月刊パントマイムファン編集部電子支局

パントマイムのファンのためのメルマガ「月刊パントマイムファン」編集部の電子支局です。メルマガと連動した記事を掲載します。

『パントマイムの歴史を巡る旅』第34回(長井直樹さん(5))

2019-12-22 12:39:56 | スペシャルインタビュー

(インタビューの最終回は、長井さんの作品や学生時代の話を中心について語っていただきました)

佐々木(以下、S):長井さんの代表作を3つほど教えていただけますでしょうか。

長井(以下、N):代表作は、まず、ドラ〇もんかな。自分のやりたいものがすごく詰まっている気がします。せつなさ、悲しさ、コメディ形式でのやり方。表現的にはおバカで良いんだけど奥にはそうでないものもしっかりと表現しています。この作品は、やっぱりチャップリンの影響もあります。実は、父親と初めて映画館で観た映画がチャップリンです。

阿部(以下、A):渋いですね。

N:父親とはあんまり仲良くないっていうか、すごい怖い人だったから、休日を過ごすこと自体がそもそも珍しい。うちにいなかった人だから。

S:そうなんですね。

N:テニスの有名な指導者で表彰されていました。ドラ〇もんだけ、突出していて、あとはもう同じかな。

A:佐々木君はどうですか。

S:たくさん候補があって難しい。

A:私は、やっぱり「3つの願い」です。

S:僕もそうですね。あとは、「不良」かな。

N:あと、「世界一の女」も好き。ちなみに、ケッチは「3つの願い」を上演しています。

A:課題作品ですね。

S:「3つの願い」は、東京マイム研究所の課題作品になったんですか。

N:課題作品として、ケッチが「3つの願い」をやりたいって言って、並木先生の許可を得て。

A:「3つの願い」は面白いですよね。私、(魔人が登場する)音が超良いと思います。

N:あれは、あの時(2018年のソロ公演)から付けたんです。

A:最初はなかったのですか?

N:最初はなかったです。

A:あの音が、来る人がいいかげんな感じとか想像させますよね。そういうのがいい。「不良」は、愛すべきキャラクターですよね。

S:観る人によって、大分作品の解釈が違ってくるのが面白いです。

N:愛すべきキャラクター。ちなみに、最近の「不良」の衣装は自分で買ったのだけど、以前はそうではありませんでした。それはフェスの時から変えたかな。

A:前は重かったのですか。

N:前は、本当の皮ジャンで、ケッチからもらったものです。本当の皮ジャンだからすごい暑いし、重いし。もう舞台じゃ使えません。

A:機能性としては、ちょっと。。

N:今は、合皮のペラペラのやつにしたから、すごくやりやすいんです。

A:よく(以前の皮ジャンで)やってましたね。

N:ライダー用だったのです。

A:汗だくですよね。

N:あの動きで照明当たってやっているから、そりゃ、死ぬね(笑)。「3分間写真」も好きだけど、もう成立しなくなっちゃったのです。

A:「3分間写真」。何回も撮り直しできちゃうし。。。

N:アナログとデジタルの違いで。この間(2018年のソロ公演)でやり納め。あれとほぼ同じコマーシャルをヨーロッパか何かで見たことがあります。何年か後に見つけたけど。

 

A:あっ、これまででちょっと抜けたところがありました。長井さんが建築の道に進むか、マイムに進むかの選択肢で迷っていたという話があって、本来なら長井さんは、建築の方に進むはずでしたよね。

N:そもそも、なぜ建築にしたかというと、こっちに出てくるための理由を作るという意味で大学というのが一つですし、でも、当時から何か表現の道に進みたいと思っていました。で、すべり止めとして、表に出なくても舞台建築という手もあるから、そのためには、ちゃんと建築をやっておいたほうがいいだろうなという。

A:実は、長井さんは、建築の先生に目をかけてもらっていたのですよね。

N:うん、自分の建築の先生は、沖縄ジァンジァンを作った人だから。

S:沖縄ジァンジァン!?

A:今でもあるのでしょうか。

N:分かりません。

S:渋谷のジァンジァンと何か関係があるのですか。

N:それもよく分からないけど(※渋谷ジァンジァンと同じオーナーが経営、2000年頃に閉館)、沖縄ジァンジァンを作ったと言ってました。

A:長井さんは、高校生の時は、モテモテだったのです。生徒会長をやっていたし、テニスもやってたのです。

N:生徒会長は、中学。

A:あっ、ごめんなさい!

