情報を得ようとはしなかった。
ゆみが結婚した当初は幾度か姿を見掛けたこともあったが。
その後は転勤で十年近く地元から離れていたこともあり、現在まで一度も見掛けることはなかった。 そのため、ゆみがどんな家庭を築いているのか全く知らない。
達也の心の中には当時のままのゆみがおり、達也にとって都合の良い理想像を育てあげてしまったのかも知れない。
当然のことながら、達也はゆみの生活を乱すつもりは毛頭ないが、「自分が抱いている気持ちをゆみには誤解することなく、受け止めて欲しい」との思いを強く持つようになっていた。
会場に入ると到着を今か今かと待っていた同窓生から迎えられた。特に孝一から
「達ちゃん、久しぶり」と呼ばれ握手されたが、思い出せなかった。
出席者名簿に孝一の名を見つけ和郎に
「彼はどこにいるか」と問えば、
「たった今握手していたではないか」と言われたが、高校卒業以来の再会で当時の面影がなかった。面白いもので昔の面影を強く残している人とまるで当時の面影を留めていない人もいる。
今のゆみはどうなんだろう、達也の心の中のゆみは当時のままであるが。
達也は眼鏡を掛けるようになったが誰に会っても当時と変わらないと言われている。
まだ老け込んでいないと喜んでよいのや、いまだ成長していないと言われているようでもあり複雑な気持ちだ。
達也は昭子ら二人を探したところ見当たらなかったが、達也が強く参加を勧めていた章生が参加してくれていた。その他にも、数十年振りに見るゆみの夫の顔があった。
前回、達也は午前様まで旧友と飲み続けたが、今回は寝不足もあり一次会で午後八時頃帰宅した。
居間のソファーに掛け、今回の集合写真と出席者名簿を見比べていると、ゆみの夫が宿泊予定になっており、今、ゆみが一人であると知るや、ゆみに電話を掛けたい衝動に駆られた。
電話帳を調べ、ひょっとして後日彼女からの電話があるかもしれないとの淡い期待から固定電話ではなく携帯電話に番号を打ち込みかけた。
まるで若い頃、女の子をデートに誘ったときのように心が動揺し、また自分はなんと非常識な行動をしようとしているのかと言うことに気付き、停止ボタンを押すという動作を何度か繰り返した。しかし、適度なアルコールの効果もあってか、躊躇しつつもついに先方に繋がってしまった。
「はい、佐久間です」声が少し若すぎる、もしや娘さんかお嫁さんではと思い
「もしもし、津山と申します。お母さんいらっしゃいますか」
「はい、どちらの津山さんですか」
「上町の津山です」
しばらくして
「はい」とゆみの声が入った。
何か昔の声より高音に感じたが、声質が似ており先に出られた女性は娘さんのようであった。
「津山達也です、切らないで下さい。・・・津山達也です・・・・・思い出して頂けましたか?」
「はい、分かります」達也の心臓が高鳴り、声がスムーズに出なく、少し沈黙後
「貴女を失ったことが、私の人生における最大の失敗でした」
「いま、ごく平凡な日々を送っており、いまで良かったと思っています。私の方から断っていたかも知れないし」
「ごめんなさい。どうしても貴女に言っておきたかったものですから」
「今さらそんなことを言って、嬉しくもなんでもない。わたしは貴方のことを勿体なかったとは思っていません。第一、失礼です」
「ごめんなさい」
このような会話が交わされ、達也も言いたかったことが沢山あったのに声に出ず、しばらくの沈黙後、ゆみの方から電話が切れ、達也にとってはほろ苦い後味が残る電話であった。
達也はゆみのことを「もったいなかった」という損得で見た事はなく、ただ好きという気持ちから電話したのに、ゆみは達也のことを損得で見ていたのであろうか?だとしたら虚しくなってしまう。
達也は想いを伝えたい一心でいきなり単刀直入になってしまったが、ゆみの言う通り先ず初めに突然の電話に対する非礼を詫びて置くべきであった。
とは言え、もし話す機会がなかったら死期を悟ったときに心の整理の一環として、誰かを介してでもゆみに伝えたかったことが曲がりなりにも伝えられた。
しかし、嫌いでなく好きなまま別れ、僅か数ヶ月間の交際で、ゆみがその後の達也の心を支配してしまっているのに。好きだと言われて嫌な人は居ないと思うのに。
「久しぶり」の一言もなく、
「あなたのことは何とも思っていない」の言葉で、
片思いだったことを知らされ、言いようのない淋しさを覚えるのであった。
これが逆の立場だったらどうなんだろう。
