「いろは丸」に鉄砲・弾薬は積んでいない。そのウソがバレそうになった龍馬は“金塊を載せていた”と言い始めるが、やはり金塊も載せていない。
いろは丸と紀州船「明光丸」が衝突した直後に、いろは丸に乗船していた或る土佐海援隊隊士が“積荷は米・砂糖など”と証言しており、昔から龍馬の主張は怪しいという見方があったが、平成元年(西暦 1989年)に「いろは丸」の船体が発見されて以降数次に亘って実施された潜水調査の結果、やはり鉄砲・弾薬・金塊は発見されず、龍馬がウソをついていたことが証明された。
龍馬は紀州藩に賠償金として7万両を支払わせたが、実際の損害は「いろは丸」本体など3万数千両と思われるので、3万両前後を騙し取ったことになる。3万両前後という金額を現在の貨幣価値に置き換えるのは簡単ではないが、当時の1両が現在の5万円に相当するという見解があり、それに従うと15億円前後ということになる。
NHK大河ドラマ『龍馬伝』で“岩崎弥太郎(売国奴:香川照之)が紀州藩との交渉の場で8万数千両の賠償を要求し、龍馬がそれにビックリする”という場面があったが、フィクションである。鉄砲・弾薬・金塊等を積んでいたという虚偽の主張をしたのは間違いなく龍馬本人だ。
龍馬は、神戸の勝海舟私塾で世話になっていた時代に、海舟責任下の公金50両を近藤長次郎らと一緒に横領したりもしている。
坂本龍馬は立派な「泥棒」「詐欺師」である。
以下、iZaより引用。
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怒りの龍馬、本邦初の「損害賠償」請求提訴へ…海難事故で大量の武器が海の藻くずに
産経新聞
2013/08/18 17:49更新
【関西歴史事件簿】坂本龍馬・いろは丸事件(上)
元号が明治に変わる前年の慶応3(1867)年4月24日、坂本龍馬ら海援隊が操船する「いろは丸」が瀬戸内海を航行中、紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突し て沈没した。沈んだ船は伊予・大洲藩からの借り受けたもの。しかも積み荷が海の藻くずと消える始末。これでは収まらない龍馬は国際ルールをたてに紀州藩相手に前代未聞の損害賠償請求訴訟を起こす。後にいわれる「いろは丸事件」の始まりである。
■近づく巨大船
4月23日夜、穏やかな瀬戸内海を進む「いろは丸」の姿があった。文久2(1862)年に英国で建造された3本マストの蒸気船で45馬力、160トン。
島や遠くに見える沿岸にわずかばかりの明かりは確認できるが、「漆黒」の2文字にふさわしい暗闇に包まれた海。そして蒸気船の動力の音、波の音しか聞こえない。
ところが午後11時ごろ、現在の岡山県笠岡市の笠岡諸島・六島の沖にさしかかったところで、船上の乗組員が、別の動力音とともに右前方から向かってくる大きな船の影を目撃した。
目をこらすと、おぼろげに船の形は見えた。操だ室からも右舷灯が見え、続いてこちらに向かってきていた。相手の船の波を切る音も大きくなってきた。
しばらくして、いろは丸が何隻も入りそうな巨大な姿が現れた。「船じゃあ!」。「取り舵いっぱーい!」。大声で叫ぶ龍馬。すぐに操だ手は舵を左に切った。
■いろは丸
海援隊は、諸藩の武家商法を斡旋(あっせん)する顔を持ち始めていた。藩が外国商人に売りたい物産を大坂から長崎へ運び、長崎では藩が欲しい機械などを買い付けて大坂へ戻る-といった具合である。
だが、隊の所有船は風帆船の大極丸。時間はかかり荒波にも弱い。「せめて蒸気船があれば」と、龍馬はたまたま長崎へ来ていた知り合いの大洲藩士、国島六左衛門に蒸気船購入の話を持ちかける。
船主は大洲藩、借りて運航するのは海援隊という取り引きだ。そこでオランダ人商人から購入したのが、いろは丸だった。
今回の航海も諸藩に売るための鉄砲や弾薬、物産などを積んで4月19日、長崎を出港。大坂に向けて東へと進路をとっていた。そんなときの災難だった。
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