N:小学校で副会長、中学で生徒会長。

A:そして高校の時はテニス部でね、テニス部は、すごいところまで行ったんですよね。

N:それ、中学。

A:ごめんなさい!

S:(大笑い)

N:まあ、優勝候補だっけど負けて準優勝。あれは絶対、高飛車になってたのです。準決勝がすごい強豪で、準決勝を勝ったから、こりゃもう優勝じゃんと、おごり高ぶっていたと思います。

A:高校では何をやっていたのですか。

S:バンドマン。

A:モテモテなんですよね。高校もいいところで。これって何のトーク?

S:大学はどちらだったのですか。

N:日大の建築。今でもそうだけど、日大の建築ってOBがスゴイ。

A:そうなんですか。

N:だから、良いところに就職できるみたい。特に当時は、バブルがすこぶる調子が良かったから。さんざん先生に何を考えているのって言われました。一流企業に友達が就職して…。

A:その中でパントマイムやります。

N:就職しません。

A:どうです、これ。

 

インドネシアに移住した長井さんから近況(19年12月時点)のお便りがありました。こちらが、その内容です。

インドネシアではセプティアンとの活動をするつもりだったのですが、予定が変わりました。

セプティアンの住む首都ジャカルタは、テレビを中心としたエンターテインメントの要素が強いパントマイムでして、わかりやすくいうとストリート・パフォーマンスのような、コンセプトや主張を盛り込められない娯楽性の強いパフォーマンスなんですね。

自分好みのシアター・パントマイムではない…。

そして、インドネシアに滞在してから知ったのですが、ジョグジャカルタ には芸術性の高い表現やシアター・パントマイムが存在することがわかったので、拠点を移したわけです。

そのおかげで、いろんな大学から声をかけていただいて、ワークショップやソロ公演、ジョグジャのパントマイム・コミュニティにも出演させていただく機会に恵まれました。

来年にはアジアの各国を招待してのインターナショナルなマイム・フェスの企画が進み始めています。

自分の活動だけでなく、インドネシアと日本、そしてアシアへと、橋渡しのお手伝いをできればと思っています。ここでのフェスが実現した暁には、日本の皆様に出演の依頼をさせていただくかと思います。その節はよろしくお願いします。

(了)

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『パントマイムの歴史を巡る旅』第33回(長井直樹さん(4))

2019-11-23 19:40:45 | スペシャルインタビュー

(インタビューの第4回は、バリでの活動と並木先生のマイム表現を中心について語っていただきました)

阿部(以下、A) その頃から、長井さんの中では、バリに行くという確固たるお気持ちがあったのですか。

長井(以下、N) いえ、その時はまだでした。でも、ちょくちょくバリに行っていたと思います。

佐々木(以下、S) どういう経緯があったのでしょうか。

 きっかけは、転形劇場です。なぜ、そこと細川さんがつながったのかな。

 ひろみさんによると、転形劇場の女優さんの1人とひろみさんがお知り合いで、その女優さんたちが狩野先生にヨガを習っていて、そこにひろみさんが参加していたのがきっかけでした。そして、ひろみさん、ながいさん、荒山さんら皆さんでヨガを習いに行くようになったのです。そこでヨガを教えてくださる狩野先生がバリと関係が深いんですね。

 うん、バリに移住するかなり以前から、狩野先生のところに通いつめていました。それで、バリの踊りは、指先や目の使い方がとっても参考になるから1回(現地で)観てみたらと言われて、自分の目で確かめたいと思ってバリに行ったのです。狩野先生には一切言わずに、自分で計画して行ったら、自分の宿泊先が、狩野先生の親しくされているところで、そこは楽団の本拠地みたいな場所を兼ねている宿泊所なんですが、そこでばったり会うという…。

 スゴイですね。

 狩野先生に紹介してって言ったら、ここ(宿泊先の楽団の本拠地)を紹介したいと言われました。

 それで、バリ舞踊にひかれていったのですか。

 そうだね。いきなり3、4回習わせてもらったかな。当然大してできないけど、ただ、体の使い方は分かっていたから、初心者ではないという意味で迷惑をかけていなかったと思います。その時に女踊りのメジャーな踊りを前半部分ですが習いまして、どうせなら、1曲全部やりたくなって通い出しました。

