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聖護院2 聖護院門跡の宸殿から書院へ

2024年12月12日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 聖護院宸殿の対面所は、武家の御殿建築の対面所と比べると、広さにおいてはあまり変わりませんが、明るさにおいては暗めで、室内装飾については控えめに造られているように思います。

 例えば、明るさについては、上図右側の障壁を開ければ外の光が入りますが、対面の儀では上段之間の主上を御簾と暗がりのなかに包むために閉め切るのが普通だそうで、昼間でも暗くなりますから、燭台も用意して火をともすということです。

 武家の場合は、外側の障壁の半分を障子戸にしていますから閉めていても外の光を淡く取り入れて室内もそれなりに明るくなります。室内装飾も、武家の御殿のほうは釘隠や打金具の量が多く、家紋入りの金具も目立つように配置し、さらに障壁画の背景に金泥を塗るケースも多いですから、例えば二条城二の丸御殿のように金色の装飾がとにかく目立ちます。

 そういう、公家と武家の御殿対面所の差がよく分かる、聖護院宸殿の事例でした。京都広しと言えども、そういう学びが出来る場所はここ聖護院宸殿しかありませんから、嫁さんも昔は何度も通って公家の御殿建築の特色を細かく観察し研究していたのだそうです。

 

 順路にしたがって宸殿の東に建つ本堂へ行きました。上図は本堂の前から宸殿をみたところです。

 嫁さんが「やっぱりそのへんのお寺の本堂とか方丈とかとは、建物の造りや雰囲気がまったく違いますよねー、御所の紫宸殿をモデルにして縮小したタイプやとよく言われてますけど、ほんまにそうですねえ」と話していましたが、同感でした。なにしろ皇族が住持を勤め、一時期は実際に仮の皇居として使用されていたのですから、建物もそれなりの規模と格式で設計されて建てられたのでしょう。

 

 本堂は、宸殿と同時期の建物がありましたが、昭和四十三年(1968)に建替えてコンクリート造の建物になっています。創建以来の平安期の国重要文化財の本尊不動明王像を安置しているので、その保護の目的も兼ねて本質的には耐震耐火の文化財収蔵庫として造られ、外見のみを旧本堂のそれにあわせています。

 なので、写真は撮らず、内陣の安置像を拝するにとどめました。本尊不動明王像は典型的な天台宗系の十九観の姿にて表されています。嫁さんに問われるままに、十九観について簡単に説明しました。

 十九観(じゅうきゅうかん)とは、正式には「不動十九観」といい、不動明王を心にイメージした際の姿形においてみられる十九の特徴、を指します。空海が請来したものを始め、幾つかの典拠がありますが、それらを天台宗の安然(あんねん)が集約して「不動十九相観」というテキストにまとめました。
 そのテキストを手本として、平安期から鎌倉期にかけて数多くの画像や彫像が造られました。時期によって色々な変化や特徴がありますので、それらと本来の十九観を識別する専門用語として、私自身は「安然様」の語句を用いています。そして聖護院の本尊不動明王像は、その「安然様」の典型例であります。

 本堂を辞して、上図の宸殿の東側面を見ました。さきに見学した対面所の外回りにあたります。一番右の「上段之間」の部分のみが床が高く上げられているため、それに応じて外構えの貫や扉も一段高くなっているのが分かります。

 

 宸殿の北東に隣接する、国重要文化財の書院です。拝観順路はそちらへ回りますが、書院の全景を撮るならここしかないので、撮影しておきました。左隣の宸殿に比べて背が低く、建物の造りや雰囲気も異なります。

 

 京都御所でいえば化粧御殿とか妃御常御殿にあたる建物だ、と嫁さんが教えてくれました。なるほど女性専用の御殿か、道理で優しく雅な数寄屋風の外観にまとまっているな、と思いました。

 

 本堂から引き返して宸殿の東縁を進みました。まっすぐ行って書院の前室へと向かいましたが・・・。

 

 途中の宸殿の「二之間」の襖と板戸が開け放たれていたので、そこから上図のように「上段之間」を間近に見る事が出来ました。

 

 ここに光格天皇や孝明天皇がお出ましになられていたのですか・・・。京都御所の同じ「上段之間」は特別公開の時期でさえ見られませんから、ここの遺構はとても参考になります。

 

 同じ位置から、「二之間」および「三之間」の内部も見えました。狩野益信の障壁画は、南からみるよりも東から見た方が、障壁画全体の構図やデザインがよく見渡せます。

 

 それから、書院へと向かいました。

 

 宸殿の東縁の北端の仕切り板戸を外して書院玄関口への渡り廊下が付けられています。書院の建物は江戸初期の建立といい、これを江戸中期にいまの宸殿を新造した際に京都御所より移築して、宸殿と連接させたといいます。

 

 書院の案内説明板です。要約すれば、後水尾天皇の典侍(ないしのすけ)であった逢春門院こと藤原氏の櫛笥(くしげ)隆子の御所での住居であった建物であるそうです。

 典侍とは、古代の律令制における女性の官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)が相当して史料上では「すけ」の略称で記されることが多いようです。本来、その上役に長官の尚侍(ないしのかみ)が有りましたが、後に后妃化して設置されなくなったため、典侍が実質的に内侍司(後宮)の長官となりました。

 江戸期においては宮中における高級女官の最上位であり、その統括者を大典侍と称し、勾当内侍(こうとうのないし)と並んで御所御常御殿の事務諸事一切を掌握しました。また、天皇の日常生活における秘書的役割を務める者(お清の女官)と、天皇の寵愛を受け皇子女を生む役割を持つ者とに分かれ、前述の櫛笥隆子は後者にあたりました。つまりは側室であったわけです。

 後水尾天皇といえば、后妃が多かったことでも知られます。正妻にあたる中宮は東福門院こと徳川和子ですが、側室は6人居て、そのうちの5人までが典侍でした。前述の櫛笥隆子は年次順でいうと三番目ですが、最も多い五男四女をもうけており、後水尾天皇の寵愛がとくに深かったことが伺えます。


 その櫛笥隆子の住居が聖護院に移築されたのは、当時の住持であった第三十五世門跡の道寛法親王が後水尾天皇の第十三皇子で、櫛笥隆子がその母親であった関係によったものとされています。

 おかげで江戸期の後宮関連の書院建築の唯一の貴重な遺構がいまに伝わることになったわけです。京都御所に現存する御常御殿以下の諸建築群が安政二年(1855)の建立なので、それよりは200年以上も古い17世紀初め頃の建築遺構とされています。
 そしてこの書院が、嫁さんの一番好きな宮廷建築遺構であるそうです。  (続く) 

 


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