月刊パントマイムファン編集部電子支局

パントマイムのファンのためのメルマガ「月刊パントマイムファン」編集部の電子支局です。メルマガと連動した記事を掲載します。

『パントマイムの歴史を巡る旅』第14回(あらい汎さん(1))

2013-02-10 23:59:37 | スペシャルインタビュー
わが国のパントマイムの歴史を遡ると、ヨネヤマママコ氏、及川広信氏、佐々木博康氏、清水きよし氏、あらい汎氏、並木孝雄氏らが作った大きな潮流に辿り着く。その源流がそれぞれいかに生まれ、どのように影響しながら現在まで広がっていったのか知る人は少ない。1960年代から活動を始め、劇団を中心に独自の表現活動を続けながら、多くのパントマイミストを育成した、汎マイム工房主宰のあらい汎氏に、長年にわたる活動や作品、パントマイムの世界について語って頂いた。
※インタビューは何十年も昔のことも触れているため、100%正確でない可能性があります。ご了承ください。

■あらい汎氏 プロフィール
舞台芸術学院15期卒業後、新劇系劇団研究生を経て、小劇団活動を繰り返す中、パントマイムを始める
1968~79年 大田省吾主宰の「転形劇場」に所属
1971年 ヨネヤマママコさんと出会い、ママコ・ザ・マイムの助手として指導・演出助手・共演者として活動
1973年 ヴィスコンシンマイムフェスティバル(米)に参加
1976年 劇団「汎マイム工房」設立
1982年 イタリアアレッツォ国際マイムフェスティバル「マイム劇 男のバラード」マイムソリスト賞受賞
1983年 イタリア国際演劇フェスティバル「黙劇 待合室」グランプリ受賞
現在 「汎マイム工房」主宰の他、指導、振付、演出、講演等でも活動

佐々木 まず、あらい先生とパントマイムとの出会いからお話頂けないでしょうか。
あらい マイムを創造的な分野と意識して最初に観たのは、マルセル・マルソーの来日2回目の舞台です。その当時、僕は舞台芸術学院で俳優修業をしていました。その頃の日本でマイムは、まだ文化として余り認知されていなかったのですが、マルセル・マルソーというパントマイムの達人が来日したという噂を聞いて、何人かの芝居仲間で観に行きました。会場は、東商ホールという小さな小屋で、お客さんもあまり入らない中でマルソーは上演していました。当時、マルソーは、マスメディアにもほとんど評判にはならなかったのですが、それから何年かして“世界のマルソー”として有名になり、毎年公演に訪れ、20~30回程来日したのではないでしょうか。
佐々木 初めてマルソーの舞台を観た時の印象はどうだったのですか。
あらい マルソーも訪日し始めた頃は、テクニックを見せるのが中心でした。公演は二部構成で、一部に綱引きや壁、蝶々取りといったテクニックを見せる作品をやって、その後の二部で「ビップ」のマイムをやるんですよ。ビップというのは、マルソーが作ったクラウンのキャラクターで、二部ではそのキャラクターが巻き起こすドラマ仕立ての作品を演じていました。その当時は、テクニックの披露が多くてあんまり面白く感じなかったですね。
佐々木 そうですか。

あらい その頃も後も、僕はマイムをやるつもりがなく、ストレートプレイをやっていました。芝居の訓練の中にエチュードと呼ばれる、無言のマイム的な部分がありましたが、マイムとしての興味はありませんでした。僕の声は演劇学校で悪声と言われたので、発声の身体訓練には力をいれましたが。その中の肉体訓練の一つとしてのマイムでした。
佐々木 演劇学校の時は、どんなパントマイムを学んでいたのでしょうか。
あらい 演劇訓練ではテクニック的なマイムはやらずに、風景やキャラクター、状況設定をしたエチュードと呼ばれる即興劇を演じていました。当時は、日本の養成所で壁や綱引きなどマイムのテクニックを教えていたところはなかったと思いますね。日本にマイムが本格的に入ったきっかけは、ママコさんにマイムという存在を知らせた、葦原英了さんです。
佐々木 葦原英了さんは、どういう方でしょうか。
あらい 葦原さんは、宝塚の演技訓練の先生で、かなりフランス文学に通じていた方で、その方がフランスから帰国した時にママコさんにパントマイムという手法があると伝えたそうです。
佐々木 葦原さんは、パントマイムをやっていたのですか。
あらい いえ、訓練の方です。その頃ヨーロッパでは、マイムの流派がいくつかあって、マルソーの先生ドゥクルーからジャンルイ・バローやマルソーに受け継がれてきた、テクニック的なマイムと、もう一つどちらかというと演劇的なスタニスラフスキー・システムを重視したマイムがあって、後者はテクニックじゃなくて無言の劇でした。無言劇のマイムは、日本ではあまり評判になりませんでした。一方、いわゆるマルソー形式のテクニックのマイムは、日本では珍しかったから、段々と西洋マイムとして広まっていきました。
佐々木 そういう流れがあったのですね。

