メガリス

私の文章の模倣転用は(もしそんな価値があるなら)御自由に。
私の写真についての“撮影者としての権利”は放棄します。

西日本新聞「建国記念日」を支持?

2015年03月23日 21時53分23秒 | マスコミ

 行方不明だった写真が出てきたので、無くさないように掲示しておく。 

 朝日新聞の向うを張る反日極左紙“西日(にしび)新聞”こと西日本新聞(福岡市)の平成19年2月12日朝刊に載った告知。
 「建国記念の日」ではなく「建国記念日」だそうだ。
 私はそれがいいと思うが、反日極左紙“西日(にしび)新聞”こと西日本新聞がそんなこと言ったらマズイのでは?

 






 


 災害備蓄用に適した長期保存出来る水・食料は無駄にはなりません。よろしければ御購入ください。貧しいオジサンが大いに救われます。

 

龍馬伝説「大政奉還発明伝説」はウソである。絲屋寿雄「竜馬の虚像・実像 ―司馬遼太郎『竜馬がゆく』によせて―」

2015年03月19日 16時04分03秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬が「大政奉還」を思いついた”という龍馬伝説「大政奉還発明伝説」はウソである。

  司馬遼太郎が空想歴史小説『竜馬がゆく』の中でそういうフィクションを書き、それが世間に事実であるかのように広まってしまったわけだ。一部には、事実ではないことを知りながら自分の金儲けの為にこの作り話を必死に喧伝し続けている“悪質龍馬業者”も居る。
 『竜馬がゆく』は架空の幕末スーパーアイドル坂本“竜” 馬の物語(フィクション)に過ぎない。歴史的実在の坂本“龍”馬の実際とは大きく異なっている。(龍馬本人は自分の名を“竜馬”と表記したことはないそうだ。)

 専門誌『歴史評論』(317号 昭和51年9月号)掲載の思想史家:絲屋寿雄氏の「竜馬の虚像・実像 ―司馬遼太郎『竜馬がゆく』によせて―」より引用する。(文字強調は私メガリスによる。)

--------------------引用開始

  『坂本竜馬海援隊始末』の記事によると、一八六三(文久三)年一月二五日、竜馬は江戸におり、沢村惣之丞らとはじめて幕臣大久保一翁と会談している。一翁は当時、勝とならんだ幕府の先覚者で、かつて蕃書調所頭取、外国奉行を勤めただけに、世界事情に通じ、その識見も群を抜いていた。
  彼は、幕府は天下の政治を朝廷に返還し、徳川家は諸侯の列に加わり、駿・遠・三の旧領地を領し、居城を駿府に定めるのが上策であると論じて、幕吏たちを唖然とさせたことがあった。また文久二年の春、政事総裁松平春嶽に上書し、大小の公議会を設け、大公議会の議員は諸大名を充て、全国に関する事件を議し、小 公議会は一地方に止まる事件を議する所とし、議員と会期は適宜の制を定めればよいと論じた。
 竜馬たちが大久保一翁と会談したとき、一翁は、万一の場合、殺されるかもしれないのを覚悟で、思い切って自分の意見を述べたところ竜馬と沢村の両人は手を打たんばかりにして共感した。
 同じ頃、竜馬は、勝が千代田城の大広間で将軍ご辞退の大議論をやってのけたという話を勝から直接聞かされ、こんな調子で議論をすれば先生の命が危いのではないかと手帳に書きつけている。
これらの話は竜馬に大政奉還論をはじめて吹き込んだのは大久保一翁や勝海舟のような幕府側のブレーンであることを語っている点で重要な資料であるが、何故か司馬遼太郎によっては正面からとりあげられていない。

引用終了--------------------

 『竜馬がゆく』は娯楽のための単なる空想歴史小説に過ぎない。そういったものも史実に絶対に忠実でなければならないということはない。当該資料を司馬遼太郎が「正面からとりあげ」ないからといって、其れが彼の落ち度であるということにはならない。「何故か」などと否定的ニュアンスで語られる理由はない。(ただ、もし、司馬が“『竜馬がゆく』は史実に忠実に書いてある”旨のことを言ったり、そのように理解されるような言動をとったとしたら、それは問題である。)

 最初の提唱者である大久保一翁(おおくぼ いちおう)よりも熱心に大政奉還論を説いたのが福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)である。

