井川線の休止区間つまり廃線小径から左にそれて車道跡に進み、ゆるやかな下り坂を降りました。平成20年の土砂崩れにて県道60号線が閉鎖された時期に臨時の迂回路となった道ですが、大型車が通れる幅ではないので、当時は通行車両の制限がしかれていたと聞きました。
上図右端のコンクリート擁壁は、かつて井川線から廃線小径西のトンネル前で分岐して現在の井川展示館裏の平場に続いていた引き込み線の跡です。かつては木材や建設資材などの積み下ろしに使われていたそうですが、現在は廃止されてレールも撤去されています。前述の臨時の迂回路は、その軌道跡の一部を削ってつけられたようです。
その引き込み線の軌道跡は、道を下って井川展示館裏の平場に立ち寄れば、右手に上図のように残されています。立ち入り禁止区域でしたので、外から上図の様子をうかがうにとどめましたが、近づいてよく観察してみたかったです。
遊歩道に戻って真っ直ぐに降りてゆくと、井川湖内に半島状に突き出した所に出ました。井川湖の渡船乗り場がありましたが、井川湖の水位低下によって遊覧船は閉鎖されていました。
下をのぞいてみましたが、御覧の通りでした。遊覧船はどこかに避退させてあったのか、まったく姿が見えませんでした。
渡船場の横には上図の小さな神社がありました。ああ、この神社だったのか、と既視感とともに思い当るものがあって、ゆるキャン原作コミック第11巻を取り出しました。その71ページ1コマ目の志摩リンの写真の背景がこの神社でした。
鳥居に掛けられた表札には「井川水神社」とありました。由来の説明板が無かったのでよく分かりませんでしたが、そんなに古い神社ではないようです。ダムの傍に建てられているので、たぶん工事や治水の安全を祈願して建立されたものと思われます。長年にわたって大がかりな工事を必要としたトンネルや橋や港などにこの種の祠が祀られていますが、この「井川水神社」も同様なのだろう、と考えました。
「井川水神社」の横からは井川ダムの上流側の様子が見えました。水位が低下しているので、堤体部分がよく見えました。その堤頂部を通る道路が県道60号線です。井川ダムは、日本初の中空重力式コンクリートダムとして知られ、つまり堤体の内部が空洞になっています。
ですが、ダム横の崖面に埋め込まれた大きなプレートを見上げて、ダムの正式名称が「井川五郎ダム」であることを知りました。井川ダム建設に熱意を注いだ当時の中部電力の社長が井上五郎さんでしたので、その名前をとって名付けたのだそうです。同じように井川湖も、正式名称は「井川五郎湖」であるそうです。
井川ダムの堤体を見下ろしながら道を県道60号線へと進みました。近づくにつれてその大きさが実感として迫ってくるのでした。昭和26年(1951)の建設計画当時において日本最高クラスの100メートル超の堤高となっていましたが、管轄の中部電力にとってこの規模のダム建設は初の試みでした。そのため、施工法等についてはGHQの下部組織である海外技術顧問団の助言を得たのだそうです。
その結果、ダム本体はこれまた日本初の試みとなる中空重力式コンクリートダムでの施工が提案されましたが、そのノウハウが日本にはなかったため、中空重力式コンクリートダムの先進国であったイタリアに技術者を派遣し、ダムを視察し図面などを入手して建設の参考としています。
敗戦後まもない日本にて、まだ土木技術が未熟だった頃にこんな大きなダムを作ろうとしたのですから、当時の国策であった電源開発事業がいかに凄まじくパワフルなものであったことが伺えます。
ダムの横の崖上に中部電力の関連施設である井川展示館があります。入場無料でした。
見上げるような崖上の高所に展示館の建物が建っていました。その入口まで長い階段を登ってゆくのですが、井川湖より崖面を這うようにして吹き上げてくる横風がこの日はとても強かったため、帽子を押さえつつ前のめり気味になって登りました。それでも時折横風がドンと強く襲ってきたので、一度あおられて躓きかけました。 (続く)