えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

国際郵便

2009-03-29 | 日記
 海外に滞在中の娘から、
「季節が変わるので衣類を送って欲しい」と言われ、
慣れないながらも支持されたとおり、小包の準備をして郵便局へ行った。

 EMS国際スピード郵便で送ろうと、手続きの用紙をこれもまたドキドキしながら書いて窓口へ持って行ったら、窓口のお兄さん?が細かくチェック・・・

「ここは、あちらの言葉で書いてください」と言う。
  ?・・・

良く見たら、内容を書くところに私は「衣類」と日本語で書いているではないか?!
安易に国内での宅急便の感覚で書いてしまっていた。
おまけに
中身を1点1点、個別に英語で書いて、個数、正味重量、価格まで書くように、と言われた。
えーっ!!
もう、ガムテープでしっかり封をしてしまったし、

 ジャンパー
 ダウンジャケット
 セーター
 マフラー
 パンツなど、など

英語で書けと言われたって・・・・
スペルなんて自信ない。私にそう簡単にできるはずないではないか・・・
それに、重量も、価格に至ってはすでに着た物を「あちらの価格」で書くとなると
改めて娘に相談するしかない。

 よくみたら記入の方法がちゃんと明示してあった。
今のご時世、犯罪防止の策としてここまでしなければならないことなど、私が初めから知識があればよかったのだが、何だか、自分がなさけなくなってしまった。

「家に帰って、もう一度、中身を確認して、スペルも辞書を引きながら書いてきます」

そう言って郵便局を出た。和英辞書を備えておいてくれると助かるんだけどな・・・なんて呟きながら・・・。

あ~あ~ァ、それにしても役立たずの私・・・
でも、こうしてまた一つ知識獲得できて行くのかな。







・・・ありがとうございました・・・

2009-03-29 | 日記
 今年になって、私たちがお世話になっている大事な方が相次いで逝ってしまわれた。
一人は弁護士のN先生。
もう一人は、Wさん。もちろん夫たちの運動を支援して下さっていた方だが、私にとっては今の職場を紹介して下さった方でもあり、ずっと長い間お世話になった方だ。
N先生には長い闘病生活があった。
そして、Wさんは、突然(倒れられてすぐに)逝ってしまわれた・・・。

 人は必ず命が終わるときが来る・・・

解っていても私にとって、どちらもとても悲しい出来事だった・・・


「告知」を受けた直後のN先生を見舞ったときの私の思いを転記しておきたい・・・


・・・・・・・

09.1.25

N先生の前で泣いてしまった

 「夫を援護して下さる」ことへの感謝の気持ちを伝えたかっただけなのに、
 それは、同時に私への援護であることを私自身が知っていたから・・・。
 辛かった私の立場を先生が分かってくださったから・・・。
 私の嬉し涙だった・・・。

 N先生が、夫の思いや言動、行動に確かな信頼をおいて見守って下さっていることに、夫は勿論、私がどれほどの勇気をいただいたか・・・。
 
 不安でいっぱいだった私に先生は少しからかうように仰られた。
 「自分でショージを選んだんでしょう?自分から飛び込んで行ったんでしょう?
  そう、あなたは私に言いましたよ」

 「もちろんです。でも、辛かったんです。皆さんの心配を夫に伝えられない。
  夫の思いは頭では分かるけれど、このままでいいのか、誰にも相談できな
  くって・・・。
   だから、あの時、先生が夫に『思うようにやりなさい』って言って下さった  のがすごく嬉しくって・・・」

 それから少し話題が続いた。
 30分ぐらい話しただろうか・・・。
 話しながら先生の笑顔が嬉しかった。穏やかな何時もの先生の笑顔だった。
 癌の苦しみから解放された時間がそこにあった。
 いつまでも話し続けていたい、そんな時間だった・・・。
 静かな時間がそこにあった・・・。
 
 「誰かと話している時間が、一番苦痛を紛らわせられるみたいなの」
 と、奥さんが言った・・・。

 そんな時間が少しでも得られるのなら、毎日でも顔を見に行きたい、おしゃべりをしに行きたい・・・
 帰路のハンドルを握りながらそう思った・・・。

・・・・・・

 翌日、先生は急変され、次に会いに行った時はもうお話の出来る状態ではなかった・・・。

 合掌
 
 

