わが国のパントマイムの歴史を遡ると、ヨネヤマママコ氏、及川広信氏、佐々木博康氏、清水きよし氏、あらい汎氏、並木孝雄氏らが作った大きな潮流に辿り着く。その源流がそれぞれいかに生まれ、どのように影響しながら現在まで広がっていったのか知る人は少ない。1960年代から活動を始め、劇団を中心に独自の表現活動を続けながら、多くのパントマイミストを育成した、汎マイム工房主宰のあらい汎氏に、長年にわたる活動や作品、パントマイムの世界について語って頂いた。
※インタビューは何十年も昔のことも触れているため、100%正確でない可能性があります。ご了承ください。
■あらい汎氏 プロフィール
舞台芸術学院15期卒業後、新劇系劇団研究生を経て、小劇団活動を繰り返す中、パントマイムを始める
1968~79年 大田省吾主宰の「転形劇場」に所属
1971年 ヨネヤマママコさんと出会い、ママコ・ザ・マイムの助手として指導・演出助手・共演者として活動
1973年 ヴィスコンシンマイムフェスティバル(米)に参加
1976年 劇団「汎マイム工房」設立
1982年 イタリアアレッツォ国際マイムフェスティバル「マイム劇 男のバラード」マイムソリスト賞受賞
1983年 イタリア国際演劇フェスティバル「黙劇 待合室」グランプリ受賞
現在 「汎マイム工房」主宰の他、指導、振付、演出、講演等でも活動
佐々木 まず、あらい先生とパントマイムとの出会いからお話頂けないでしょうか。
あらい マイムを創造的な分野と意識して最初に観たのは、マルセル・マルソーの来日2回目の舞台です。その当時、僕は舞台芸術学院で俳優修業をしていました。その頃の日本でマイムは、まだ文化として余り認知されていなかったのですが、マルセル・マルソーというパントマイムの達人が来日したという噂を聞いて、何人かの芝居仲間で観に行きました。会場は、東商ホールという小さな小屋で、お客さんもあまり入らない中でマルソーは上演していました。当時、マルソーは、マスメディアにもほとんど評判にはならなかったのですが、それから何年かして“世界のマルソー”として有名になり、毎年公演に訪れ、20~30回程来日したのではないでしょうか。
佐々木 初めてマルソーの舞台を観た時の印象はどうだったのですか。
あらい マルソーも訪日し始めた頃は、テクニックを見せるのが中心でした。公演は二部構成で、一部に綱引きや壁、蝶々取りといったテクニックを見せる作品をやって、その後の二部で「ビップ」のマイムをやるんですよ。ビップというのは、マルソーが作ったクラウンのキャラクターで、二部ではそのキャラクターが巻き起こすドラマ仕立ての作品を演じていました。その当時は、テクニックの披露が多くてあんまり面白く感じなかったですね。
佐々木 そうですか。
あらい その頃も後も、僕はマイムをやるつもりがなく、ストレートプレイをやっていました。芝居の訓練の中にエチュードと呼ばれる、無言のマイム的な部分がありましたが、マイムとしての興味はありませんでした。僕の声は演劇学校で悪声と言われたので、発声の身体訓練には力をいれましたが。その中の肉体訓練の一つとしてのマイムでした。
佐々木 演劇学校の時は、どんなパントマイムを学んでいたのでしょうか。
あらい 演劇訓練ではテクニック的なマイムはやらずに、風景やキャラクター、状況設定をしたエチュードと呼ばれる即興劇を演じていました。当時は、日本の養成所で壁や綱引きなどマイムのテクニックを教えていたところはなかったと思いますね。日本にマイムが本格的に入ったきっかけは、ママコさんにマイムという存在を知らせた、葦原英了さんです。
佐々木 葦原英了さんは、どういう方でしょうか。
あらい 葦原さんは、宝塚の演技訓練の先生で、かなりフランス文学に通じていた方で、その方がフランスから帰国した時にママコさんにパントマイムという手法があると伝えたそうです。
佐々木 葦原さんは、パントマイムをやっていたのですか。
