佐々木 フェスティバルのお客さんには、子どももいれば年配の方もいて、観客全員に楽しんでもらうためには、様々な工夫が必要ですね。上演したのは通常のパントマイムの舞台だけだったのですか。
小島屋 2年目からメイン公演の前にパレードをやった。パレードといっても、町の中心を抜ければ周りには田畑しかないところもあってね。町の人への挨拶みたいなものだけど、芸人さんのパフォーマンスを見せるためではなく、町の住民たちが自分たちで楽しむためのパレードにしようと考えたんだ。子どもたちに参加を呼びかけ、おかあさんたちにアートバルーンのつくりかたを教えたり、パレード用のメイク部隊をつくったり、色々と考えたよ。
佐々木 町の住民を集めてのパレードは素敵でしょうね。
小島屋 うん。2年目から続けていた親子向けの公演は、マイム系の芸人が多いのでいつも面白くて、日韓で協力して作品をつくったり、脚本を作って親子で楽しめる冒険物語を作ったりもした。パントマイムあり、アクロバットや綱渡りあり、クラウンあり。みんなプロなので、かなり贅沢だったね。どの年も親子向けの公演だけは、お客さんが結構多かったね。
佐々木 メイン公演はどんな感じだったのですか。
小島屋 このマイミストにはあの作品をやってもらおう、という感じで、さまざまな作品を組み合わせて、ひとつの流れのあるプログラムを作ったんだ。海外のマイミストには作品のビデオを送ってもらって考えた。韓国マイミストとの交流を深めようと、日韓合同で作品を作った年もあるし、香港・韓国・日本のマイミストにひとつのテーマで新作を作ってもらって競演してもらったこともあったよ。
佐々木 何が一番大変だったんですか。
小島屋 まず、お金がないじゃん。最低でも数百万もかかる運営費をどうするか。複雑な手続きの助成金の申請などもあって、毎回お金のやりくりには苦労した。できるだけお金を使わないでやるのは、ものすごく手間がかかるわけよ。あとは、言葉は悪いけど、ダマシ打ちみたいな感じ。
佐々木 ということは?
小島屋 酒と飯が飲み放題&食い放題という条件だけで手伝ってもらったりもした。特にスタッフのパシリや合宿所の運営には、音大の学生やマイムを勉強中の若い衆がボランティアで大勢参加してくれて、それは本当にありがたかった。若い衆には相当苦労させたけど、それなりに楽しんでいってくれたと思うよ。
佐々木 ああ、なるほど。
小島屋 あとは、東部町の実行委員との打ち合わせが大変だったね。向こうもこんなイベントは初めてだし。例えば、80人の出演者とスタッフをどこに泊めるか、80人分の東部町までの交通費をどうするんだとか、1年目はとにかくもう、今思い出しても恐ろしいよね。全部のことを一つ一つ交渉しなくてはならない。1年目は準備に正味7~8カ月かかり、少なくとも年間でも15、16回は東部町に行ってたかな。東京から東部町(長野県)までの打ち合わせ交通費だけで大変なお金がかかるんだ。
佐々木 そのお金は大丈夫だったんですか。
小島屋 それは持ち出し。実行委員会のメインの人たちから、毎月積立金として徴収して。
佐々木 スゴい。1年目はそれで黒字になったのですか。
小島屋 いや、大赤字だったな。
佐々木 それは、結構きつくなかったですか。
小島屋 きつかった。
佐々木 準備の7~8カ月間は、お仕事は普通にやれたのですか。
小島屋 90年代の後半はバブルの末期の頃で、僕みたいな芸人でも仕事があったんだ。打ち合わせに行った平日はあまり仕事がないじゃん。それでもきつかったけど、仕事を優先していたから。
佐々木 1年目が終わったあとは、もう続けていくという事だったのですか。
小島屋 僕は一回やったら、”やり逃げしよう”と思っていた。そしたら、えらく感動があったんだよ。日本のマイミストや芸人さんも韓国の方も若い衆じゃない。合宿所の食堂や広い縁側は、夕食が終わったら皆が集まってお酒を飲むところだったけど、誰もが話しこんでて寝ないんだよ。海外のマイミストに話を聞いたり、公演の感想を話したり、冗談を言い合ったりして楽しんでるんだ。食堂奥の打ち合わせスペースでは、次の日の予定とか配車とか決めることがいっぱいあって、実行委員は同時並行で色々なことをやっているから、それが全部決まらないと寝れないわけ。野外の歌舞伎舞台は夜しか照明シュートはできないから、スタッフは深夜に合宿所に帰ってくるしね。だから、フェスティバルの期間中1週間は寝れなかった。どんどん体がきつくなるんだけど、きついことをすると、人間は脳内麻薬が出るというか、みんな若者だからきつい仕事の最後には感動するよね。東部町の実行委員会の方々も力を合わせてやった達成感もあって「やろうやろう」と皆が言って。
