月刊パントマイムファン編集部電子支局

パントマイムのファンのためのメルマガ「月刊パントマイムファン」編集部の電子支局です。メルマガと連動した記事を掲載します。

『パントマイムの歴史を巡る旅』第18回(あらい汎さん(5))

2013-12-11 00:54:54 | スペシャルインタビュー

佐々木 話は戻りますが、汎マイム工房を立ち上げた当初は、事務所はどこに構えたのでしょうか。
あらい 初めて公演を打った頃は、自分の家が事務所代わりでした。最初の頃の稽古場は、安保闘争の余韻の中で労働者が占拠した工場の一角でした。時々機動隊が繰り出してきて、“今日は稽古中止”なんてことがありました。その後、三軒茶屋のタップダンスの教室を週2日程借りました。その頃の三軒茶屋は、路面電車の玉電(玉川電気鉄道)が走っているのですが、玉電も車の混雑や信号待ちで止まったりして、渋谷から三軒茶屋まで大変時間がかかったんですよ。
佐々木 今では想像がつきませんね。三軒茶屋の後はどこに移転したのですか。
あらい その後、渋谷に移りました。その頃は、キャバレーの全盛期で、金粉ショーが大変流行していて、金粉ショーで稼いでいた舞踏の方の協力を得て、渋谷のビルの屋上に建てられた所謂ペントハウスを借りて、稽古をしていました。そこに、やまけいじ君、松元ヒロ君らが入ってきたんです。ショータイムマジックのキラリンこと岡崎優子は高校生でした。渋谷の頃には仕事がかなり入り始めたんですよ。その頃に横浜のドリームランドでパントマイムショーを依頼されて、杉浦君、やま君、松元君らと一緒にパントマイムサーカスと銘打った作品を作って、2、3年くらい上演していました。当時は、ぬいぐるみショーが全盛だったのですが、それに代わる新しい出し物を求められて、パントマイムをしながら、歌ったり踊ったりのパントマイムのミュージカルショーというのをやっていました。その時に、パントマイムサーカス団というグループ名を付けたのです。渋谷のペントハウスには3年くらいいましたが、コンスタントに稽古する場所が必要になり池袋に移りました。池袋に移ってから自主公演として『展覧会の絵』(1979年)というパントマイムとサーカスを題材にした作品を作っています。

佐々木 劇団として何十年も活動していく中で解散の危機はあったんでしょうか。
あらい 何回かありますね。池袋にいた時に、杉浦正士君、松元ヒロ君が独立したグループを作りたいという事で辞め、同時にやまけいじ君がソロ活動を希望して辞めた時がありました。なぜ辞めたかというと僕が作っていくのが幻想的な作品だったのですが、彼らはショービジネスに行きたかったのですね。それでボーンと辞めて、3人程しか残りませんでした。それで、僕と浜村(TENSHOW)君、あさぬまちずこさん、大森一枝さんの4人で、踏ん張りどころだという意識で1982年に『男のバラード』の再演を銀座の博品館劇場で上演しました。博品館は、出来たばかりでとても意欲的な劇場だったのです。その後は遊園地のイベントを乗り切りながらイタリア公演を行ったのですが、帰国した直後に浜村君とあさぬまちずこさんも辞めました。イタリア公演に3~4人で行ったのがかなりしんどかったようですね。その後で大きかったのが、黙黙団、神雅喜君、藍義啓君ら15人ほどが、うちにいたマネージャーが独立して事務所を作る際にごっそり辞めたんです。それぞれ10年くらいずつの周期です。
佐々木 その頃は何十人くらいいたのですか。
あらい 一番多い時で30人。黙黙団が辞めた当時は15人くらい辞めても10人くらいが残っていて、それで起死回生を図るために『午後の椅子』(1990年)を作ったんです。『午後の椅子』は、この頃の現代劇は、ベケットの『ゴドーを待ちながら』に代表されるように閉じ込められたままどこにも行けないか、待っていても誰も来ないという作品が多かったので、少しでも希望の持てる作品にと、目標はないけれどとりあえずここを出てどこかに出発しようという作品にしました。このように危機と復活の劇団ドラマはたくさんあります。