 通いだしたというのは。

 当時は、最初は(飛行機の)チケットの関係で3週間か90日のオープンチケットくらいしかなくって3週間じゃ足りないから、それ以上となると一年オープンっていうチケットがマックスでした。(今は格安航空会社が存在し、片道でも購入できるようになっていますし、気にしなくていいのですが、当時はインドネシアの観光ビザの最大滞在可能日と、エアチケットの購入できる日数との兼ね合いで、3週間以上は90日を選ぶしかない状況でした)ま、つまり段々とはまり始めて、3週間程度の滞在では勉強できないと思って、その頃、大学の講師をやっていたので、大学の休暇を利用して60日程度行っていました。

 最終的に長井さんがバリに渡ったのは何年ですか。

 2006年です。結局、バリで習っていた先生が、かなりの芝居系の踊りの方だから、並木先生がいなくなったあと、まだ自分はどうしていいか分からない状態でしたので、バリの踊りの先生のところにずっと何かを模索するために行っていました。

 

 それで、バリに移住してから、バリではバリ舞踊の活動を行っていたということですね。

 ええ。バリでは、小悪魔が躍るという、儀式ではほぼ行う踊りを頻繁に踊っていました。その踊りでは、ガムランの伴奏曲もインプロで、踊り手に合わせてもらえることが可能となり、道化をするシーンがあって、そこでは必ずパントマイムをやっていました。結局、アジアの踊りって、パントマイム的な要素がすごいあったのです。

 向こうでもパントマイムをやっていたのですね。

 実は、自分のパントマイム作品の女性の動きは、すっごくバリの踊りが生かされています。バリの踊りの女踊りは、とってもキレイだから、ちょっとしたしぐさは、絶対、女子を演じる動きに生かされています。体にしみついちゃっているのです。

 バリ舞踊は、どういう場所で踊っていたのでしょうか。

 お寺です。お寺の誕生祭の行事みたいなお祭りで、バリ舞踊は、神様に見せるための出し物です。その出し物を人間が垣間見るということになります。

 長井さんは、ジマットさんという世界的に有名な方のお弟子さんです。だから、色々な世界の各地の人が訪れるような場所に、

 住み込みで活動していました。

 バリ舞踊では、仮面が特徴的ですよね。

 仮面の動きは、大変勉強になったと思います。色々なお寺で踊りましたが、すべて仮面をつけた踊りをやれって、よく言われました。他にもさまざまな踊りがあるのですが。メインで踊ったのは、その小悪魔と老人の男との演目でした。

 それで、長井さんご自身で仮面を作って…

 以前から、仮面を付けて並木作品の「時よ!」を上演したかったんです。並木さんと能面師さんとのコラボで作った、無垢の木のままの仮面を使った「時よ!」のイメージが非常に強かったのです。やはり、仮面の存在がすごかったのです。それで、日本のハンズで買ったプラスチックの「小面」のお面を参考にして、向こうの非常に偉大な仮面の制作者に仮面を作っていただきました。それができたのが、今、使っているお面です。

 TMCの課題作品の「鏡」とかで使用しているお面ですね。

 あれは、なかなか手に入らない木の素材で、大変貴重なものです。

 それに儀式で命を吹き込むのですよね。

 その仮面が大変気に入っていたので、その後、その素材が見つかったら、彼が僕のために、ストックで保管してくれました。で、一回日本に帰国した後に、素材があるよといわれて、その仮面と同じのを作ってもらいました。だから、姉妹がいっぱいいます(笑)

 

 話が戻りますが、並木先生の演出で重視されていた点はどういうところになるのでしょうか。

 芝居的な要素は、非常に大きかったと思います。しっかり心で感じろというのはあったし、あとは、東マ研の頃はなかったけれど、気球座に入ってからは、アトリエ公演の頃はやっぱり、(演じる人の)履歴書をちゃんと作れと言われました。

 芝居ですね。

 だから、ものすごく芝居っぽい作りでした。あとは、すごい無対象を大事にしていた人だから、しっかり無対象を見ないといけないということは叩き込まれたし、見るだけじゃいけないし、感じないといけないし、空間を肌で感じないといけないし。その無対象のモノの素材を色もニオイも味もと、そういうのを全部しっかりと感じろと。

 ひろみさんがおっしゃっていることと一緒ですよね。

 そういうことをやるために、どういう稽古をしていたのでしょうか。

 それは、東マ研の頃にはあまり言われませんでした。レベルが高い話だから、具体的に言われたのは気球座からだと思います。東マ研の試演会では、そこまで一気に言ったら潰れてしまうから。そこまでは要求されなかった。でも、自分は後半の方でやったような気がします。芝居的な作りにこだわっていたのは、やはり、文学座出身で文学青年だった並木先生だからだと思います。

 

