(インタビューの第3回は、渡仏から帰国後の活動についてご紹介します)
編集部 フランスから帰国されて、日本マイム研究所の2代目の所長に就任したのは何年でしょうか。
佐々木博康(以下、佐々木) 1966年に帰国して、就任したのが67年ですね。帰国してから、及川先生と一緒にレッスンを教えていたのですが、1年程で及川先生がアルトー館というスタジオを立ち上げたことで、活動が分かれました。及川先生は、前衛的なお考えを持っていて、僕は当時コミックがやりたくて方向性の違いがありました。僕が帰ってきたから、遠慮したのかもしれません。それで、僕に所長を譲って、その後は僕がずっと所長を務めております。
編集部 その当時に在籍したのは、何名くらいでしょうか。
佐々木 及川先生と分かれた時に6名くらいだったと思います。学生当時からスタジオに通っていたIKUO三橋君は残りました。その頃残ったメンバーで、コミック的なパントマイムをやっているうちにテレビも出演しました。
編集部 テレビでは、どういったことをやっていたのでしょうか。
佐々木 その頃、テレビでは、マイム時評ということで、新聞に載るような政治、経済、スポーツ覧、芸能欄など時の話題になっていることをテーマにしてマイムで演じました。1時間番組の中の一つにマイムのコーナーがあって、最初にニュースが流れて、僕らは1週間で起こったことをマイムで表現しました。特別な小さい舞台を作る場合もありました。そんな感じで毎週1回テレビに出演していました。
編集部 今でも観てみたいですね。
佐々木 その頃、僕は割合コミックを中心に上演していましたが、ドナルド・リチーという日本の映画や文化を紹介する著名な評論家と親しくなり、ある映画に生徒4名と一緒に出演しました。「五つの哲学的な童話Five Philosophical Fables」という短編映画です。この映画は、新宿の映画館、アートシアター新宿文化の地下にあった、実験的な映画上映で知られる、アンダーグラウンド蠍座でドナルド・リチーの世界という企画の中で上演され、三島由紀夫が非常に褒めてくれました。
編集部 もう、歴史上の人物とお知り合いだったのですね(笑)。
佐々木 三島由紀夫は、けっこう旺盛な人で、暗黒舞踏の土方巽さんと稽古をしていると、何度か観に来てくれました。
編集部 その後、すぐに清水きよし先生や並木孝雄先生が入所したのでしょうか。
佐々木 何年か後に入ってきました。当時、二人はまだ20代でした。
編集部 他にも何か変わった活動をされていたのでしょうか。
佐々木 ええ。僕は、昔、銀座でマイムを見せる店を経営していました。世界で一つしかない、マイムだけを見せる店です。
編集部 そういうお店があったのですか?
佐々木 父が4軒経営していた店のうち、1軒の夜が空いていたのでそこを借りて、昼間はカフェ業で、夜はマイムを見せるパブをやりました。日曜は店が休みだったので、そこで月1度マイム劇場をやりました。パブの方は夜6時にお店がオープンして、8時と10時にショータイム。それはコミックマイムです。お客様はお酒を飲んでいるので、あまり真面目な作品はやれません。中村ゆうじやヘルシー松田も一緒にそこに出演していました。ヘルシー松田は、当時夢之介という名前で出ていました。中村ゆうじも23歳くらいだったですね。4人、5人一緒に僕や弟子が出演していましたが、大変だったのは、料理人がいないので、自分たちで料理を作り、料理を運ぶのも自分たちでやっていて、満員になると大変でした。お客様がコーヒーをオーダーすると、自転車をこぐマイムを見せました。マイムを見たことがない方には、早く持ってこいと言われましたね(笑)。料理のメニューは、畳1枚の大きさでしたらから店内が込んでくると運ぶのが大変でした。随所に演出や工夫を凝らしていました。
編集部 面白い。こういうお店があったのがすごいですね。
佐々木 マイムだけのお店ってありませんから。海外でも、お店でショーや歌などがあって少しマイムが入るのはあるかもしれないけど、マイムだけのお店は聞いたことがありません。今やればすごく面白いですね。
編集部 そのお店は何ていう名前だったのでしょうか。
佐々木 その時は、「マイム劇場」でした。その時は、8時と10時の回にそれぞれ5、6本の作品を上演して、また翌月に同じお客様が来店するから、観ていない作品を上演しないといけない。新作を毎月作っていたので、作品の数はすぐ100本を越えてしまい、その頃の作品の数は1,000以上ありましたね。毎月の新作作りが一番苦労しました。
編集部 毎月新作ですか。すごいですね。
佐々木 では、2カ月に1回の公演にしようとすると、2カ月もまた大変なんです。2カ月も1ヵ月もあまり変わりません。2ヵ月でも1ヵ月でも創作の苦しみは同じでした。
編集部 お店はどのあたりにあったのでしょうか?