佐々木 日本で『シグマフェスティバルin TOKYO』(1991年)という国際的なフェスティバルを主催したそうですが、その際の話をお聞かせください。
あらい これは、まず、1990年にフランスのシグマフェスティバルに呼ばれたのに端を発します。フランスに呼ばれたのは、佐々木博康さんのお弟子さんでイギリス人の方からのご紹介です。
佐々木 フランスのシグマフェスティバルはどんなものだったのですか。
あらい マイムもキャバレーショーもありましたが、絵画、彫刻そしてミニサーカスが多かったですね。会場は、ボルドーワインで有名なボルドー市です。港町で古い倉庫がいっぱい空いていて、それを劇場として改造、利用していました。劇場が15個くらいあった中で、僕は倉庫を選んで『物置小屋のドン・キホーテ』を上演しました。その時現地に一緒に行った東急の関係者から、渋谷のBEAMのオープン記念にΣフェスティバル招待したいという話を頂きました。当時はバブルの絶頂期で、僕は、渋谷の109で年間4本上演する契約をしていて、1本100万円で年間400万円を貰っていました。当時は“マイナーな世界のスター”と言われていました(笑)。
佐々木 東京公演の時は、どんな方が出演したのでしょうか。
あらい 日本からは『ドン・キホーテ』の僕と、ウチからはMIMOMEという女の子二人のグループを作って出演しました。海外から4組が出演し、合計6組が出演しました。海外は、フランス、オランダ、ロシアが各1組、残りは混成の1組だったと思います。
佐々木 その頃はバブルの時期で舞台やイベントが多かったでしょうね。
あらい その頃に、黙黙団や吉沢忠(ちゅうサン)君、神山一郎君が辞めたのは忙し過ぎたというのもあったのです。渋谷の109の公演が年4本、劇団公演が2本、イベントも大変多かったですね。ある意味で幸せなころで、独立しても仕事がありそうな時期でしたから。その後何年か後にバブルが崩壊し、方向転換。イベント関係の仕事が激減して、全国組織の鑑賞活動をしていた親子劇場に参加させて頂きました。僕たちは、かなり遅れて親子劇場の世界に入ったのですが、パントマイムサーカスという作品で、評判になり年間75本頂いたこともありました。

佐々木 2000年にパフォーミング・アーツ・カレッジを発足した際の話をお聞かせください。
あらい バブルの頃には海外から色々なパフォーマーが来ていました。日本は、大道芸が儲かるというのがその理由です。そんな状況の中、アメリカのリングリング・サーカスが日本の企業と手を組んで、クラウンカレッジ・ジャパン(正式名称:リングリング・ブラザーズ ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・クラウンカレッジ・ジャパン)というクラウンの学校を作ったんです。クラウンというのは、コミュニケーションに長けているから、営業にも役立つという発想ですね。
逆に私のスタジオにはジャグリングだけだと時間がもたないという理由で、外国人のパフォーマーが多い時は5~6人レッスンに来ていました。そのようにパフォーマーや芸人が気軽に内外を行き来し、情報交換も手軽に行い始めた時期だったと思います。その中には日本で結婚して住み着いてしまった方も何人かいますね。
佐々木 すごい。今だとちょっと考えられないですね。
あらい しかし、クラウンカレッジ・ジャパンは、バブルがはじけて、5年の活動(89年~93年)で、残念ながら幕を閉じました。その後マリンメディアというFMやイベントなどの事業をしていた会社が、後を請け負って三軒茶屋でクラウンの教室をやっていたのですが、そこの生徒の発表の場を探していた三雲いおり君から話を聞いて、ウチのスタジオの一室をお貸ししたのです。互いに情報交換できる場所になればというのが僕の発想でした。翌年、これも縁だしクラウンのことを一緒にやろうと誘って、三雲君とGO君が一緒に加わりました。その時に、それまでは、汎マイム工房付属スタジオだったのですが、パフォーミング・アーツ・カレッジと名前も変えて、マイムとクラウンを一緒に研修することになりました。最初はぎくしゃくしておりましたが、それ以降、ウチでは、マイマーになる者、クラウンなる者、ジャグラーになる者、大道芸人、海外組が生まれ、それぞれの道を目指すものを輩出するようになりました。

佐々木 汎マイム工房出身で有名な方になるとどなたでしょうか。
あらい 今でも活躍しているのは、神山一郎君、浜村君、山本光洋君、松元ヒロ君、みぎわさん、ちゅうサン君、ハッピイ吉沢君らがいますね。
佐々木 他にも、五十嵐さん、高桑さんら、新しい方がどんどん出てきていますね。あと、海外を拠点にして活動している方もいますね。
あらい 今、フランスで活躍しているのが、望月康代さんと檀上花子さんです。金井圭介君は、ずっと10年フランスにいて帰ってきました。今、スイスやイタリアでやっているのが村山真哉君です。あと、ジャグラーのまろ君がドイツと日本を行き来しています。
佐々木 本当に多くの有名なパフォーマーが活躍していますね。
あらい ありがとうございます。当工房は、当初からオリジナリティーを持ったプロを育てることを目標にスタートしました。僕は、常に僕の色に染まるなと言っています。オリジナルを作れ。僕が演出していても、僕が発想出来るような範囲だとつまりませんからそれ以上を要求していきます。
佐々木 習っていて、全く違うものを作るというのは難しいですね。
あらい でも、みんな持っているのです。テクニックは、ある意味で魔物です。個性を殺してゆく事がママあるからです。テクニックのみを習得しようとすると、僕の範疇になりやすい。演技指導や作品作りで正直で高い夢を持った作品を要求します。演出した時に自分の範疇だと面白くないですね。僕がなぜ集団をやっているかというと、僕とは違う世界を観たいからです。時に感動する作品や演者と出会う事があります。そんな時は、男女区別なく抱きしめたくなります。その時で、その作品は僕の中では完成なんです。今まで抱きたくなった役者が何人かはいます。本人には言ったことはありませんが。

