少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第12回
生き残った住民28万人が収容所に、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多く
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。
米軍が上陸後、収容所に送られる住民たち=沖縄県読谷村楚辺で1945年4月4日撮影(沖縄県公文書館提供)
Q.沖縄戦で生き残った住民はその後どうなったのか?
A.1945年4月1日に沖縄本島中部へ上陸した米軍は南北に分かれて進攻し、占領地域を拡大していきました。保護された住民は4月上旬ごろから米軍が開設した民間人収容所に送り込まれました。収容所は主に沖縄本島北部の各地に置かれ、日本軍の組織的戦闘が終結した45年6月末には約28万人が収容されていました。残っていた家屋やかやぶきの家、テントなどに大勢が生活し、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多くいました。女性が米兵に襲われることもありました。
一方、投降した日本兵は民間人とは別の捕虜収容所に送られました。沖縄出身の捕虜の中には一時、ハワイに移送された人もいました。日本本土出身の捕虜は46年10月ごろから本土へ送還されました。沖縄戦の間、米軍は占領地域に基地を次々と建設しました。住民は45年10月以降、順次、元の居住地に戻ることを許されましたが、米軍が基地を造った場所には戻れず、周囲に住まざるを得ませんでした。宜野湾市中心部にあり、市面積の4分の1を占める米軍普天間飛行場もその一例です。
2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。
■復帰50年(2012-17年)毎日新聞
投稿者からのひと言/投稿した本日6月23日は、沖縄戦等の戦没者を追悼する日と定められている、沖縄「慰霊の日」だ(既号説明)。本題に入り、運よくせっかく沖縄戦で助かった人もその後の米軍の粗雑な扱いで、マラリアや栄養失調で多くの方が亡くなった。米軍は大量の住民収容を進めると同時に、次号のように「銃剣とブルドーザー」の言葉通り勝手に住民の土地を奪い、普天間飛行場が代表するような米軍基地を各地に置いた。不勉強(投稿者から言わせればアホ)な右翼層・ネトウヨは、普天間飛行場や基地近くに住んでいる住民に対し、「危険」「騒音」を言うなら他へ行けと言う。基地そのものが住民の土地(住んでいた自分の地)を奪われ、辛うじて免れた周辺住民などは総じて貧しく、また先祖の土地を大切に守る習慣が強く、そう簡単に移動できないのだ。旧日本軍が戦争を起こさなければ・せめて沖縄を捨て石にしなければ、沖縄は現在と別次元的に発展し、当時住民の子孫の方(現在の方)も沖縄を誇りに生きてきただろう。沖縄戦の悲劇、戦後も基地問題など、過去・現代も本土の誤った考え方の人間(政府・右翼層)によって、沖縄は捻じ曲げられているのだ。
次号/13・沖縄は1972年まで戦後27年間に渡り米国統治下に、4月28日は「屈辱の日」に
前号/11・10代の男女学生2000人が動員、戦闘や砲弾が飛び交う中の医療作業で半数が犠牲
毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第12回
生き残った住民28万人が収容所に、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多く
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。
米軍が上陸後、収容所に送られる住民たち=沖縄県読谷村楚辺で1945年4月4日撮影(沖縄県公文書館提供)
Q.沖縄戦で生き残った住民はその後どうなったのか?
A.1945年4月1日に沖縄本島中部へ上陸した米軍は南北に分かれて進攻し、占領地域を拡大していきました。保護された住民は4月上旬ごろから米軍が開設した民間人収容所に送り込まれました。収容所は主に沖縄本島北部の各地に置かれ、日本軍の組織的戦闘が終結した45年6月末には約28万人が収容されていました。残っていた家屋やかやぶきの家、テントなどに大勢が生活し、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多くいました。女性が米兵に襲われることもありました。
一方、投降した日本兵は民間人とは別の捕虜収容所に送られました。沖縄出身の捕虜の中には一時、ハワイに移送された人もいました。日本本土出身の捕虜は46年10月ごろから本土へ送還されました。沖縄戦の間、米軍は占領地域に基地を次々と建設しました。住民は45年10月以降、順次、元の居住地に戻ることを許されましたが、米軍が基地を造った場所には戻れず、周囲に住まざるを得ませんでした。宜野湾市中心部にあり、市面積の4分の1を占める米軍普天間飛行場もその一例です。
2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。
■復帰50年(2012-17年)毎日新聞
投稿者からのひと言/投稿した本日6月23日は、沖縄戦等の戦没者を追悼する日と定められている、沖縄「慰霊の日」だ(既号説明)。本題に入り、運よくせっかく沖縄戦で助かった人もその後の米軍の粗雑な扱いで、マラリアや栄養失調で多くの方が亡くなった。米軍は大量の住民収容を進めると同時に、次号のように「銃剣とブルドーザー」の言葉通り勝手に住民の土地を奪い、普天間飛行場が代表するような米軍基地を各地に置いた。不勉強(投稿者から言わせればアホ)な右翼層・ネトウヨは、普天間飛行場や基地近くに住んでいる住民に対し、「危険」「騒音」を言うなら他へ行けと言う。基地そのものが住民の土地(住んでいた自分の地)を奪われ、辛うじて免れた周辺住民などは総じて貧しく、また先祖の土地を大切に守る習慣が強く、そう簡単に移動できないのだ。旧日本軍が戦争を起こさなければ・せめて沖縄を捨て石にしなければ、沖縄は現在と別次元的に発展し、当時住民の子孫の方(現在の方)も沖縄を誇りに生きてきただろう。沖縄戦の悲劇、戦後も基地問題など、過去・現代も本土の誤った考え方の人間(政府・右翼層)によって、沖縄は捻じ曲げられているのだ。
次号/13・沖縄は1972年まで戦後27年間に渡り米国統治下に、4月28日は「屈辱の日」に
前号/11・10代の男女学生2000人が動員、戦闘や砲弾が飛び交う中の医療作業で半数が犠牲