佐々木 店は、銀座の松坂屋から歌舞伎座の方に百メートル位入った場所にありました。お店ではおもしろい、楽しい作品ばかりなので、悩んでいました。僕は本格的な芸術的マイムをやりたかったので、7年間続けた後、店の方は辞めて、劇場やアトリエ公演だけにしました。
(つづく)
編集部 フランスから帰国されて、日本マイム研究所の2代目の所長に就任したのは何年でしょうか。
佐々木博康(以下、佐々木) 1966年に帰国して、就任したのが67年ですね。帰国してから、及川先生と一緒にレッスンを教えていたのですが、1年程で及川先生がアルトー館というスタジオを立ち上げたことで、活動が分かれました。及川先生は、前衛的なお考えを持っていて、僕は当時コミックがやりたくて方向性の違いがありました。僕が帰ってきたから、遠慮したのかもしれません。それで、僕に所長を譲って、その後は僕がずっと所長を務めております。
編集部 その当時に在籍したのは、何名くらいでしょうか。
佐々木 及川先生と分かれた時に6名くらいだったと思います。学生当時からスタジオに通っていたIKUO三橋君は残りました。その頃残ったメンバーで、コミック的なパントマイムをやっているうちにテレビも出演しました。
編集部 テレビでは、どういったことをやっていたのでしょうか。
佐々木 その頃、テレビでは、マイム時評ということで、新聞に載るような政治、経済、スポーツ覧、芸能欄など時の話題になっていることをテーマにしてマイムで演じました。1時間番組の中の一つにマイムのコーナーがあって、最初にニュースが流れて、僕らは1週間で起こったことをマイムで表現しました。特別な小さい舞台を作る場合もありました。そんな感じで毎週1回テレビに出演していました。
編集部 今でも観てみたいですね。
佐々木 その頃、僕は割合コミックを中心に上演していましたが、ドナルド・リチーという日本の映画や文化を紹介する著名な評論家と親しくなり、ある映画に生徒4名と一緒に出演しました。「五つの哲学的な童話Five Philosophical Fables」という短編映画です。この映画は、新宿の映画館、アートシアター新宿文化の地下にあった、実験的な映画上映で知られる、アンダーグラウンド蠍座でドナルド・リチーの世界という企画の中で上演され、三島由紀夫が非常に褒めてくれました。
編集部 もう、歴史上の人物とお知り合いだったのですね(笑)。
佐々木 三島由紀夫は、けっこう旺盛な人で、暗黒舞踏の土方巽さんと稽古をしていると、何度か観に来てくれました。
編集部 その後、すぐに清水きよし先生や並木孝雄先生が入所したのでしょうか。
佐々木 何年か後に入ってきました。当時、二人はまだ20代でした。
編集部 他にも何か変わった活動をされていたのでしょうか。
佐々木 ええ。僕は、昔、銀座でマイムを見せる店を経営していました。世界で一つしかない、マイムだけを見せる店です。
編集部 そういうお店があったのですか?
佐々木 父が4軒経営していた店のうち、1軒の夜が空いていたのでそこを借りて、昼間はカフェ業で、夜はマイムを見せるパブをやりました。日曜は店が休みだったので、そこで月1度マイム劇場をやりました。パブの方は夜6時にお店がオープンして、8時と10時にショータイム。それはコミックマイムです。お客様はお酒を飲んでいるので、あまり真面目な作品はやれません。中村ゆうじやヘルシー松田も一緒にそこに出演していました。ヘルシー松田は、当時夢之介という名前で出ていました。中村ゆうじも23歳くらいだったですね。4人、5人一緒に僕や弟子が出演していましたが、大変だったのは、料理人がいないので、自分たちで料理を作り、料理を運ぶのも自分たちでやっていて、満員になると大変でした。お客様がコーヒーをオーダーすると、自転車をこぐマイムを見せました。マイムを見たことがない方には、早く持ってこいと言われましたね(笑)。料理のメニューは、畳1枚の大きさでしたらから店内が込んでくると運ぶのが大変でした。随所に演出や工夫を凝らしていました。
編集部 面白い。こういうお店があったのがすごいですね。
佐々木 マイムだけのお店ってありませんから。海外でも、お店でショーや歌などがあって少しマイムが入るのはあるかもしれないけど、マイムだけのお店は聞いたことがありません。今やればすごく面白いですね。
編集部 そのお店は何ていう名前だったのでしょうか。
佐々木 その時は、「マイム劇場」でした。その時は、8時と10時の回にそれぞれ5、6本の作品を上演して、また翌月に同じお客様が来店するから、観ていない作品を上演しないといけない。新作を毎月作っていたので、作品の数はすぐ100本を越えてしまい、その頃の作品の数は1,000以上ありましたね。毎月の新作作りが一番苦労しました。
編集部 毎月新作ですか。すごいですね。
佐々木 では、2カ月に1回の公演にしようとすると、2カ月もまた大変なんです。2カ月も1ヵ月もあまり変わりません。2ヵ月でも1ヵ月でも創作の苦しみは同じでした。
編集部 お店はどのあたりにあったのでしょうか?
佐々木 店は、銀座の松坂屋から歌舞伎座の方に百メートル位入った場所にありました。お店ではおもしろい、楽しい作品ばかりなので、悩んでいました。僕は本格的な芸術的マイムをやりたかったので、7年間続けた後、店の方は辞めて、劇場やアトリエ公演だけにしました。
(つづく)