今からちょうど60年前。1人の女性の作品から日本でパントマイムの歴史が始まった。ヨネヤマ・ママコさんの「雪の夜に猫を捨てる」。この作品の誕生をきっかけに、日本でパントマイムが芽吹き、幾年もの時を経て大樹へと成長していく──。パントマイムの草創期から活躍し、今なお輝き続けるヨネヤマ・ママコさんに、様々な困難を乗り越えたその熱い活動や作品作りについて語って頂いた。
※インタビューは何十年も昔のことも触れているため、100%正確でない可能性があります。ご了承ください。
■ヨネヤマ・ママコ氏 プロフィール
1935年 山梨県身延町に生まれる。幼少より石井漠門下であった父よりバレエの基本を教わる。
1953年 東京教育大学体育学部に入学。江口隆哉モダンダンス門下に入る。
1954年 処女作「雪の夜に猫を捨てる」を発表、ダンスマイムとして激賞される。
1958年 NHKテレビ「私はパック」のパック役でデビュー。
1960年 渡米。カリフォルニア大学、ACT劇団などでマイムを教えながら、基本メソッドを築く。
1972年 帰国し、ママコ・ザ・マイムスタジオを設立。舞台活動ともに後進を育成する。
1992年 渡仏し、パリ郊外フォンテンブローの森近くにアトリエを兼ねた居を構え、新しい研究・創作活動を開始。
同年 葦原英了賞を受賞。
1993年 帰国し、日本での活動を再開。
現在も舞台活動を精力的に継続中。2014年6月には「東京マイムフェス2014」に出演予定。
佐々木 まず、処女作の「雪の日に猫を捨てる」についてお聞きしたいのですが、この作品が生まれたのは、マルセル・マルソーの舞台を観たことがきっかけですよね。
ママコ ええ、マルソーの公演に触発されて、何とかマイムの作品を作りました。でも、身体がダンスしか知らないものですから、なかなかマイムに行かなかったです。
佐々木 この作品は、全部お一人でお作りになったのですか。
ママコ はい。時々アイデアに困って、何人かの友達に、「これ大丈夫かな」とか聞いたりして作りました。これは一番初めの創作ですから苦心しました。
佐々木 作品のどの部分に特に苦労したのでしょうか。
ママコ 一番苦労したのは、ストーリーの部分ですね。
佐々木 どういうストーリーでしょうか。
ママコ 元々の出発点が詩的なものというか、ポエムですね。真っ白い雪の夜に真っ白い猫を捨てに女の子が彷徨っているという姿を想像しました。素敵じゃないですか。女の子が、雪の中を滑ったり、転んだりしながら、猫を捨てる場所を探すのですが、隣の家の人ににらまれたり、捨てる場所が悪かったりして、色々と探すうちに雪の美しさに見惚れて踊るところがあったりして、それで、猫にちょっと噛まれることをきっかけとして、ようやく捨てて、一生懸命逃げたら、足元に猫がくっついて来ている。しばらくして、女の子が猫に気付いた時に、お客様がちょっと喜びました。
佐々木 すごい。
ママコ 舞台で一番作りたかったのは、詩情や詩的な世界です。その頃が、一番感性がしっかりしていたんですね。この作品の、捨てたと思った猫が最後に足元にくっついて来ているという展開がとても好評で、マネする人がたくさんいましたね。
佐々木 この作品は、大学生の時に作ったそうですが、創作の時のエピソードをお聞かせください。
ママコ 大学の1年か2年生で、グラウンドや校庭の片隅の小さなスタジオで創作していましたが、夜は大学の門が閉まってますから、門衛さんの助けを借りて、大学の門をよじ登って入って、そこで振付けていました。
佐々木 門衛さんって。
ママコ 門衛さんって、大学の門番ですね。
佐々木 ああ、門番(笑)。
ママコ 夜は、男の恰好をしていないと危ないから、男の恰好をしていたのですが、私が歩くと、近くにいる女の人が逃げてしまいました。当時から一人でいることにすごく強くて、だから困るんです。一人でいることが好きだったから、人生が非常に大変だったのです。
佐々木 この作品は、どこで上演されたのですか?