 坂本龍馬が大政奉還実現のために奔走したという話もウソである。彼は後藤象二郎に一翁・春嶽らから受け売りの大政奉還策を教えた(とされているが、実はこの話にも確たる根拠は無い。)が、他には一切何もしていない。“龍馬が大政奉還策を発明し、彼の奔走で実現した”という「大政奉還発明奔走伝説」はウソである。


[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

新説 坂本龍馬 [ 町田 明広 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2020/1/1時点)






島津斉彬”他国を制す力が無ければ国防は不充分”

2015年03月19日 13時42分34秒 | 鹿児島

 ペリー来航以前から富国強兵に着手し、西郷・小松帯刀・大久保らを育て、近代日本の基礎を築いた薩摩藩第11代藩主島津斉彬(しまず なりあきら)公がこのように語っている。

 

 「出テ制スルノ勢イニ至ラザレバ、自國ノ備エ充分トスベカラズ」(岩波文庫『島津斉彬言行録』156頁9行目)

 

 ”いざとなったら出て行って敵を叩き潰す”という力を持って初めて「専守防衛」も出来る。 


龍馬殺害「黒幕」は会津藩主松平容保か、実弟の桑名藩主松平定敬

2015年03月18日 19時01分53秒 | 幕末維新

 >「暗殺の黒幕は見廻組の上部団体だった京都守護職の松平容保が有力ですが、

 これは、その通り。
 京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)のリーダー佐々木只三郎(ささき たださぶろう)の兄である会津藩士手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)が、亡くなる少し前に、「御指図(おさしづ)」を受けた旨を示唆している。〔正式な命令系統からは外れるが、「御指図」を出したのは容保の実弟であり京都所司代の任にあった桑名藩主松平定敬(まつだいら さだあき)である可能性もあるらしい。〕

 松平容保(まつだいら かたもり)は京都守護職の任務である警察活動の一つとして、龍馬の捕縛または殺害を指示した。幕府側から見れば龍馬は徳川の天下と京都の治安を乱す不逞の輩であり、かつ「龍馬寺田屋事件」で伏見奉行所の捕り方2名を殺害した殺人犯でもある。龍馬殺害は「暗殺」ではないし、容保は「黒幕」などでもない。

>徳川慶喜を新政府の盟主にしようとした龍馬の行為は許されないと考えた薩摩藩の陰謀説もあります」

 ”源義経がジンギスカンになったという説があります”というのと同じ程度の話。他人と違う面白い話が出来ればよい小説家や自称研究家等が主張しているだけで、近代史を専門とする歴史学者で薩摩藩陰謀説を唱える者はほぼ皆無である。俗説の一つに過ぎない。
 殺害された頃の龍馬は2度目の脱藩を許され正式には山内家家臣の身分だったが、実質的には浪人と変わらない。何の実力も後ろ盾も無い龍馬の言動は当時の政局に殆ど影響力を持っていない。
 薩摩の西郷・小松帯刀・大久保らも龍馬が何をし何を言っているかにあまり関心が無い。当時西郷らは大政奉還直後に朝廷より命じられた島津久光(しまづ ひさみつ)の上京〔久光の病の為、実際に卒兵上京したのは藩主茂久(もちひさ)〕の準備にてんてこ舞いであり、龍馬などに関わりあっている暇が無い。
 史実の坂本龍馬とは異なる”架空の幕末スーパーアイドル坂本竜馬”が大活躍する司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』や其の焼き直しのテレビ・映画・萬画などの影響で、龍馬が浪人でありながら幕末の政局に大きな影響力を持っていたという事実誤認が広まり、其れが元となってこのような妙な論が出てくるわけだ。(”暗殺者のターゲットは中岡慎太郎だったという「巻き添え説」”は、龍馬は王政復古運動の中ではほぼ無名、要するに小物だったという事実を踏まえた説だ。)

 龍馬が名を知られるようになったのは、明治時代になってから高知『土陽新聞』の記者だった坂崎紫蘭(さかざき しらん)という人物が、龍馬を自由民権運動の先駆者と位置付け、最初の龍馬伝記小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』で大々的に売り出した後のことだ。”神戸の勝海舟の海軍塾で塾長だった”とか”新政府人事案に龍馬の名前は入っていなかった”とかいうウソ話を広めたのも坂崎紫瀾である。(NHK『龍馬伝』で、”坂本龍馬の話を聞かせてください”と言って岩崎弥太郎のもとに頻繁に押しかけていたアノ人。)

