メガリス

私の文章の模倣転用は(もしそんな価値があるなら)御自由に。
私の写真についての“撮影者としての権利”は放棄します。

「蝦夷地99年間貸与」会津が戊辰戦争で独に打診。会津藩主松平容保は売国奴。

2016年09月26日 23時10分26秒 | 幕末維新

 以前から知られていたことだが、明治元年(西暦1868年)7月に会津藩・庄内藩がプロイセン(ドイツ)に対し蝦夷地(現 北海道)の土地売却の打診をしている。これまでは、ビスマルクが却下した為その話は立ち消えになったと思われていた。
 だが、最近、ビスマルクが却下の3週間後に方針転換し交渉を認可していたことを示す文書がドイツ連邦軍事文書館で発見された。プロイセン(ドイツ)ではゴーサインが出ていたことが明らかになったのである。
 会津・庄内両藩はプロイセンから資金を借り受ける為の担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」とのこと。戊辰戦争が長引いていれば、少なくとも北海道の一部、悪くすると全部が昭和40年代までドイツ領になっていた可能性がある。

 徳川幕府を倒し明治新政府を創った薩長も、彼らに対して後手を打ち続け敗者となってしまった徳川幕府も、欧米列強の魔手から日本を守らねばならないという認識では共通していたはず。

 旧幕府方の総大将である徳川慶喜は(少なくとも表向きは)とっくに降参し恭順しているのだから、もはや武士の忠義とかは全く関係ない。意地なのか単なる“薩長憎し”なのか知らないが、とにかく自分らのご都合の為に国土を他国に売り渡そうとした会津藩主松平容保は文字通り「売国奴」である。 

 幕末期に薩摩が幕政に関与するようになったのは、他ならぬ幕府側が、其の英明ぶりが知れ渡っていた島津斉彬の薩摩藩主就任と雄藩薩摩の支援協力を望んだことがきっかけ。(ついでに言うと、篤姫の徳川家入輿も、徳川家から島津斉彬に“薩摩から嫁を出して欲しい”旨の打診があったのがきっかけ。)それに対し島津斉彬が自藩の繁栄安穏を考えるだけで国政には関与しようとしなかったら、こういう連中があの大変な時代に日本の舵取りの一端を担っていたわけだ。日本は欧米の植民地になっていた可能性が大いにある。


以下、北海道新聞サイトより引用。

http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0317478.html

-----------------------引用開始

「蝦夷地99年間貸与」 会津・庄内両藩、戊辰戦争で独に打診

09/18 07:00、09/21 17:15 更新
 戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある」とみる。
 これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた。
 その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
 今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
 とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
 それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。
 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。
 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)

引用終了----------------------






明日9月24日は西郷隆盛命日。平成30年NHK大河『西郷どん』(せごどん)制作発表あるかな?

2016年09月23日 08時44分24秒 | 幕末維新

 明日9月24日は西郷隆盛の命日。平成30年NHK大河ドラマ『西郷どん』(せごどん)制作発表が有るんじゃないだろうか。と言うより、そろそろして欲しい。

 今朝、テレビCMで阿部寛さんを観た。52歳だそうだが若々しい。体格も大きく声も良い。顔も、特に目が良い。西郷役が阿部さんでもうれしい。

 






NHK大河『西郷どん』。西郷役は山田孝之さんか鈴木亮平さんかな?

2016年09月21日 19時39分28秒 | 幕末維新

 未だに制作発表が無いNHK大河ドラマ『西郷どん』(せごどん)
 山田孝之さんと鈴木亮平さんの二人が、今のところ私にとっては西郷役の最有力候補。

 山田孝之さん。
 鹿児島県出身で薩摩弁は大丈夫。
 西郷の特徴の一つである目の大きさは十分。
 身長も『翔ぶが如く』で西郷役だった西田敏行さんより少し高いからさほど問題ではない。

 鈴木亮平さん。
 身長と体格の良さは十分。
 映画『ガッチャマン』では自ら提案して中西竜を鹿児島出身ということにして鹿児島弁を喋ったらしい。
 映画『俺物語!!』で体重を30キロ増やし西郷状態を経験済。

 お二人ではない他の俳優さんかもしれない。
 誰が西郷を演じるのか楽しみ。
 (
作品としては不安だらけなのだが。。。)


 
  

 






