(インタビューの2回目は、ヨネヤマ・ママコさんが渡米して現地で安定した生活を築くまでの話を中心にお届けします)
佐々木 その後、テレビに出演して大変有名になり、1960年に渡米されたそうですが、その経緯を教えてください。
ママコ 運悪く一人の男の人につかまっちゃったわけです。その話は簡単にしますが、マスコミに非常につけ狙われて、その時に振られたものですから、表向きは笑っていても中身は惨憺たるものだったのです。それで、ちょっと外国に行った方が良いということで渡米しました。
佐々木 当時、アメリカでの生活は大変だったかと思いますが、そこでのマイムのお仕事はすぐに見つかりましたか。
ママコ いえ、最初の仕事らしい仕事を見つけたのは、4年目くらいですね。最初はハウスガールをやっていて、それからナイトクラブのダンサーになりました。ダンスをやりながら、マイムを切り開いていくというか、マイムを試行錯誤しているのです。そのクラブはアジア系のダンサーが集まって、とてもパントマイムをやるような環境ではなく、非常に大変な環境でした。一緒に舞台に出ていた女性がフィリピーノから、コリアン、中国、日本となるわけです。この環境の中で、唯一の救いは、クラブのオーナーが非常に大切にしてくれたことです。オーナーが“他は、アメリカンスープで良いんだ。ママコだけにはチャイニーズスープを飲ませろ”と言ってくれました。チャイニーズスープは、アメリカンスープに比べて材料が高いそうです。そのチャイニーズスープが当時の私の唯一の救いでした。その中で何年かやった後に、ハングリィIに移りました。
佐々木 ハングリィIというのは、ナイトクラブですか。
ママコ ハングリィIというのは、ライブハウスです。映画監督に成る前のウッデイ・アレンが、ニューヨークの小さなライブハウスでやっていたのですが、それがハングリィIのニューヨーク版です。このライブハウスで、私の前にコメディアンで有名なビル・コスビーがやっていました。私がいた時には、女優のバーブラ・ストライサンド、歌手のメル・トーメやミュージシャンのキングストン・トリオが来たりして、非常に観客の目が高かったのです。この質の高いライブハウスが、サンフランシスコ、ロサンジェルス、ニューヨーク、シカゴ、ワシントンにあって、芸人が芸を磨いていました。
佐々木 ハングリィIの時の舞台は、どんな感じだったのでしょうか。
ママコ 本当にびっくりしたのは、一つのマイムをやって、ハングリィIの観客全員が笑うんです。今までは、(当時の)日本の観客と同じで反応が乏しくて。パントマイムで客席がしーんと静まっているのは辛いんです。生活が大変だから、場所を選ばずにやっていましたが、初めて正しい場所に作品を乗せないとダメだなと思いました。(ここで)本当にやっと作品を上演できるという心境でした。
佐々木 それまで大変苦労されたわけですね。
ママコ ハングリィIに来るまで結局6、7年かかっているわけです。仕事を取るためにかかる時間が10年単位です。だから、1、2年で仕事がないと言っている人は、おかしいです。自分の心の中に10年くらい、自分は何ができるのかって耳を傾けてないと自分が見つからないと体験的に言えるわけです。私は真っ暗闇の中を、目をつぶって歩いてきたというのが正直な思いです。
佐々木 ハングリィIには、何年くらい出演を続けたのですか。
ママコ 4、5回出させて頂いて、(そことは別に)オリエンタルのショーにも出演していました。ハリウッドの立派な制作会社のプロデューサーに声をかけられて、アメリカ中を巡業するのですが、出演者はオリエンタルの芸人ばっかりでした。行ってみると、プロデューサーの家は立派だけど、我々のツアーは非常に大変でしたね(笑)。時々そういう仕事も紛れ込んで引き受けていました。
佐々木 アメリカでは、処女作の「雪の夜に猫を捨てる」のような作品をやっていたのでしょうか?
