真珠庵の方丈を見学しました。方丈内部は四列に前室と奥室を並べた八室に分けられ、唐門から玄関廊を進んで入る南西の一室は客間(礼の間)にあたります。室内には達磨の掛け軸が据えられ、襖絵の「山水図」は曾我蛇足(そがじゃそく)の筆です。曾我蛇足は一休宗純に禅を師事し、同時に一休が蛇足に画を師事したという相互師弟の関係にあったことで知られます。
その隣りの縦二室は、方丈の中心空間とされる室中の間で、奥室は仏間となっていて開祖一休宗純の頂相(ちんそう)が祀られています。頂相とは、師匠の肖像画もしくは彫像で、一休宗純のそれは木像となっています。
嫁さんが双眼鏡も使ってしばらく見ていて「頭髪とか髭とかありますけど、あれ本物なのかなあ、一休さんって禅僧なのに剃髪していなかったですもんねー」と小声で言いました。それで私も双眼鏡で見ましたが、違うな、と感じて「あの頭髪は本物じゃないみたいやな、獣の毛を代用して使ってるみたいやな」と返しました。嫁さんは「そうなの?酬恩庵の彫像のほうは毛が本物やったと聞いたから、こちらもそうなのかと思いましたけど・・・」と言いました。
嫁さんの言う通り、一休宗純の彫像はほかに京田辺市の酬恩庵(しゅうおんあん)にも安置されていて、そちらは頭髪や髭に一休本人の遺髪を使用したことが知られています。一休宗純が草庵を結んだ地であり、墓所の宗純王廟もありますから、遺髪が御影にあたる彫像に使用されるのも当然です。
しかし、こちらの真珠庵の彫像は単なる開基の像として造られたようで、酬恩庵像とは似ているものの、やや若い雰囲気に表されています。一休宗純が大徳寺住持を勤めた頃の姿を示しているのでしょうか。
仏間の前室には、掛け軸が三つ懸けられています。その中央が遺偈(ゆいげ)で、左右は「諸悪莫作」「衆善奉行」の偈(げ)です。いずれも一休宗純の直筆とされています。
遺偈は僧侶が死に際して読む詩で、ここの遺偈は「須弥南畔 誰会我禅 虚堂来也 不値半銭」とあります。現代文に訳せば「須弥山の南のほとりまでやってきたが、誰も私の禅風を理解できなかった。虚堂がやってきたとしても、その価値は半銭にも及ばない」という内容です。
虚堂とは南宋の禅僧であった虚堂智愚(きどうちぐ)で、一休宗純が尊敬し理想と崇めた人物ですが、その虚堂がやってきたとしても私の禅を理解できないだろう、と言い切るあたりに、破戒僧として知られた一休宗純の面目が感じられます。
似たようなスタンスは左右の偈「諸悪莫作」「衆善奉行」にも感じられます。これは中国古代の詩人白居易(はくきょい)が鳥窠道林(ちょうかどうりん)に仏教の奥義を問いかけて得た解答で、意味は「悪いことをするな、善いことをせよ」となります。単純であるからといって誰でもできるとはかぎらない、ということを示唆する言葉ですが、生前は数々の無茶をやらかした破戒僧の一休宗純が言うと「お前が言うんかい」と反駁されそうです。
でも、一休宗純がこれを偈(げ)としてしたためたのは、世間に対する彼一流の反語というか、皮肉であったように思います。なにしろ、親交のあった本願寺門主の蓮如(れんにょ)の留守中に居室に勝手に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をして、帰宅した蓮如に「俺の商売道具に何をする」と言わしめて二人で大笑いしたというような、破天荒な型破りの禅僧であったのですから。
嫁さんも、そういう一休宗純のことを「そういう、茶目っ気のある、世に囚われない生き様っていうのが周りに親しまれたんでしょうし、女性にもモテたでしょうね」と評価していましたが、実際に女性にはかなりモテたようで、禅宗では禁じられている恋愛沙汰は数知れず、妻子もちゃんと居たわけです。