僕は本当はやりたくなかったんだけど、それだったら目標を立てようと、総合演出の吉澤さんが言ったんだよ。じゃあ20世紀いっぱい1999年まで5年間はやろうということになったんだけど、計算違いで結局6年間続けることになった。着地点を決めたから、やらざるをえないということになって続けたんだ。
佐々木 2年目(95年)からは、韓国だけでなく、アジアマイムフェスティバルになったのですか。
小島屋 そうだね。香港やインドとかアジアにもマイミストはいるしね。元々”アジアマイムクリエイション”という団体を作ったので、アジアということになったんだね。
佐々木 どうやって香港やインドの出演者を見つけたり、出演交渉したりしたんですか。
小島屋 香港は1990年頃に、太地企画の香港公演で行ったんだ。大地企画ではお芝居とパントマイムを組み合わせた作品を上演していて、僕らは80年代からずっとヨーロッパとアフリカを巡業していたんだ。その関係で香港のマイミストを紹介された。インドは、清水先生が紹介してくれた。
佐々木 ああ、清水先生はインドのマイムフェスティバルとつながりがありますね。
小島屋 あと、バングラデシュとタイ、イスラエルのマイミストも参加してくれたんだ。ルートを辿っていくと、結構いるものでね。韓国が多かったけどね。
佐々木 海外の出演者を集めるのは、特に苦労しなかったのですか。
小島屋 それなりに苦労はあったけど。朝イチの電話を取ったら英語だったとかね。わざわざ打ち合わせのために香港に会いに行ったりしてたんだな。
小島屋 韓国では、春川(チュンチョン)と仁川(インチョン)で毎年フェスティバルを開催していたけど、そっちに僕らが行って、彼らを今度は日本に呼ぶという関係を6年間続けたね。
佐々木 ああ、日本側からも韓国に行って。その年に韓国から来てもらってということですか。
小島屋 そう。韓国はいつも5月末で、日本が8月末から9月頭に開催して。春川の方が先にフェスを始めて、仁川でも、春川の2年後くらいにマイムフェスティバルを始めたのよ。その頃から、どんどんみんなが海外に行くようになったんだね。
佐々木 韓国は、パントマイムのフェスティバルを国の助成でやっているのでしょうか。
小島屋 段々そういうふうになってきたんだけど。春川の場合は、最初は春川市がお金を出していて、今は国もお金を出しているけど。
佐々木 韓国は、そういう分野に力を入れているんですね。
小島屋 春川は、何でこんなに大きいフェスティバルなのというくらい大きなフェスティバルだね。国が定める、10大フェスティバルがあって、それに選ばれていたんだね。
佐々木 へぇー。それは、日本以外の国からも参加しているのでしょうか。
小島屋 30カ国参加とかそういうレベルで、日本とは文化予算にかけるレベルが違うね。
佐々木 2年目から東京でも開催したんですね。
小島屋 1年目が成功したから、2年目からはもっと大きくしようということで、東部町の他に東京の府中市でも開催したんだ。府中公演では現地に事務所をつくって、丸々1ヵ月準備に費やさなくてはならなかったね。3つの劇場で公演をやって、かつ市内の公園に機材をもちこんで、宣伝をかねた前夜祭をやったんだ。
佐々木 それでお客さんは入ったんですか。
小島屋 めちゃめちゃ(入らなかった)。だから、その時は、スタッフの弁当代もないの。だから、例えばその日の100人分入場料収入が入るなら、その100人分を弁当代に回してという感じだったよ。それは今でも思い出す。
佐々木 はあ、スゴイ。
小島屋 いずれにしても若かったというか、馬鹿だったというか。知り合いだったほとんどのマイミストに手伝ってもらったんじゃないかな。あがりえさんは、最初の2年はずっと実行委員として、一緒に東部町を回ってくれたりとか、思いっきり手伝ってくれました。そこで、当時のマイム関係とか芸人関係の横のつながりがすごくあって、それでみんなに助けてもらったということだね。
佐々木 横のつながりがあったんですね。
小島屋 アジアマイムフェスティバルで一緒に飲んで苦労して、つながりが深まったというのもあるけどね。
(つづく)