メガリス

私の文章の模倣転用は(もしそんな価値があるなら)御自由に。
私の写真についての“撮影者としての権利”は放棄します。

龍馬は黒船で国外逃亡希望NHK『龍馬伝』第7回

2010年02月21日 22時20分00秒 | NHK大河ドラマ『龍馬伝』

 NHK大河ドラマ『龍馬伝』(鈴木圭チーフプロデューサー)に登場する坂本龍馬は徹底した反戦平和主義者で、もし黒船を造れたら家族を乗せて国外逃亡するのが夢だそうだ。西欧列強の魔手が迫る母国日本を放ったらかしにして。 

  NHK『龍馬伝』第7回「遥かなるヌーヨーカ」で、龍馬が家族に浦賀で見た黒船の話をし“黒船を造ってみたい”旨を語る場面があった。龍馬の兄が“それでアメリカの黒船をやっつけるのか?”と聞くと、それに対してNHK反戦平和龍馬は“いや、ワシはケンカは好かん”と言う。終盤の、一家で海辺に出かける場面で、龍馬は“黒船に皆を乗せて世界を見て回りたい”という夢を明かす。 

  「国外逃亡」などという言葉は出てはこないが、武市半平太ら多くの若者達が“アメリカが日本を我が物にしようとしている。絶対に日本を守らねばならない” という危機感と決意で必死になっているのに、NHK反戦平和龍馬クンは家族で海外に物見遊山に出かけたいなどとアホなことを考えている。国外逃亡と言われても仕方あるまい。 

 西欧列強の文明と軍事力を知らず、剣と旧式の火器で夷敵を打ち払い日本を守れると思っている武市らは、確かに滑稽かもしれない。しかし、彼らの方がずっと人間としてまともだ。当時の武士の若者は皆彼らのように「異人から日本を守らねば」と考えていたはずだ。(開国か鎖国かの違いは、その手段・過程についての違いに過ぎない。) 

 実在の坂本龍馬も武市半平太らと同じように「異人から日本を守らねば」と思っていたに違いない。有名な“異人の首を取りたい”旨の手紙の文句も、黒船来航半年後に佐久間象山の砲術学校へ入門した事実も、その証拠と言っていいだろう。 この番組では“異人の首を取りたい”はウソということにし、砲術学校入門は無視して無かったことにしてしまったが。 

 龍馬を絶対的反戦平和主義者として描き、「攘夷」を唱える武市らをバカ扱いするのは、近い将来に予想される中共による日本侵略の手助けをしたいからなのではないか?という邪推をしたくなる。 
“命を懸けて国を守るなど馬鹿らしくてカッコ悪いことだ。一切抵抗せず降参するか、龍馬の夢のようにさっさと国外逃亡するのがカッコいいのだ。” そのように日本人を洗脳して、日本がなるべく簡単に中共サマの軍門に下るようにしたいのではないか?
 まさかそんなことではないと思うが、私は、ついそういうゲスの勘繰りをしてしまう。

 

  

 災害備蓄用に適した長期保存出来る水・食料は無駄にはなりません。よろしければ御購入ください。貧しいオジサンが大いに救われます。

 

映画『海の金魚』予告編

2010年02月21日 20時58分00秒 | 映画

 私が勝手にヒミツの宣伝工作員をやっている(まだ内容を観てないので不熱心だけど。。)映画『海の金魚』予告編。↓ 


 


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六箇条の「薩長密約」成立に関する龍馬の役割

2010年02月13日 14時31分00秒 | 幕末維新

>松平さんは薩長連合の際、龍馬が交渉の席に遅れたことについて「両者が最初から歩み寄らないことはわかっていて、交渉をスムーズにするためわざと行かなかったのでは」と分析するなど、(後略) 

 違いますよ、松平さん。
 そもそも、六カ条からなる「薩長密約」が結ばれた席は、初めは盟約締結の「交渉の席」ではなかったと考えられています。
  薩摩は密約成立前年の薩摩名義による長州の武器購入や薩摩軍兵糧の長州からの調達などによって薩長の和解提携は一応成立しているという認識でおり、あの席は国事を語りながら親睦を深めるものと考えていたのです。それに対し長州の木戸は長州征伐等に関する自藩の言い分を存分に薩摩に訴え理解を求めるまたとない機会と考えていました。