 この記事で取り上げられている現在京都伏見に存在する「寺田屋」は、龍馬が伏見奉行所の捕り方に襲われた「寺田屋」とは別の建物である。元々の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失した。明治になってから、道路側から見ると左隣に再建されたものである。
 経営している人物も元々の寺田家とは関係が無い。

>幕末の英雄だけに、作家たちもそれぞれに思いを巡らせ、いろいろな暗殺説が創り上げられたのかもしれない。

 その通りです。特に「作家たち」と明言している所が良いです、山田淳史記者さん。 

 

 以下、iZaより引用。 

--------------------引用開始 

死に向かう志士、寺田屋と近江屋 龍馬ゆかりの地を行く
2010/01/30 13:22更新
【龍馬ゆかりの地を行く】
 

 坂本龍馬ゆかりの宿として有名な寺田屋(京都市伏見区)は、焼板に格子窓をしつらえた伝統的な日本家屋のたたずまいだ。1階には、当時の女将だったお登勢の部屋、2階には龍馬が愛用していたとされる龍馬の部屋がいまも残る。

 龍馬はお登勢を「おかあ」と親しみ、後に妻となるお龍を養女にしてもらうなど、何かと世話になった。「お登勢は、志士たちの面倒見がよかったとされている し、龍馬も『お国みたい(高知と同じだ)』と手紙に記しており、とても寺田屋が気に入っていたのでしょう」と、霊山歴史館学芸課長の木村幸比古さんはいう。 

 薩長同盟締結後の慶應2(1866)年1月23日夜、龍馬は長府藩士の三吉慎蔵と寺田屋の2階にいた。1階ではお龍が入浴中だった。そのとき、幕吏50人が寺田屋を取り囲んだ。司馬遼太郎「竜馬がゆく」では次のように記されている。

 〈(捕吏。-)と思ったとたん、おりょうはそのままの姿で湯殿をとびだした。自分が裸でいる、などは考えもしなかった。裏階段から夢中で二階へあがり、奥の一室にとびこむや、「坂本様、三吉様、捕り方でございます」と、小さく、しかし鋭く叫んだ。竜馬はその言葉よりも、むしろおりょうの裸に驚いた。昂奮しているせいか、目にまばゆいほどに、桃色に息づいている。〉 

 寺田屋にはいまも裏階段が残る。お龍は愛する男のため必死になって駆け上ったに違いない。龍馬は、高杉晋作からもらったという短銃で幕吏数人を射殺した。自身も負傷はしたが、お龍のおかげでなんとか命拾いした。 

   ×    ×

  身に迫る危険を幾度も回避してきた龍馬だが、慶應3(1867)年11月15日、醤油(しょうゆ)商の近江屋で暗殺された。現在、河原町通り沿いの近江屋 跡地はコンビニエンスストアなどが入るビルになっており、ビル前には龍馬と中岡慎太郎が遭難した地であることを示す碑がひっそりと立っている。 

 龍馬の霊は京都霊山護國神社(同市東山区)に祀られ、墓前では手を合わせるファンの姿が見受けられる。 

 33歳で非業の死を遂げた龍馬。暗殺の背景については、これまで数々の検証が試みられてきたが、真相はいまだに解き明かされていない。 

 新選組隊士の鞘が近江屋に残されていたため、当初は新選組の犯行とみられていたが、明治時代、新選組隊士の証言から京都見廻組だったことが判明した。 

 その後、見廻組隊士だった今井信郎が、龍馬を襲撃した一人だったことを告白した。隊士8人で近江屋を襲撃したとみられ、京都市東山区の霊山歴史館には現在、龍馬を切ったとされる桂早之助の刀が展示されている。 

   ×    × 

 「暗殺の黒幕は見廻組の上部団体だった京都守護職の松平容保が有力ですが、徳川慶喜を新政府の盟主にしようとした龍馬の行為は許されないと考えた薩摩藩の陰謀説もあります」 