それでいて、大徳寺でも怒られないし罰せられないし、師の華叟宗曇(かそうそうどん)も笑って許してしまうのですから、これはもう特別扱いされているな、出自が後小松天皇の落胤つまりは皇族だったと伝えられるのも本当なんだろうな、と思ってしまいます。
方丈を一通り見て北へ回り、上図の庭を見ました。嫁さんが「なんかごちゃごちゃしてて、よく分かりませんね」と素っ気なく評していました。
方丈の北側の縁側へ回ると、縁側の端で再び方丈の内部に導かれますが、嫁さんは「それよりは、あっちへ」と北を指差しました。
嫁さんが指差した先には、書院の通僊院(つうせんいん)が見えました。この建物も内部の撮影が禁止されていましたので、外観だけを撮りました。
屋根の造りが公家風の雅なラインにまとまっていますが、それもそのはず、正親町(おおぎまち)天皇の女御の化粧殿を移築したものと伝わります。つまりはもと京都御所にあった建物です。
通僊院の南縁に進み、その西側の納戸の間に入る直前にその前庭を撮りました。前庭に細長く立つ手水石と井戸があり、その脇の通廊が方丈との連絡空間にあたります。
書院内部は四室に分けられ、その南東の部屋に嫁さんの主目的である源氏物語図屏風が展示されていました。今回の真珠庵特別公開の目玉でしたから、その部屋にのみ、見学客が詰めかけていて、縁側にも立ち並んでいたので、私はそこを通るのを諦め、隣の部屋から反対周りに回って、屏風を遠くからチラ見したにとどまりました。
嫁さんはいつの間にか見学客の一番前に陣取って座って背をかがめつつ、数分ほど屏風に見入っていました。それをしばらく見守った後、北側に出て上図の広縁と北庭を撮りました。広縁西端の板戸の向こうに見える建物は庫裏です。
この書院通僊院に関しては、係員の説明でも詳しいことが示されず、建立年代に関しても「正親町(おおぎまち)天皇の治世」と大雑把に述べられたのみでした。
正親町(おおぎまち)天皇の治世、とは具体的には弘治三年(1557)11月から天正十四年(1586)11月までの時期を指します。戦国末期から安土桃山期にあたり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが活躍した時期です。
その頃に建てられた女御の化粧殿であったわけですから、本来は京都御所の後宮に位置した建物であったということになります。戦国末期から安土桃山期にかけての旧御所建築というのは、現在でも遺構が稀ですから、ここ真珠庵の書院通僊院は室町後期の貴重な建築遺構であると分かります。方丈と共に国の重要文化財に指定されているのも当然だな、と納得しました。
問題は、いつ真珠庵に移されたかですが、これについては係員の説明では「不明です」と一言で括られていました。嫁さんが「庫裏の建物が慶長十四年(1609)やったですよね、将軍は徳川秀忠ですよね、その頃に庫裏を建てたんなら、真珠庵の整備が江戸初期に行なわれたということですよね、そのときに御所の女御の化粧殿を貰い受けて移築したんじゃないですかね」と推測していましたが、その可能性はあるかもしれません。
通僊院の北東隅には茶室の庭玉軒(ていぎょくけん)が連接していますが、そちらは外観も含めて撮影禁止でしたので、見学のみで終わりました。
見学を終えて山門を出た際に、嫁さんが「面白かったですねー」と言いました。私は初の拝観でしたから面白くて興味深い学びが色々とありましたから、そのことを言ったら、「じゃあ、次にもっと面白い所へ行きますねー」と言われました。
「えっ?今日はここ真珠庵だけじゃないの?」
「まだ時間ありますし、もう一ヶ所行ってもいいですか?・・・ダメですか?」
「いや、ダメってことはないよ・・・」
「やったー、じゃあ、行きますよー」
そうして大徳寺中心伽藍の横を元気に早足で抜けていく嫁さんを、慌てて追いかけたのでした。 (続く)