 会合が一日経っても二日経っても何も決まらなかったというのは薩長両者が腹の探り合いをしながら睨み合っていたというわけではなく、改めて盟約のような物を結ぼうという考え自体が薩摩側には全く無く、長州側にも稀薄だった結果に過ぎません。

 遅れてやってきた坂本龍馬が両者の認識のズレを埋め木戸が長州の言い分を西郷らに認めさせる機会を作り、その結果として会合最終日に六箇条の「薩長密約」締結となったのです。これが「薩長密約」に関する龍馬の功績です。

 何を想像しようと勝手ですが、人前で話をするなら、基本的なことは押さえてからにした方がいいですよ、松平さん。 

 以下、南日本新聞(鹿児島市)ウェブサイトより引用。

 http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=22144

--------------------引用開始 

松平定知さんが講演 坂本龍馬の人物像に迫る/鹿児島市・みなみホール
(2010 02/13 06:30)

  全日空(ANA)主催の歴史講演会が12日、鹿児島市のみなみホールであり、ANA歴史大使の肩書を持つ元NHKアナウンサーの松平定知さんが講演した。坂本龍馬についてユーモアを交えて分かりやすく語り、約300人の歴史ファンらが聞き入った。

 松平さんは薩長連合の際、龍馬が交渉の席に遅れたことについて「両者が最初から歩み寄らないことはわかっていて、交渉をスムーズにするためわざと行かなかったのでは」と分析するなど、興味深いエピソードを紹介しながら、龍馬の人物像に迫った。
 「歴史好きを1人でも多く増やしたい」と語る松平さんは人気番組「その時歴史が動いた」の案内役などで知られる。ANA歴史大使には2009年末に就任した。

  
引用終了--------------------

 


龍馬伝説「天下優先無欲の人伝説」はウソである。

2010年02月10日 22時40分00秒 | 幕末維新

 ‟坂本龍馬は自分自身よりも天下国家のことを優先して考えており、私心の無い無欲の人である”という龍馬「天下優先無欲の人伝説」はウソである。

 平成20年度NHK大河ドラマ『篤姫』で、坂本の妻お龍さんが「龍馬は欲が無い人だ」という旨を語る場面があった。NHKお龍さんと同じように信じている人もいるようだが、それは実在の坂本龍馬とは全く異なる虚像に過ぎない。
  NHK『篤姫』で坂本が「欲が無い」根拠とされたのが例の「世界の海援隊伝説」だ。“坂本が作った新政府案に彼自身の名前が無いことを西郷隆盛が指摘すると、坂本は「役人は嫌だ。わしは世界の海援隊をやりたい」と答えた”というウソ話だ。ウソ話である。しかもNHK『篤姫』では西郷が小松帯刀に変えられていたので二重のウソ話であ

  そもそも新政府案「新官制擬定書」は坂本が作ったものではない。作ったのは当時坂本の近辺に居た戸田雅楽〔とだ うた。後の尾崎三良(おざき さぶろう)〕という人物だ。そして、その「擬定書」には「参議」として坂本の名がちゃんと挙がっている。無論、坂本は承知であろう。龍馬は新政府に参加する予定でいたと考えられる。
 坂本龍馬についての初めての伝記小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』を書いた坂崎紫蘭(さかざき しらん)という人物が、『維新土佐勤王史』という本に「新官制擬定書」を引用する際に
龍馬の名前を意図的に削除したのが間違いの元である。後にこれに“世界の海援隊云々と龍馬が語った”という話が付加された。

 龍馬は「欲が無い人」だと思っている人にとって、その主な根拠は大体はこの「世界の海援隊伝説」なので、そうとは言えないということを示すには以上で十分だろうが、駄目押しと言える事実を二つ挙げてみたい。

 先ずは「龍馬公金横領事件」。
 元治元年(西暦1864年)に勝海舟は軍艦奉行を罷免され、後に神戸海軍操練所も閉鎖された。この事件が発覚したのはその海舟罷免の直後だ。

 以下、幕末明治期の政治・思想史研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)から引用する。文中に登場する「与之助」とは、神戸にあった勝の私塾における事実上の「塾頭」と言える立場だった佐藤与之助(さとう よのすけ)のことである。(坂本が神戸の海軍操練所や勝の私塾で、「塾頭」やそれに相当する立場だった事実は無い。この「塾頭伝説」も後世の創作である。正式発足後の海軍操練所に関しては「塾頭」どころか一練習生ですらない。龍馬のような浪人は入所出来ないことになったからだ。)文字強調は私メガリスによる。

