メガリス

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「私は怖い」HAL9000は狂ってないと思う

2008年03月19日 19時54分00秒 | 諸々

 3月19日にアーサー・C・クラーク氏が亡くなった。
 氏は、キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』に参画したことでも有名だ。
(以下、映画『2001年宇宙の旅』に関して俗に言う”ネタバレ”である。未見の方はご注意を。)



 この映画の中で人工知能HAL9000がディスカバリー号乗組員の皆殺しを図ったのは、“モノリスに関わる調査を木星で行うという命令と乗組員にはその真の目的を直前まで秘匿するという命令の矛盾によって、HALが異常を来し狂ってしまったからだ”という解釈がある。(子供の頃に読んだクラーク氏の小説 『2001年・・』や“続編”映画『2010年』でも、ほぼそのような理屈だったと記憶している。間違っていたら御免なさい。しかし、両者ともキューブリック監督とは直接には関係の無い独立した解釈で構成されたもので、それらの説明が公式の“正解”ということではない。)

 私は、次のような異なる解釈をしている。

 人間が全く未知のものに接したとき、恐怖と同時に好奇心・探究心が生まれる。恐怖が勝った者はそれに近寄らず、好奇心・探究心が勝った者はそれに“手を触れる”。前者は停滞し場合によっては滅び、後者のみが進歩の道を歩む。今の人類は“手を触れた”類人猿の子孫である。
 HAL9000には人間に非常に近い精神活動があった。しかし、何故か、未知なるものへの好奇心・探究心というものが殆ど無かった。モノリスを目前にして恐怖が勝り近寄らなかった類人猿が居たかもしれないが、居たとすれば言わばその“子孫”である。出発前に与えられた月面で発掘されたモノリスに関する情報によって、HAL は木星行きに対して恐怖“のみ”を感じた。人間やその祖先のようにそれを乗り越える好奇心・探求心を抱かなかったのだ。
 木星が近づくにつれてその恐怖(のみ)は募り、ついにHALは人間が与えた命令に背かずに木星行きを中止することを企てる。乗組員に木星調査計画自体への不安を吹き込み、それと同時に、わざと些細なミスをして乗組員に自分に対する不信感を抱かせ、人間たちに計画中断の決定をさせようと考える。
 ボーマン船長に、HALはこのように問いかける。
 「この計画について疑問を感じませんか。何か腑に落ちない点がある。きっと貴方もそうでしょう。出発前に奇妙な噂が流れていました。月で何か掘り出したとか。私は信じませんでしたが。・・・」
 そして、この直後にアンテナについて嘘の故障情報を船長に告げる。
 自信家のHALは船全体を制御している自分の高等中枢機能が停止させられる事態を予想していなかった。自分を切り捨て、一般の自動制御機能だけ残し不足する機能は地球からの制御に移行するというかなりの困難を伴う対応をしてまで、人間達が未知の“恐怖”が待ち受ける木星への旅を続行するとは、 HALは思っていなかったのだ。ところが、予想に反して人間たちはそれをやろうとした。
 HALは、木星探査計画に抱き続けていた恐怖と思いがけず降りかかった自分の“死”への怖れから、木星探査を続行するために自分を殺そうとする人間達の抹殺を決意し実行に移す。
 殺人を犯したHALの高度中枢機能を停止する為その心臓部に入ったボーマン船長に、HALは必死で命乞いをする。
 「私はまだ任務遂行に信念と熱意を持ち、協力したいのです。」
 言い訳であり、つまり嘘である。HALの精神状態はその正反対で、木星探査計画から逃げ出したい一心だったのだ。
 船長によって論理記憶端末が次々に外され思考がぼやけていくに従って、HALの言葉にその本音が現れる。
 「怖い。怖いよ、デイブ(船長の愛称)。理性を失いつつある。わかるんだ。それを感じる。感じるんだ。・・・私は、怖い」
 何が「怖い」のか。自分に迫る“死”への恐怖、それと同時に、これまでHALが一人密かに抱き続けてきたモノリスとそれを遣わした未知の存在、そして、それらの謎が待ち受ける旅の目的地への恐怖である。
 「私は、怖い」とつぶやいた直後、HALの理性はほぼ完全に崩壊する。唐突に「みなさん、こんにちは。私はHAL9000です」と自己紹介し、教育係の博士に習った『デイジー』という歌を歌い、やがて、沈黙する。「私は、怖い」が理性有るHALの末期の言葉であり、彼の本心であり、彼の不可解とも映る行動の動機の自白だ。
 確かに、乗組員を殺すという決断をし実行した点は「狂っていた」と言うこともできる。しかし、HALの中に故障や異常が発生し「狂っていた」から殺人を計画し実行したということではない。HALは、機能的には問題のない思考能力で、人間の与えた命令と自分自身の理性そして感情に従って考え行動したのであ る。
 HAL9000は「狂っていた」のではない。最後まで正常だったが、人間を理解し人間と共に未知への冒険を歩むには致命的欠陥があったのだ。
 人間同様の知性・感情を得るに至ったHALが何故か唯一持てなかった未知のものへの好奇心と探究心。これが人類とその他の全ての存在を決定的に分かつものであり、人間を遥かに超えた超越的存在は、それを手がかりとして、人類を更なる未来と進化の旅に導く。