ゆみと会う前に数ヶ月間交際し、彼女の方から去って行った幸子から達也に同じような電話があったとしたらどうだろう。
達也にとって特別な存在であるゆみを知った今、懐かしさはあっても、余り嬉しいという気持ちが湧かないようだ。
さすれば、達也と別れて間もなく結婚したゆみにとって、今の夫は彼女の言葉通り、達也とよりも幸せを感じることが出来る存在なのであろうか。
達也の本意はゆみが幸せであることである。でも、それが達也とでないことがやはり悔しい。
この淋しさは、釈迦によれば「苦の本質は執着であり、苦を取り除くにはゆみへの執着を止めればいい。即ち滅諦という悟り」となるのであろうが、達也には出来そうにない。少なくとも心ではゆみと一緒に居られるのだから。
そこで、誰かに聞いてもらえれば少しは安心が得られるのではないかと思い、ゆみを読者に特定されないように配慮した小説風創作文を公開することにした。
別れた人を切なく思い焦がれる小説に、小池真理子の「冬の伽藍」、辻仁成の「サヨナライツカ」を読んだ記憶が蘇ってくる。
両作品とも、女の死期が迫ったことを知らされた男が女に会いに行き、想いが同じであったことを確認できるのである。達也の場合は所詮一方的な想いなのであろうか。
その為か頭がスッキリしないまま、招かれた旧勤務先の記念行事に出席し昼食を戴いた。午後の講演会への参加は見合わせ、帰宅後横になりウトウトまどろんだ。
夕方、同窓会に参加するため会場である割烹へと出掛けた。
達也以外の参加予定者は既に到着しており、受付後直ぐに記念撮影となった。
総勢数百人の学年であったが、このところ参加者は二十人強と少なく、さらに、半分以上が常連である。
達也は地元に戻ってからは、仕事の都合での一、二回を除いて毎回参加し、懐かしい人との再会に心を躍らせている。
特に中学から高校にかけて淡い恋心を抱いた昭子との再会、さらにはゆみのお姉さんに会えないかと期待を持って会場に入るのであった。
ゆみのお姉さんに会いたいのは、別れてからのゆみに対する想いを彼女に伝えて欲しいためであった。それは、
達也はゆみと別れた直後から彼女を失ったことを後悔していて、出会った女性の中ではゆみとは一番価値観を共有出来たのではないかという思いが増してきている為である。
さらには、ゆみが現在のご主人と結婚するに当たり、「“○○の方と結婚したかった”と漏らしていた」と彼女の友達が達也の母に話したそうである。
何故、ゆみのことがこれほど気になるのだろうか?
達也がこれまで出会い、その気になれば一緒になれたと思われる女性の中には一面だけ見れば、美人ということではミス○○もいたし、頭脳の良さでは兄が東大出の女性もいたのに。
好き嫌いは理性と感情とが複雑に絡んだ結果だし、全人格としてのゆみを好きになってしまったのだからどうしようもない。
韓国ドラマ「冬のソナタ」で「人を好きになるのに理由はない」と言うセリフがあったが、当にそのとおりだと思う。
別れる時点でもゆみを好きなことに変わりはないのに、自分のネガテイブな想像や周囲の意見に自分を見失い、ちゃんと心で納得しなかったためだろうか。
ゆみと別れてから、達也は自然と耳に入ってくる以外に積極的に彼女の情報を得ようとはしなかった。
ゆみが結婚した当初は幾度か姿を見掛けたこともあったが。
その後は転勤で十年近く地元から離れていたこともあり、現在まで一度も見掛けることはなかった。 そのため、ゆみがどんな家庭を築いているのか全く知らない。
達也の心の中には当時のままのゆみがおり、達也にとって都合の良い理想像を育てあげてしまったのかも知れない。
当然のことながら、達也はゆみの生活を乱すつもりは毛頭ないが、「自分が抱いている気持ちをゆみには誤解することなく、受け止めて欲しい」との思いを強く持つようになっていた。
会場に入ると到着を今か今かと待っていた同窓生から迎えられた。特に孝一から
「達ちゃん、久しぶり」と呼ばれ握手されたが、思い出せなかった。
出席者名簿に孝一の名を見つけ和郎に
「彼はどこにいるか」と問えば、
「たった今握手していたではないか」と言われたが、高校卒業以来の再会で当時の面影がなかった。面白いもので昔の面影を強く残している人とまるで当時の面影を留めていない人もいる。
今のゆみはどうなんだろう、達也の心の中のゆみは当時のままであるが。
達也は眼鏡を掛けるようになったが誰に会っても当時と変わらないと言われている。
まだ老け込んでいないと喜んでよいのや、いまだ成長していないと言われているようでもあり複雑な気持ちだ。