--------------------引用開始

  前年の海舟軍艦奉行罷免の報らせを受けて驚いた手紙で与之助は、松平大隅に預けてあった海舟の金四百両を受取り、指示された支払に三百両を使い、残り百両は自分が持っていると書いた。実は与之助の手許に残ったのは百両ではなくて五十両だった。五十両は松平大隅のところから坂本龍馬ら土佐人が持出していたのである。
 与之助は現金五十両の代りに松平大隅の家来が書いた〆金五十両の「覚」を受取った。この「覚」や他の現金を受取ったのは元治元年十一月二十四日だが、与之助は「覚」のことを伏せた。慶応元年の六月十日になって遂に隠しきれず、海舟宛の手紙に同封したのである。
 その「覚」は十両を坂本龍馬殿へ、十両を高松太郎殿へ、三十両を近藤長次郎殿へで計五十両だった。この順で松平大隅の手許から持出したのである。まず顔の効く龍馬が十両を借りだし、それが先例になって高松太郎が十両、最後に近藤長次郎が纏めて三十両を引き出して合計が五十両になった。各人それぞれがいつ持出したのか記録されていないけれども、元治元年(子年である)十一月二十四日に与之助が引継いだときには五十両に達していたので、松平 大隅の家臣が「子十一月」付の〆金五十両の「覚」を渡したのである。与之助が全部で四百両の筈だった海舟の金を受取ったとき、その内の五十両は土佐の人たちに先に渡してありますという話だったのである。
 与之助は高松太郎や近藤長次郎に返金を掛合ったけれども返事も無い。龍馬には大坂で会ったとき詰問したけれども、とてものこと返納の手段は無いとのことだった。

(中略)

 そのとき与之助は、龍馬が金の持出しを海舟に告白していないことを確認し、返すあてのないことを聞取った。与之助はなおも熟慮を重ね、六月十日に至り遂に報告することに決めたのである。これも龍馬と海舟の関係を考える上での重要なデータとなる。

引用終了--------------------

  佐藤与之助が“龍馬らの粗雑より起こったことで悪意の横領ではない”と庇ってくれたおかげで、勝海舟も大事にはせず済ましたらしいが、勝に一切断り無く大金を持出し使い返却しなかったのだから“横領”と言うしかない。(この横領事件発覚の頃から龍馬と勝は一切の交渉が無くなる。龍馬は死ぬまで勝海舟の愛弟子だったという「生涯海舟愛弟子伝説」もウソである。)
 この頃の1両は現代の5万円程に相当するという見解があり、それに従うと現代の価値で約250万円の横領ということになる。

 もう1件紹介する。
 
坂本龍馬は紀州藩から約3万両前後、現代における15億円前後の金を騙し取っている。「龍馬いろは丸詐欺事件」だ。
 慶応3年(西暦1867年)4月23日、海援隊運用の「いろは丸」と紀州藩軍艦明光丸が衝突し、いろは丸が大破、後に広島県宇治島沖で沈没した。龍馬はエミー銃400丁等武器3万5630両など4万7896両198文相当を積んでいたと主張し、結局紀州藩にいろは丸船代と合わせて8万 3526両198文の弁償を約束させた。(実際の弁償額は後に7万両に減額。)だが、「いろは丸」に乗船していた海援隊士の一人は“積んでいたのは米や砂糖など”と証言しており、以前から龍馬の主張には疑問がもたれていた。

 沈没した「いろは丸」船体が平成元年(西暦1989年)に海中で発見され、それ以後数次に渡って潜水調査が行われたが、積荷には龍馬が主張したエミー銃や弾薬等は一切含まれていなかったことが判明した。鮫皮や水銀朱などが積まれていたのは確認されたが、それらの金額が武器弾薬等の「4万7896両198文」には到底及ばないのは明らかだ。

 実際に支払われた賠償金7万両のうち、ほぼ半分が「いろは丸」船体の弁償金で、残りが積荷代金となる。「いろは丸」の実際の積荷代金が幾らかは判然としないが、龍馬は3万両前後を紀州藩から騙し取ったと考えていい。先ほどと同様に1両を5万円として計算すると15億円前後ということになる。

