佐々木 今なお再演を続ける代表作『幻の蝶』は79年1月に初演ですが、初演はどういう劇場で上演したのでしょうか。
清水 初演は当時水道橋にあった労音会館です。パントマイムは小さな空間が良いと自分も周囲も思っていましたが、一度大きなところでやってみたいと思い、400人くらい入るホールで上演しました。当時、僕はイベントで稼いでいたので、稼いだお金をそそぎこんで、衣装を作り、音楽を全部作曲して、演奏家を呼んでスタジオ録音したりと、とてもお金がかかりましたね。これまで中々きっちりした形でマイムを上演していなかったので、全てをしっかり創り上げた舞台にしたいと思っていました。初演のチラシのイラストは、今をときめく絵本作家のスズキコージさんです。
佐々木 何か原型になる作品群があったのですか。
清水 この公演の前に、『まいむろーど』と題して、客席3~40人程の小さなスペースで毎月連続公演を行っていました。2カ月に1回は新作をやり、翌月にもう一度同じ作品をやるという形を2年程続けたでしょうか。その中でたまった作品の中から、『幻の蝶』が生まれました。初演の時は10本の作品を選んで上演しましたが、お客さんから一部が終わって休憩の時に「まだあるのですか」と言われました。さぞ疲れたのでしょうね(笑)僕はやりたくてしょうがなかったから。
佐々木 『幻の蝶』の作品は、初演の時と変えていないでしょうか。
清水 初演の時の演目から2本減らして、アンコールに1本増やした形でずっと続けております。ただ、作品自体は少しずつ変わってますね。
佐々木 84年8月に能舞台で『幻の蝶』を上演したきっかけは何ですか。
清水 先程大きな舞台でという話をしましたが、小さな舞台でしかやったことがなかったので、大きな舞台を埋めるためには、とにかく動くんだと思って動いたのです。ですが、動けば動くほど大きさに負けているのを感じていました。空間を埋められなくて却って印象が拡散している感覚がありました。それで、2年目くらいから、舞台の上に平台を組んで舞台上に舞台を作ったんです。広い舞台を全部使わないで、3間四方で板を組んで、このスペースだけを使おうと考えました。その時は能舞台の意識がなかったのですが、しばらくして、本で能舞台の大きさは3間四方という言葉を見つけて、3間四方って僕がやった舞台と同じ大きさだと発見しました。3間四方は日本人の身体の大きさに合う寸法なのかなと思いました。
佐々木 その時は、実際に上演されてどうだったのですか。
清水 床のスペースを区切った時から、舞台の集中度が濃くなり、大きな舞台だから全部のスペースを使う必要がないと実感しました。それで、意識が集中できれば逆に空間の広がりが表現できると思い始めていて、能舞台でやるのも面白いだろうな、やってみたいなと。でも門外漢には貸して下さいとは言いにくくて躊躇していました。ところが、たまたま九州にイベントで行ったときに、常連の飲み屋で能舞台でやりたいという話をしていたら、居合わせた知人が、福岡の住吉神社に能舞台があるので話を持って行ってくれるとおっしゃって、そのツテで貸して頂きました。住吉さんでやらしてもらったのが初めての能舞台です。その後に名古屋の熱田神宮さんも住吉さんでやったのならば良いと言ってやらせて下さり、続いて東京の梅若さんでもできるようになりました。
佐々木 住吉大社で上演した時はどうだったのですか。
清水 住吉さんの能舞台は元々屋外にあったのですが、後に古い舞台に建物を被せた形でした。防音なんて全く考慮されていないので、上演中に救急車のサイレンや隣家の犬の鳴き声など、屋外の音はそのまま入ってくるし、夏の真っ盛りなのに冷房はなし、氷の柱を買ってきて客席のあちこちに置き、扇風機を回してという状態でした。ただ、小屋守みたいなおばあさんがいて、おばあさんが「舞台を毎日、牛乳を布に染みこませて磨くのよ」と言っていたのですが、雨や風にさらされていたはずの舞台が本当に黒光りして、客席から舞台を見るとまるで鏡のようでした。後に舞台写真を見たら、自分の姿が逆さ富士のように見えました。それまで、そこまで愛情をもって磨き上げた舞台を知らなかったから、改めて能舞台とはすごいものなんだと思いましたね。
