メガリス

私の文章の模倣転用は(もしそんな価値があるなら)御自由に。
私の写真についての“撮影者としての権利”は放棄します。

新政府軍は会津藩戦死者の埋葬をさせている。

2023年04月07日 19時29分08秒 | 幕末維新

 戊辰戦争で会津藩が降伏した直後の明治元年(1868年)10月に会津藩戦死者らが埋葬されていたことを示す史料が会津若松市で発見されている。「新政府軍は会津藩戦死者の遺体埋葬を許さなかった」と、さしたる根拠も無いのに言い張る人達が居るのだが、この資料には埋葬場所や経費などが詳細に記されているとのこと。
 まさに「伝染病の発生など衛生面を考えても半年間、遺体が放置されたというのはあり得ない」わけで、「何を今更」という気もするが、ちゃんとした資料が出てきて証明されたのは喜ばしい。

 根拠の無い話や一方的な思い込みで「怨念史観」を未だに煽り続けている人達はどういう反応をするのだろうか。
 「会津観光史学」という言葉も有るそうで、結局のところ金儲けを目的としていると言うしかない人達も居るらしい。そういう連中は無視して知らんぷりするのだろうね。

↓福島民報サイトより引用。
http://www.minpo.jp/news/detail/2017092545375

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会津藩士埋葬の史料発見 「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し

 戊辰戦争で会津藩が降伏した直後の1868(明治元)年10月、戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料が会津若松市で見つかった。従来は、西軍(新政府軍)が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたが、埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。
 見つかった史料は「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し。筆者は不明だが、写しは会津藩の要職を務めた藤沢内蔵丞(ふじさわ・くらのじょう)の子孫が約40年前に市に寄贈した史料約170点のうちの1点。会津歴史考房を主宰している野口信一さん(68)が昨年12月、市史史料目録を整理するため史料を借り受け、内容を確認していた際に発見した。
 写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が西軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある。
 戊辰戦争のうち会津戦争では会津藩士ら約3000人が亡くなったとされる。西軍は遺体の埋葬を許さず、降伏から半年後の1869年2月に現在の会津若松市七日町にある阿弥陀寺に改葬が始まるまで、野ざらし状態だったと言い伝えられてきた。地元の歴史関係者によると、この対応が長年、西軍側との感情的な溝を築く要因の一つとなってきた。
 野口さんは「伝染病の発生など衛生面を考えても半年間、遺体が放置されたというのはあり得ない。史料から少なくとも500人以上が埋葬されていたと分かる」と話している。

( 2017/09/25 10:22 カテゴリー:主要 )

引用終了-----------------------

 


龍馬伝説「『船中八策』提唱伝説」はウソである。

2017年08月18日 15時27分00秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬が夕顔丸船中において『船中八策』を提唱した”という龍馬伝説「『船中八策』提唱伝説」はウソである。

 『船中八策』と其の逸話は、明治から大正にかけて、龍馬親族の著書内の記述をもとに段階的に整理・補完され成立したものだ。判りやすく端的に言うと「捏造」である。

 近代史専門家の間では以前から、〝坂本龍馬が『船中八策』を提唱した〟という話には疑問が持たれていた。
 理由1 龍馬本人や『船中八策』を聞いたという長岡謙吉による自筆も、信頼できる写本も存在しない。
 理由2 同時代の記録や、龍馬に関連した人々の証言等に一切登場しない。土佐海援隊の日誌にさえ記述が無い。
 理由3 後年の龍馬自筆が現存する『八義』(所謂『新政府綱領八策』)よりも、先行するはずの『船中八策』の方が内容が充実している。