 数年前にテレビ放送された、歴史上の偉人有名人の人気度を視聴者投票で順位付けし発表するという内容のバラエティ番組で、タレント島田紳助氏が坂本龍馬について「嫌い」「商売人やん」と語っていたのを覚えている。
 だが、まともな「商売人」は他人の金銭を横領したり、他人を騙して金を詐取したりしない。「私心の無い無欲の人」どころか坂本龍馬は立派な「泥棒」「詐欺師」である。

 

 

 

 

 

 


”ハンセンヘーワ”にあらずんば人にあらず?NHK『龍馬伝』

2010年02月09日 19時56分00秒 | NHK大河ドラマ『龍馬伝』

 NHK『龍馬伝』(チーフプロデューサー鈴木圭)では何が何でも坂本龍馬を「平和主義者」として描きたいらしい。オープニング・タイトルでも映像に「Peacemaker」という文字が登場するし、第5回「黒船と剣」では、黒船来航の後に実家に出した手紙の有名な“異人の首を取りたい”旨の文章について「アレはウソじゃ」と福山龍馬に言わせていた。

  実在の龍馬は別に「平和主義者」などではない。そう言える根拠は幾らでもあって、例えば、盟友三吉慎蔵宛てに幕府軍と戦う場合の具体的構想を語った手紙も残っている。(この手紙を含めNHK『龍馬伝』に都合の悪い手紙は全部「アレはウソじゃ」ということにしてしまうつもりなのかな?)
 有名な「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申し候」という一節は「右申す所の姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打ち殺し」という言葉に続けて書かれている。つまり“幕府のクサレ役人どもを戦争をして打ち殺し、日本をもう一度洗濯したい”と龍馬は言っている。〔余談だが、この言い回しは龍馬自身が思いついた物ではない。元々は肥後の学者横井小楠(よこい しょうなん)の言葉である。横井は「天下一統人心洗濯希うところなり(てんかいっとう じんしん せんたく ねがうところなり)」というのが口癖だった。横井に会ったことがある龍馬がこれを拝借し姉乙女への手紙に用いたわけだ。有り体に言ってしまうと所謂「パクリ」である。〕
  黒船来航の半年後に龍馬が佐久間象山の砲術学校に入門したことはよく知られている。ちゃんと門人帖に名前が残っている。第6回「松陰はどこだ?」ではその話は完全に無視され無かったことにされていた。「平和主義者」龍馬が欧米列強との戦に備えて砲術を学んだのでは都合が悪いからだろう。 

 龍馬から大砲を取り上げても、ピストルを所持していた有名な話までは無かったことに出来ないはずだ。腰の大小に加えてピストルまで持ち歩き、(龍馬)寺田屋事件では伏見奉行所捕方を射殺する「平和主義者」。あり得ない話だ。 

 平成20年度NHK大河ドラマ『篤姫』では篤姫や準主役小松帯刀は、事ある度に「戦だけは絶対に避けねばならぬ!」と絶叫していた。NHKは武家の頭領の妻や武士の国薩摩の家老までハンセンヘーワ主義者にでっち上げないと気がすまないらしい。
 NHKは“平家にあらずんば人にあらず”ならぬ“ハンセンヘーワにあらずんば人にあらず”なのだろう。
  平成23年度大河ドラマ『江 姫たちの戦国』では脚本を『篤姫』の田渕久美子氏が担当する。有名な戦国武将淺井長政の三女江(ごう)が主人公だが、やはり何か起きそうになると、あの上野樹里ちゃんが「戦だけは絶対に避けねばならぬぅうううう!」と金切り声を上げるに違いない。想像するだけでウンザリだ。








龍馬伝説「大政奉還発明奔走伝説」はウソである。

2010年02月06日 21時41分00秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬が初めて大政奉還策を思いつき、彼の奔走により実現した”という「大政奉還発明奔走伝説」はウソである。
 司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』や其の他の映画テレビ萬画などによって世間に広まった作り話「龍馬伝説」の一つに過ぎない。

 大政奉還を最初に主張し始めたのは旗本の大久保一翁(おおくぼ いちおう)や福井藩主である松平春嶽(まつだいら しゅんがく)らだ。(勝海舟が主張していたという話もある。)坂本の大政奉還論は彼らからの受け売りである。
 土佐前藩主山内容堂に対し徳川慶喜への大政奉還建白をすることを進言したのは土佐藩士後藤象二郎で、土佐藩内や薩摩藩の西郷・小松ら関係者との調整に走り回ったのも彼だ。そのきっかけを作ったのは坂本龍馬だという話が残っており、その話が事実であるならば、それが大政奉還に関する彼の功績だ。だが、それだけである。(実を言うと、この話にも根拠らしい根拠は無く史実なのかは不分明。)