あらい その後、僕が舞芸を卒業して小さなグループを作った時に、そこに当時「ザ・パントマ」というグループでリーダーを務めていた遠藤貞治さんが参加してくれました。「ザ・パントマ」というのは3人組のグループで、遠藤貞治さんがリーダー、その下にIKUO三橋さんがいました。もう一人、フランスに行った方がいるのですが…。
佐々木 多分、石丸さんという方だと思います。
あらい 彼は、フランスに活動の場を移しました。遠藤さんが、パントマイムを見せてくれたり、一緒にパントマイムの作品を作ったりしたのですが、彼が演じる壁とか階段の無対象のマイムを見て、「すごいな、これは使える」と思いました。その面白さを表現したいと思って、僕も少しずつやり始めたと思います。そこで最初に「パントマイムによる狂詩曲」という作品を作って、遠藤さんと上演しました。
佐々木 それは、どんな作品だったのですか。
あらい 何だか覚えていませんが、それくらい作品的には弱かったと思います。しばらくしてから、パントマイムをもう少しじっくりやってみようと思って、その頃に日本マイム研究所の公演を観に行きました。当時の日マ研の所長は及川広信さんではなく、佐々木博康さんに代わっていて、その頃は、清水きよしさんや並木隆雄さんが佐々木さんのところでやっていたと思います。その公演を僕は観たのですが、こんなことを言うと失礼ですが、「僕が考えているマイムは、もっと面白いはず、もっと劇的なはずだ」と思ったのです。その時にふと思い出しました。子どもの頃にパントマイムを観たことがある。それがヨネヤマママコさんの映像だったです。
佐々木 あっ、なるほど。
あらい 拙著「パントマイムの心と身体」にも書いていますが、僕が観たのは、ママコさんが出演した、テレビか映画の推理ドラマ(1960年東映「拳銃を磨く男 深夜の死角」)です。ママコさんが犯人たちをキャバレーみたいなところに呼んで、キャバレーの舞台上で殺人シーンをマイムで上演しました。シェイクスピアの「ハムレット」の1場面にハムレットが伯父さんの前で芸人たちに殺人シーンを演じさせるシーンがあります。それを借りて演ったのだと思います。ママコさんの演技は大変不思議な動きでした。そのマイムのシーンが不思議な光景として蘇ってきたんです。というのが僕のマイムとの出会いです。