 近年に明らかになって来た『船中八策』と其の逸話の成立経緯を大雑把に言うと次のようなものだ。
 明治29年西暦1896年に龍馬の親族である弘松宣枝が著した龍馬の伝記『阪本龍馬』(何故か「阪」)に『船中八策』の原型となる記述が登場する。同書内で龍馬が長岡謙吉に語ったとされる「建議案十一箇条」という物のうち、「不詳」三箇条を除いた、残り八箇条である。其の内容は現在の『船中八策』とほぼ同じだが異なる部分もあり、〝龍馬が夕顔丸船中で語った〟という話も登場しない。当然だが、まだ『船中八策』ではない。
 その記述を元に、『殉難録稿 巻之五十四 坂本直柔』という書物の中で今我々が知る『船中八策』の内容がほぼ確定したのが明治40年西暦1907年。この時点では名称は「建議案八條」であり、龍馬が京都において長岡謙吉に起草させたものとされている。龍馬が夕顔丸船中で語った〟という話はまだ生まれておらず、当然、未だ『船中八策』ではない。
 そして、岡部精一という人物の講演において〝長崎から上京する途中の龍馬が夕顔丸船中で長岡に語った〟という物語と『船中八策』という名称が世間に登場したのが大正5年西暦1916年のことである。つまり、我々が知る『船中八策』とその逸話が完全に成立したのがこの時。

 〝夕顔丸船中において語られた〟という逸話や『船中八策』という名称が後世の捏造であっても、龍馬が『八義』(所謂『新政府綱領八策』)とは別に八箇条の建議をしたということが事実であるなら其の意義は変わらないわけだが、其れを示す根拠が全く無いのは、前述した通りである。

 詳しくお知りになりたい方は知野文哉著『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫蘭』(人文書院刊)をお読み頂きたい。





 本郷和人先生は鎌倉時代を専門としており、近代史は門外漢。誤った理解や知識をもとに話している。

2017年06月11日 17時28分38秒 | 幕末維新

 本郷和人先生は鎌倉時代を専門としており、近代史は門外漢。誤った理解や知識をもとに話している。↓
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170608-00000059-sasahi-life

 「見廻組はいわば今の警察組織で、中でも旗本で構成されたエリート集団。その公的機関が私的な「恨み」などで人を殺害するとは考えにくい。」その通り。京都見廻組の与頭(くみがしら)佐々木只三郎の実兄手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)が、佐々木たちに対し「某諸侯」の「御指図」があったことを証言し、京都見廻組の上司である京都守護職の会津藩主松平容保(あるいは彼の実弟である京都所司代を務める桑名藩主松平定敬〔さだあき〕)が命令したことを示唆している。私的な「恨み」ではなく、上司命令により公務として実行したのだ。 
 函館戦争生き残りの元新選組隊士の「龍馬殺害は京都見廻組によるもの」という証言がきっかけで、元京都見廻組の今井信郎が詮議を受けることになり、今井は「確かに京都見廻組が殺害した」旨を供述した。だが、この時点では、今井は「自分は見張りをしていただけで、殺害そのものには無関係」と主張し結局それが認められた。今井が「自分が龍馬を斬った」と言い出したのは、明治30年代に彼の証言が新聞などで世間に広く知られるようになった後のこと。人を殺しておきながらわずか2年で釈放された、ということではない。
 龍馬は寺田屋襲撃事件で伏見奉行所の捕り方二名を拳銃で射殺したお尋ね者で、大政奉還に反発し許せないと考える旧幕府側の人間から見れば敵にしか見えない。「捕縛せよ。手に余る場合は殺害してよし」という命令を出されたことは簡単に説明がつく。
 斎藤一が左利きで『左片手一本突き』が得意だったというのは、子母澤寛の小説「新選組物語」の中での設定が俗説として広まったもので、史実ではない。(番組名など記憶していないが、以前、斎藤一の子孫の方がテレビ番組にビデオ出演され、「左利きだったということはない」旨を仰っていた。)
 「(2)しかし龍馬は幕府を平和的に倒して政権を朝廷に返すことを考えた。(3)西郷は龍馬が有能なことを知っているだけに邪魔になった──。」
 大政奉還は主に土佐の後藤象二郎の努力で実現したもので龍馬は何もしていないし、龍馬は徳川慶喜が大政奉還を受け入れない場合の軍事的行動も考えていた。正式には土佐藩士に復帰しているが事実上浪人に近い龍馬は当時の政局に殆ど影響力は無いし、仮にそんな龍馬でも邪魔だというなら大政奉還の〝前〟に殺さないと意味が無い。
 「最終責任者は薩摩を仕切っていた西郷さん。」
 この一言が本郷和人先生の近代史に関する理解知識の程度を明確に示している。近代史専門家でこんな通俗的見解を示す人は皆無。幕末から明治維新にかけての薩摩を仕切っていたのは藩主の父「国父」島津久光と家老小松帯刀ラインである。西郷が重要人物であり個々の局面で大きな役割を果たしたことに間違いは無いが、久光・小松の指示命令や承認のもとで動いていた。西郷や大久保といった下級武士が藩を仕切れるわけがない。