佐々木 なるほど。
清水 やはり、能舞台でやらしてもらうと、普通の額縁舞台とは違った色々なものを演じる中で感じますね。自分の空間に対する意識も変わるし、お客さんにどう対面するのかも変わるし、大変勉強になりましたね。能舞台でやると、最初の頃は脇の方から観られることに対して意識してしまいがちでしたが、ある時から横や後ろから観られても、自分の気持ちが埋まっていればいいんだと思えるようになり、楽になってきました。すると今度は能舞台が安心できる居心地の良い空間になるのです。気持ち良いですよ、お客さんに包まれている感じがします。普通の舞台はお客さんと向かい合って対決するような状態ですが、能舞台は色々な方角から観られるから、観客と演者とが対峙するのではなくて、一緒に空間を作っていく構造になっている感じがします。
佐々木 大変興味深いお話ですね。『幻の蝶』は何回くらい上演していますか。
清水 昨年の10月で125回目を迎えました。100回目までは勢いでいったけど、100回超したらペースダウンしましたね。
佐々木 清水先生は、佐々木先生から受け継いだドゥクルーの理論を取り入れたマイムというよりも日本的なものを取り入れた独自のスタイルを確立されていますね。
清水 そうですね。ドゥクルーは、佐々木先生を通してしか知らないし、僕はフランスに行ってないので、自分で作るしかないと考えていました。もし、ドゥクルーから直接教えを受けていれば影響を受けた作品を作ったと思います。身体の使い方のベースはドゥクルーのシステムですが、作品としては独自のもので、本当に見よう見まねで、マルソーやバローの舞台や映画を自分なりに解釈したパントマイムを作っていました。それに、対抗心ではないですが、並木孝雄君がフランスに行くなら、僕は日本で自分のものを作ってやるという思いがあったので、そうなると目を向けるのは日本の伝統文化しかないわけですね。
佐々木 そういうことが背景だったのですね。
清水 日舞の方と一緒に上演してみたりしながら、ヨーロッパのパントマイムとは違うパントマイムを作ろうと試行錯誤をしていました。日常生活を表現するにしても、佐々木先生は、ヨーロッパの生活の中で生まれたマイムの動きを教えてくれたのですが、僕がスタジオに行った40数年前は、私達の多くは日本家屋で生活し、生活習慣も和風な訳です。例えば、部屋から外に出るのは引き戸だったし、食事は箸を使っていたので、ナイフやフォークを使うマイムや、ドアを開くマイムは実感がありませんでした。僕たちが生まれ育った生活の中からでてきた仕草や感覚をベースにして作品を作りたいなと思っていて、素材にしても日本の民話や説話等を素材にしたいと考えていました。かといって、ヨーロッパのマイムが嫌いな訳ではなく、バローには恋する相手みたいに憧れ、マルソーにはいつかあの人を超えたいという大それた目標がありました。実は、実はヨーロッパの影響は大きかったのでしょうね。
佐々木 2000年に清水きよしマイムワークスで活動を開始しましたが、これは、ぴえろ館から何か変わったのですか。
清水 まず、ぴえろ館も何年か続いていて、山田とうし君がソロで活動できるようになり、吉見君も一人立ちできそうになった頃で、ぴえろ館もそろそろ潮時かなと考えていました。自分でどんどんできる人と、それができないけど何となくいる人と二つに分かれていました。僕がこのままスタジオやっているとみんなここにいて、多分それなりにやってる気持になるのだろうけど、マイム一本でやるのならこの中途半端な状況はマズイと思っていました。年数を限って卒業という形にしていなかったので、いたい人はズルズルと何年でもいられたので、「僕は退こう、辞めるぞ。みんなどうするか、さあ考えろ」とか言って、活動を休止してしまったのです。それでスタジオを閉めて、山田君も吉見君もそれぞれ活動を始めて、それがきっかけで吉見君は多分ケッチとグループを組んで“がーまるちょば”を始めたと思います。僕のスタジオは辞めたんだけど、活動を続けたい人たちは、山田君のところの新空間に集まっていきました。
