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旧・国立競技場が潰されても昭和18年に「学徒出陣」があったことを忘れないで/東京五輪の危うさR4-1

2021年04月19日 | 東京五輪の危うさ
Oiympictp2 少数派シリーズ/東京オリンピックの危うさVOL.39
ROUND4 新国立競技場 (白紙撤回後の変更デザイン)編 1
旧・国立競技場が潰されても昭和18年に「学徒出陣」があったことを忘れないで

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ブログを移転したため、投稿日と記事の日時・状況と整合性がありません。記事は2015年1月、旧ブログに投稿したものです。アスリートファーストの尊重は微塵もなく、政治家・経済界・五輪関係者などは己の思惑・利益・保身のために、東京オリンピックの悪用が目に余ります。年月が経過しても、ブログにてその検証や事実を残しておく必要があると考えます。

今号から「白紙撤回後の新国立編」と題し、政府やオリンピック関係者のマヤカシや国民を騙す言動(策略)を、まだまだ追及して参りたいと存じます。東京オリンピック招致の決め手は、文化的遺産やその継承でした。招致団は既存の施設を最大限に使うことをPR、一方、IOCも既存施設・仮設を推奨していたので東京を推しました。しかし大会が決定するや否や巨額な新国立競技場の建て替え(実際は、オリンピック招致前に決定していた)が先行していったのです。文化的遺産や継承を言うなら、そもそもそのシンボルである旧・国立競技場は改修程度に留めるべきでした。

文化的遺産や継承の観点の1つとして、個人的には、皆様に旧・国立競技場にまつわる暗い戦争への反省を忘れてはいけないと思います。当時のフィルム映像をご覧になった方もいると思いますが、「学徒出陣壮行会」のシーンです。昭和18年10月21日の朝、大雨でずぶ濡れになった学生2万5千人が学生服姿で銃を担ぎ、当時の名称・明治神宮外苑競技場(旧・国立競技場の前身)を行進しました。客席は、女子生徒など7万人で埋め尽くされました。彼等は二度と生きて帰るつもりはないことを誓い、参加した女学生も彼等を「生きたお葬式」と涙ながらに見送ったのです。

その後の学徒出陣の総勢は10万人と言われ、特攻隊員など戦地に送られ大勢が帰らぬ人になってしまいました。戦争の悲惨さを忘れないために、マラソンゲートの脇に「出陣学徒壮行の地」碑が建っていました(現在は秩父宮ラグビー場に仮移転、新国立競技場完成時に戻される)。2度も平和な“スポーツの祭典”が国立競技場で行われる根底に、彼等の非業の死を忘れてはなりません。明治神宮外苑競技場、その雨の壮行会から70年以上が経過し、そして旧・国立競技場も潰されてしまいましたが、同じ場で起きたこうした悲しい歴史を受け継ぐ必要があります。

もう1つ今までの聖火台も“平和の象徴”として、新国立競技場内または周辺に保存されます。“キューポラのある街”、埼玉・川口市の鋳物職人親子の手によって作られたものです。1958年のアジア大会のために製作され、2.6トンもの鋳物でできています。製作途中に事故が起き、その後、ショックから父親が亡くなりました。しかし息子さんが精力を結集し、完成させた逸品です。そして無事、アジア大会や前回1964年の東京オリンピックを迎えることができました。ところで近年大会の、わざとらしい演出過剰の機械的な聖火点火はやめてもらいたいですね。

オリンピックの逸話・裏方の苦労話を永く語り継いでいくのも、文化的遺産(heritage)の継承です。1964年の大会で印象的なのは、公式ポスターの陸上100mのスタートダッシュです。躍動感は、今見ても少しも古さを感じさせません。著名なグラフィックデザイナー、故・亀倉雄策氏の作品です。裏話があって、何十回撮ってもうまく行きませんでした。苦肉の策で、中央の外国人選手を1m前に出してスタートさせたら、“ドンピシャ”のあのポスターになったそうです。まずは、前回大会の数々の継承遺産を知っておきましょう。さて2020年のエンブレム、ポスターが期待されます。

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