 当時の並木先生の印象ってどうでしたか。

 まっすぐでした。パントマイムがとにかく大好きな人だったと思います。文学座の同期が角野卓造さんです。先生から直接聞いたのか覚えていませんが、「なぜ芝居ではなく、パントマイムにしたかというと、人間はしゃべってない時間の方が長い。もちろん、アナウンサーや電話交換手とかしゃべりの職業の人は一部違うかもしれませんが、ごく一般的な職業の人は、24時間の中で話をしてない時間の方が長い。話をしていないのは、聞いている時間かもしれないし、1人きりの時間かもしれないし。でも、人間は言葉を巧みに使える生き物だから、嘘も上手でごまかせる。好きでもないのに、好きと言ったり、うまくまるめこんだりとか。実は、そんなに言葉を使っている時間はなくって、そこに人間の本質が見えてくるのではないか。ということで、パントマイムはすごくそういう意味では、そこに注目して表現できる面白いやり方だと思う」という話を聞いたことがあります。パントマイムの面白さは、そういうことにあるって納得しています。あと、並木先生は学校公演をものすごくやりたかったことが印象的でした。

(つづく)

 

 

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『パントマイムの歴史を巡る旅』第32回(長井直樹さん(3))

2019-10-19 19:20:45 | スペシャルインタビュー
(インタビューの第3回は、アンサンブル作品「黎明記」後の活動について語っていただきました)

阿部(以下、A) 「黎明記」を上演した後に、メンバーが徐々に抜けていったのですか。
長井(以下、N) そうですね。メンバーそれぞれの事情で辞めて行きました。
佐々木(以下、S) ちなみに、ケッチさんはいつ頃入ったのでしょうか。
N ケッチは1度ロンドンに留学(※東マ研を一度休学?して、留学して戻ってから卒業公演を開催)しているから、はじめは結構早かったですね。
S 「黎明記」が終わって残っていたのは誰ですか。
N 細川さんと自分のほか、マルさん(丸岡達志)と安さん(安原徹)。二人は、新人のソロ公演を上演したりしていました。
S それで、その方々もいなくなって、ひろみさんと長井さんの2人になり…。しいなまんさんは、どうしていたのでしょうか。
N しいなまんは、自分より半年前の先輩で、気球座には入らずしっかり薬剤師で、まったく良い意味で趣味のパントマイムに徹していました。
S えっ、入っていなかったんですね!? 黎明記を終わった後の活動はどんな感じだったのですか。
N 若い人がごそっといなくなった後は、完全に細川さんと長井がポツン状態でしたが、学校公演で奥田雅史さん、ましゅ(ましゅ&Keiのましゅ)、チカ(チカパン)さんにも少し頼みました。当時は、児演協に入ったばかりの頃でしたから。
A 長井さんとひろみさんのお二人だけで…。
N あと、制作のゆみじさんがいたからね。でも、急に並木先生がいなくなったから、細川さんと自分の2人でやっていくには若過ぎるから。
S 当時、長井さんはいくつくらいだったのですか。
N 26~27くらいでした。でも、やらざるを得ない状況でしたね。もし、もう10何年ずれていたら違っていたと思います。「たら」、「れば」になってしまうけど。あの後も、少しはもがいていたけどね。

S 気球座がなくなったのはいつでしょうか。
N 並木先生が亡くなってから…、
A でも、ひろみさんと長井さんで続けて、
N 続けて、そこで(当時スタジオのあった)山の手通りの拡張の話が来て、稽古場ももう閉めなきゃいけない状態になって、でも、閉めちゃったら新しい場所は厳しいかなという話で閉めたと思う。やっぱり場所が大きいよね。都内で稽古場を持つって、ものすごいことだからね。まだ全然若造だからどうしたらよいのか分からないし。で、しばらく、その後、少し活動はしていたのです。ゆみじさんが制作でいて、初台のバレエスタジオの「スタジオ余白」を稽古場で使わせてもらっていました。で、少しもがいていて、そこで細川さんと愛也さんの「ロングディスタンス」(93年1月上演)の稽古もかなりやってたんです。青年座の前田和則さんという演出家を招いていました。前田さんは、細川さんのお知り合いで、実は、わたくしの青年座時代の卒業公演の演出を担当された方です。