佐々木 そういう流れだったんですか。
清水 でも、まだ始めて日が浅く、新空間にも行かずに残った人たちには、週1回だけ教室を開催しました。でも、1年、2年経ってもやはり体質が変わらないのでそこも閉め、僕は青梅に引っ越して、自分の公演のためにマイムワークスを作りました。でも若い人を育てたいという思いも捨てきれず、今は週に1回、吉祥寺で教室を開いています。
佐々木 最後に、現在のパントマイムの状況についてどうお感じになっていますか。
清水 こんなに経済的に厳しい時代ですと、昔みたいにやりたいことを好きなようにやれるような状態でなくて大変だと思います。
佐々木 そうですね。ソロ公演で舞台をやるのは一部の方になっているのは寂しいですね。あと、20~30代の若い世代が、上の世代に比べると少し層が薄い感じがします。
清水 いまは景気が落ち込んでいるので、安心してマイムの勉強に打ち込める状況ではないですよね。若い人に教えていると、その事が切実に伝わってきます。例えば、山田くんや吉見くんの頃は、「じゃあ俺、ちょっと九州や四国に舞台で行くけど来るか」というと、彼らはバイトを休んで一緒についてきました。公演の話を持ちかけると、「出ます」と言ってバイトを休んだり、場合によっては辞めたりして出演しました。今は、バイトを辞めると仕事が見つからない不安とかがありますよね。でも、このように時代の状況が悪くなると、むしろ反作用でまた生き生きとした、新しい流れが生まれてくるのではないかと期待しています。
佐々木 長時間ありがとうございました。
清水きよし先生に3回にわたって、日本のパントマイムの草創期から現在までの活動を振り返ってお話頂きました。フランスから入ってきたパントマイムが、日本独自の形で発展していく大きな流れを感じて頂けたのではないでしょうか。ソロの舞台を上演することの大切さを強調されていたのがとても印象的でした。
(了)
清水 初演は当時水道橋にあった労音会館です。パントマイムは小さな空間が良いと自分も周囲も思っていましたが、一度大きなところでやってみたいと思い、400人くらい入るホールで上演しました。当時、僕はイベントで稼いでいたので、稼いだお金をそそぎこんで、衣装を作り、音楽を全部作曲して、演奏家を呼んでスタジオ録音したりと、とてもお金がかかりましたね。これまで中々きっちりした形でマイムを上演していなかったので、全てをしっかり創り上げた舞台にしたいと思っていました。初演のチラシのイラストは、今をときめく絵本作家のスズキコージさんです。
佐々木 何か原型になる作品群があったのですか。
清水 この公演の前に、『まいむろーど』と題して、客席3~40人程の小さなスペースで毎月連続公演を行っていました。2カ月に1回は新作をやり、翌月にもう一度同じ作品をやるという形を2年程続けたでしょうか。その中でたまった作品の中から、『幻の蝶』が生まれました。初演の時は10本の作品を選んで上演しましたが、お客さんから一部が終わって休憩の時に「まだあるのですか」と言われました。さぞ疲れたのでしょうね(笑)僕はやりたくてしょうがなかったから。
佐々木 『幻の蝶』の作品は、初演の時と変えていないでしょうか。
清水 初演の時の演目から2本減らして、アンコールに1本増やした形でずっと続けております。ただ、作品自体は少しずつ変わってますね。
佐々木 84年8月に能舞台で『幻の蝶』を上演したきっかけは何ですか。
清水 先程大きな舞台でという話をしましたが、小さな舞台でしかやったことがなかったので、大きな舞台を埋めるためには、とにかく動くんだと思って動いたのです。ですが、動けば動くほど大きさに負けているのを感じていました。空間を埋められなくて却って印象が拡散している感覚がありました。それで、2年目くらいから、舞台の上に平台を組んで舞台上に舞台を作ったんです。広い舞台を全部使わないで、3間四方で板を組んで、このスペースだけを使おうと考えました。その時は能舞台の意識がなかったのですが、しばらくして、本で能舞台の大きさは3間四方という言葉を見つけて、3間四方って僕がやった舞台と同じ大きさだと発見しました。3間四方は日本人の身体の大きさに合う寸法なのかなと思いました。