堤真一氏でないとすれば阿部寛氏とか?平成30年NHK大河ドラマ『西郷どん』

2016年09月09日 21時25分34秒 | 幕末維新

 平成30年度NHK大河ドラマ『西郷どん』(せごどん)。〝堤真一氏が出演を辞退した〟という報道もある。実際のところどうかはわからないが、堤氏以外だと誰だろう。
 歴史作家の桐野作人氏やその周辺の方々の間では阿部寛氏が良いという意見だったそうだ。スター性も演技力も十分。役柄に合わせて体重を増やしてもらえるなら確かに良いと思う。雲をつくような大男という雰囲気も見事に出してくれそうな気がする。
 藤本隆宏氏もなかなか良いと思うが、大変失礼ながら、今のところはNHK大河ドラマの主役をはるようなスターという印象はまだ無い。でも抜擢を受け大飛躍ということもあるかもしれない。
 博多華丸氏をテレビで見るたびに「まっこて西郷どんに瓜二つじゃが」と思ってしまう。NHK大河ドラマの主役となると不安はあるが、とにかく一度は華丸氏が西郷さんを演じるところを観てみたいと思う。 

 西郷役の年齢や格にも依るだろうが、島津久光または小松帯刀役に山田孝之氏(鹿児島出身)、大久保利通役には沢村一樹氏(鹿児島出身)が良いと思う。



西郷の本当の顔は肖像画・銅像とほぼ同じ。

2016年09月08日 22時15分48秒 | 幕末維新

 西郷隆盛の妻“いと”は、除幕された上野の西郷銅像を見て「うちの人はこんな人ではない」と周囲の人々にはっきりと聞こえるような声で言い親族らにたしなめられたという。そして、自宅に帰ってから「浴衣姿で散歩なんてしなかった」と語った。

 西郷は人前に出るときはちゃんとした格好をする人であったし、また、武将にしろ軍人にしろ政治家にしろそれぞれの謂わば“正装”で描かれることが銅像では普通なのに西郷はウサギ狩りの時の(散歩ではない)「ラフ」な浴衣姿だったので、“いと”は驚いて思わずそのように口走ってしまったわけだ。 

 “西郷隆盛の実際の顔は肖像画や銅像とは全然違う”ということを言う人たちがいて、それを信じる人もいるらしい。 

 西郷が島津斉彬に見出され藩政に関わる以前から、それこそ子供の頃から、彼を知る親族・友人・知人・近所の人たちが沢山生きている時代に全く違う顔の肖像画や銅像を世に出せるかどうか、また出したらどんな反応が起こるか、少し考えたら判りそうなものだが。

 西郷の肖像画・銅像は、実際に西郷に会ったことの有る人物が自ら描いた物や、西郷を知る親族・友人・知人たちの意見を聞きながら作者が作品にまとめたものである。別々に製作されたそれらが大体同じような顔に収まっている。西郷はあのような容貌だったことは間違いない。
 鹿児島の知人からの間接情報だが、鹿児島市在住の西郷隆盛曾孫である西郷隆夫氏によれば、西郷家親族の間で最も実物の西郷に似ていると高評価だったのは元庄内藩士石川静正が描いた肖像画だそうだ。石川は鹿児島に行って生前の西郷に親しく接したことのある人物である。
    ↓ 

  

 私の拙い説明よりも、下記のページをお読み頂いたほうが良く理解してもらえると思う。
 【西郷どん】西郷隆盛の本当の顔は一般に知られている肖像画の「あの顔」で間違いなかった!