あらい いえ、訓練の方です。その頃ヨーロッパでは、マイムの流派がいくつかあって、マルソーの先生ドゥクルーからジャンルイ・バローやマルソーに受け継がれてきた、テクニック的なマイムと、もう一つどちらかというと演劇的なスタニスラフスキー・システムを重視したマイムがあって、後者はテクニックじゃなくて無言の劇でした。無言劇のマイムは、日本ではあまり評判になりませんでした。一方、いわゆるマルソー形式のテクニックのマイムは、日本では珍しかったから、段々と西洋マイムとして広まっていきました。
佐々木 そういう流れがあったのですね。
あらい その後、僕が舞芸を卒業して小さなグループを作った時に、そこに当時「ザ・パントマ」というグループでリーダーを務めていた遠藤貞治さんが参加してくれました。「ザ・パントマ」というのは3人組のグループで、遠藤貞治さんがリーダー、その下にIKUO三橋さんがいました。もう一人、フランスに行った方がいるのですが…。
佐々木 多分、石丸さんという方だと思います。
あらい 彼は、フランスに活動の場を移しました。遠藤さんが、パントマイムを見せてくれたり、一緒にパントマイムの作品を作ったりしたのですが、彼が演じる壁とか階段の無対象のマイムを見て、「すごいな、これは使える」と思いました。その面白さを表現したいと思って、僕も少しずつやり始めたと思います。そこで最初に「パントマイムによる狂詩曲」という作品を作って、遠藤さんと上演しました。
佐々木 それは、どんな作品だったのですか。
あらい 何だか覚えていませんが、それくらい作品的には弱かったと思います。しばらくしてから、パントマイムをもう少しじっくりやってみようと思って、その頃に日本マイム研究所の公演を観に行きました。当時の日マ研の所長は及川広信さんではなく、佐々木博康さんに代わっていて、その頃は、清水きよしさんや並木隆雄さんが佐々木さんのところでやっていたと思います。その公演を僕は観たのですが、こんなことを言うと失礼ですが、「僕が考えているマイムは、もっと面白いはず、もっと劇的なはずだ」と思ったのです。その時にふと思い出しました。子どもの頃にパントマイムを観たことがある。それがヨネヤマママコさんの映像だったです。
佐々木 あっ、なるほど。
あらい 拙著「パントマイムの心と身体」にも書いていますが、僕が観たのは、ママコさんが出演した、テレビか映画の推理ドラマ(1960年東映「拳銃を磨く男 深夜の死角」)です。ママコさんが犯人たちをキャバレーみたいなところに呼んで、キャバレーの舞台上で殺人シーンをマイムで上演しました。シェイクスピアの「ハムレット」の1場面にハムレットが伯父さんの前で芸人たちに殺人シーンを演じさせるシーンがあります。それを借りて演ったのだと思います。ママコさんの演技は大変不思議な動きでした。そのマイムのシーンが不思議な光景として蘇ってきたんです。というのが僕のマイムとの出会いです。
佐々木 最初に汎さんがお作りになった演劇グループは、遠藤さん以外には、どなたがいたんですか。
あらい 他には舞芸にいた時の助手で猪野剛太郎さん、青年劇場にいた猪野さんの奥さん、それと僕の舞芸の仲間など7,8人が集まりました。芝居とマイムを両方やるという研究グループだったんですが、2年程で解散しました。
佐々木 なるほど。
あらい その頃の僕らの演劇活動には、安保闘争という政治運動の影響がありました。当時の政治的な状況と演劇は切っても切り離せられない密接な関係がありました。当時の演劇人たちは、政治的な様相が強まる中で、自らの演劇に対して疑問を呈して当時の文化状況、演劇状況と批判し戦う姿勢が求められていました。新しいもの創りを目指し戦うことが時の状況でした。日常の中で起こる闘争に関わり、本当に舞台の上で真実を持って立っているのかということを問い詰めていく中で僕らは自己を見つめ治し育つ中で、マイムをやり始めたわけです。ですから、西洋のマイムをそのままやっても幸せすぎてしっくりこないんです。肉体的にも違います。例えば、マルソーがかなり有名になった頃に、唐十郎がマルソーの蝶々取りのマイムに対して、「今、蝶々を追いかけて喜んでいる時代か」と批判していました。
佐々木 はあ。