佐々木 その時は、実際に上演されてどうだったのですか。
清水 床のスペースを区切った時から、舞台の集中度が濃くなり、大きな舞台だから全部のスペースを使う必要がないと実感しました。それで、意識が集中できれば逆に空間の広がりが表現できると思い始めていて、能舞台でやるのも面白いだろうな、やってみたいなと。でも門外漢には貸して下さいとは言いにくくて躊躇していました。ところが、たまたま九州にイベントで行ったときに、常連の飲み屋で能舞台でやりたいという話をしていたら、居合わせた知人が、福岡の住吉神社に能舞台があるので話を持って行ってくれるとおっしゃって、そのツテで貸して頂きました。住吉さんでやらしてもらったのが初めての能舞台です。その後に名古屋の熱田神宮さんも住吉さんでやったのならば良いと言ってやらせて下さり、続いて東京の梅若さんでもできるようになりました。
佐々木 住吉大社で上演した時はどうだったのですか。
清水 住吉さんの能舞台は元々屋外にあったのですが、後に古い舞台に建物を被せた形でした。防音なんて全く考慮されていないので、上演中に救急車のサイレンや隣家の犬の鳴き声など、屋外の音はそのまま入ってくるし、夏の真っ盛りなのに冷房はなし、氷の柱を買ってきて客席のあちこちに置き、扇風機を回してという状態でした。ただ、小屋守みたいなおばあさんがいて、おばあさんが「舞台を毎日、牛乳を布に染みこませて磨くのよ」と言っていたのですが、雨や風にさらされていたはずの舞台が本当に黒光りして、客席から舞台を見るとまるで鏡のようでした。後に舞台写真を見たら、自分の姿が逆さ富士のように見えました。それまで、そこまで愛情をもって磨き上げた舞台を知らなかったから、改めて能舞台とはすごいものなんだと思いましたね。
佐々木 なるほど。
清水 やはり、能舞台でやらしてもらうと、普通の額縁舞台とは違った色々なものを演じる中で感じますね。自分の空間に対する意識も変わるし、お客さんにどう対面するのかも変わるし、大変勉強になりましたね。能舞台でやると、最初の頃は脇の方から観られることに対して意識してしまいがちでしたが、ある時から横や後ろから観られても、自分の気持ちが埋まっていればいいんだと思えるようになり、楽になってきました。すると今度は能舞台が安心できる居心地の良い空間になるのです。気持ち良いですよ、お客さんに包まれている感じがします。普通の舞台はお客さんと向かい合って対決するような状態ですが、能舞台は色々な方角から観られるから、観客と演者とが対峙するのではなくて、一緒に空間を作っていく構造になっている感じがします。
佐々木 大変興味深いお話ですね。『幻の蝶』は何回くらい上演していますか。
清水 昨年の10月で125回目を迎えました。100回目までは勢いでいったけど、100回超したらペースダウンしましたね。
佐々木 清水先生は、佐々木先生から受け継いだドゥクルーの理論を取り入れたマイムというよりも日本的なものを取り入れた独自のスタイルを確立されていますね。
清水 そうですね。ドゥクルーは、佐々木先生を通してしか知らないし、僕はフランスに行ってないので、自分で作るしかないと考えていました。もし、ドゥクルーから直接教えを受けていれば影響を受けた作品を作ったと思います。身体の使い方のベースはドゥクルーのシステムですが、作品としては独自のもので、本当に見よう見まねで、マルソーやバローの舞台や映画を自分なりに解釈したパントマイムを作っていました。それに、対抗心ではないですが、並木孝雄君がフランスに行くなら、僕は日本で自分のものを作ってやるという思いがあったので、そうなると目を向けるのは日本の伝統文化しかないわけですね。
佐々木 そういうことが背景だったのですね。