 俗に「フルベッキ写真」と呼ばれる、長崎に在った佐賀藩の藩校「致遠館」の教師や生徒たちを有名な写真家上野彦馬が撮影した写真が有る。明治元年10月入学の岩倉具視の息子二人が写っていることなどから明治元年末から翌二年頃に撮影されたもので、折田彦市・相良知安・石丸安世・山中一郎といった政治家・官僚として名を遺す人物の姿も確認されている。
 この「フルベッキ写真」に西郷や坂本龍馬など幕末維新期に活躍した著名人が沢山写っていると言い張る人たちがいる。そんな話はもうとっくに通用しなくなっているのに未だに悪あがきを続けているようだが、そういう人たちが自説の辻褄合わせの為に“西郷の肖像画・銅像は実物の西郷の顔とは違う”と言っているらしい。
 彼らは“暗殺を恐れた西郷は実物の彼とは全く違う容貌の人物を影武者に立てていた”という稚拙な作り話をしているそうだ。
 作り話をする人間も、それを信じる人間も、オツムの程が知れる。
 暗殺者を欺く為に西郷本人と異なる容貌の「影武者」を仕立てたのなら、普通は其の「影武者」の顔写真を方々にバラまくなどしてニセ西郷の顔を周知させようとするだろう。なのに何故「影武者」の写真が一枚も残っていないのか。長年に亘って「影武者」を維持する為の多大な費用・労力が無駄ではないか。(“西郷は写真嫌いで彼の写真は無い”という話が広く知られるようになったのは後年のこと。)
 其の「影武者」維持費を西郷はどうやって捻出したのか。現代と違い藩・身分・職業などによって言葉や立ち居振る舞いが全然違う時代。薩摩藩士西郷隆盛を演じる「影武者」は彼と同年代の薩摩藩士から雇い入れなければならない。そして、少なくとも西郷が薩摩外で活動している間は常に彼と行動を共にしなければならない。そして「影武者」には命の危険がある(と、西郷や「影武者」たち関係者は思っている)。従者を一人増やすのとはわけが違う。西郷が金持ちになったのは明治維新後に報奨金を貰った後のこと。以前の彼にそんな金銭的余裕は無いだろう。薩摩藩が西郷の為に「影武者」を手配してやったというなら、薩摩藩関係資料の中に必ずその痕跡が残るはずだがそういったモノが見つかったという話は聞かない。また薩摩藩の政治目的実現の為に奔走していたのは西郷だけではなく、家老小松帯刀や大久保利通らも西郷同様あるいはそれ以上に重要な役割を果たしているのだから、薩摩藩としては彼らにも「影武者」を立てるべきで西郷だけ特別扱いする理由は無い。(西郷の功績として語られることが多い事績の幾つかについて、家老小松帯刀の指示命令や大きな関与が有ったことが知られている。島津斉彬は西郷を見出して重用し西郷も斉彬に心酔していたが、斉彬死後に薩摩藩の実権を引継いだ「国父」島津久光と西郷の間は険悪といっても良いくらいだった。)
 「影武者」は何処の誰なのか。さっきも言ったが、薩摩藩士西郷隆盛を演じる「影武者」は彼と同年代の薩摩藩士から選ぶしかない。あの特徴的な顔と体格の人物は西郷の「影武者」になる以前から薩摩藩士内や周囲の人々から注目を浴びていたはず。その人物が或る日突然別人の西郷隆盛として藩内外で活躍を始めるわけだ。調べれば何処の誰か判るだろうに、何故か其の候補の名前すら聞かない。(「影武者」説を唱えている人達自身が其れを信じていないのでハナ
から調査していない、ということだろう。
 西郷隆盛の子や孫、そして現在マスコミなどにも登場し表舞台で活躍している西郷隆盛の曾孫西郷隆文氏や同じく西郷隆夫氏らは明らかに肖像画・銅像に描かれる西郷隆盛の顔の特徴を引き継いでいるが、彼らは皆西郷隆盛本人ではなく「影武者」の子孫だと言うのか。 

 彼らは西郷の妻”いと”の発言の後半は無視し、前半だけを自分らの都合の良いように利用している。








平成30年NHK大河ドラマ「西郷どん」(せごどん)正式発表。私の予想は大外れ。

2016年09月08日 17時18分06秒 | 幕末維新

平成30年NHK大河ドラマ「西郷どん」(せごどん)正式発表。

 

http://www.sankei.com/entertainments/news/160908/ent1609080012-n1.html

 

私の予想はいろいろ大外れ。お恥ずかしい。

久々の薩摩を中心とするNHK大河なので嬉しいのだが、問題はどんな内容になるかだ。。。

「篤姫との淡い恋」?それはやめてよ。


 


『西郷隆盛』ではない可能性も。平成30年度NHK大河ドラマ

2016年09月06日 22時13分40秒 | 幕末維新

 〝平成30年度NHK大河ドラマは『西郷隆盛』、主演は堤真一〟という情報が出てしばらく経つが、私は未だに半信半疑。
 そういうことになったら「征韓を主張した侵略主義者西郷隆盛を美化する番組を日本の国営放送が放送するニダ!許せないニダ!」と大騒ぎする連中が現れる可能性がある。NHKがそんなアブナイ素材に本当に手を出すだろうか?(平成2年の『翔ぶが如く』は西郷と大久保利通の二人が主役だったし、慰安婦問題・竹島問題も日韓関係も当時と現在では様相が異なる。)
 それに、西郷隆盛という巨人の思想と行動は、戦前と比べすっかり矮小化してしまった現代日本人の老若男女を対象とする「NHK大河ドラマ」という枠で真正面から扱うには余りに大きすぎる。