ママコ 青山の日本青年館です。当時の日本青年館は、舞台公演を頻繁に上演していました。その当時から、モダンダンス(現代舞踊)は、非常に作品発表が多くて、現代舞踊協会という団体が中心に今でも盛んに活動しています。私は、当時、モダンダンスを習っていて、モダンダンスの公演の中でこの作品を上演しました。
佐々木 その当時の観客は、勿論、パントマイムを観たことがなかったのですが、どんな印象を受けたのでしょうか。
ママコ 渋谷のジャンジャンが当時は小劇場運動の先駆けとして活気がありました。アメリカから帰国してそこ(ジャンジャン)で演じた時、お客さんは、笑わないで、しーんと(黙って)観ているんですよ。二幕目になってから、お客さんは、笑っていいんだなと思って笑い始めました。吉本興業は、まだ当時は東京に進出していなくて、お客さんは、まだ笑いに対して目を覚ましていなかったのです。ですから、私は「しまった、二幕目からやれば良かった」と思いましたが、一幕目が終わって、15分の休憩でお客さんが嬉しそうにしゃべっているんです。二幕目になると、私の一挙手一投足で笑うんです。まるで、こっちが教育しているみたいでした(笑)。
佐々木 観客は、初めは何かなと思って観てたんですね。
ママコ 話が戻りますが、『雪の夜』の公演が終わったら、突然サンケイホールに呼ばれて、産経新聞の新聞記者にインタビューを受けたのです。私は、大変緊張して、自分は今、どんな格好して話しているのだろうと思ったら、良く考えたら、学生服で来ていたじゃないですか。そんなような困り方で、色々聞かれたら、翌日の新聞に掲載されたのです。この作品は2、3回上演しましたが、専門家の間で評判になりました。作曲家の今井重幸さんがこの作品の作曲をして、雪をイメージしてファゴット(木管楽器)の音を入れて下さり、本当に雪が降っているように聞こえました。
佐々木 この舞台をきっかけに、パントマイミストになろうと思われたのですか。
ママコ いえ、あまりにも難しくてね。それでなろうと思ってなかったです。何かやりたいとは思っていましたけど。
(つづく)
※インタビューは何十年も昔のことも触れているため、100%正確でない可能性があります。ご了承ください。
■ヨネヤマ・ママコ氏 プロフィール
1935年 山梨県身延町に生まれる。幼少より石井漠門下であった父よりバレエの基本を教わる。
1953年 東京教育大学体育学部に入学。江口隆哉モダンダンス門下に入る。
1954年 処女作「雪の夜に猫を捨てる」を発表、ダンスマイムとして激賞される。
1958年 NHKテレビ「私はパック」のパック役でデビュー。
1960年 渡米。カリフォルニア大学、ACT劇団などでマイムを教えながら、基本メソッドを築く。
1972年 帰国し、ママコ・ザ・マイムスタジオを設立。舞台活動ともに後進を育成する。
1992年 渡仏し、パリ郊外フォンテンブローの森近くにアトリエを兼ねた居を構え、新しい研究・創作活動を開始。
同年 葦原英了賞を受賞。
1993年 帰国し、日本での活動を再開。
現在も舞台活動を精力的に継続中。2014年6月には「東京マイムフェス2014」に出演予定。
佐々木 まず、処女作の「雪の日に猫を捨てる」についてお聞きしたいのですが、この作品が生まれたのは、マルセル・マルソーの舞台を観たことがきっかけですよね。
ママコ ええ、マルソーの公演に触発されて、何とかマイムの作品を作りました。でも、身体がダンスしか知らないものですから、なかなかマイムに行かなかったです。
佐々木 この作品は、全部お一人でお作りになったのですか。
ママコ はい。時々アイデアに困って、何人かの友達に、「これ大丈夫かな」とか聞いたりして作りました。これは一番初めの創作ですから苦心しました。
佐々木 作品のどの部分に特に苦労したのでしょうか。
ママコ 一番苦労したのは、ストーリーの部分ですね。