原田伊織『明治維新という過ち』が(多分)学者に無視されている理由

2017年05月30日 23時36分19秒 | 幕末維新

 言うまでもなく私が知る範囲に限っての話だが、『明治維新という過ち』等の原田伊織氏の著作を幕末維新期専門の学者・研究者が本格的に論評するのを見たことが無い。無視されているという印象だ。この私の印象が正しいと仮定するなら、其れは原田氏がまともな議論が成立する相手と見做されていないからだろう。言っていることが正しくて反論できないから、ではない。

 所謂「ニセ科学」と言われるモノに対して、該当する分野の真当な学者・研究者が本格的な批判をすることは意外に少ない。
 まともな学者・研究者が正面から批判をして、議論、というより単なる〝言い合い〟に発展すると、其れ自体が「ニセ科学」の宣伝となってしまう。一般的に「ニセ科学」を主張するような人物は論破されても絶対に自説の誤りを認めたりしないものだし、不毛な言い合いに疲れて果てて其れを止めてしまうと「〇〇は私の主張に対し沈黙した。私の説を認めたのだ」などと言い出したりする。そんな面倒なことに自ら首を突っ込む勇気と気力の有る学者・研究者はごく少数派だ。自分に都合の良い事実だけを拾い上げて創った物語を強硬に主張する、幅広い客観的事実や其れらから導き出される合理的判断に基づいた話が出来ないと思われる相手に、まともな学者・研究者たちの殆どは議論をふっかけたりしない。彼らが沈黙しているのは「ニセ科学」の内容が正しくて反論出来ないから、ではない。(困ったことに、「ニセ科学」側の人間は其のように捉え、〝見ろ。我々の言ってることが正しいからエライ学者たちは批判しないのだ〟と考える。)
 
 『明治維新という過ち』等の原田伊織氏の著作が「ベストセラー」となり其れなりに話題となったにも関わらず、幕末維新期を専門とする学者・研究者が本格的に論評するのを、私は、見聞きしたことが無い。当然「全く無い」と断言は出来ないが、其の反響と比較すると非常に少ないとは言っていいだろう。似たような理由なのではないか、というのが私の想像である。

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BS日テレ『片岡愛之助の解明!歴史捜査 没後150年!真実の坂本龍馬を徹底解明!2時間SP』を観た

2017年03月17日 22時58分03秒 | 幕末維新

 平成29年3月16日(木)20時より放送されたBS日テレ『片岡愛之助の解明!歴史捜査 没後150年!真実の坂本龍馬を徹底解明!2時間SP』を観た。

 歴史研究家・作家の桐野作人先生が監修。
 「真実の坂本龍馬を徹底解明」と詠ってはいるが、大政奉還策の発明者は龍馬ではなく幕臣大久保一翁・福井藩主松平春嶽である事や、薩長の和解連携の発案主導者は他ならぬ薩摩であって龍馬ではないといった事実については全く触れられておらず、其の点は不満を感じた。多分、これから先の龍馬関連番組の為にネタをとっておいたということなのだろう。

 『船中八策』が明治以降の捏造である事実や「龍馬殺害薩摩藩黒幕説」が成り立たない事を明解に説明していたり、会津藩が京都の薩摩藩邸を焼討ちし小松帯刀・西郷・大久保らを殺害すること(あまり使いたくないが最近流行りの言葉で言うと「テロ」)を計画していたという不勉強な私にとっては初めて聞く話も登場したりして、非常に有益な番組だった。

 詳しくは後日追記。(出来るかな?)






