以前から知られていたことだが、明治元年(西暦1868年)7月に会津藩・庄内藩がプロイセン(ドイツ)に対し蝦夷地(現 北海道)の土地売却の打診をしている。これまでは、ビスマルクが却下した為その話は立ち消えになったと思われていた。
だが、最近、ビスマルクが却下の3週間後に方針転換し交渉を認可していたことを示す文書がドイツ連邦軍事文書館で発見された。プロイセン(ドイツ)ではゴーサインが出ていたことが明らかになったのである。
会津・庄内両藩はプロイセンから資金を借り受ける為の担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」とのこと。戊辰戦争が長引いていれば、少なくとも北海道の一部、悪くすると全部が昭和40年代までドイツ領になっていた可能性がある。
徳川幕府を倒し明治新政府を創った薩長も、彼らに対して後手を打ち続け敗者となってしまった徳川幕府も、欧米列強の魔手から日本を守らねばならないという認識では共通していたはず。
旧幕府方の総大将である徳川慶喜は(少なくとも表向きは)とっくに降参し恭順しているのだから、もはや武士の忠義とかは全く関係ない。意地なのか単なる“薩長憎し”なのか知らないが、とにかく自分らのご都合の為に国土を他国に売り渡そうとした会津藩主松平容保は文字通り「売国奴」である。
幕末期に薩摩が幕政に関与するようになったのは、他ならぬ幕府側が、其の英明ぶりが知れ渡っていた島津斉彬の薩摩藩主就任と雄藩薩摩の支援協力を望んだことがきっかけ。(ついでに言うと、篤姫の徳川家入輿も、徳川家から島津斉彬に“薩摩から嫁を出して欲しい”旨の打診があったのがきっかけ。)それに対し島津斉彬が自藩の繁栄安穏を考えるだけで国政には関与しようとしなかったら、こういう連中があの大変な時代に日本の舵取りの一端を担っていたわけだ。日本は欧米の植民地になっていた可能性が大いにある。
以下、北海道新聞サイトより引用。
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0317478.html
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「蝦夷地99年間貸与」 会津・庄内両藩、戊辰戦争で独に打診
09/18 07:00、09/21 17:15 更新
戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある」とみる。
これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた。
その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。
幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。
当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)
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