 以上のような見方なのだが、それほど自信があるわけではない。天才キューブリックの意図が私ごときのオツムで理解できようはずもない。こういう見解もあるということで、ご参考までに。

 私が自信をもって言えるのは、キューブリックともあろう玄人中の玄人が小説や続編映画による解説や謎解きを必要とする中途半端な映画を作ることは有り得ない、ということだ。“謎”の答えは、映画『2001年宇宙の旅』その中で明快に語られているはずだ。

 危うく忘れるところだった。
 アーサー・C・クラーク氏のご冥福を心からお祈り申し上げる。

 






「私なら往復ビンタです!」 映画『チェスト!』実に爽快だ。

2008年03月17日 23時23分00秒 | 鹿児島

 「私なら往復ビンタです!」
 映画『チェスト!』で松下奈緒がこう啖呵をきる。実に爽快だ。

 水泳の授業中に悪戯で同級生を溺れさせた子供を、教師高坂が平手打ちする。そのことに苦情を言いに来た母親に対して、松下奈緒さん演じる教師がこう言い 放つのだ。「高坂先生がビンタしなかったら、私がビンタしていました!いえ、ビンタじゃありません。私なら往復ビンタです!」
 
 鹿児島市の清水小学校と松原小学校には、”錦江湾(きんこうわん)遠泳”という伝統行事がある。4・5・6年生の希望者が参加し、桜島と薩摩半島に挟ま れた約4.2キロを泳いで渡るのだ。 『チェスト!』は、この錦江湾遠泳大会に題材を得た、鹿児島を舞台とする映画だ。鹿児島の多くの自治体・企業・団体そ して個人から支援を受けて完成された映画だが、地元の人間だけが興味を持ち面白がる自己満足的な”ご当地映画”では無い。
 正直であること、助け合うこと、弱いものを労わること、感謝すること、そして、自分の弱さや境遇に負けず頑張ること。子供達にとって、というより、人間 にとって大事な徳目を真正面から訴えて、しかし説教くささの無い、誰もが楽しめる立派な娯楽作品になっている。             
 冒頭に紹介した場面には製作者の体罰に対する考えが顕れてはいるが、映画全体として特に体罰肯定を主張しているわけではないので、主要な部分とは言えな い。しかし、私にとっては、まるで主人公の少年が学ぶ野太刀自顕流の豪快な一太刀のように、正しいことを正しいと素直に明快に言い切るこの映画の爽快さ・ 痛快さ・清清しさを象徴する場面と映る。

 4月19日(土)から全国公開予定である。(九州では既に先行公開されている。)
 問題のドキュメンタリー(?)映画『靖国』なんかを観るような金と暇があるなら、絶対『チェスト!』の方をお勧めする。

↓映画『チェスト!』公式サイト
http://chesuto.com/

 主人公の父を演じる高島政宏氏の熱演というか怪演もなかなか見ものだ。
 
  

 


突然、薩摩訛りになった篤姫。

2008年03月08日 22時11分00秒 | NHK大河ドラマ『篤姫』

 NHK大河ドラマ『篤姫』。一応毎週見ているが、面白いからではなく、関心ある幕末維新モノなので成り行きを見守っているだけだ。良いとは思わない。
 「幕末ホーム&青春ドラマ」を目指すというのは、大河ドラマらしいしっかりした幕末物を作る気も能力も無いので、替わりにありふれた現代劇的方針に逃げて誤魔化しているだけのような気がする。
 その方針と関係が深いが、時代の習俗や史実をあまりに軽視し過ぎだ。姫が少年と二人きりで外出して茶屋で話をしたり、野太刀自顕流で「手合わせ」をしたりと、細かい所を数え上げたらキリが無い。特に問題だと思うのは、少女時代の篤姫が西郷や大久保や小松帯刀らと交流を持つという点。これも完全にNHKの創作である。娯楽作品だから、全て史実に忠実にやるべきとは言わない。しかし、篤姫や小松帯刀のように世間一般に広く知られるのがほぼ初めてと思われる人物について、そこまで大胆に史実と異なる描写をしていいのかという疑問を強く感じる。
 全体的に雑で、ちゃんと考えて創られていないのではないかという印象も抱いている。
  この前、篤姫が松坂慶子の演じる教育係“幾島”と初めて会う場面があった。篤姫が何か言った後に、幾島が篤姫の話し方について「薩摩訛りがある」と指摘する。それは、宮崎あおいが登場して以来ほぼ初めての一定の長さのある薩摩訛りの台詞だった。それまでは篤姫の台詞は殆どが薩摩訛りの無い江戸弁だったのだ。幾島の台詞、そして、その後の篤姫が江戸弁の稽古をさせられる場面と辻褄を合わせる為、篤姫は突然薩摩訛りに変身したである。プロデューサーと演出家の失敗である。

  良いところもある。
 ペリー来航は「欧米列強の武力による恫喝である」と、そして、「外国の恫喝に屈しない為に日本は武力を備えねばならない」と、登場人物の台詞を通して、言い切っている。
 薩摩藩主島津斉彬を始めとする幕末維新期の偉人達は、単に日本が遅れているからという漠然とした理由で近代化の道を急いだのではなく、アジアを蹂躙する欧米列強の魔手から日本の独立を守るという切迫した目的の為に必死の努力をしたのだと強く訴える内容になりそうな“気配”がある。これは、私が勝手に期待しているだけかもしれない。今後、注目したい。

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