 薩摩を中心に置いた幕末維新物の大河ドラマは『翔ぶが如く』以来四半世紀作られておらず(『篤姫』主人公の篤姫は薩摩出身だが結婚後は徳川の人)、2年連続で戦国時代物が続く後の平成30年は明治維新150周年。薩摩中心の幕末維新物が来ることは間違いないような気がする。
 だが、大河ドラマ誘致に熱心とされる鹿児島県としても、其の本当の思想や人物像はともかく名前だけは知らぬ人のいない西郷隆盛を主人公とするものより、『篤姫』での篤姫・小松帯刀や『あさが来た』での五代友厚のような新しい全国区地元有名人の創出につながる内容の方が有り難いはず。
 幕末維新期の薩摩の重要人物でまだNHK大河ドラマ主役として取り上げられておらず且つ主役として立てられそうな人といったら、私が思いつくのは、島津斉彬・久光兄弟だ。
 平成27年西暦2015年7月に鹿児島の旧集成館機械工場(現 尚古集成館本館)などが「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録された。その旧集成館機械工場などを遺した「集成館事業」を開始したのが島津斉彬であり、彼が志半ばに急死したあと縮小中断を経ながらも其れを継続発展させたのが斉彬実弟の「国父」久光と彼の実子である藩主茂久(忠義)だ。もし島津斉彬・久光兄弟がNHK大河ドラマの主役として取り上げられ全国区の知名度を得ることになれば、「世界文化遺産」に更に大きな付加価値が生まれることになる。鹿児島県はそのあたりを狙って運動しているのではないだろうか。私の推測に過ぎないのだが。

 堤真一氏が大河ドラマに関する報道内容を否定したという話は聞かない。だからと言って報道内容が全て正しいとは限らない。もし〝堤真一が平成30年度NHK大河ドラマに出演する〟ということだけが正しく其れ以外は間違いであっても、堤氏としては「いや、あれは少し違うんですよ。実はね・・」という話はできない。NHKが発表するまで沈黙しているしかない。

 NHK大河ドラマ『西郷隆盛』は本当で、其の情報をNHK自らが漏らしたという可能性も考えられる。「許せないニダ!」と言い出す可能性のある連中がどういう反応をするかを見る為の〝観測気球〟である。案の定騒ぎ出して面倒くさい状況になりそうだったら『西郷隆盛』ではない第2案を出す。目立った反応がなければ第1案『西郷隆盛』で行く、ということなのかもしれない。

 9月24日は西郷隆盛の命日。もしNHK大河ドラマ『西郷隆盛』が本当なら、この日に発表されるのではないだろうか。
 発表が其の日でなければ『西郷隆盛』ではないような気がする。

 とにかくNHKの発表を待ちたい。



  


こんなNHK大河ドラマ『西郷隆盛』はイヤだ。

2016年09月05日 22時19分02秒 | 幕末維新

こんなNHK大河ドラマ『西郷隆盛』はイヤだ。

 山本耕史、3度目の土方歳三。

 率兵上京を訴える私学校幹部に「やってみなはれ!」

 若手俳優の耳にピアス穴。(本当にイヤ。)

 鹿児島出身歌手Nが「オレを出せ」とごり押し。(本当にイヤ。)

 芸者「豚姫」役に西田敏行。

 やっぱり「豚姫」役はハリセンボン春奈か?

 それとも安藤なつか?

 自決する西郷の後ろで西田敏行が号泣。

 愛犬ツン役に綾野剛。

 共通語字幕付き。

 ペリー役が関根勤。

 堤真一が肉じゅばんを着ている。

 大久保利通役に玉山鉄二、その妻がシャーロット ケイト フォックス。

 下戸だったはずの西郷が何故か洋酒を飲みたがる。

 「桜田門外の変」の報せを受けて「特ダネじゃないか!」

 高畑充希が女子衆向けの瓦版を売っている。

 ときどき西郷役がハリセンボン春奈に替わる。

 更に角野卓三に替わる。

 春奈「豚姫」のズンドコ節に西郷熱狂。

 










巣を早く出すぎた蛇は皆死ぬのでは?西郷隆盛、西南戦争へ繋がる率兵上京の決断

2016年09月05日 15時03分28秒 | 幕末維新

 明治十年二月、後に「西南戦争」になってしまう率兵上京を西郷に対し求める私学校幹部に対し、西郷は大義名分が立たないことを理由に頑として首を縦に振らなかった。
 その西郷が或る日突然に率兵上京を決意する。其の時のことを西郷の妻“いと”が語っている。西郷の息子菊次郎の話と合わせると、おおよそ次のような様子だったらしい。