清水 日舞の方と一緒に上演してみたりしながら、ヨーロッパのパントマイムとは違うパントマイムを作ろうと試行錯誤をしていました。日常生活を表現するにしても、佐々木先生は、ヨーロッパの生活の中で生まれたマイムの動きを教えてくれたのですが、僕がスタジオに行った40数年前は、私達の多くは日本家屋で生活し、生活習慣も和風な訳です。例えば、部屋から外に出るのは引き戸だったし、食事は箸を使っていたので、ナイフやフォークを使うマイムや、ドアを開くマイムは実感がありませんでした。僕たちが生まれ育った生活の中からでてきた仕草や感覚をベースにして作品を作りたいなと思っていて、素材にしても日本の民話や説話等を素材にしたいと考えていました。かといって、ヨーロッパのマイムが嫌いな訳ではなく、バローには恋する相手みたいに憧れ、マルソーにはいつかあの人を超えたいという大それた目標がありました。実は、実はヨーロッパの影響は大きかったのでしょうね。
佐々木 2000年に清水きよしマイムワークスで活動を開始しましたが、これは、ぴえろ館から何か変わったのですか。
清水 まず、ぴえろ館も何年か続いていて、山田とうし君がソロで活動できるようになり、吉見君も一人立ちできそうになった頃で、ぴえろ館もそろそろ潮時かなと考えていました。自分でどんどんできる人と、それができないけど何となくいる人と二つに分かれていました。僕がこのままスタジオやっているとみんなここにいて、多分それなりにやってる気持になるのだろうけど、マイム一本でやるのならこの中途半端な状況はマズイと思っていました。年数を限って卒業という形にしていなかったので、いたい人はズルズルと何年でもいられたので、「僕は退こう、辞めるぞ。みんなどうするか、さあ考えろ」とか言って、活動を休止してしまったのです。それでスタジオを閉めて、山田君も吉見君もそれぞれ活動を始めて、それがきっかけで吉見君は多分ケッチとグループを組んで“がーまるちょば”を始めたと思います。僕のスタジオは辞めたんだけど、活動を続けたい人たちは、山田君のところの新空間に集まっていきました。
佐々木 そういう流れだったんですか。
清水 でも、まだ始めて日が浅く、新空間にも行かずに残った人たちには、週1回だけ教室を開催しました。でも、1年、2年経ってもやはり体質が変わらないのでそこも閉め、僕は青梅に引っ越して、自分の公演のためにマイムワークスを作りました。でも若い人を育てたいという思いも捨てきれず、今は週に1回、吉祥寺で教室を開いています。
佐々木 最後に、現在のパントマイムの状況についてどうお感じになっていますか。
清水 こんなに経済的に厳しい時代ですと、昔みたいにやりたいことを好きなようにやれるような状態でなくて大変だと思います。
佐々木 そうですね。ソロ公演で舞台をやるのは一部の方になっているのは寂しいですね。あと、20~30代の若い世代が、上の世代に比べると少し層が薄い感じがします。
清水 いまは景気が落ち込んでいるので、安心してマイムの勉強に打ち込める状況ではないですよね。若い人に教えていると、その事が切実に伝わってきます。例えば、山田くんや吉見くんの頃は、「じゃあ俺、ちょっと九州や四国に舞台で行くけど来るか」というと、彼らはバイトを休んで一緒についてきました。公演の話を持ちかけると、「出ます」と言ってバイトを休んだり、場合によっては辞めたりして出演しました。今は、バイトを辞めると仕事が見つからない不安とかがありますよね。でも、このように時代の状況が悪くなると、むしろ反作用でまた生き生きとした、新しい流れが生まれてくるのではないかと期待しています。
佐々木 長時間ありがとうございました。
清水きよし先生に3回にわたって、日本のパントマイムの草創期から現在までの活動を振り返ってお話頂きました。フランスから入ってきたパントマイムが、日本独自の形で発展していく大きな流れを感じて頂けたのではないでしょうか。ソロの舞台を上演することの大切さを強調されていたのがとても印象的でした。
(了)