佐々木 どういうストーリーでしょうか。
ママコ 元々の出発点が詩的なものというか、ポエムですね。真っ白い雪の夜に真っ白い猫を捨てに女の子が彷徨っているという姿を想像しました。素敵じゃないですか。女の子が、雪の中を滑ったり、転んだりしながら、猫を捨てる場所を探すのですが、隣の家の人ににらまれたり、捨てる場所が悪かったりして、色々と探すうちに雪の美しさに見惚れて踊るところがあったりして、それで、猫にちょっと噛まれることをきっかけとして、ようやく捨てて、一生懸命逃げたら、足元に猫がくっついて来ている。しばらくして、女の子が猫に気付いた時に、お客様がちょっと喜びました。
佐々木 すごい。
ママコ 舞台で一番作りたかったのは、詩情や詩的な世界です。その頃が、一番感性がしっかりしていたんですね。この作品の、捨てたと思った猫が最後に足元にくっついて来ているという展開がとても好評で、マネする人がたくさんいましたね。
佐々木 この作品は、大学生の時に作ったそうですが、創作の時のエピソードをお聞かせください。
ママコ 大学の1年か2年生で、グラウンドや校庭の片隅の小さなスタジオで創作していましたが、夜は大学の門が閉まってますから、門衛さんの助けを借りて、大学の門をよじ登って入って、そこで振付けていました。
佐々木 門衛さんって。
ママコ 門衛さんって、大学の門番ですね。
佐々木 ああ、門番(笑)。
ママコ 夜は、男の恰好をしていないと危ないから、男の恰好をしていたのですが、私が歩くと、近くにいる女の人が逃げてしまいました。当時から一人でいることにすごく強くて、だから困るんです。一人でいることが好きだったから、人生が非常に大変だったのです。
佐々木 この作品は、どこで上演されたのですか?
ママコ 青山の日本青年館です。当時の日本青年館は、舞台公演を頻繁に上演していました。その当時から、モダンダンス(現代舞踊)は、非常に作品発表が多くて、現代舞踊協会という団体が中心に今でも盛んに活動しています。私は、当時、モダンダンスを習っていて、モダンダンスの公演の中でこの作品を上演しました。
佐々木 その当時の観客は、勿論、パントマイムを観たことがなかったのですが、どんな印象を受けたのでしょうか。
ママコ 渋谷のジャンジャンが当時は小劇場運動の先駆けとして活気がありました。アメリカから帰国してそこ(ジャンジャン)で演じた時、お客さんは、笑わないで、しーんと(黙って)観ているんですよ。二幕目になってから、お客さんは、笑っていいんだなと思って笑い始めました。吉本興業は、まだ当時は東京に進出していなくて、お客さんは、まだ笑いに対して目を覚ましていなかったのです。ですから、私は「しまった、二幕目からやれば良かった」と思いましたが、一幕目が終わって、15分の休憩でお客さんが嬉しそうにしゃべっているんです。二幕目になると、私の一挙手一投足で笑うんです。まるで、こっちが教育しているみたいでした(笑)。
佐々木 観客は、初めは何かなと思って観てたんですね。
ママコ 話が戻りますが、『雪の夜』の公演が終わったら、突然サンケイホールに呼ばれて、産経新聞の新聞記者にインタビューを受けたのです。私は、大変緊張して、自分は今、どんな格好して話しているのだろうと思ったら、良く考えたら、学生服で来ていたじゃないですか。そんなような困り方で、色々聞かれたら、翌日の新聞に掲載されたのです。この作品は2、3回上演しましたが、専門家の間で評判になりました。作曲家の今井重幸さんがこの作品の作曲をして、雪をイメージしてファゴット(木管楽器)の音を入れて下さり、本当に雪が降っているように聞こえました。
佐々木 この舞台をきっかけに、パントマイミストになろうと思われたのですか。
ママコ いえ、あまりにも難しくてね。それでなろうと思ってなかったです。何かやりたいとは思っていましたけど。
(つづく)