S その当時は、松田(充博)さんは、活動に関わっていたのでしょうか。
N 関わっていました。松田さんとやり始めたのは…。
A 「プレイゾーン」(94年4月上演)だ。
N うん。そもそもは、Project・Pさんとのつながりがあったのです(※Project・Pは、当時、高円寺の明石スタジオにて提携公演を行っていました)。その頃、明石スタジオで松田さんはずっと照明を担当していて、当時は照明だけだったんです。
A 照明だけだったのですね。
N 音は、げしょ君。もちろん、松田さん監修のもと、って感じでした。げしょ君は松田さんの弟子みたいな感じでした。それで、Pさんが止めた後、うちら(Pang Ping Pooh)が提携公演を引き継いだのです。それで、自分は松田さんと親しくなりました。
A そうだったのですね。
S Pang Ping Poohの提携公演にはどういう方が出演していたのでしょうか。
N メインとしては、しいなまん、チカちゃん、安さん、丸岡君、ぶんちゃん(当時は小泉ぶん)、田子さん(田子裕史)らです。
S ひろみさんは?
A ひろみさんは、入っていませんでした。
S どういう作品を上演したのでしょうか。
N アンサンブルではなく、個人のソロ作品です。
S どれくらいの頻度で提携公演を行っていたのですか?
N 2ヵ月に1回程度だったと思います。制作はおーちゃん(おおたゆみこ)。それで、段々回数を重ねる毎にちょっとアンサンブルをやろうということになって。それで、松田さんとすごく近くなりました。
S Pang Ping Poohは、どの程度活動していたのですか。
N 2年程度だと思います。その後に、自分が松田さんとソロ公演を上演するようになりました。
S それでは、当時は、松田さんが長井さんの作品の演出を行っていたのですね。
N 細川さんと松田さんが組む以前は、ずっと、松田、長井コンビでした。
S そうだったのですね。どんな劇場で上演していたのでしょうか。
N 今はないけど、狛江のBeフリーで、その時は提携公演でした。あれっ、なんで自分はBeフリーで上演することになったのだろう。
A 多分、「プレイゾーン」の再演をするために、Beフリーさんとつながったと思います。その頃、「プレイゾーン」を、確かどこかの大学で1度上演して、もっと再演しようということになって、東マ研時代の先輩であった狛江市在住の大畑さん(※奥田さんと同期くらいの方)が、Beフリーの並木さんとお知り合いで、それで、つながったんだと思います。その後、「マジカルフラッパー」の公演とかやって、それから、アンサンブル作品の「大江戸捕り物帳黄金鬼面の謎」(演出:松田充博)」とかをやったんだと思います。
N それで、小屋とのつながりができたことで、長井個人への依頼として、“劇場費は、全部小屋持ちでお金を出さなくて良いからソロ公演を上演して欲しい、その代わり毎回新作をやる”という話があり、上演することになりました。結構、とんでもないことをやっていましたね。Beフリーには、小屋が持っている月会員みたいなものがあって、その方々は無料で観れたのです。
S どれくらいのペースで上演していたのですか。
N 2ヵ月に1回かな。
S スゴイ!
N だから、半分以上は駄作です。でも、数を作れと最初は言われて。
A ちなみに、そこでケッチさんが卒業公演を上演しましたよね。その頃はよくBeフリーを使っていました。
N 小さいけど、面白い小屋だったよね。
A 安かったし。松田さんと組んで、長井さんが泣き泣き作品を作ってたのは覚えてます。
N その時は、「ドラ○もん」も却下されたね。
A 代表作の「ドラ○もん」が松田さんにダメ。
N それっきり、お蔵入り。松田さんの演出を離れ、20年以上経過したあとにバリで観た松田さんから、面白いじゃんって言われました。その時は、きっと面白くなかったのだろうね。本人は、全然変わっているつもりはないけど。
(つづく)


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『パントマイムの歴史を巡る旅』第31回(長井直樹さん(2))

2019-09-25 21:07:49 | スペシャルインタビュー
(インタビューの第2回は、名作「黎明記」の頃の活動について語っていただきました)