 幕末史に詳しい霊山歴史館学芸員の木村武仁さんは、こう指摘する。 

 黒幕をめぐっては、大政奉還の功労を独占しようとした「後藤象二郎陰謀説」や、暗殺者のターゲットは中岡慎太郎だったという「巻き添え説」といったさまざまな説がある。 

  「一般的に暗殺に関する史料は少ないものですが、龍馬暗殺の史料は40点にのぼって多く、記述もそれぞれ少しずつ違っているので混乱するほど。龍馬暗殺だけで1冊の本ができるぐらい」と、木村さんはいう。幕末の英雄だけに、作家たちもそれぞれに思いを巡らせ、いろいろな暗殺説が創り上げられたのかもしれない。

     ◇ 

 「龍馬とお龍」 龍馬とお龍の出会いの時期は諸説ある。龍馬は姉の乙女にあてた手紙の中で、「私しニにており候」(木村幸比古著『日本を今一度せんたくい たし申候』より)と、お龍が自分と同じ名前であることを紹介している。また、父・将作が病死して家が没落した後、悪者にだまされて女郎に売られた妹を、お龍が取り戻したことも手紙に記されており、姉にお龍を認めてもらおうとした思いが伝わってくる。(山田淳史)

引用終了--------------------

 

 


坂本龍馬は一登場人物でしかない。幕末維新史

2015年03月17日 23時22分33秒 | 幕末維新

 坂本龍馬は幕末維新史の一登場人物でしかない。

 平成22年11月5日放送のテレビ東京『この日本人がスゴイらしい。Brand New Japan』という番組で幕末をとりあげ、幕末に関心や関係がある著名人らに意見を聞き幕末の代表的人物上位5人を選出していた。

 1位:勝海舟
 2位:坂本龍馬
 3位:小栗上野介
 4位:吉田松陰
 5位:大久保利通

 奇妙な結果である。大久保を除く全員が「脇役」だ。
 幕末維新劇は、薩摩藩主島津斉彬が舞台・大道具・小道具・役者を用意し、ペリーが幕開けの太鼓を叩き、芝居を演じたのは主に島津久光・西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通ら薩摩藩の人間だ。

 勝・小栗・吉田など、それ以外の人物もそれぞれ重要な役割を果たしてはいるが、やはり脇役である。彼らの中に徳川の世を揺さぶり動かし変える思想・才覚・胆力と経済力・軍事力・政治力を併せ持った者はいない。それらを全て持っていたのはただ薩摩藩のみである。龍馬に至っては脇役と言えるかも疑問だ。一応セリフは有るという程度のただの一登場人物でしかない。

 主役だけではなく脇役にも注目するというのは大事なことだが、それが行過ぎて主役無視というのはおかしい。

 意見を聞いた人々に実は幕末維新の歴史に詳しくない人々が多く含まれていた為こういうおかしな結果になったのだろう。行動力は有り海舟や西郷・小松帯刀らの部下として忙しく走り回ってはいたものの、実は大勢に影響を与えるような仕事は殆どしていない坂本龍馬が2位に挙がっているのはその証拠だ。彼らの多くが、龍馬が薩長を結びつけたとか大政奉還を実現したとかいう、司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』等で世間に広まったフィクションを未だに信じているのだろう。

 第三者で薩長提携を最初に提唱したは福岡藩の加藤司書(かとう ししょ)・月形洗蔵(つきがた せんぞう)・早川勇(はやかわ いさみ)らであり、彼らに共感し周旋活動をしたのは中岡慎太郎・土方久元(ひじかた ひさもと)だ。
 だが、実際に成立した薩長和解提携は他ならぬ薩摩が構想し西郷隆盛が中心になって工作を進め実現したもので、当時薩摩の庇護下にあった龍馬は西郷・小松帯刀らの指示を受けて関与した。(龍馬が締結に立ち会った六箇条の薩長密約は、薩長和解提携が事実上成立した後に、その提携関係を前提として結ばれた約定だ。)

 大政奉還の提唱者は幕臣大久保一翁(おおくぼ いちおう)と福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)で、龍馬は彼らから学んだ受け売りの大政奉還策を後藤象二郎に提示しただけだ。大政奉還建白実現の為に土佐・薩長の関係者の間を奔走し調整したのは後藤である。その間龍馬は大政奉還に関して何もしていない。何を思ったか知らないが、徳川慶喜が大政奉還を決意したことが周囲の目にも明らかになったに、後藤宛てに“励ましのお便り”を書いている。