あらい 僕はその頃、喫茶店で人形振りをやってお客さんを集めていたのです。舞台でマイムをやるために人形振りをしたのですが、舞台のマイムはお金ならず、人形振りはお金になるのです。舞台でマルソーのマネをして、蝶々取りや壁のマイムをしても似合わない自己に出会うのです。それで蝶々を追って蝶々を殺すようなマイムに変ってきた時に、僕は太田省吾さんの転形劇場と出会いました。
(つづく)
※インタビューは何十年も昔のことも触れているため、100%正確でない可能性があります。ご了承ください。
■あらい汎氏 プロフィール
舞台芸術学院15期卒業後、新劇系劇団研究生を経て、小劇団活動を繰り返す中、パントマイムを始める
1968~79年 大田省吾主宰の「転形劇場」に所属
1971年 ヨネヤマママコさんと出会い、ママコ・ザ・マイムの助手として指導・演出助手・共演者として活動
1973年 ヴィスコンシンマイムフェスティバル(米)に参加
1976年 劇団「汎マイム工房」設立
1982年 イタリアアレッツォ国際マイムフェスティバル「マイム劇 男のバラード」マイムソリスト賞受賞
1983年 イタリア国際演劇フェスティバル「黙劇 待合室」グランプリ受賞
現在 「汎マイム工房」主宰の他、指導、振付、演出、講演等でも活動
佐々木 まず、あらい先生とパントマイムとの出会いからお話頂けないでしょうか。
あらい マイムを創造的な分野と意識して最初に観たのは、マルセル・マルソーの来日2回目の舞台です。その当時、僕は舞台芸術学院で俳優修業をしていました。その頃の日本でマイムは、まだ文化として余り認知されていなかったのですが、マルセル・マルソーというパントマイムの達人が来日したという噂を聞いて、何人かの芝居仲間で観に行きました。会場は、東商ホールという小さな小屋で、お客さんもあまり入らない中でマルソーは上演していました。当時、マルソーは、マスメディアにもほとんど評判にはならなかったのですが、それから何年かして“世界のマルソー”として有名になり、毎年公演に訪れ、20~30回程来日したのではないでしょうか。
佐々木 初めてマルソーの舞台を観た時の印象はどうだったのですか。
あらい マルソーも訪日し始めた頃は、テクニックを見せるのが中心でした。公演は二部構成で、一部に綱引きや壁、蝶々取りといったテクニックを見せる作品をやって、その後の二部で「ビップ」のマイムをやるんですよ。ビップというのは、マルソーが作ったクラウンのキャラクターで、二部ではそのキャラクターが巻き起こすドラマ仕立ての作品を演じていました。その当時は、テクニックの披露が多くてあんまり面白く感じなかったですね。
佐々木 そうですか。
あらい その頃も後も、僕はマイムをやるつもりがなく、ストレートプレイをやっていました。芝居の訓練の中にエチュードと呼ばれる、無言のマイム的な部分がありましたが、マイムとしての興味はありませんでした。僕の声は演劇学校で悪声と言われたので、発声の身体訓練には力をいれましたが。その中の肉体訓練の一つとしてのマイムでした。
佐々木 演劇学校の時は、どんなパントマイムを学んでいたのでしょうか。
あらい 演劇訓練ではテクニック的なマイムはやらずに、風景やキャラクター、状況設定をしたエチュードと呼ばれる即興劇を演じていました。当時は、日本の養成所で壁や綱引きなどマイムのテクニックを教えていたところはなかったと思いますね。日本にマイムが本格的に入ったきっかけは、ママコさんにマイムという存在を知らせた、葦原英了さんです。
佐々木 葦原英了さんは、どういう方でしょうか。
あらい 葦原さんは、宝塚の演技訓練の先生で、かなりフランス文学に通じていた方で、その方がフランスから帰国した時にママコさんにパントマイムという手法があると伝えたそうです。
佐々木 葦原さんは、パントマイムをやっていたのですか。
あらい いえ、訓練の方です。その頃ヨーロッパでは、マイムの流派がいくつかあって、マルソーの先生ドゥクルーからジャンルイ・バローやマルソーに受け継がれてきた、テクニック的なマイムと、もう一つどちらかというと演劇的なスタニスラフスキー・システムを重視したマイムがあって、後者はテクニックじゃなくて無言の劇でした。無言劇のマイムは、日本ではあまり評判になりませんでした。一方、いわゆるマルソー形式のテクニックのマイムは、日本では珍しかったから、段々と西洋マイムとして広まっていきました。