また間違い。『林修の今でしょ!講座』 東大教授・本郷和人が教える超人気の歴史講座 『この5年でわかった歴史的新発見ベスト5』(ゼネラルプロデューサー:樋口圭介)

2017年01月25日 12時40分18秒 | 幕末維新

平成29年1月24日放送の『林修の今でしょ!講座』 東大教授・本郷和人が教える超人気の歴史講座 『この5年でわかった歴史的新発見ベスト5』(ゼネラルプロデューサー:樋口圭介←またアンタか)で、また間違い。
本郷和人先生、いい加減にしないと学者生命を絶たれますよ。

 録画しておいて、とりあえず坂本龍馬に関する二項目だけ観た。
 「龍馬は(教科書に取り上げられるようなことは)何もしていない」と明言したり、「龍馬いろは丸詐欺事件」で龍馬が大金を騙し取った事実を語ったり、龍馬が薩摩藩(西郷)の強い影響を受けていたことを述べたりと、最初のうちは「本郷先生、良くぞ言ってくださった!」と感激していた。
 ところが最後に、まともな歴史学者なら鼻で笑ってオシマイの龍馬殺害「西郷黒幕説」が登場し、ビックリ仰天。その説明に〝殺人を犯したにも関わらず元京都見廻組の今井信郎(いまい のぶお)は直ぐに釈放された〟という明らかな間違いや、〝斎藤一は左利きだった〟という根拠の無い話が取り上げられていて、しばし呆然。今井は函館戦争の旧幕府方生き残りとして拘束されており、明治初めの彼は〝龍馬を斬ったのは京都見廻組だが、自分は見張りをしていただけで斬ってはいない〟と言い張って結局それが認められた。今井が〝自分が龍馬を斬った〟と言い出したのは明治30年代以降のこと。斎藤一の左利き説は子母澤寛の『新選組物語』という小説での記述が俗説として広まったもので史実ではない。 

本郷先生、学者を捨ててテレビ芸者になる気ですか?

来年のNHK大河ドラマ『西郷どん』を標的に〝西郷降ろし〟を画策している連中がいるんじゃないか、という妄想をしている。


 

 




親族の顔と意見を元に描かれた西郷隆盛肖像画を「偽物」だと言うTBS『7時にあいましょう』(総合演出 川平秀二)

2016年11月24日 11時58分43秒 | 幕末維新

 平成28年11月21日(月)放送のTBS『7時にあいましょう』「末裔だけが知っていた偉人のミステリー解明スペシャル」(総合演出 川平秀二)。
 西郷隆盛親族の顔と親族・知人の意見を総合して描かれた西郷の肖像画を「偽物」だと言っていた。
 おまけに、そういう経緯で描かれたイタリア人画家 エドアルド キヨッソーネ作の肖像画ではない別作品を画面に登場させるという愚かな間違いまで犯している。
 キヨッソーネや彼の作画に協力した西郷隆盛親族知人たちが生きていたら、激怒することだろう。
 総合演出 川平秀二氏を初めとする日本のテレビ屋さんがいかに不勉強か良く判る事例だ。
 だが、西郷隆盛ソックリの風貌を持つ曾孫西郷隆文氏を登場させ、〝西郷隆盛を知る人々の協力助言で制作された西郷肖像画は西郷本人とよく似ている〟という至極当たり前の事実を世間に改めて伝えたことは評価してよい。

 ↓キヨッソーネ作の西郷隆盛肖像画。西郷隆盛の弟従道の顔の上半分と従兄大山巌の顔の下半分がそれぞれ西郷隆盛に似ているということから、双方を合成し、西郷親族や知人の意見によって修正を加え完成された。西郷の親族列席の場で「此こそ翁の真像」と評価され、西郷の妻イトに贈呈された。

 


「偽物」として当該番組に登場した肖像画。昭和初期に出版された書籍に掲載されている。

↓西郷隆盛の顔や肖像画については下記のページに詳しい。是非ご覧頂きたい。
【西郷どん】西郷隆盛の本当の顔は一般に知られている肖像画の「あの顔」で間違いなかった!!