佐々木 最初に汎さんがお作りになった演劇グループは、遠藤さん以外には、どなたがいたんですか。
あらい 他には舞芸にいた時の助手で猪野剛太郎さん、青年劇場にいた猪野さんの奥さん、それと僕の舞芸の仲間など7,8人が集まりました。芝居とマイムを両方やるという研究グループだったんですが、2年程で解散しました。
佐々木 なるほど。
あらい その頃の僕らの演劇活動には、安保闘争という政治運動の影響がありました。当時の政治的な状況と演劇は切っても切り離せられない密接な関係がありました。当時の演劇人たちは、政治的な様相が強まる中で、自らの演劇に対して疑問を呈して当時の文化状況、演劇状況と批判し戦う姿勢が求められていました。新しいもの創りを目指し戦うことが時の状況でした。日常の中で起こる闘争に関わり、本当に舞台の上で真実を持って立っているのかということを問い詰めていく中で僕らは自己を見つめ治し育つ中で、マイムをやり始めたわけです。ですから、西洋のマイムをそのままやっても幸せすぎてしっくりこないんです。肉体的にも違います。例えば、マルソーがかなり有名になった頃に、唐十郎がマルソーの蝶々取りのマイムに対して、「今、蝶々を追いかけて喜んでいる時代か」と批判していました。
佐々木 はあ。
あらい 僕はその頃、喫茶店で人形振りをやってお客さんを集めていたのです。舞台でマイムをやるために人形振りをしたのですが、舞台のマイムはお金ならず、人形振りはお金になるのです。舞台でマルソーのマネをして、蝶々取りや壁のマイムをしても似合わない自己に出会うのです。それで蝶々を追って蝶々を殺すようなマイムに変ってきた時に、僕は太田省吾さんの転形劇場と出会いました。

(つづく)
コメント (3)
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アーティストリレー日記(25)長井直樹さん

2013-02-10 23:32:56 | アーティストリレー日記
今号では、元「マイムトループ 気球座」のメンバーで、現在「マイムトループ グラン・バルーン」の一員として活躍中の、長井直樹さんの日記をお届けします。

さてさて、せっかくこのわたくしめにバトンが手渡されたので、今までの方とは一味違うパントマイムにまつわるお話をと思います。

2012年5月17日 バリ島にて 
 今日はインドネシアのジョグジャカルタからバリ島にやってきたベンケル・マイム・シアターという若手グループの公演を見に行く。
インドネシアでパントマイムをググってみても、でてくるのは白塗りおじさんの舞踏もどき(舞踏をけなしているわけでなく、体鍛えてないのに、それっぽいスローな動きでわけわかんないことしていればいい?みたいなごまかしパフォーマンスっていうニュアンスを感じ取れてしまうそのおじさん…なので、こんな表現になってしまいますが…もちろん、わたくし舞踏は好きなので、だからこそこんな批判めいたことを言ってしまいました)だったり、白塗りの白手袋で、ボーダーTシャツにサスペンダー、やることは「かべ」か「ロープ」のテクニック…習いたての高校生が学園際で発表みたいな…。
それとも、ムーンウォークやヒップ・ホップ・ダンスのムーヴメントの類を、パントマイムと勘違いしていたり…。
まだまだインドネシアでは、シアター・パントマイムってマイナーというか、存在すらほとんどないくらい。

だから、You Tubeでちょこっと得た情報からの、スタジオ公演っぽいことをしているこの若手の公演にとても期待し、いざ会場へ。
会場にきてみる…、その前に、この会場というのが、なかなか見つけられなかった。それというのも、バリにはほとんど劇場というものがない、というか日本で言うところの公的な劇場は皆無。あるのは、バリの芸能用の会場ばかり。ごく一部の劇場を除き、照明設備はおろか、バトンも袖もホリゾントも…ない。あるのは、派手な装飾の出入り口。ここからバリの踊り手が登場したりする。
通常の舞台からすると、この出入り口のコテコテの装飾が、虚構の世界へ誘うことをあえて邪魔する。ついこの前も、日本のお能の巨匠、コンテンポラリー・ダンス、バリ舞踊、ガムランの各界の最たる表現者のコラボの裏方のお手伝いの際、この「コテコテ」が想像の世界へ飛び立つことを妨げていて、もったいないなぁとつくづく感じた。もちろん、本来バリの芸能をすることが第一目的なのであろうから、文句を言える立場どころか、その空間を使わせていただけることに感謝すべき立場であり、バリの芸能の神様の憤りに触れてしまう。ごめんなさい。

さぁ、今日の会場は…。
会場はどうやらボーイスカウトかボランティア活動の拠点の建物内の一室。ここを黒幕で覆い尽くして劇場空間を作り出している様子。想像しやすく説明すると、何か出し物をするために設営された学園祭の教室って感じ。手作りカン満載でなんだか怪しい雰囲気もあり、わくわくする。
バリで初めて出会った、回路数は少ないながらも調光卓で操作され、音響装備もある劇場、というかスタジオ公演って感じ。まず暗転がきちんとできていて、「虚構の箱」という空間を作り出されていることに初めて出会う。インドネシアの首都や彼らの本拠地のジョグジャでは劇場を実際に見たが、まさかここバリで出会えるとは…。

