えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

一日も早く

2011-11-30 | 日記
えん罪・福井女子中学生殺人事件の「再審決定」が、名古屋高裁金沢支部で出た。

現地に行っていた夫から、9時46分に電話があった。、

「ニュース、見た?
 出たよ。・・・」

その後の言葉が続かなかった。
夫の涙をこらえた「思い」が伝わってきた。
よかった。

午前10時のNHKニュースで
病気療養中のMさんに代わって、Mさんのお父さんが、

「まだ再審の決定が出ただけ。無罪判決確定までがんばる」とコメントされた。

そう、まだ、時間がかかる。
検察は控訴せずに、誤りを認めて無駄な時間を費やすことなく、一日も早く「再審裁判」に臨んで欲しい。
そして「無罪判決」確定まで無意味な妨害をしないでほしいと思う。
えん罪被害者にとって、ゲーム感覚のように裁判形式が流れていくその時間すら、許せないのだ。
一日でも、1時間でも、1分でも早く

「無実の人は無罪に」という当たり前の権利をとりもどしたいのだ。


改めて思う。
一日も早くMさんに「無罪判決を」、「無罪確定の喜びを」と・・・。

そして、
被疑者となった瞬間から人権は全く無視され、『無実の叫び』は闇に葬りさられ、何が何でも『有罪に』と走る警察、検察の暴走・・・
このことがまた明らかになった。
市民は、「またか!・・・」と思ってくれるだろう。
そして「全証拠の開示」の必要性を感じていただけるだろう。
裁判員裁判に関わる構えを持っていただけるだろう。

えん罪で苦しみ、獄中で再審を待ち望んでいる人たちが、今日の名古屋高裁金沢支部の決定で、自らの「再審」への可能性がさらに加速することを切望しているだろう。

再審を望んでいるすべての人たちに、一日も早い再審決定を・・・。
日本の裁判の矛盾が、一日も早く改められるように、

夫とともに、私もその思いを強くしている。

あす、再審開始決定を・・・

2011-11-29 | 日記
えん罪・福井女子中学生事件の再審の可否の決定が出ます。

布川事件に続く「再審開始決定」がでることを祈っています。
夫は今夜から、金沢に行っています。
明日は、分刻みの予定で行動するという。
嬉しい決定を聞いて、明るく元気に過ごせる一日でありますように・・・。

切干だいこん

2011-11-29 | 日記
母の作る切干だいこん。
もちろんその大根は父と母が畑で作ったもの。

そうか・・・
忘れていた。
切干だいこんはこうして作るんだった。
私も、この前もらった大根が食べきれずに残っているからやってみよう!
素直に、そう、思った。
本当は、とうの昔に母から教わっていていいはずのものなのに、
15歳で高校進学のため、家を離れ自炊生活をはじめ、そのまま上の学校に進み、就職、結婚となり、
何だか母の主婦として生きる姿を、大人になった娘の立場で見て来なかったな・・・

気づくのが遅いな・・・
母も、一人娘の私と本当はもっと一緒の時間を過ごしたかっただろうにな・・・

今を大事にしよう。
今一緒に過ごせる時間を大切にしよう・・・。

年賀状

2011-11-29 | 日記
年賀状用名簿のお一人、お一人に昨年までと違った思いを巡らせています。

改めて2011年正月にいただいたものを読み返しました。
そして、
とどいた喪中の葉書を前に、「本当にありがとうございました」と心の中で言葉にしています。

みなさんに感謝しつつ、来年の年賀状の準備に入りました。


改めて思う・・・

2011-11-29 | 日記
「あの年のお正月は大変だったの。・・・」

およそ話すことのなかった私が夫と出会う前のずっとずっと前の頃の話・・・。
それは、助手席にいる夫に聞いて貰いたかったかのように、自然に私の口から衝いて出てきた。

それだけ、私にも「夫の前で振り返れる」時期が来たのかも知れないが・・・。

 遠い過去の話だけれど、私には秋から年末、正月、新春という時期を思い出せないほど無我夢中で、本当に悪夢の中をさまようように過ごした時期があった。
自分で受け止めきれない現実、それでも逃げる訳に行かない現実の中で、結局は、今夫がお世話になっている人たちの中で、当時、私もお世話になったこと、なんだか不思議な思いで振り返っていたのだ。