天璋院(篤姫)が西郷に求めたのは徳川家安堵。江戸攻撃中止ではない。『林修の今でしょ!講座』 本郷和人先生、何やってるんですか?

2016年11月10日 20時31分13秒 | 幕末維新

 天璋院(篤姫)が西郷に求めたのは徳川家安堵であり、江戸攻撃中止ではない。本郷和人先生、何やってるんですか?

  平成28年11月8日(火)放送のテレビ朝日『林修の今でしょ!講座』「教科書では教えない!本当にすごい江戸のヒロインベスト3を大発表!」(ゼネラルプロデューサー 樋口圭介 ←また、アンタか)。
 第1位は天璋院(篤姫)だったのだが、彼女の事績に関する説明が非常に問題。ごく簡単に言うと、“天璋院(篤姫)が、江戸攻めを目指す新政府軍の指揮官である西郷隆盛宛てに江戸攻撃中止を求める手紙を書き、その結果江戸が戦火から救われた”というように視聴者が受け取る内容(そのように言い切ってはいないが、見る人がそのように受け取るように構成されていたということ。悪賢いと言うしかない)。NHK大河ドラマ『篤姫』における作り話と方向性は同じ。

 天璋院がその嘆願書で西郷に必死に求めたのは徳川家安堵である。“徳川慶喜はどんな天罰を受けても仕方がないが、徳川家の存続は認めてくれ”ということ。“江戸攻撃は止めてくれ”とか“江戸の民を救ってくれ”とかいう話ではない。
 実のところ、天璋院(篤姫)の嘆願書が西郷や新政府軍の動きに影響を与えた形跡は無い。〔NHK大河ドラマ『篤姫』の監修を担当された原口泉先生によれば、そもそも西郷の手に天璋院(篤姫)の嘆願書は渡らず彼は読んですらいない可能性も有るそうだ。〕マスコミも電話も電子メールも無い時代。“慶喜が江戸城を出て寺に引っ込み恭順の意を示している”という話も、実際に江戸まで兵を進めて確かめないとしょうがない。西郷率いる新政府軍は旧幕府方と戦争となる覚悟と準備で、とにかく江戸まで行かねばならないのだ。そして、西郷が駿府で山岡鉄舟と、江戸で勝海舟と面談し、慶喜の恭順の意を(一応は)本物と認めたことが「江戸城無血開城」へと繋がる。
 西郷にとって“慶喜の示した恭順の意を本物と認めていいかどうか”が全て。
天璋院(篤姫)が泣こうが喚こうが、関係無いのである。  

 このコーナーを仕切っていたのが東京大学の本郷和人先生。先生、何やってるんですか?

 天璋院(篤姫)は、嫁ぎ先である徳川家の人間になりきり故郷薩摩が中心となって起こした大変革の波から徳川家を守り抜いた、古典的「婦道」の体現者なのだ。宮尾登美子の小説『天璋院篤姫』もそういう物語。この小説に登場する「女の道は一本道」という言葉は、“女は一度嫁いだら其の家の人間になりきり婚家の繁栄に尽くさねばならない。何が有ろうと脇道に逸れることはもちろん来た道を戻り実家に帰ることも許されない”という意味。
 小説『天璋院篤姫』を原作とするNHK大河ドラマ『篤姫』では、そんなことを主題として打ち出すわけにいかないので、“ハンセンヘーワ主義者の篤姫が好戦的な西郷らを改心させ江戸と日本を戦火による滅亡から救ったのです”というアホらしいファンタジーにしたわけである。『篤姫』においては江戸城無血開城後の上野戦争や東北・北陸・北海道での戦争はナレーションですら一切触れられず、完全に“無かったこと”にされていた。







「会津観光史学」 捏造・隠蔽の怨念史観により“市場活性化”をはかり金儲けしようという行為は如何なものか。

2016年11月06日 13時41分06秒 | 幕末維新

 「会津観光史学」という言葉があるそうだ。
 “会津=善と、薩長=悪の対立”という構図を殊更に強調し「怨念史観」を拡大再生産する人々を全く理解できなかったのだが、結局のところ、金儲けらしい。非常にイヤな形で、“腑に落ちた”。