佐々木 今のパントマイム界の状況について、どういうふうに見ておられますか。
あらい 色々あって良いと思いますが、劇的なマイムが生まれにくくなっているのが残念です。あと、うちの責任もありますが、マイムとは大道芸の一つであると見られている点です。舞台をやらないといけないと思っているのは、舞台の濃さを持っていたいからです。もう一つ重要なのは、底辺を高めていくことです。身内や友人ではなく、一般を巻き込んでいくためには、全体の水準を高めていかなくてはならないと思います。
佐々木 お互いに交流して水準を高めていくことも大事ですね。
あらい お客さんにとって、最初に観たマイムがその人にとってマイムです。だから、それが面白くなかったら、マイムが面白くなくなってしまいます。そういうことを意識しないと、マイムは、文化として上に行けません。僕は芝居の出身だから、色々な芝居を観て、演劇に対抗するために作ろうとしています。今、うちがやっている時に世界で何千万の劇団がやっていて、そのうちの一つなんですね。いつもその何千万の劇団と戦っています。それくらい、いかに怖いものを持つかが大事です。僕は、いまだに太田省吾、ヨネヤマ ママコ、蜷川幸雄が怖いし、怖いやつをどれくらい作れるかが僕の才能だと思っています。人って段々怖いものがなくなっていくのです。マイムといったって、ずっと歴史が続いてきたわけではないから、みんなで注意深く良いものを作らないとダメだと思っています。
(了)
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アーティストリレー日記(35)阿部邦子さん

2013-12-11 00:34:17 | アーティストリレー日記
今号では、今年も海外公演を活発に行っている、マイムトループ★グランバルーンの阿部邦子さんの日記をお届けします♪

皆さん、こんにちは。
マイムトループ★グランバルーンの阿部邦子と申します。

この度、グランバルーンは、インドネシアのバリ島ウブドで行われた「ジャパンフェスティバル バリ 2013」(11月28日~12月3日開催)に参加してきました!
こちらは、日本とバリの文化交流事業として行われ、今年が第1回目です。

メンバーの長井氏がバリに在住していたご縁で、お話が舞い込んできました。
ありがたいお話です。

会場は村の集会場。広さは十分すぎるほどで、基本お外ですが、屋根があるので雨が降っても大丈夫!(多分)
初日と2日目は、津村禮次郎さんのお能、ガムラン、バリ舞踊のコラボで、3日目は森山開次さんのダンス、ガムラン、バリ舞踊のコラボでした。
どちらのステージもエネルギーあふれた、とても素敵なお舞台でした。
入場料FREEだなんて、日本では考えられません。

そして4日目は、われら、グランバルーンパントマイム公演。
う~テンション上がりまくりです。今回のグランバルーンの演目は全部で8つと盛りだくさん。
その中でも力が入っているのは「シルル紀」という影絵作品。
私たちの師、並木孝雄先生の作品で、大きなスクリーンに身体を使って映し出すダイナミックな影絵作品。
インドネシアは影絵が盛んなので、今回どうしても成功させたい作品でした。

仕込み日の最大のミッションは、「シルル紀」の上演のために影絵で使用する6m×7mのスクリーン吊り!
「これが吊れなければ、私たちはどうなるのかしら?」という心配をよそに、心優しきバリスタッフのご協力のもと、無事に終了~。
あとは、当日光に集まってくる大量の「はねあり」との戦い!
これが信じられない量が飛んで来るのです。
それを食料とする大きなヤモリ(かなり大きい)がやってくるくらいなのです。
うほー、虫よけ必須。

本番当日。。。快晴!
太陽の光に照らされた、きらきらした風景は何物にも代えられません
それだけで、Happy!
この日は、舞台の成功と、事故のないようにと、バリ式の正装をし、お祈りをしていただきました。各々の想いを祈りにこめて。

本番は、たくさんの人達に観ていただきました。感謝、感謝でした。
観客の皆さんの笑い声、ちびっこたちの笑顔は宝物です。
パントマイムには、国境なし。あらためて感じたのであります。

そして、なんと、懸念していたはねありさんが、本番中は現れなかったんです!
後日、スタッフさんが言うには、私たちが会場を去った後、ぶわーと来たとか。
ん~、これはまさしく、お祈り効果ですね。

バリの文化にふれ、地元の人たちとの交流、そしておいしいお酒と食べ物。
有意義な日々を過ごして帰国した後は…散乱した我が家が待っていた。
ちびちび片づけしながら、来年もバリに行けることを願いつつ。

阿部邦子
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