阿部(以下、A) その頃、気球座の在籍が長い方は、ひろみさんのほか、長井さんしかいなかったのですか?
長井(以下、N) いえ、自分らの上にはサブちゃん(原衛三郎)という飯田橋でシェフをしている方とマーちゃん(藤田真由美)、マーちゃんの旦那さんの安田君が気球座に残っていました。
佐々木(以下、S) 長井さんの東マ研(東京マイム研究所)の同期には、誰がいたので
すか?
N 同期には、女性2人がいました。長谷川みかさん(※下の名前の表記は不明です。ごめんなさい)と、高橋真理子さんです。お二人とも、パントマイムを専門の職とはしていなかったのですが、しいなまんのように趣味と一言では片付けられないような、セミプロみたいな方々でした。半年ずれて入ったのがマルさん(丸岡達志)、1年後輩でヒデちゃん(鈴木秀城)、チカちゃん(チカパン)らが入ってきました。
A 長井さんは気球座だったのですか?
N 89年に卒業後公演後、同年に入団しました。その頃の気球座は、5人しか在籍していませんでした。自分の半年前に、前田坊(前田泰男)さんがいたのですが、彼はプロジェクトPさんに移籍しました。安田君とマーちゃんは結婚して2人でイベントすることになったので、早めに辞めてしまったのです。サブちゃんは、結構キャリアを積んでいたのですが、シェフがメインになっていく雰囲気があって、仕事でイタリアに修行に行きました。最後に「ラプソディ」を上演したのはサブちゃんです。
S 藍木二朗さんは?
N 二朗さんは、もう少し後にメンバーが増えてきた頃に入ってきました。実質的に2人しかいなくなってから、その頃は、細川さんとイベントに行ってたり、学校の公演を気球座の正メンバーではなかったのですが、奥田雅史さん、ましゅ(ましゅ&Keiのましゅ)さん、トシちゃん(畠山敏男)らと上演していました。
S 89年に「プレイゾーン」を上演していますが、どのような公演だったのでしょうか。
N 映画みたいな冒険活劇をやりたいという構想があって、当時はインディ・ジョーンズの映画が公開された頃でしょうか。あのような単純明快な冒険活劇をやりたいということで、上演しました。
S どういう方が出演したのでしょうか。
N 細川さん、長井、二朗さんがメインの3人を務め、おいしいとこでちょっとだけ出るのがしいなまん。
S しいなまんさん、おいしい(笑)。
A 気球座のアトリエ公演を、その頃は上演していましたよね。アトリエ公演というのは、中野坂上のスタジオでの公演で、「プレイゾーン」のほかに、ホテルの一室を舞台にした…。
N 「カウントダウンシリーズ」という、1~10という数字に関係して継続した公演の構想がありました。結局、1回だけしか上演できませんでしたが…。「カウントダウンシリーズ№.10」では、同じ場所に色々な人が関わっていくというコンセプトで、ホテルの一室に日替わりで泊まる客の話を上演しました。
S 非常にお芝居的な設定ですね。
N ビジネスホテルに、(夫婦)喧嘩して飛び出してきて泊まることになった女性を細川さん、自分は探偵、二朗さんがサラリーマンかな、それぞれ演じました。その作品がアトリエ公演として最初のアンサンブル公演だったと思います。それまでは、それぞれのソロ公演を上演していました。
S 長井さんもソロ公演を上演したのでしょうか。
N うん、「の~てんき」というタイトルで上演しました。その時に何を上演したのかは、あっ、3分間写真は覚えてます。アトリエ公演でソロ公演を上演したのは、卒業公演ともう1回、全部で2回だったと思います。
S 卒業公演では、何を上演したのでしょうか。
N 卒公は、「3つの願い」というコメディ作品を上演したことを覚えてます。

A ところで、長井さんがいた頃は、並木先生が事務局を担当しておられた日本マイム協会はあったのでしょうか。
N 最後の日本マイム協会の公演(87年12月頃?)には出演しました。
A えっ、出たのですか。
N 並木先生の作品で「風が」という作品に、津野さん、愛也さん、羽鳥さんが出演し、研究生として、自分もアンサンブル作品に出演しました。この当時は錚々たるメンバーでした。細川さんももちろん出演し、当時の東マ研の研究生と気球座劇団員(ほとんどがそののち、プロジェクトPさんに移籍しましたが…)が参加しました。
S 「風が」は、どんな作品でしょうか。
N 「風が」というのは、死の灰が降ったあとを、日々どこに行くあてもなく彷徨って歩いて、で、ふと後ろを振り返ると廃墟になった新宿の高層群があり、そこからストップモーションに入り、7~10分程度ゆっくり時間をかけて崩れ落ちるという作品です。
A それって映像が残っていましたか?ないですよね。では、みんなの話で聞いていたから、勝手にイメージがふくらんで観たような感覚で残ってます。「ストライプトストリート」は、終わりにストップして、ストップモーションがありますよね。その続きですか?
N みたいなニュアンスを持ってます。で、その稽古が週1程度であったのだけど、並木先生が(時間を測って)まだ10%だよってダメ出しをして、キツかったね。