  二月上旬の或る日のこと。
  書院に居る西郷が“いと”を呼ぶので行ってみると、庭を無数の蛇の群れが列をなして通っている。
  西郷が言う。「あれを見なさい。もう致し方が無い。」
  西郷は桐野利秋を呼び「もう決心した」と率兵上京の決断を告げ、「そいじゃ、俺の体を上げましょう」と語った。

 西郷は何れかの時機に率兵上京するつもりでいた。日本の為に其れをする必要性・大義名分が有る時にだ。私学校で若者たちを育成していたのはその為でもある。
 だが、私学校の若者たちによって予期せず西郷に突き付けられた事態は彼が想定していたものとは全く違う。

 西郷の前に蛇の群れが現れたのは二月初旬。「南国」と言われる鹿児島も寒風が吹きすさぶ真冬である。本来なら地下の巣から出る時期ではない。早すぎるのだ。

 〝この蛇たちのように、我々は早すぎる出発をしなければならないのだろう。それが天意なのだ。〟西郷はそう考えたのではないか。
 そして、早すぎる出発をする自分たちの運命をも悟ったのかもしれない。激寒の冬空の下に出た蛇たちがその後どうなるのかは判らない。だが、皆死んでしまうのではないか? 








西郷隆盛はむしろ「征韓論」者である。ハンセンヘーワ馬鹿ではない。

2016年09月03日 13時20分53秒 | 幕末維新

〝西郷隆盛は話合いにより朝鮮問題を解決するつもりで、征韓など全く考えていなかった。西郷は平和的「遣韓論」者である〟と主張する人々がいる。西郷を擁護しているつもりなのだろうが、見当違いも甚だしい。西郷を日本の行く末を考えない〝ハンセンヘーワ馬鹿〟に貶めてどうする。

 朝鮮問題に関して西郷にとって特に重要だったのは次の二点と私は推測している。
 一つ目は、礼を尽くした交渉を経ずにいきなり派兵して天皇と日本の名を汚すというような事態を絶対に避けること。
 二つ目は、自分の命を賭しても必ず朝鮮を開国させ修好を結んで謂わば「日朝同盟」を作り上げ、更に日本・清国・朝鮮が合従協力し欧米列強特にロシアに対峙するという「日清朝三国合従」実現の手始めとすること。

 征韓論争中、黒田清綱に西郷が大意次のようなことを言っている。「朝鮮の事は心配要らない。帰りにはロシアまで行って同盟を結んでくる。」もちろんロシアに行く前には清国とも話をすることになろう。朝鮮さらに清とも話をつけ日本・清国・朝鮮三国合従体制を作りあげ、その上で仮想敵ロシアとも同盟和親関係を結ぼうというのである。

 西郷は拳銃の入手を側近の別府晋介に依頼している。自決用と思われる。板垣退助への手紙に「朝鮮で自分は殺される」と書いたが、朝鮮との交渉に失敗し且つ殺されなければ自決するつもりでいたのだろう。殺されようが自決しようがとにかく天皇の正式な使節である自分が朝鮮で死ねば、当時の(元)武士の感覚や帝国主義時代の世界の常識に照らして、朝鮮出兵の大義名分が内外に対し十分に示せると考えたのだろう。

 西郷は談判による平和的解決と軍事力による征韓と両方の場合を考え検討していた。
〝西郷は朝鮮との戦争は全く考えていない平和的「遣韓論」者である〟という言い方は、日本のみならず東アジア全体の安全保障まで深く考え自ら行動・実現しようとしていた西郷に対する侮辱ですらある。西郷隆盛を本当に「顕彰」したいなら、事実関係を無視した其のような愚論はさっさと引っ込めるべきだ

 






平成28年9月1日西日本新聞夕刊「9月 さみだれ新学期」。意味が判らない。

2016年09月01日 21時43分55秒 | マスコミ

 平成28年9月1日(木)の西日本新聞夕刊に「9月 さみだれ新学期」という見出しの記事が載っている。意味が判らない。

 福岡県内の多くで今日は雨が降ったようだ。でも今日は9月1日。普通はこの時期の雨を指して「さみだれ」とは言わないはず。「さみだれ」を漢字で書くと「五月雨」。梅雨の時期に降る雨を意味する言葉だ。
  記事本文を何度も読み返したが、そもそも降雨のこと自体に触れておらず、全く意味が判らない。