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魅惑の醍醐寺3 醍醐寺理性院にて

2023年09月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 醍醐寺理性院の今回の特別公開は、本堂と客殿のみに限られ、上図の客殿から西の建築群は含まれなかった。それで見学はだいたい客殿が中心となっていて、拝観客の多くが客殿に集まっていて、順に係員の説明を聞いていた。

 

 というのは、客殿の四つの部屋のなかで最高格式をもつ上図の「上段之間」の障壁画が、近年の研究によって狩野探幽の筆であることが確定しており、普段は公開されないその現存遺品を見られる稀有の機会であったからである。

 理性院はふだんは非公開であるため、その客殿に狩野探幽の障壁画が伝存している事自体があまり知られていない。私自身は醍醐寺の最高バイブルとされる岩波書店の「醍醐寺大観」全3巻を一時期所蔵して、醍醐寺へ拝観に行く度に予習のために常に開いて読んでいたため、理性院のことも、客殿に残る狩野探幽の障壁画のことも、一応は知っていた。だが、実際に見ることが出来たのは今回が初めてであった。

 

 理性院は、三宝院の北に隣接する醍醐寺子院の一つで、真言宗醍醐派の別格本山である。もと醍醐五門跡の一つとして、小野六流中の理性院流の本寺でもあり、山内有数の子院の一つとして知られている。

 

 その創建は、醍醐寺の根本文献史料である「醍醐寺新要録」によれば、賢覚法眼(1080~1156)が父親の賢圓威儀師の住房を寺としたのに始まるという。つまりは12世紀前半の頃であるが、当時の寺地は、醍醐寺内の別の場所にあったらしい。江戸期に現在地に移転し、その際に本堂と客殿が再建されたという流れであるらしい。

 

 本堂の外回りを回った。江戸期には「太元堂」と呼ばれたといい、上図のように仏堂というより住房建築のような形式で造られ、室町期以降に多い障子と格子板の組み合わせで南辺が仕切られる。

 

 内部は撮影禁止であったので、外観を撮るにとどめたが、それでも見どころは多かった。古式の要素が色濃く、室町期の建築の残り香を見ているような気分であったが、実際には江戸期の慶長十七年(1612)の建立である。

 

 本堂内部は後世の改変が加えられているものの、真言密教の修法空間を最低限必要な規模にて整備している。秘仏の大元帥明王を安置する厨子は、唐破風屋根をもつ宮殿形であり、その前に護摩壇が置かれる。内陣は三間に分かれて、東の間には不動明王坐像が安置される。

 この不動明王坐像は、平成元年に文化庁の重要社寺調査により平安期12世紀代の遺品であることが判明し、ただちに重要文化財に指定されている。

 

 本堂を出て客殿に戻る際に、撮った図。嵯峨大覚寺の伽藍のミニチュア版だな、と感じたほどに雰囲気がよく似ているのは、同じ真言宗の寺だからだろうか。

 

 山門を辞して一度振り返ると、前から少し気になっていた、奥の二階建ての建物が見えた。客殿の拝観時にも奥に見えていたので、おそらくは理性院の関連建築だろうと思われるが、詳細は不明である。

 

 醍醐寺の境内においては、近年のコンクリート施設関連を除けば、二階建ての建物というのは他に無いので、とにかく目立つ。あの二階に登ったら、醍醐寺境内一円を見渡せて綺麗な景色が見られるだろうな、と思った。御覧のように雨戸が閉じられているので、普段は使われていないようであるが、それにしても気になる建物であった。  (続く)

 


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