土肥金山の観光坑道に入って素掘りの坑道の奥へ進むと、上図のようなマネキン人形による江戸期の坑内作業の各場面の展示がありました。坑内に池があるので、その水を汲んでいる姿なのかと思いましたが・・・。
説明板には、坑内に湧出する地下水をくみ上げる作業、とありました。そのための人足が大勢居たというのは、地下水の湧出量が多かった事を示しています。確か、生野銀山でも同じような水抜き作業の説明があったな、と思い出しました。
上図は、見た時にすぐ分かりました。坑道の崩落などを防ぐために木で支持壁や天井を作る作業だな、と思いました。鯛生金山や石見銀山でも同じような展示をみた記憶があります。
説明板にも同様の内容が書かれてありました。この普請作業が、坑内作業のなかで最も重要だったことは言うまでもありません。
マネキン人形は、男性だけでなく女性も居ました。江戸期の鉱山労働者のうち、平均して三割が女性だった、昭和期になっても三割のところが多かった、と何かの本で読んだ記憶があります。中世戦国期までは男だけの仕事、女だけの仕事というものは数えるほどしかなく、農業や林業、商業や鉱工業、そして合戦時の兵役までもが男女共同であったといいます。
通路のことを廊下と呼ぶのは、佐渡金山でも鯛生金山でもそうでした。金山に共通する呼び名なのでしょうか。
これは坑道先端の掘削作業ですね。ここにも女性が混じってますね。篭を持っていますから、主に運搬を担当したのでしょうが、それでも相当の重労働だった筈です。
江戸期の文献によれば、鉱山の掘り師は夫婦が割と居て、二人で協力して作業していた、それも鉱山にて一緒の受け持ち場所で出会って夫婦になった事例がかなりあった、ということです。いわゆる職場結婚の一例でしょう。
なるほど、男も大変だったけど、女も大変だったのだなあ・・・。
中世戦国期に日本の鉱物産出量が飛躍的に増加し、それが金属の鋳造技術の発展を促し、例えば金属製の甲冑や火縄銃の生産量を押し上げたりしたわけです。織田信長の鉄砲隊や大筒や鉄甲船なども、そうした発展過程なしには作れなかったでしょう。それらを、全国の鉱山の無数の労働者たちが一生懸命になって支えていたわけですね。
坑道は、別の坑道と数ヶ所で分岐したり合流したりしていて、縦横に張り巡らされていた様子が分かります。観光用の坑道は山の中でぐるりと回る感じで、体感としては左へ、左へ、と曲がる感じでした。右へ曲がったのは、奥まで行ってターンした時だけだったと思います。
やがて道が下り坂になり、素掘りの坑道が次第に幅を狭め、天井が低くなってきて、上図のような木材での支持材によるトンネルに変わりました。
このあたりが、あfろ氏の描き下ろしイラストのアングルに近いかな、と思いました。こんな感じの坑道内を、大垣千明と犬山あおいが急ぎ足で駆け抜けていましたね。
まもなく出口に至りました。御覧のように入り口とは別の場所、入り口よりも50メートルぐらい奥に位置しています。付近の岩崖に閉鎖扉が一ヶ所、上の方にも板扉のようなものが見えましたので、かつては付近に幾つかの坑道が口を開けていたようです。
出口からすぐの所に上図の建物がありました。観光順路はこの建物を通っているので、近寄っていくと「資料館」の看板が左手にありました。つまりは土肥金山の歴史や関連遺物を展示する資料館だろう、と思ってその入口に向かいました。 (続く)