娘の決断に

2009-03-29 | 日記
私の落ち込みのもう一つの原因?に、娘の突然の海外行きがあった・・・。

・・・転記・・・

09.01.09
派遣で働いていた娘が
「オーストラリアに行って来る」と言って日本を発ってもう2か月が過ぎた。
メールは時折来るけれど、何ともそっ気が無い。
誰と何を目的に、と、発つ前にしっかりと聞いておかなかったことが今となって母として悔いている。
自立心旺盛な娘で、親の私のほうが頭が下がるくらいしっかり者だったから、彼女なりの考えがあってのことだろうと、
私は勝手な解釈をして何も聞かず送り出した。
日本を発つ前に、一大転機の理由を、何か話してくれるだろうか…と、日光へのドライブに誘ってみたが、
帰国後の夢は語ってくれたが、核心に触れることは話して行かなかった。
もう、すっかり一人前の大人だから、「やれるときに自分の思うように生きてみたらいい」という思いが
私の中にあったので、あえて追及はせず、行くことを止めもしなかった。
国内にいる時は、もっとまめにメール交信があったのに、と不安になった。
「もしかしたら・・・、再婚をして夫中心の生活をしている私には本当のことを話せなかったのではないか」と

私なりに悩んだ・・・。私自身の人生の選択時、娘たちには一方的に結論だけを言った。それがどんなに負担が大きすぎたか?
そんな自分の姿が重なり、「語らせることができなかった」ことを悔んだ。
それでも・・・

写真を送ってこい、とメールをしたら、1枚だけ・・・

「解説付きで、もっと、送って欲しい」と請求したら、いきなり5枚も送ってきた。
みな風景写真、なんじゃこれは?とぶつぶつ・・・。ところが最後の写真にドキッ!!

with my friends とあって日本人の友人1人と外国人男性2人が楽しそうに肩を組んで映っている!

どうしてそんなに驚くのか・・・
うろたえている自分に自分が驚いている。
「外国にいるのだ!日本人じゃない人と写っていてなぜ驚く?」

う~、今夜は、自分の気持とどう向かえばいいのだ?…

それにしても、年越派遣村などができて失業者がどんどん増えている今の日本の情勢を知らずに娘は、派遣に自らピリオドをつけ、
円高の還元をしっかりと受けて、ラッキーと言えばラッキーなのだが・・・。

春が来たので

2009-03-29 | 日記
2009年が明け、福寿草、ふきのとう、レンギョウ、ロウバイ、梅、クロッカス、水仙、つくし・・・
そして、もう桜の季節が来てしまいました。
冬の名残の北風に閉口しながらも、それだけに
春の陽光の温かさを感じて、ほっとしたりしています。

長い間休んでいて申し訳ありませんでした。

また「ビョーキ」が起きてしまいました・・・。
「どうせ私なんて・・・」
つい、そう思ってしまって・・・。

はははっ!
夫にぶつければ解決するのですが、なかなかそれができなくて頑張ってしまうのです・・・。
年末に何とか機会を得ようと努力をしていたのですが・・・。
夫に
「こんな年末に、やだよ!」と言われ、「そうだよね~」・・・と私も譲歩して年越してしまい・・・。


ブログもHPもやっかいですよね。
本当はもっと正直に書きたいのですが、どうも、私達のような立場では
「心配掛けたくない」「誤解を招いてはいけない」「夫に迷惑をかけてはいけない」、新しい情報も「まだ公式発表はできない」など、自分で自分を制約してしまうことで「苦しくなって」しまうのです。

もっと気楽に・・・

そうですよね、本当に。

HPもブログも最初の思いのように出来ないのが現実です。
なぜなら、この数年、えん罪をとりまく情報は想像をはるかに超える広がり方をし、「布川事件」も私が当時検索しても「数件」しかなかったことが今では嘘のようです。
そんな中で、当事者である私たちの一言一句が注目されるその重さから、私は逃げたくなってしまったのです。

・・・・・

それ以外にもありました。
夫と「話し合う」時間がほとんどとれなくなっていました。

夫に、言いたいことを我慢させていることがはっきり分かったけれど、不器用な上に素直じゃない私は「私だって・・・」という思いもあり、互いにそれらを感じ合って逃げていたように思うのです。


・・・・・

 ここに、こんなことを書けるのは、もちろん夫と話し合い、その辺りをクリアできた思いになれたからで、夫には「感謝!」です。

 でも、私の思いをぶつけただけで終わってしまって、ちょっと心残りがあります(夫には申し訳なかった・・・と)

もう少し、気持ちにゆとりが欲しい・・・

そのゆとりをもっと「妻」でありたいと思うし「主婦」でありたいと思う・・・