S 並木先生の代表作の一つ、90年9月上演の「黎明記」は、どういう経緯から上演することになったのでしょうか。
N 並木先生の中では、元々常に未来に対しての不安というか警鐘のイメージがあったようです。「ストライプトストリート」については、冷たい戦争の時代が頭の中にあり、最後は核爆弾が落ちた後の死の灰が降ってくる。「黎明記」を作った頃は、冷たい戦争はもう終わったので、次に恐怖としてあるのは、飽食の時代、過密の時代みたいなものがテーマとして入っていました。
A 私は、青山円形の時は知らないから、東マ研に入って、記録ビデオを観てスゴイと感じたから続けたいと思ったのです。
S 「黎明記」は、どれくらい稽古をしたのでしょうか。
N 確か3ヶ月はみっちり稽古したような気がします。週2~3で2ヶ月くらい、みっちりと並木先生の頭の中のパーツパーツを切り取っての、命題を与えられてのインプロビゼーションの稽古が多かったかな?それを見て、構成を考えながら、また別の命題が出され…、という感じで少しずつ先生の頭の中で構築され、メンバーはまだどうなるのかは予想もつかず…。1ヶ月前くらいになんとなく全貌が見えてきたみたいな…、そんな記憶があります。その時は、気球座で最後に人数が多い時期で、静岡の浜松で稽古合宿もやりました。
A ビデオでしか観たことがないけど、パントマイムのアンサンブルでは、私の中であの作品が一番だと思います。
N 円形舞台の360度を活用をしたのが初めてって、青山円形劇場の方がおっしゃっていました。で、その当時の照明は、360度の舞台だから、ホリゾント幕が使えなくて照明効果が非常に大変でした。そこで、天井に光を当ててホリ替わりにというのが、どっちが先かは分からないですが、それで冒頭の新聞のシーンが生まれて。影絵で時代背景を見せました。
A あの新聞がゴーッと上がる瞬間の音と照明が本当に良かった。
N あの音良かったよね。藤田赤目さんが作った音が。
S あの新聞は、ビデオで見て、かなり大きかったのですが、どうやって作ったのでしょうか。
N 新聞を作る作業も大変でしたね。スタジオでパーツを繋げて、今はもうないのですが、某区立の体育館でパーツを一つに張り合わせる作業をした覚えがあります。かなりの広さが必要とされましたからね。そして、当時の円形劇場は渋谷消防署がすぐ裏にあったのかな、消防法のチェックが厳しくって、あの大きな一枚の新聞に防災加工、非燃焼処理をしなくては上演が許可されず、大変だった気がします。予定外の制作費ですねぇ~。そして、よく破れずに全公演もってくれました(笑)
S その頃は、並木先生の御身体は大丈夫だったのですか。
N うん、まだ、気づいてはいない。でも、当時から多分、もう何か起こってたのじゃないかな。トイレに行って中々出てこないことがよくあったから。
S その頃は、並木先生は舞台にあまり出演していなかったのでしょうか。
N もうその頃は、全然出ていません。
S ええっ。まだ40代前半なのに。
N やっぱり調子が悪かったのじゃないかな。名古屋公演(90年8月上演)の時も並木先生が音響を担当していたのだけど、オペ室からよくいなくなっていたんだ。
(つづく)


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『パントマイムの歴史を巡る旅』第30回(長井直樹さん(1))

2019-08-24 19:40:36 | スペシャルインタビュー
今回から『パントマイムの歴史を巡る旅』シリーズを再開し、現在、インドネシアで活動中の長井直樹氏に、長年にわたる活動を振り返っていただくとともに、同氏の師匠である並木孝雄氏および所属していた気球座について語っていただきました。
※インタビューは何十年も昔のことも触れているため、正確性を心掛けておりますが、100%正確でない可能性があります。ご了承ください。

■長井直樹氏(ながいなおき氏)プロフィール
東京マイム研究所にて並木孝雄に師事、1989年よりマイムトループ気球座に入団。学校公演やCM、イベントなどに出演する傍ら、昭和音楽大学・昭和音楽院などで非常勤講師を務め、身体表現の指導にもあたる。
2006年、インドネシアへ移住。バリ舞踏を取り入れ、インドネシアで活動。2012年、インドネシア・バンドゥンで国際仮面劇フェスティバルに、仮面を用いたパントマイムで参加。同年、帰国。マイムトループ★グランバルーンに加入、日本での活動を再開。2019年5月、再びインドネシアに活動の場を移す。