 歴史は重要な観光資源であり各自治体や地域が有効に活用すべきものであることは、鹿児島出身の私は良く判る。
 だが捏造・隠蔽による「怨念史観」を喧伝して“市場活性化”をはかり金儲けに結びつけようという行為は如何なものか。実在の坂本龍馬とは全く異なる“架空の幕末スーパーアイドル坂本龍馬”を金儲けのネタにしている「悪質龍馬業者」連中と同じではないか。史実が広まりウソが暴かれれば、大きなしっぺ返しをくらうことになるだろう。

 
 一つの参考として、下記のページをご覧頂くことをお勧めする。
 『隠蔽されてきた会津藩蛮行の歴史』




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鈴木亮平が平成30年度NHK大河ドラマ『西郷どん』(せごどん)の主役に決定。

2016年11月03日 12時21分51秒 | 幕末維新

 鈴木亮平氏が明治維新150周年である平成30年のNHK大河ドラマ『西郷どん』(せごどん)の主役に決定した。

 彼の過去の熱心な仕事ぶりから観て、真剣に西郷隆盛という英雄豪傑に取り組んでくれるだろう。良い人選である。
 唯一気になるのは目の大きさだが、其れはメイクや演技で或る程度対応可能でありさほど問題ではない。(『翔ぶが如く』で西郷隆盛を演じた西田敏行氏もそんなに目が大きいわけではない。) 

 鈴木氏とともに西郷役候補として推す人の多かった鹿児島出身の山田孝之氏は出演するのだろうか。もし出演するなら「国父」島津久光あるいは家老小松帯刀といった幕末維新期の薩摩藩を動かした重要人物役で出て欲しい。

 心配なのは脚本である。
 「篤姫との淡い恋」に加えて、今度は「ボーイズ ラブ」。どうなることやら。。。

 


キムタク西郷も悪くない。NHK大河ドラマ『西郷どん』。木村拓哉の真剣度次第。

2016年10月19日 14時16分03秒 | 幕末維新

 キムタク西郷も悪くないと思う。木村拓哉氏が西郷隆盛という人物に真正面から取り組むという条件付きで。

“NHK大河ドラマ『西郷どん』の西郷役に木村拓哉氏が内定した”、あるいは、“本人や事務所が熱望している”という噂がある。

 キムタク西郷も悪くないと思う。以前、木村氏主演の映画『武士の一分』を観たが、ちゃんとした芝居の出来る人という印象を持った。(この映画の木村氏を批判する人は、いかにも剣の達人という雰囲気を出さない自然な演技演出に対し見当違いの難癖をつけているだけとしか思えない。)
 「何を演じてもキムタクにしか見えない」という批判もあるらしいが、それは彼が本物のスターである証拠だろう。
 
 ただ、木村氏には彼が20代前半の頃に出演した映画『君を忘れない』で“ポニーテールの特攻隊員”を演じたという「前科」がある。
 “薩摩弁は大変だから基本的に共通語にしろ”とか“体重を増やすのはイヤだ”とか勝手なことを言わず、木村氏が西郷隆盛という人物に真正面から真剣に取り組むのなら、キムタク西郷も良いと思う。

 (『八重の桜』での吉川晃司氏演じる西郷隆盛はさほど太ってはいなかったが西郷らしい雰囲気を醸し出していた。巨漢西郷の印象を映像の上でしっかり出せるなら、過度にブクブク太る必要は無い。)



龍馬伝説「生涯海舟愛弟子伝説」はウソである。

2016年10月09日 09時51分51秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬は死ぬまで勝海舟の愛弟子であった”という龍馬伝説「生涯海舟愛弟子伝説」はウソである。

 龍馬単独名義で海舟宛てに出した書簡の現物は存在しない(龍馬から海舟宛ての手紙の写しと推定されている資料が1件在るには在る)。また、海舟から龍馬単独宛名で出した書簡も存在しない。後述する佐藤与之助と連名の書簡・来簡が数通残るだけである。師弟関係が間違いなく存在していたと思われる時期でも、両者の関係は一般に考えられているほど親密ではなかったようである。(単に現存していないだけで手紙の遣り取り自体は有ったのかもしれない。だとすると、龍馬も海舟も受取った手紙をしっかり保存しなかった、場合によってはさっさと捨ててしまった、ということになる。龍馬と海舟が常に一緒に行動していたなら、手紙を書く必要自体が無いわけだが、実際にはそんなことはない。)
 そして、「龍馬公金横領事件」が発覚した頃から、両者の間に直接の交渉は一切無くなる。