バリでの芸能は、ガムランと踊り、または影絵で構成されるものがほとんどで、基本的に屋外で演じられる。あっても屋根とそれを支える柱だけ。つまり閉ざされた虚構の空間とは真逆の、完全に開かれた空間。だから、シアター・パントマイムなど空想の世界に誘う表現は、並ならぬ集中力を観客に求めなければならない…ううん、これってかなり難しいだろうなぁ…テント張りのイベント会場で、大道芸的パフォーマンスでなく1時間もののソロ公演…やる側としても見る側としても難しそうって想像つくでしょ?
だからこそ、この想像の世界へ誘ってくれる怪しげな空間にわくわくするのだ。

いざ開演。
内容としては…人それぞれ好みもあり、評価できる立場ではないが、なかなか楽しめた。批評家ではないので感想などはあえて伏せる。
終演後、リーダーと話す機会を持てた。
彼らはすべて独学でパントマイムを習得しているとのこと。本やウェブサイトからだそうだ。なかでもYouTubeでまず一番に名の挙がる、先輩に当たるシ○ターH,彼女のサイトは、よ~くお世話なったとか。しかも個人的に彼女の大ファンだそうで、よろしく伝えてくれとも言われた。さすが、インドネシアの人、動体視力がいいのか、見ただけでかなりの動きを模倣できてるようだ。これはパントマイムに限らず、伝統芸能、ダンスなど方々で感じられる。しか~し…やっぱり2次元からの習得には限界があるようで、個人的に感じたのは、動きは真似できても、そのコンセプトや体の意識や感覚までを知ることは難しいのだろうと想像する。彼女も私も学んだドゥクルー・システム、これを独学で探りながらかつ自分の表現を探求するなんて、ううぅ~ん、遠回りなのかもしれないなぁ…と偉そうにも思ってしまった。基本をコンパクトに凝縮して濃密に学習できるって、幸せなんだなぁと再認識する。インドネシアにはまだそういったシステム化されたパントマイムを学べる場がないらしい。

過去、近所のローカルっ子にワークショップを開いたときに感じたことがある。ちょっと見ただけで、すぐに基本的なテクニックができてしまうのだ。日本人よりも、優れている。あきらかに。不必要に文明に侵されていないからこその、動物的なカンの鋭さ、とでも言ったらいいのか。もともと人間がもっていた感覚が日本人は鈍ってきているのではないかなぁ…と思ってしまう。文明って何だろう。人間が楽をするために躍起になって捜し求め、その才能が本来の人間の機能をだめにしていった、見たいな事が手塚漫画にあったような気がする。
すごい…パントマイムのことを考えていて、気がついたら人類の未来まで考察していた…そんな大袈裟な、ね?
話を元に戻してっと。だからこそ、ここインドネシアでも、表現の一つであるパントマイム、いろんなタイプのパントマイムがあることを知ってもらいたいなぁと思いながら、まったりと気持ちの良いけだるさの暑さの中、家路についた。

そして、現在2013年2月。
今年の夏の終わり、8月末からインドネシア・バリ島で開かれる、「ジャパン・インドネシア フェスティバル」で、わがグループ「グラン・バルーン」も参加することが決まり、インドネシアの若手グループとも、コラボか何か交流ができないものかと策を練り…とやり取りしたばかりの今日この頃。
つい先日のバリでのちいさな試演会的パフォーマンスも好評だったこともあり、フェスティバルへの士気がますます高まりつつある。
それにしても、つい先日のバリのあの日差しが懐かしい。腕の日焼け見ながら凍える今日、やっぱり寒いのは苦手だなぁ…。

異国のパントマイムの話、まだまだたっくさんあるんだけど…たった一日分で終わってしまった。いつかどこかで機会があれば直接聞いてください。「もういいっ!やめて」って言われても逃がしませんよぉ…。

長井直樹
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