「Oさんの家でね、大晦日に泊めてもらったの。でも、一緒に紅白歌合戦を楽しむ気分になれなかった。元日の早朝に、ひとりで歩いてね、・・・」

「そうだったんだ・・・」

という夫の言葉が私にはとても温かく感じられた。

 これまで、敢えて話すことではないという考えも私の中にはあった。
正直、振り返っている余裕もなかったというほうが正確かもしれない。
そして、たまに夫と出会う前の人の話や、私の職場の話などをすると、
「俺に関係ないから」とか「俺の知らない人の話をされても」と聞いて貰えない寂しさも感じていたのだが、
今は、こんなふうに話せることで、
夫も、私も心に「ゆとり」が出てきたのかも知れないと思える・・・。

2011年の年末・・・
まだまだ家を留守にする予定が詰まっている夫が、

「後半は、予定を入れないようにするから・・・」

と言った。

何だか初めて「二人で迎える年末」・・・
そんな気がして来た







片づけものを手に

2011-11-25 | 日記
父と納屋の片づけをした。
もう使わなくなったものばかりが置いてあるところで、地震の後、一度も片付けてなかったところだ。
ガラスが割れ、見事に散乱したままのその納屋の2階で、
父は、古い本箱からいろんな本を投げ出しては、
「これも束ねてくれ。もう、誰も見ないから」と言った。
確かに、疎開中に叔母が持ってきておいたものだという、大正時代や、昭和初期に発行された小説もあった。
戦前の婦人雑誌、付録の編み物や洋裁の本、父が若い頃、定期購読していた刊行誌の綴じられたもの、母の定期購読誌などなど・・・。
それから、兄が中1のときの学習図鑑、私が学生時代に(親元から離れていたため)両親にあてて出した絵葉書、今は亡き弟が集めた映画のパンフレット・・・。
私が高校時代に集めた全国の校章、弟が集めた旅先でのペナントもあった・・・。

ここは、35年前、母屋を新築する際、元の家にあったものを移したまま、そのままになっていたところだった。

父は自分の限られた命の時間を感じながらの片付けのようだった。
家の周りの樹木の枝も整理し、庭の草取りも今まで以上に頑張り、そしてこんどは納屋の片付けとなった。
「しょうがないなぁ。みんな片付けたり、燃やしたり、ゴミに出したりしてきれいにしたいんだぁ」・・・
そういう父の言葉の裏の思いを感じながら、私も父に付き合う・・・。

体力の続かない父は途中で上がったが、私はひとりで続けた。
だけど、父が一緒じゃないとなかなか進まない。
中に、弟の二十歳の時のスナップ写真が出てきたり、映画のパンフレットからこんなに映画が好きだったんだ、とそんなことを想像したりして、私には「処分」できないものばかりが目に付いて仕方がなかった。

「今じゃなくても・・・・」

確かに、片付けは必要。だけど、まだ、私には処分できないものがたくさんあった。

私は、母に
「ダンボールなどは、少しづつ処分するけど、もう少し時間かけてするね」と言った。
母は、弟の写真(二十歳でまだまだ健康だったころの)を手にしたが何も言わなかった。
40代に入ったばかりで逝ってしまった弟のこと・・・
私は、母の悲しみを思い出させるように、
「ほら、こんな写真が出てきたよ」と笑顔であどけなく友人たちと映っている弟の写真を、無神経に出してしまった自分を責めた。

