少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第5回
沖縄戦で米軍の兵力差は10倍、激しい砲爆撃「鉄の暴風」で沖縄の地形は変容
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。
上陸作戦で沖縄本島に押し寄せた米軍の艦船=1945年4月3日撮影(沖縄県公文書館提供)
Q.激しい地上戦となった沖縄戦だけど日米両軍の戦力はどちらが上回っていたのか?
A.沖縄に上陸した米軍戦闘部隊は陸軍や海兵隊を中心とする約18万人。周辺海域などで支援した部隊を合わせると約55万人に上り、太平洋戦争で最大規模の上陸作戦でした。1945年4月に米軍が沖縄本島中部の西海岸に上陸した際には、海が無数の艦船で埋め尽くされ、真っ黒に見えたといわれています。対する日本軍は陸軍を中心に約10万人の兵力だったとみられます。しかし、このうち2万人余りは「防衛隊」や「学徒隊」などと呼ばれる臨時の補充要員でした。
「根こそぎ動員」ともいわれ、兵力不足を補うために、沖縄の一般住民や学生の中から、14~45歳の男性を兵士として、15歳~40代の女性を兵士に準ずる軍属などとして動員したのです。兵力だけでなく、兵器や補給などの面でも米軍が圧倒し、総戦力において10倍以上の差があったといわれています。米軍は艦船からの艦砲射撃や軍用機からの爆撃などおびただしい数の砲弾を撃ち込みました。この「鉄の暴風」といわれる激しい砲爆撃で沖縄の地形は変容し、日本軍の軍人・軍属の死者は米軍の約8倍にも上りました。
2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。
■復帰50年(1972-91年)毎日新聞
投稿者からのひと言/復帰50年の歴史を振り返る。後号でも年表を掲載する。
次号/6・日本軍戦力失うも米軍の本土上陸まで時間を稼ぐための徹底抗戦が大きな被害生む
前号/4・米軍の沖縄上陸は本土攻撃の拠点化目指し日本軍は本土決戦への時間稼ぎ・捨て石
毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第5回
沖縄戦で米軍の兵力差は10倍、激しい砲爆撃「鉄の暴風」で沖縄の地形は変容
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。
上陸作戦で沖縄本島に押し寄せた米軍の艦船=1945年4月3日撮影(沖縄県公文書館提供)
Q.激しい地上戦となった沖縄戦だけど日米両軍の戦力はどちらが上回っていたのか?
A.沖縄に上陸した米軍戦闘部隊は陸軍や海兵隊を中心とする約18万人。周辺海域などで支援した部隊を合わせると約55万人に上り、太平洋戦争で最大規模の上陸作戦でした。1945年4月に米軍が沖縄本島中部の西海岸に上陸した際には、海が無数の艦船で埋め尽くされ、真っ黒に見えたといわれています。対する日本軍は陸軍を中心に約10万人の兵力だったとみられます。しかし、このうち2万人余りは「防衛隊」や「学徒隊」などと呼ばれる臨時の補充要員でした。
「根こそぎ動員」ともいわれ、兵力不足を補うために、沖縄の一般住民や学生の中から、14~45歳の男性を兵士として、15歳~40代の女性を兵士に準ずる軍属などとして動員したのです。兵力だけでなく、兵器や補給などの面でも米軍が圧倒し、総戦力において10倍以上の差があったといわれています。米軍は艦船からの艦砲射撃や軍用機からの爆撃などおびただしい数の砲弾を撃ち込みました。この「鉄の暴風」といわれる激しい砲爆撃で沖縄の地形は変容し、日本軍の軍人・軍属の死者は米軍の約8倍にも上りました。
2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。
■復帰50年(1972-91年)毎日新聞
投稿者からのひと言/復帰50年の歴史を振り返る。後号でも年表を掲載する。
次号/6・日本軍戦力失うも米軍の本土上陸まで時間を稼ぐための徹底抗戦が大きな被害生む
前号/4・米軍の沖縄上陸は本土攻撃の拠点化目指し日本軍は本土決戦への時間稼ぎ・捨て石