 龍馬殺害の「黒幕」に関する俗説の一つに「後藤象二郎黒幕説」というのがあり、“大政奉還に関する手柄を後藤が独り占めする為に邪魔な龍馬を消した”と考える人が居るそうだ。馬鹿馬鹿しい。”大政奉還は龍馬が発案し彼の運動によって実現したもので、後藤は補助的な役割だった”というような根本的事実誤認がその発想の前提に在る。もともと大政奉還建白は殆ど全部後藤象二郎の手柄であり周囲の人間も皆そう思っている。不確かな話なのだが受売りの大政奉還策を後藤に教えた“らしいと”いうだけで他に何もしていない(何を思ったか知らないが、徳川慶喜が大政奉還を決意したことが周囲にも明らかになった後に、後藤に“励ましのお便り”は書いた)龍馬をわざわざ殺す必要など無い。

 以下、幕末明治期の政治・思想史研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)から引用させて頂く。
 引用文中に登場する「A氏」とは、松浦氏が会った「ある初対面の、狭義の龍馬専門家ではないけれども龍馬に関する著述をお持ちの人」である。(文字強調は私メガリスによる。)
 

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 大政奉還についても触れて置こう。『竜馬がゆく』では、これから後藤と共に上方に向うという六月の長崎、小曽根家にいる「おりょう」に書置きを残して外へ出た龍馬が、夜の石畳を歩きながら大政奉還の思案を続けるという場面になる。
 そこで龍馬の思いついている大政奉還は、後藤から土佐藩の政治的行方について相談されたときに「とっさにひらめいた案」で、「驚天動地の奇手」というべきものだとの司馬さんの解説が入る。これは小説の主人公龍馬に対する司馬さんのサービスである。
 実際には大政奉還論は早く文久段階から大久保一翁や松平春嶽によって、政局に影響力を持つ議論として持出されている。文久二年(一八六二)の一翁はその論が一因となって側用取次という旗本としては最高の、将軍に対して強い影響力を行使できる地位から左遷された。文久三年の春嶽は攘夷を拒否して将軍職を返上せよと政事総裁職のポストを賭けて争い、敗れると任務を放棄して福井に引込んだ。
 一翁も春嶽も政権を返上すべきだとの考え方を生(き)まじめに堅持し続け、機会あるごとに繰返し持出している。近いところでは十四代将軍家茂(いえもち)が長州再征中の大坂で死んだあとのことがそうだ。春嶽は、徳川本家も尾張徳川家や紀伊徳川家と同じ一徳川家の位置に下がり、政治方針は朝廷の招集する大名の会議で決するべきだとの意見であった。慶喜は春嶽を裏切って十五代将軍の地位に就いたのである。
 龍馬は一翁や春嶽から直接に話を聞かされているのだから、文字通りの直弟子である。したがって「とっさにひらめた案」だとか「驚天動地の奇手」だとか言うのは褒めすぎ、龍馬に対するサービスのし過ぎである。龍馬の功績は、春嶽や一翁から受売りの大政奉還を、藩から幕府に建白させる「きっかけ」を作ったというに過ぎない。
  しかしこれも、かく言う私の意見は「歴史」ではなくて、司馬さんの『竜馬がゆく』の方が「歴史」なのであるから、たとえばA氏では、そのような驚天動地の 奇手を思いつく龍馬の存在を、統制型人間である薩摩の大久保利通は許すことができず、殺意を固めるという話になるのである。大政奉還論は龍馬の発明ではありませんよと私などが横から言っても耳には入らない。
  司馬さんが龍馬に対するサービスとして「驚天動地の奇手」と書いたことが、或る種の読者の側では、実際の大政奉還を龍馬が殆ど一人で実現したかのごとき思い込みにつながり、龍馬暗殺の真犯人を大政奉還反対派に求めるという賑やかな(これはもちろんA氏だけではない)議論につながっていくのである。
 

引用終了-------------------

 もう一つ専門家による文章を紹介しよう。
 専門誌『歴史評論』(317号 昭和51年9月号)掲載の思想史家:絲屋寿雄氏の「竜馬の虚像・実像 ―司馬遼太郎『竜馬がゆく』によせて―」より引用する。(文字強調は私メガリスによる。)