 元治元年(西暦1864年)に勝海舟は軍艦奉行を罷免され、後に神戸海軍操練所も閉鎖された。「龍馬公金横領事件」が明るみに出たのはその海舟罷免の直後だ。
 以下、幕末明治期の政治・思想史研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)から引用する。文中に登場する「与之助」とは、神戸にあった勝の私塾における事実上の「塾頭」と言える立場だった佐藤与之助〔さとう よのすけ。後の「鉄道の父」佐藤政養(まさやす)〕のことである。(坂本が神戸の海軍操練所や勝の私塾で、「塾頭」やそれに相当する立場だった事実は無い。この「海軍学校塾頭伝説」も後世の創作である。正式発足後の海軍操練所に関しては「塾頭」どころか一練習生ですらない。龍馬のような浪人は入所出来ないことになったからだ。)文字強調は私メガリスによる。

--------------------引用開始

 前年の海舟軍艦奉行罷免の報らせを受けて驚いた手紙で与之助は、松平大隅に預けてあった海舟の金四百両を受取り、指示された支払に三百両を使い、残り百両は自分が持っていると書いた。実は与之助の手許に残ったのは百両ではなくて五十両だった。五十両は松平大隅のところから坂本龍馬ら土佐人が持出していたのである。
 与之助は現金五十両の代りに松平大隅の家来が書いた〆金五十両の「覚」を受取った。この「覚」や他の現金を受取ったのは元治元年十一月二十四日だが、与之助は「覚」のことを伏せた。慶応元年の六月十日になって遂に隠しきれず、海舟宛の手紙に同封したのである。
 その「覚」は十両を坂本龍馬殿へ、十両を高松太郎殿へ、三十両を近藤長次郎殿へで計五十両だった。この順で松平大隅の手許から持出したのである。まず顔の効く龍馬が十両を借りだし、それが先例になって高松太郎が十両、最後に近藤長次郎が纏めて三十両を引き出して合計が五十両になった。各人それぞれがいつ持出したのか記録されていないけれども、元治元年(子年である)十一月二十四日に与之助が引継いだときには五十両に達していたので、松平 大隅の家臣が「子十一月」付の〆金五十両の「覚」を渡したのである。与之助が全部で四百両の筈だった海舟の金を受取ったとき、その内の五十両は土佐の人たちに先に渡してありますという話だったのである。
 与之助は高松太郎や近藤長次郎に返金を掛合ったけれども返事も無い。龍馬には大坂で会ったとき詰問したけれども、とてものこと返納の手段は無いとのことだった。

(中略)

 そのとき与之助は、龍馬が金の持出しを海舟に告白していないことを確認し、返すあてのないことを聞取った。与之助はなおも熟慮を重ね、六月十日に至り遂に報告することに決めたのである。これも龍馬と海舟の関係を考える上での重要なデータとなる。

引用終了--------------------

  佐藤与之助が“龍馬らの粗雑より起こったことで悪意の横領ではない”と庇ってくれたおかげで、勝海舟も大事にはせず済ましたらしいが、勝に一切断り無く大金を持出し使い返却しなかったのだから“横領”と言うしかない。
 この頃の1両は現代の5万円程に相当するという見解があり、それに従うと現代の価値で約250万円の横領ということになる。
 この
「龍馬公金横領事件」発覚の頃から龍馬と海舟は一切の交渉が無くなる。其れが理由であると断定は出来ない。だが、常識的に考えれば大いに関係あるはずだ。

 “龍馬は死ぬまで勝海舟の愛弟子だった”という龍馬伝説「生涯海舟愛弟子伝説」はウソである。
 

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薩長テロリストによる明治維新が無ければ幕府独力で平和的近代国家になり日清日露太平洋戦争も無かったはずだ。

