メガリス

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 本郷和人先生は鎌倉時代を専門としており、近代史は門外漢。誤った理解や知識をもとに話している。

2017年06月11日 17時28分38秒 | 幕末維新

 本郷和人先生は鎌倉時代を専門としており、近代史は門外漢。誤った理解や知識をもとに話している。↓
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170608-00000059-sasahi-life

 「見廻組はいわば今の警察組織で、中でも旗本で構成されたエリート集団。その公的機関が私的な「恨み」などで人を殺害するとは考えにくい。」その通り。京都見廻組の与頭(くみがしら)佐々木只三郎の実兄手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)が、佐々木たちに対し「某諸侯」の「御指図」があったことを証言し、京都見廻組の上司である京都守護職の会津藩主松平容保(あるいは彼の実弟である京都所司代を務める桑名藩主松平定敬〔さだあき〕)が命令したことを示唆している。私的な「恨み」ではなく、上司命令により公務として実行したのだ。 
 函館戦争生き残りの元新選組隊士の「龍馬殺害は京都見廻組によるもの」という証言がきっかけで、元京都見廻組の今井信郎が詮議を受けることになり、今井は「確かに京都見廻組が殺害した」旨を供述した。だが、この時点では、今井は「自分は見張りをしていただけで、殺害そのものには無関係」と主張し結局それが認められた。今井が「自分が龍馬を斬った」と言い出したのは、明治30年代に彼の証言が新聞などで世間に広く知られるようになった後のこと。人を殺しておきながらわずか2年で釈放された、ということではない。
 龍馬は寺田屋襲撃事件で伏見奉行所の捕り方二名を拳銃で射殺したお尋ね者で、大政奉還に反発し許せないと考える旧幕府側の人間から見れば敵にしか見えない。「捕縛せよ。手に余る場合は殺害してよし」という命令を出されたことは簡単に説明がつく。
 斎藤一が左利きで『左片手一本突き』が得意だったというのは、子母澤寛の小説「新選組物語」の中での設定が俗説として広まったもので、史実ではない。(番組名など記憶していないが、以前、斎藤一の子孫の方がテレビ番組にビデオ出演され、「左利きだったということはない」旨を仰っていた。)
 「(2)しかし龍馬は幕府を平和的に倒して政権を朝廷に返すことを考えた。(3)西郷は龍馬が有能なことを知っているだけに邪魔になった──。」
 大政奉還は主に土佐の後藤象二郎の努力で実現したもので龍馬は何もしていないし、龍馬は徳川慶喜が大政奉還を受け入れない場合の軍事的行動も考えていた。正式には土佐藩士に復帰しているが事実上浪人に近い龍馬は当時の政局に殆ど影響力は無いし、仮にそんな龍馬でも邪魔だというなら大政奉還の〝前〟に殺さないと意味が無い。
 「最終責任者は薩摩を仕切っていた西郷さん。」
 この一言が本郷和人先生の近代史に関する理解知識の程度を明確に示している。近代史専門家でこんな通俗的見解を示す人は皆無。幕末から明治維新にかけての薩摩を仕切っていたのは藩主の父「国父」島津久光と家老小松帯刀ラインである。西郷が重要人物であり個々の局面で大きな役割を果たしたことに間違いは無いが、久光・小松の指示命令や承認のもとで動いていた。西郷や大久保といった下級武士が藩を仕切れるわけがない。