<インタビュー日時:2018年12月某日、於:中野の某喫茶店>
佐々木(以下、S) まず、長井さんとパントマイムとの出会いについて教えてください。
長井(以下、N) 出会いは、少し細川(紘未)さんと似ています。某劇団の研究所に在籍していたのですが、飲み会でそこの所長さんと意見の食い違いあり、ここではもう勉強したくないと思って上にあがらず辞めました。
阿部(以下、A) 一回辞めてから(東京マイム研究所に)来たのですか。
 そうです。継続しないで辞めたのですが、さあ、どうしていいか。次を考えていなかったので、どうしようと思って。
 それは幾つくらいのことでしょうか。20歳前後とか。
 それくらいです。それで、そのままその劇団に残っていた仲の良かった友人(Oさん)が細川さんの幼馴染で、彼が知り合いにパントマイムやっている人がいるから、遠回りするにしても面白いじゃないかと言われました。
 えっ、そうだったの。
 O氏から、細川さんの所属するパントマイム劇団(マイムトループ気球座)でたまたま並木孝雄ソロ公演があったので、彼から紹介されて中野坂上のスタジオに行ったら、並木先生が「時よ」と「ラプソディ」という作品を上演したのです。小作品を上演したかは覚えていませんが、多分、その2作品だけだったと思います。
 その時の印象はいかがでしたか。
 びっくりしました。1人でできてしまうんだ。それまでは、完全に芝居の頭でしたから、びっくりしたことを覚えてます。研究所でかじる程度で、マイムの技術的なことは分からなかったのですが、とにかく空間が見えたり、色々な無対象の物が見えたりするのがスゴイと感じました。あと、後から分析すると、並木先生の作品だから、大道芸的なテクニックを見せる作品でなく、演劇的なパントマイムというのが自分に合っていたと思います。もし、他の先生だったら別のイメージを持ったと思います。
 よく分かります。
 これは、並木先生に習った、あるパントマイミストも同じようなことを言ってました。

 それで、並木先生の公演を観てすぐ入ろうと思ったのですか。
 まだ、その時は、パントマイムを勉強して、1年で芝居に戻るつもりでいました。でも、気が付いたら、パントマイムに浸っていたんだね。まだ、1年も経っていない頃に、試演会か誰かの公演(当時はアトリエ公演が頻繁にありました)の打ち上げの時に、津野(至浩)さんか小島(小島屋万助)さんか愛也さん(本多愛也さん)か誰かに、「芝居に戻るのは、それはそれで良いけど、若いんだから、どうせだったら、2年間やって、卒公(卒業公演)やってから芝居に戻ったら。その代わり、言い訳できないくらい、本気でやれ。その過程を全部踏んでから戻った方が良いんじゃないか」と言われました。どうせなら、卒公を上演して一区切り付けて戻ろうと考えを改めました。その頃には、気球座の学校公演の稽古もよく観ていましたし、試演会などで音の編集や音響を担当していました。当時は、オープンリールの延長で、本当に切り貼りして編集していました。
 長井さんがそれをやっているイメージが大変強くて(笑)

 当時は、ヨネヤマママコさんやマルセルマルソーなど著名な方の舞台を観る機会はありましたか。
 ママコさんは、小学校か中学校の頃にNHKで舞台を撮影したような番組を観たのが最初です。マルソーさんは、東マ研に入ってから、五反田で1回観ました。当時は、ムメンシャンツも来日していて、昭和記念講堂で観たことがあります。結構、日本マイム協会(※現在の日本パントマイム協会とは異なる)を通してチケットを安く手に入れたりしてたんですよ。
 そんなことがあったのですか。
 自分が東マ研に入る前には、ロバートシールズが気球座の稽古場を借りたそうです。それで、彼が稽古をしているのをみんなが無料で観れてしまう。みんなが緊張して笑っちゃいけないと思って我慢していたら、それをロバートシールズが怒って、途中から稽古場を変えたという話を聞きました。
 そうなんですね。
 彼は、大道芸出身の人だから、反応がないとすごく嫌だったそうです。
 僕は、ロバートシールズは、サントリーのCMしか知りません。
 当時は、気が付いたら、学校公演の手伝いもしていました。東マ研に入って1年少し経ったら、プロジェクトPのメンバーがごっそりいなくなりました。考えてみると、彼らがいなくなるから、自分に残れと言われたのかもしれません。結局、メンバーがすっかりいなくなったので、当時は結構イベントが盛んで、細川さんと自分でイベントの仕事をかなり行っていました。
(つづく)
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