2016年10月06日 13時19分14秒 | 幕末維新

“日帝による植民地支配が無ければ、李氏朝鮮が独力で近代化を行って朝鮮は平和的近代国家に生れ変り、南北分断・朝鮮戦争も無かったはずだ。”

“薩長テロリストによる明治維新が無ければ、幕府が独力で近代化を行って日本は平和的近代国家に生れ変り、日清・日露・太平洋戦争も無かったはずだ。”

 同じ連中ではないだろうが(多分)、同じような連中が言っているわけだ。

 「負け犬(あるいは参戦能力が無く負け犬にさえなれなかった傍観者)の遠吠え史観」。どうぞ御自由に。


 


西郷在世当時は「西郷さぁ」であり「西郷どん」ではない

2016年10月05日 18時20分26秒 | 幕末維新

 「西郷どん」という呼び方は昭和に入ってからの比較的新しいもので、西郷在世当時、彼は「西郷さぁ」と呼ばれていたらしい。
 そういえば平成2年NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』でも西郷は「西郷さぁ」と呼ばれている。

 NHK大河ドラマ『西郷どん』。題名からして、つまづいてしまっている。不安。。。 

 西郷隆盛という巨人の思想と行動は現代の老若男女を対象とするNHK大河ドラマの単独主役としては大きすぎる。
 今からでも遅くはない。(遅いか?) 主人公を島津斉彬・久光兄弟に変更しよう。

 

 


赤松小三郎暗殺に西郷ら薩摩藩首脳が関わっている可能性は有る。

2016年10月04日 11時18分02秒 | 幕末維新

 幕末の兵学者・政治思想家である赤松小三郎の暗殺事件には西郷・小松帯刀・大久保ら薩摩藩首脳が関わっている可能性は有ると思う。
 当時、薩摩藩は武力討幕・新政府樹立政変の計画を着々と準備しつつあった。薩摩軍を永年に亘って指導錬成してきた赤松だが、彼は譜代である松平氏が治める上田藩の藩士。共に縁の深い薩摩と幕府方による内戦を避けたい彼は、薩摩の武力倒幕方針に反対し西郷・小松らの説得を試みる。そんな時に度重なる上田藩からの召還命令を拒否し続けることが出来なくなった赤松は帰郷せざるを得なくなる。幕府側もボーッとしていたわけではなく薩摩の動きは把握していたはずで薩摩もまたそのことは判っていただろう。だが、やはり薩摩の軍事機密と武力討幕準備を熟知している赤松が幕府方に取り込まれる可能性は好ましくない。
 赤松小三郎という人物の重要度は坂本龍馬のような小物とは違う。 

 だた、有馬藤太の証言自体はさほど信頼出来ない。そもそも彼は暗殺事件には不関与で詳細を知らないのではないか。薩摩藩士内での噂話に基づく彼の認識をもとに、薩藩首脳陣を庇うつもりで”俺たち4人が独断でやった。俺も現場に居た”という事実とは違うことを言い、後には真相を明かすつもりで”大久保・西郷らが桐野に密命をくだした”と語っただけではないのか。

 ノンフィクション作家だという宮原安春という人物が、赤松小三郎に関する文章を『週刊朝日』に書いている。
----------------引用開始

 好戦的な西郷には平和主義の赤松が邪魔だったのかもしれない。
 赤松の死後1カ月後に慶喜は大政奉還、翌年1月から戊辰戦争が始まった。
 「たら、れば」ではあるが、民間からの初の憲法構想である赤松の建白書が採用されていれば富国強兵に走ることもなく、日清、日露戦争も起こらなかったかもしれない。

引用終了----------------

 薩摩軍を指導錬成していた兵学者である赤松が「平和主義」なのだそうだ。どうしてそんな辻褄の合わない発想が出来るのか?
 日清・日露戦争だけではなく、富国強兵さえも怪しからんとする姿勢は何なのか?
 朝日新聞的ハンセンヘーワ主義の視点から何十年もの先の事を都合良く妄想する愚かしさ。
 失笑するしかない。