ママコ そういうゆったりした情緒的な作品は、怖くてできなかったですね。まず舞台自体が戦いで、裂帛(れっぱく)の気迫でやらないといけないと思っていました。そこで上演した作品には、例えば『ウーマン・ドライバー』があります。女性の運転手が、お化粧に気を取られて、道を誤って曲がってしまったり、後ろの車から押されると、車から出てドヤしてみたり、エンジンストップすると、非常に非科学的な女だから、髪の毛1本で故障を直して車が動きだすという感じで、ちょっとアメリカナイズされた、戦いの作品をやっていました。
佐々木 その後は、どういうお仕事に移ったのですか。
ママコ その後、カリフォルニア大学エクステンションに移りました。エクステンションというのは、外から習いに来る人たちの意味で、カリフォルニア大学に外から習いに来る一般人のための教室の先生です。当時はハングリィIや2,3カ所小さな劇団で教えていて、その劇団にクリント・イーストウッドも来ていましたが、その時にカリフォルニア大学の先生が観に来て、大学で教えないかと声をかけられました。それで行ってみると、そこで試験をするんです。生徒が私を試験して…。
佐々木 アメリカだと、そういうことがあるのですね。
ママコ 私はまだ若いから耐えられたのですが、試験の結果が良いので採用されました。先生は「アンケート」という言葉を使っていましたが、実際は試験ですね。それから専任教師になると、スケジュールが1年分くらい次々入ってきて、困ったなあと思いました。アメリカってナイトクラブで踊っていた人間を大学の先生に採用するから偉いですね。
(つづく)
佐々木 その後、テレビに出演して大変有名になり、1960年に渡米されたそうですが、その経緯を教えてください。
ママコ 運悪く一人の男の人につかまっちゃったわけです。その話は簡単にしますが、マスコミに非常につけ狙われて、その時に振られたものですから、表向きは笑っていても中身は惨憺たるものだったのです。それで、ちょっと外国に行った方が良いということで渡米しました。
佐々木 当時、アメリカでの生活は大変だったかと思いますが、そこでのマイムのお仕事はすぐに見つかりましたか。
ママコ いえ、最初の仕事らしい仕事を見つけたのは、4年目くらいですね。最初はハウスガールをやっていて、それからナイトクラブのダンサーになりました。ダンスをやりながら、マイムを切り開いていくというか、マイムを試行錯誤しているのです。そのクラブはアジア系のダンサーが集まって、とてもパントマイムをやるような環境ではなく、非常に大変な環境でした。一緒に舞台に出ていた女性がフィリピーノから、コリアン、中国、日本となるわけです。この環境の中で、唯一の救いは、クラブのオーナーが非常に大切にしてくれたことです。オーナーが“他は、アメリカンスープで良いんだ。ママコだけにはチャイニーズスープを飲ませろ”と言ってくれました。チャイニーズスープは、アメリカンスープに比べて材料が高いそうです。そのチャイニーズスープが当時の私の唯一の救いでした。その中で何年かやった後に、ハングリィIに移りました。
佐々木 ハングリィIというのは、ナイトクラブですか。
ママコ ハングリィIというのは、ライブハウスです。映画監督に成る前のウッデイ・アレンが、ニューヨークの小さなライブハウスでやっていたのですが、それがハングリィIのニューヨーク版です。このライブハウスで、私の前にコメディアンで有名なビル・コスビーがやっていました。私がいた時には、女優のバーブラ・ストライサンド、歌手のメル・トーメやミュージシャンのキングストン・トリオが来たりして、非常に観客の目が高かったのです。この質の高いライブハウスが、サンフランシスコ、ロサンジェルス、ニューヨーク、シカゴ、ワシントンにあって、芸人が芸を磨いていました。
佐々木 ハングリィIの時の舞台は、どんな感じだったのでしょうか。
ママコ 本当にびっくりしたのは、一つのマイムをやって、ハングリィIの観客全員が笑うんです。今までは、(当時の)日本の観客と同じで反応が乏しくて。パントマイムで客席がしーんと静まっているのは辛いんです。生活が大変だから、場所を選ばずにやっていましたが、初めて正しい場所に作品を乗せないとダメだなと思いました。(ここで)本当にやっと作品を上演できるという心境でした。
佐々木 それまで大変苦労されたわけですね。
ママコ ハングリィIに来るまで結局6、7年かかっているわけです。仕事を取るためにかかる時間が10年単位です。だから、1、2年で仕事がないと言っている人は、おかしいです。自分の心の中に10年くらい、自分は何ができるのかって耳を傾けてないと自分が見つからないと体験的に言えるわけです。私は真っ暗闇の中を、目をつぶって歩いてきたというのが正直な思いです。
佐々木 ハングリィIには、何年くらい出演を続けたのですか。
ママコ 4、5回出させて頂いて、(そことは別に)オリエンタルのショーにも出演していました。ハリウッドの立派な制作会社のプロデューサーに声をかけられて、アメリカ中を巡業するのですが、出演者はオリエンタルの芸人ばっかりでした。行ってみると、プロデューサーの家は立派だけど、我々のツアーは非常に大変でしたね(笑)。時々そういう仕事も紛れ込んで引き受けていました。
佐々木 アメリカでは、処女作の「雪の夜に猫を捨てる」のような作品をやっていたのでしょうか?
ママコ そういうゆったりした情緒的な作品は、怖くてできなかったですね。まず舞台自体が戦いで、裂帛(れっぱく)の気迫でやらないといけないと思っていました。そこで上演した作品には、例えば『ウーマン・ドライバー』があります。女性の運転手が、お化粧に気を取られて、道を誤って曲がってしまったり、後ろの車から押されると、車から出てドヤしてみたり、エンジンストップすると、非常に非科学的な女だから、髪の毛1本で故障を直して車が動きだすという感じで、ちょっとアメリカナイズされた、戦いの作品をやっていました。
佐々木 その後は、どういうお仕事に移ったのですか。
ママコ その後、カリフォルニア大学エクステンションに移りました。エクステンションというのは、外から習いに来る人たちの意味で、カリフォルニア大学に外から習いに来る一般人のための教室の先生です。当時はハングリィIや2,3カ所小さな劇団で教えていて、その劇団にクリント・イーストウッドも来ていましたが、その時にカリフォルニア大学の先生が観に来て、大学で教えないかと声をかけられました。それで行ってみると、そこで試験をするんです。生徒が私を試験して…。
佐々木 アメリカだと、そういうことがあるのですね。
ママコ 私はまだ若いから耐えられたのですが、試験の結果が良いので採用されました。先生は「アンケート」という言葉を使っていましたが、実際は試験ですね。それから専任教師になると、スケジュールが1年分くらい次々入ってきて、困ったなあと思いました。アメリカってナイトクラブで踊っていた人間を大学の先生に採用するから偉いですね。
(つづく)