佐々木 太田省吾さんは、「水の駅」「地の駅」などの無言劇シリーズなどで知られる有名な劇作家兼演出家ですね。
あらい 太田省吾さんの転形劇場は、最初の10年間はセリフ劇だったのですが、その後黙劇となり、僕は辞めることになったのです。その最初の作品が「小町風伝」(78年)です。あの小野小町を扱った、能の「卒塔婆小町」を下敷きに誕生した作品ですね。僕は黙劇の第2弾となった「水の駅」には出ていません。小町風伝の再演で辞めていますから。
佐々木 ヨネヤマ・ママコさんとの出会いはいつでしょうか。
あらい ママコさんが海外から帰国した年(71年頃)にお会いしました。ママコさんがアメリカから一時的に帰国した折に、ある企業のイベントが銀座の街頭で催されていて、その催事にママコさんが出演していたのですが、その頃、僕は銀座の喫茶店の店頭の人形振りとステージでのマイムで食べていて、そのマイムを偶然ママコさんが観に来たのです。
佐々木 奇跡的な出会いだったのですね。
あらい 僕が「昨日のイベントで観ました」と言うと、大道芸をやったことをものすごく恥ずかしがってね。ママコさんは元々お嬢さんですしクラシックバレーの出身で、アメリカで苦労したそうですが、帰ってきて街頭で大道芸ですからね。僕は「そんなことはないです、素晴らしかったです」と言って、それから色々とお話をするようになりました。次にママコさんが赤坂の区民館で公演を上演したのですが、もう天使の動きでしたね。
佐々木 なるほど。
あらい それで親しくなって、僕にもマイムの作品があったので、市ヶ谷のママコさんの家に行って、そのマイムを見てもらったのです。そこで一緒にやろうと言ってくれまして、ママコさんの手伝いや共演者として渋谷のジャンジャンとか地方公演に出させて頂きました。僕は、下手ですけど、情熱だけのマイムですね(笑)
佐々木 その頃、ママコさんは劇団みたいなものがあったのですか。
あらい 劇団とまではいきませんが「ママコ・ザ・マイム」という緩やかな組織がありました。そんな時に、僕はママコ・ザ・マイムの助手として関わらせて頂くことになっていったのです。助手として入りましたけど、僕はママコさんから色んなことを教わる立場だから無理やりに月謝払いました。「月謝を払わないわけにはいかない。あなたは天使だから。僕は天使に月謝を払うんだ」って言ったんです。
佐々木 当時、ママコ・ザ・マイムには、どなたがいたのでしょうか。
あらい カンジヤママイムの服部宣子さん、そして今、カナダで活動している山本紀子さん、後に私と劇団を立ち上げた大森一枝、その他、若手で活躍中のダンサーや芝居の世界で経験している役者さんたちがかなり来てました。後にザ、ニュースペーパーのプロデューサーの杉浦君やコマ劇のダンサーらも入ってきました。そこでのママコさんの教え方は、自分の作品の振り移しですね。
佐々木 あっ、そうなんですか。
あらい 例えば、ママコさんの手を上げる角度が45度だったら、45度でないといけないんですよ。ママコさんは、元々バレエの人だから。僕は、どっちかって言うとアングラだから茶化してしまって、よく怒られながらやりましたけど。
佐々木 大変興味深い話ですね。
あらい そういうわけで、ママコさんは僕をものすごく信用してくれて、ママコさんが作品を作る時は、お手伝いさせて頂きました。夕方にママコさんが稽古を始めて、ママコさんがあるシーンでつまずくじゃないですか。ずっと悩むんですね。僕は黙ってずっと待つんですね。僕は太田省吾さんの稽古で慣れているから夜中の2時、3時になっても待つんですね。それからまた始めるんです。「もうできない」とママコさんが言って、僕が何か言うじゃないですか。ママコさんが「できないよー」って言いながら、泣きながら鏡を拭いているんです。僕はずっと待つんです。
佐々木 ママコさんが鏡を拭いているんですか。
あらい そうそう。ママコさんもどうして良いか分からないから。僕は分からないなりにもっと劇的なものを求めていたんだと思います。その頃は、「十牛」という、女の怨念が段々変わっていくという仏教説話の十牛図を下敷きにした作品を作ったのです。壁とかと違うものだから、手の角度とかをどういうふうに動くのか、ママコさんは一晩ものすごく悩むわけですね。それに僕は付き合うのですね。そこで、肉体芸のマイムは、こういうふうに作品を作らなくてはいけないということを学びました。芝居ではそういうことはないですからね。僕は芝居の出身だから、いまだにこういう作り方はしませんけど、でも作るというのは、それくらいの自分の肉体を意識して作らないと価値にならないということを教わりました。それはすさまじいですね。
佐々木 スゴイ話ですね。
あらい ママコさんとずっと一緒にやっていって、転形劇場が黙劇になった時にママコさんに舞台を見せたのですが、それで、ママコさんと太田省吾さんが意気投合したんです。