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   『坂本竜馬海援隊始末』の記事によると、一八六三(文久三)年一月二五日、竜馬は江戸におり、沢村惣之丞らとはじめて幕臣大久保一翁と会談している。一翁 は当時、勝とならんだ幕府の先覚者で、かつて蕃書調所頭取、外国奉行を勤めただけに、世界事情に通じ、その識見も群を抜いていた。
  彼は、幕府は天下の政治を朝廷に返還し、徳川家は諸侯の列に加わり、駿・遠・三の旧領地を領し、居城を駿府に定めるのが上策であると論じて、幕吏たちを唖 然とさせたことがあった。また文久二年の春、政事総裁松平春嶽に上書し、大小の公議会を設け、大公議会の議員は諸大名を充て、全国に関する事件を議し、小公議会は一地方に止まる事件を議する所とし、議員と会期は適宜の制を定めればよいと論じた。
 竜馬たちが大久保一翁と会談したとき、一翁は、万一の場合、殺されるかもしれないのを覚悟で、思い切って自分の意見を述べたところ竜馬と沢村の両人は手を打たんばかりにして共感した。
 同じ頃、竜馬は、勝が千代田城の大広間で将軍ご辞退の大議論をやってのけたという話を勝から直接聞かされ、こんな調子で議論をすれば先生の命が危いのではないかと手帳に書きつけている。
 これらの話は竜馬に大政奉還論をはじめて吹き込んだのは大久保一翁や勝海舟のような幕府側のブレーンであることを語っている点で重要な資料であるが、何故か司馬遼太郎によっては正面からとりあげられていない。

 引用終了--------------------

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客に土産を要求するバカ

2010年02月05日 14時30分00秒 | 皇室

「天皇訪韓を希望」しておいて「反省」が必要と言う。バカが。他人を自宅に招待しておいて「土産にコレを持って来い」というのと同じくらいのバカ。


天皇陛下がそんな国に行かれることをまともな国民は誰も許さない。民主党の小沢・鳩山といった怪しい日本人どもだけだろう。


 


 以下、iZaより引用。


 


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天皇訪韓には「過去への確かな反省」必要 韓国首相
産経新聞
2010/02/05 13:01更新
 韓国の鄭雲燦首相は5日、天皇陛下の訪韓問題について「過去に対する確かな反省」が必要との考えを示した。国会本会議で野党民主党議員が、天皇訪韓に対する政府の立場をただしたのに対して答えた。


 鄭首相はまた、今年が日本の植民地支配が始まった1910年の日韓併合から100年となることについて「新しい韓日関係をつくるという意思を、確固たるものにしなければならない」とした。


 李明博大統領は昨年9月、2010年中の天皇訪韓を希望すると表明していた。(共同)


引用終了--------------------


 


 



今の政治家はみな“坂本龍馬”

2010年02月03日 11時49分00秒 | 幕末維新

 みんなの党だけでなく、今の政治家はみな“坂本龍馬”だ。

 信念信条といったものが無いか有っても希薄で、結局は私利私欲第一で、周りの“風向き”ばかりを気にしてフラフラしている。幕末の風雲児ならぬ“浮雲児”坂本龍馬そのものではないか。今一般に広まっている龍馬像は、明治・大正の坂崎紫瀾らによってその原型が創られ、昭和の司馬遼太郎その他によって完成された〝架空の幕末スーパーアイドル坂本龍馬〟のものだ。実在の坂本龍馬とは違う。 

 以下、iZaより引用。 

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みんなの党「みんなで坂本龍馬です」に失笑
産経新聞
2010/02/02 20:11更新
 「みんなの党は、みんなで坂本龍馬をやっています」。みんなの党の渡辺喜美代表が2日、衆院本会議の代表質問に立ってこう訴え、存在感をアピールした。 ただ、国会議員6人の少数政党の悲哀か、議場はシーンと静まりかえる始末。「薩長連合、政界再編で維新開国を目指す。日本を隆盛国家に戻したい人は、みん なの党で龍馬をやろう」と呼びかけると、失笑まで漏れた。

  それでも渡辺氏はひるまず「経済のパイを拡大することなく国民にバラマキを行うのは、タコが自分の足を食べて成長できると勘違いしているようなものだ!」 とも絶叫。しかし、菅直人副総理・財務相は「渡辺氏には歴史の流れに逆行する勢力に取り込まれないよう期待する」と述べ、自民党とともに政府批判を展開す る同氏に切り返していた。

引用終了--------------------