達也は昭子ら二人を探したところ見当たらなかったが、達也が強く参加を勧めていた章生が参加してくれていた。その他にも、数十年振りに見るゆみの夫の顔があった。
前回、達也は午前様まで旧友と飲み続けたが、今回は寝不足もあり一次会で午後八時頃帰宅した。
居間のソファーに掛け、今回の集合写真と出席者名簿を見比べていると、ゆみの夫が宿泊予定になっており、今、ゆみが一人であると知るや、ゆみに電話を掛けたい衝動に駆られた。
電話帳を調べ、ひょっとして後日彼女からの電話があるかもしれないとの淡い期待から固定電話ではなく携帯電話に番号を打ち込みかけた。
まるで若い頃、女の子をデートに誘ったときのように心が動揺し、また自分はなんと非常識な行動をしようとしているのかと言うことに気付き、停止ボタンを押すという動作を何度か繰り返した。しかし、適度なアルコールの効果もあってか、躊躇しつつもついに先方に繋がってしまった。
「はい、佐久間です」声が少し若すぎる、もしや娘さんかお嫁さんではと思い
「もしもし、津山と申します。お母さんいらっしゃいますか」
「はい、どちらの津山さんですか」
「上町の津山です」
しばらくして
「はい」とゆみの声が入った。
何か昔の声より高音に感じたが、声質が似ており先に出られた女性は娘さんのようであった。
「津山達也です、切らないで下さい。・・・津山達也です・・・・・思い出して頂けましたか?」
「はい、分かります」達也の心臓が高鳴り、声がスムーズに出なく、少し沈黙後
「貴女を失ったことが、私の人生における最大の失敗でした」
「いま、ごく平凡な日々を送っており、いまで良かったと思っています。私の方から断っていたかも知れないし」
「ごめんなさい。どうしても貴女に言っておきたかったものですから」
「今さらそんなことを言って、嬉しくもなんでもない。わたしは貴方のことを勿体なかったとは思っていません。第一、失礼です」
「ごめんなさい」
このような会話が交わされ、達也も言いたかったことが沢山あったのに声に出ず、しばらくの沈黙後、ゆみの方から電話が切れ、達也にとってはほろ苦い後味が残る電話であった。
達也はゆみのことを「もったいなかった」という損得で見た事はなく、ただ好きという気持ちから電話したのに、ゆみは達也のことを損得で見ていたのであろうか?だとしたら虚しくなってしまう。
達也は想いを伝えたい一心でいきなり単刀直入になってしまったが、ゆみの言う通り先ず初めに突然の電話に対する非礼を詫びて置くべきであった。
とは言え、もし話す機会がなかったら死期を悟ったときに心の整理の一環として、誰かを介してでもゆみに伝えたかったことが曲がりなりにも伝えられた。
しかし、嫌いでなく好きなまま別れ、僅か数ヶ月間の交際で、ゆみがその後の達也の心を支配してしまっているのに。好きだと言われて嫌な人は居ないと思うのに。
「久しぶり」の一言もなく、
「あなたのことは何とも思っていない」の言葉で、
片思いだったことを知らされ、言いようのない淋しさを覚えるのであった。
これが逆の立場だったらどうなんだろう。
ゆみと会う前に数ヶ月間交際し、彼女の方から去って行った幸子から達也に同じような電話があったとしたらどうだろう。
達也にとって特別な存在であるゆみを知った今、懐かしさはあっても、余り嬉しいという気持ちが湧かないようだ。
さすれば、達也と別れて間もなく結婚したゆみにとって、今の夫は彼女の言葉通り、達也とよりも幸せを感じることが出来る存在なのであろうか。
達也の本意はゆみが幸せであることである。でも、それが達也とでないことがやはり悔しい。
この淋しさは、釈迦によれば「苦の本質は執着であり、苦を取り除くにはゆみへの執着を止めればいい。即ち滅諦という悟り」となるのであろうが、達也には出来そうにない。少なくとも心ではゆみと一緒に居られるのだから。
そこで、誰かに聞いてもらえれば少しは安心が得られるのではないかと思い、ゆみを読者に特定されないように配慮した小説風創作文を公開することにした。
別れた人を切なく思い焦がれる小説に、小池真理子の「冬の伽藍」、辻仁成の「サヨナライツカ」を読んだ記憶が蘇ってくる。
両作品とも、女の死期が迫ったことを知らされた男が女に会いに行き、想いが同じであったことを確認できるのである。達也の場合は所詮一方的な想いなのであろうか。
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