佐々木 そういうことがあったのですか。
あらい 僕とママコさん、太田省吾さんで飲み歩いて、沈黙とは何か、マイムとは何か語りあったんです。色々と語りあいながらも、西洋マイムと太田省吾の沈黙は全然違うということで一致しました。つまり、何が違うかといいますと、西洋マイムは沈黙を方法化するのです。太田省吾の沈黙というのは、自分の中にあるものです。方法ではなく、人間の存在なのです。生きている姿なのです。全然違うものです。
佐々木 えっと、西洋マイムの沈黙の方法化とは、どういうものでしょうか。
あらい 例えば壁をマイムでやるじゃないですか。これは、僕の解釈ですが、壁を見せたいためにやるじゃなくて、壁というのは、自分の中に自分の想いがあるのです。例えば、壁の向こうに行きたいけど行けないということを壁にするのです。つまり、行きにくいということを方法化したんです。太田省吾の沈黙は、行けなければこのままそこにいれば良いです。方法化しないのです。
佐々木 なるほど。つまり、西洋マイムの沈黙の方法化は、沈黙を対外的に見せるということなんですね。
あらい そうです。西洋は全部そうです。演劇論をやっていくと、西洋は必ず細かな動きも分析し、方法化してゆくのですが、日本の芸能は曖昧さを持っている世界です。
阿吽の呼吸とか、目は口ほどにものを言いとか。
佐々木 それは大分違うのでしょうか。
あらい 大分違いますね。日本の芸能は音程でも間でも曖昧で、その曖昧が良さなんですね。文化人類学としての違いだと思います。西洋はバレエも全部動きに名前が付いていますが、舞踏などでは、一つ一つの所作に名前などは付いてません。僕らもヨーロッパのマイムフェスティバルにいくつか行きましたが、あちらでは僕らの作品をアジアのマイムだと言われますね。
佐々木 そうなんですか。
あらい あるフェスティバルでは「お前たちのはマイムでも演劇でもない、汎マイム工房だ」って言われて、僕はすごい嬉しかったですね。つまり、僕の中で、色々なこと、ママコさん、太田省吾さん、舞芸、安保闘争の日々、記憶が定かではない幼児期など全部を自分に取り込んで一つのものが出来てゆくわけですね。このように、その人間の何が作品化され、どういった出会いにより具体的な舞台に育ってきているのか、そういう過程を知らせてゆくことが、次代に伝えて行く創造者にとって大きな責任であり、すごく大事なことだと思います。
(つづく)
あらい 太田省吾さんの転形劇場は、最初の10年間はセリフ劇だったのですが、その後黙劇となり、僕は辞めることになったのです。その最初の作品が「小町風伝」(78年)です。あの小野小町を扱った、能の「卒塔婆小町」を下敷きに誕生した作品ですね。僕は黙劇の第2弾となった「水の駅」には出ていません。小町風伝の再演で辞めていますから。
佐々木 ヨネヤマ・ママコさんとの出会いはいつでしょうか。
あらい ママコさんが海外から帰国した年(71年頃)にお会いしました。ママコさんがアメリカから一時的に帰国した折に、ある企業のイベントが銀座の街頭で催されていて、その催事にママコさんが出演していたのですが、その頃、僕は銀座の喫茶店の店頭の人形振りとステージでのマイムで食べていて、そのマイムを偶然ママコさんが観に来たのです。
佐々木 奇跡的な出会いだったのですね。
あらい 僕が「昨日のイベントで観ました」と言うと、大道芸をやったことをものすごく恥ずかしがってね。ママコさんは元々お嬢さんですしクラシックバレーの出身で、アメリカで苦労したそうですが、帰ってきて街頭で大道芸ですからね。僕は「そんなことはないです、素晴らしかったです」と言って、それから色々とお話をするようになりました。次にママコさんが赤坂の区民館で公演を上演したのですが、もう天使の動きでしたね。
佐々木 なるほど。
あらい それで親しくなって、僕にもマイムの作品があったので、市ヶ谷のママコさんの家に行って、そのマイムを見てもらったのです。そこで一緒にやろうと言ってくれまして、ママコさんの手伝いや共演者として渋谷のジャンジャンとか地方公演に出させて頂きました。僕は、下手ですけど、情熱だけのマイムですね(笑)
佐々木 その頃、ママコさんは劇団みたいなものがあったのですか。
あらい 劇団とまではいきませんが「ママコ・ザ・マイム」という緩やかな組織がありました。そんな時に、僕はママコ・ザ・マイムの助手として関わらせて頂くことになっていったのです。助手として入りましたけど、僕はママコさんから色んなことを教わる立場だから無理やりに月謝払いました。「月謝を払わないわけにはいかない。あなたは天使だから。僕は天使に月謝を払うんだ」って言ったんです。
佐々木 当時、ママコ・ザ・マイムには、どなたがいたのでしょうか。