父と母と過ごす時間の中で、言葉に言えない思いがそれぞれに交差する・・・。





星座

2011-11-24 | 日記
今夜は綺麗な星空です。
私は、こぼれ落ちてくるのではないかと、つい両手のひらを天に向けて広げてしまいました。

ここは茨城県の城里町塩子です。

氷点下の朝

2011-11-22 | 日記
       

久しぶりに実家に泊まった。
今シーズン一番の冷え込みだったという。
一面、霜で真っ白。
お茶の木も車も、サムソウ・・・。
父が「初氷だな」と言っていた。
外の気温は氷点下1度。
もう、冬なんだね・・・。
沖縄とずいぶん違うね

両親と思いを一つにして・・・

2011-11-20 | 日記
夫が長いえん罪生活の中で、最高裁で上告が棄却され「無期懲役」が確定したとき、その決定に対し
「えん罪の訴えと最高裁の対応」というタイトルで唯一社説を書いてくれた読売新聞の記事に支えられたことは、夫の口からいろんなところで語られているが、
この、当時の新聞記事が「無期確定」のその日の記事と一緒に、義父の遺品の中からも出てきた。
1978年7月の記事。
もうすっかり色も黄ばんでしまっている。
でも小さく畳まれて、その年の「第4回守る会総会」(1978.9.26)の写真記録の間に挟まれてあった・・・。

義父の思いもまったく夫と同じだったのだろう・・・。

          

 そして、同じようにまだ未決で東京拘置所にいた1976年。
義母が危篤状態にあったとき、「母に面会のため拘置停止申請」をしたが認められなかった無念の思いを朝日新聞に自ら投書した記事も、大切に義父のもとで保管されていた。(清水誠先生が『拘置停止申請に非常な扱い』と投書いただいたあとに投稿)

          

 私は、当時の義母の思い、義父の思いを想像することだけしかできないが、夫が両親や兄姉妹とどんな涙を流して来たのか忘れないためにも、これらの記事をこんどは私が守っていこう、と思った。
そして、両親の遺影の前でそのことを誓った・・・。


 「無実の者は無罪に!」

 この当たり前のことが、全く守られていない。いちど被疑者と疑われた段階から人権が無視され、非人間的扱いをされ、無実を証明する証拠は隠され、有罪を導く証拠のねつ造がされる。
裁判官は、その不正行為を見抜けない。当事者の「真実の訴え」に耳を塞ぎ、弁護人の主張より、同じ司法の仲間である「検察官の声」に心を開いてその声しか聞こうとしない。

 布川事件も、夫と杉山さんの「無罪」こそ確定したが、44年もの時間を奪ったことに裁判所からはもちろん誰一人、夫たちに謝罪は無いし、布川事件に関わった捜査官、裁判官の誰一人責任を問われていない。
このようなことが、現実、許されていることに「おかしい」と思うのは当事者だけではないだろう。
普通の市民感覚で十分理解していただけることだと思う。
私は2007年、国連欧州本部(ジュネーブ)で行われた拷問禁止条約日本政府報告第1回審査の折、審査員との公式ミーティングで、直接日本における冤罪被害者の家族として審査委員に訴える機会を戴き、
「えん罪は、国家の誤りであり、それを放置し続けるのは『国家の犯罪』です。夫たちは、40年もの間、えん罪の精神的苦痛を受け続けています。一日も早く日本の再審制度に道が開かれるよう、厳しい勧告をお願いします」と訴えた。

 折も折、審査会の当日の朝、現地新聞は日本における「えん罪・志布志事件」を大きく取り上げていて、日本政府代表者への質問の際、
「新聞を見たが、これら過ちを犯した担当官はどのような責任をとったのか」という質問が出された。
政府代表者は、「おきまり」の文言を読み上げ「適正に処理した」風な言い方で逃げた。

・・・・・・

 夫のたたかいはこれからも続きます。
味わった家族の苦しみ、悲しみ、無念の思いをも背負いながら・・・。
国家の責任を求めて。

それが、えん罪で今も苦しんでいる仲間を一日も早く救出する力になること、ふたたびえん罪で泣く人が出ない司法の改革につながることを信じて・・・。