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戦争終結への昭和天皇の「聖断」を美化するのは正しい歴史認識ではない
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『第1に、昭和天皇の「聖断」を美化しており、それまで戦争終結の機会に何も手を打たなかった結果の、遅い決断に過ぎない。1945年8月10日、14日の御前会議における2度の「聖断」によって、ポツダム宣言の受諾が正式に決定された。しかし、遅いのである。7月26日、連合軍が日本の降伏条件であるポツダム宣言を発表したが、日本は最高戦争指導会議も開かず、鈴木貫太郎首相は「黙殺」「戦争完遂」を表明する。これを口実に広島、長崎に原爆が投下され、ソ連も参戦し空前絶後の悲劇的な自体が生じることになる。』
『第2に、決断が遅れた原因は、昭和天皇や軍指導部の「もう1度戦果を挙げてから」でないと「国体護持」(天皇制の維持)が危ないという危機感があった。1944年にはサイパンやグアムの失陥によって、日本の敗北が決定的になる。天皇は近衛文麿などの重臣から「敗戦は必至」の上奏を受けたが、戦争終結に積極的になれなかった。期待した沖縄戦も行き詰まり、同盟国ドイツが無条件降伏をすると、やっと天皇は戦争終結に傾斜する。しかし軍部の「もう1度戦果を挙げてから」論に引きずられ、ポツダム宣言の早期受諾の機会を生かせなかった。天皇がもっと早く決断していれば、多くの国民の命を救うことができたのである。』
『第3に、映画は昭和天皇の「人間的苦悩」を強調することにより、統治権の総攬(そうらん)者、大元帥であることが描かれていない。昭和天皇の戦争責任を問う、問題意識が全く見られない。「聖断」は国民を救う意味ではなく、国体護持が目的だったのだ。戦前の憲法では、戦争の指導は「統帥権の独立」が言われ天皇の大権事項であり、政府も議会も口出しを許されなかった。当時の政治は国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・補佐)したのだから、天皇に責任はないとする考え方がされる。しかし戦争の方針や作戦は、天皇と軍部首脳(陸軍は参謀総長・海軍は軍令部総長)のみで決定されたのである。「』
『しかも両総長は、制度上、天皇の幕僚長(参謀事務長)に過ぎなく、統帥に関する責任は天皇一人が負う構造になっているからだ。「戦前は、天皇は絶対的な君主であった。この最高責任者の昭和天皇の戦争責任を明らかにしなければ、日本の戦争が何であったかを客観的に構造的に説明できない。本質的な解明が、極めて重要になっている。』
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