あらい カンジヤママイムの服部宣子さん、そして今、カナダで活動している山本紀子さん、後に私と劇団を立ち上げた大森一枝、その他、若手で活躍中のダンサーや芝居の世界で経験している役者さんたちがかなり来てました。後にザ、ニュースペーパーのプロデューサーの杉浦君やコマ劇のダンサーらも入ってきました。そこでのママコさんの教え方は、自分の作品の振り移しですね。
佐々木 あっ、そうなんですか。
あらい 例えば、ママコさんの手を上げる角度が45度だったら、45度でないといけないんですよ。ママコさんは、元々バレエの人だから。僕は、どっちかって言うとアングラだから茶化してしまって、よく怒られながらやりましたけど。
佐々木 大変興味深い話ですね。
あらい そういうわけで、ママコさんは僕をものすごく信用してくれて、ママコさんが作品を作る時は、お手伝いさせて頂きました。夕方にママコさんが稽古を始めて、ママコさんがあるシーンでつまずくじゃないですか。ずっと悩むんですね。僕は黙ってずっと待つんですね。僕は太田省吾さんの稽古で慣れているから夜中の2時、3時になっても待つんですね。それからまた始めるんです。「もうできない」とママコさんが言って、僕が何か言うじゃないですか。ママコさんが「できないよー」って言いながら、泣きながら鏡を拭いているんです。僕はずっと待つんです。
佐々木 ママコさんが鏡を拭いているんですか。
あらい そうそう。ママコさんもどうして良いか分からないから。僕は分からないなりにもっと劇的なものを求めていたんだと思います。その頃は、「十牛」という、女の怨念が段々変わっていくという仏教説話の十牛図を下敷きにした作品を作ったのです。壁とかと違うものだから、手の角度とかをどういうふうに動くのか、ママコさんは一晩ものすごく悩むわけですね。それに僕は付き合うのですね。そこで、肉体芸のマイムは、こういうふうに作品を作らなくてはいけないということを学びました。芝居ではそういうことはないですからね。僕は芝居の出身だから、いまだにこういう作り方はしませんけど、でも作るというのは、それくらいの自分の肉体を意識して作らないと価値にならないということを教わりました。それはすさまじいですね。
佐々木 スゴイ話ですね。
あらい ママコさんとずっと一緒にやっていって、転形劇場が黙劇になった時にママコさんに舞台を見せたのですが、それで、ママコさんと太田省吾さんが意気投合したんです。
佐々木 そういうことがあったのですか。
あらい 僕とママコさん、太田省吾さんで飲み歩いて、沈黙とは何か、マイムとは何か語りあったんです。色々と語りあいながらも、西洋マイムと太田省吾の沈黙は全然違うということで一致しました。つまり、何が違うかといいますと、西洋マイムは沈黙を方法化するのです。太田省吾の沈黙というのは、自分の中にあるものです。方法ではなく、人間の存在なのです。生きている姿なのです。全然違うものです。
佐々木 えっと、西洋マイムの沈黙の方法化とは、どういうものでしょうか。
あらい 例えば壁をマイムでやるじゃないですか。これは、僕の解釈ですが、壁を見せたいためにやるじゃなくて、壁というのは、自分の中に自分の想いがあるのです。例えば、壁の向こうに行きたいけど行けないということを壁にするのです。つまり、行きにくいということを方法化したんです。太田省吾の沈黙は、行けなければこのままそこにいれば良いです。方法化しないのです。
佐々木 なるほど。つまり、西洋マイムの沈黙の方法化は、沈黙を対外的に見せるということなんですね。
あらい そうです。西洋は全部そうです。演劇論をやっていくと、西洋は必ず細かな動きも分析し、方法化してゆくのですが、日本の芸能は曖昧さを持っている世界です。
阿吽の呼吸とか、目は口ほどにものを言いとか。
佐々木 それは大分違うのでしょうか。
あらい 大分違いますね。日本の芸能は音程でも間でも曖昧で、その曖昧が良さなんですね。文化人類学としての違いだと思います。西洋はバレエも全部動きに名前が付いていますが、舞踏などでは、一つ一つの所作に名前などは付いてません。僕らもヨーロッパのマイムフェスティバルにいくつか行きましたが、あちらでは僕らの作品をアジアのマイムだと言われますね。
佐々木 そうなんですか。
あらい あるフェスティバルでは「お前たちのはマイムでも演劇でもない、汎マイム工房だ」って言われて、僕はすごい嬉しかったですね。つまり、僕の中で、色々なこと、ママコさん、太田省吾さん、舞芸、安保闘争の日々、記憶が定かではない幼児期など全部を自分に取り込んで一つのものが出来てゆくわけですね。このように、その人間の何が作品化され、どういった出会いにより具体的な舞台に育ってきているのか、そういう過程を知らせてゆくことが、次代に伝えて行く創造者にとって大きな責任であり、すごく大事なことだと思います。
(つづく)