佐々木 そういう流れがあったのですね。
あらい その後、僕が舞芸を卒業して小さなグループを作った時に、そこに当時「ザ・パントマ」というグループでリーダーを務めていた遠藤貞治さんが参加してくれました。「ザ・パントマ」というのは3人組のグループで、遠藤貞治さんがリーダー、その下にIKUO三橋さんがいました。もう一人、フランスに行った方がいるのですが…。
佐々木 多分、石丸さんという方だと思います。
あらい 彼は、フランスに活動の場を移しました。遠藤さんが、パントマイムを見せてくれたり、一緒にパントマイムの作品を作ったりしたのですが、彼が演じる壁とか階段の無対象のマイムを見て、「すごいな、これは使える」と思いました。その面白さを表現したいと思って、僕も少しずつやり始めたと思います。そこで最初に「パントマイムによる狂詩曲」という作品を作って、遠藤さんと上演しました。
佐々木 それは、どんな作品だったのですか。
あらい 何だか覚えていませんが、それくらい作品的には弱かったと思います。しばらくしてから、パントマイムをもう少しじっくりやってみようと思って、その頃に日本マイム研究所の公演を観に行きました。当時の日マ研の所長は及川広信さんではなく、佐々木博康さんに代わっていて、その頃は、清水きよしさんや並木隆雄さんが佐々木さんのところでやっていたと思います。その公演を僕は観たのですが、こんなことを言うと失礼ですが、「僕が考えているマイムは、もっと面白いはず、もっと劇的なはずだ」と思ったのです。その時にふと思い出しました。子どもの頃にパントマイムを観たことがある。それがヨネヤマママコさんの映像だったです。
佐々木 あっ、なるほど。
あらい 拙著「パントマイムの心と身体」にも書いていますが、僕が観たのは、ママコさんが出演した、テレビか映画の推理ドラマ(1960年東映「拳銃を磨く男 深夜の死角」)です。ママコさんが犯人たちをキャバレーみたいなところに呼んで、キャバレーの舞台上で殺人シーンをマイムで上演しました。シェイクスピアの「ハムレット」の1場面にハムレットが伯父さんの前で芸人たちに殺人シーンを演じさせるシーンがあります。それを借りて演ったのだと思います。ママコさんの演技は大変不思議な動きでした。そのマイムのシーンが不思議な光景として蘇ってきたんです。というのが僕のマイムとの出会いです。
佐々木 最初に汎さんがお作りになった演劇グループは、遠藤さん以外には、どなたがいたんですか。
あらい 他には舞芸にいた時の助手で猪野剛太郎さん、青年劇場にいた猪野さんの奥さん、それと僕の舞芸の仲間など7,8人が集まりました。芝居とマイムを両方やるという研究グループだったんですが、2年程で解散しました。
佐々木 なるほど。
あらい その頃の僕らの演劇活動には、安保闘争という政治運動の影響がありました。当時の政治的な状況と演劇は切っても切り離せられない密接な関係がありました。当時の演劇人たちは、政治的な様相が強まる中で、自らの演劇に対して疑問を呈して当時の文化状況、演劇状況と批判し戦う姿勢が求められていました。新しいもの創りを目指し戦うことが時の状況でした。日常の中で起こる闘争に関わり、本当に舞台の上で真実を持って立っているのかということを問い詰めていく中で僕らは自己を見つめ治し育つ中で、マイムをやり始めたわけです。ですから、西洋のマイムをそのままやっても幸せすぎてしっくりこないんです。肉体的にも違います。例えば、マルソーがかなり有名になった頃に、唐十郎がマルソーの蝶々取りのマイムに対して、「今、蝶々を追いかけて喜んでいる時代か」と批判していました。
佐々木 はあ。
あらい 僕はその頃、喫茶店で人形振りをやってお客さんを集めていたのです。舞台でマイムをやるために人形振りをしたのですが、舞台のマイムはお金ならず、人形振りはお金になるのです。舞台でマルソーのマネをして、蝶々取りや壁のマイムをしても似合わない自己に出会うのです。それで蝶々を追って蝶々を殺すようなマイムに変ってきた時に、僕は太田省吾さんの転形劇場と出会いました。
(つづく)