(2020/1/15時点)

style="word-wrap:break-word;" style="float:right;width:41%;height:27px;background-color:#bf0000;color:#fff !important;font-size:12px;font-weight:500;line-height:27px;margin-left:1px;padding: 0 12px;border-radius:16px;cursor:pointer;text-align:center;">楽天で購入
 


(2020/1/15時点)

style="word-wrap:break-word;" style="float:right;width:41%;height:27px;background-color:#bf0000;color:#fff !important;font-size:12px;font-weight:500;line-height:27px;margin-left:1px;padding: 0 12px;border-radius:16px;cursor:pointer;text-align:center;">楽天で購入
 



即席B級『龍馬伝』便乗本か?榊原英資『龍馬伝説の虚実 勝者が書いた維新の歴史』

2015年03月17日 01時01分57秒 | 幕末維新

 経済学者榊原英資氏の『龍馬伝説の虚実 勝者が書いた維新の歴史』(朝日新聞出版刊)はNHK大河ドラマ『龍馬伝』に便乗した即席B級本、というのが私の印象だ。
 本屋で見かけ一部を立ち読みした後の単なる“印象”に過ぎない。念のため。 

 明治維新以後の日本のあり方に疑問を呈するのがこの本の主旨らしいが、立ち読みした部分だけでも基本的知識の欠落や不十分な理解に起因すると思われる奇妙な記述が目に付き、購入し真面目に通読する気は起きなかった。
 時間とお金が有り余っている方は暇つぶしに読んでもいいかもしれないが、決してお奨めは出来ない。

 龍馬殺害の“黒幕”に関するくだりで、榊原氏は“武力倒幕を目指す薩長にとって、大政奉還を建策した龍馬は憎んでも憎みきれない相手だったはずだ”という意味のことを書いている。
 榊原氏の幕末維新史に関する知識・理解は司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』に登場するフィクションと同程度のモノらしい。榊原氏は大政奉還の主役は龍馬だったと勘違いしている。
 大政奉還策自体は、榊原氏もちゃんと書いているように、もともと幕臣大久保一翁(おおくぼ いちおう)や福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)らが提唱したものだ。彼らからの受け売りの大政奉還策を龍馬は地元土佐が王政復古運動の先頭走者に跳び出す為の離れ技として後藤象二郎に提示したが、大政奉還実現に関して龍馬がやったことはそれだけだ。(何を思ったか知らないが、徳川慶喜が大政奉還を決意したことが周囲の目にも明らかになったに、後藤に“励ましのお便り”を書いただけである。)土佐藩や薩長の関係者の間を調整に奔走したのは後藤象二郎である。
 薩長が大政奉還に関して誰かを恨み殺害まで考えるなら、それは後藤象二郎である。大政奉還運動に関して殆ど何もしていない龍馬を殺す理由が無い。

 後藤は、大政奉還建白を前土佐藩主山内容堂に提出する前に、薩摩の小松帯刀・西郷らに相談している。はじめ反対されたので後藤は提出を延期したが、やがて“反対はしない”旨の同意を得たので建白書を出した。(所謂「武力倒幕派」と「大政奉還派」が方針を巡って鋭く対立していたという理解は誤りだ。もしそうだったなら、前述した後藤の行動はあり得ない。両派の関係を例えるなら、一本の「王政復古トンネル」を山の両側から掘っている二つの班のようなものだ。)
 仮に、薩長にとって土佐の大政奉還運動が関係者の殺害を考える程の大問題だったとしたなら、後藤が建白書を出す前に後藤その人を斬らねばならない。大政奉還が成った後に、関係が有ると言えば有るという程度の龍馬を斬っても全然意味が無い。

 榊原氏は、京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)の一員だった今井信郎(いまい のぶお)の龍馬殺害に関する自白について、“龍馬暗殺の黒幕と思われる西郷らが今井を言い含めて、彼ら京都見廻組が龍馬殺害犯であるというウソをでっち上げたのではないか”という旨のことも書いている。
 榊原氏は、明治30年代に今井の証言が広く世に知られるようになるまでは“龍馬殺害は新撰組の仕業”というのが龍馬殺害直後からの殆どの人々の認識であり通説だったという事実を知らないか、知っていてもしっかり頭に染み込んではいないようだ。
 今井にとっては不本意な形ながら龍馬殺害に関する彼の証言が世間に公表されるまでは、龍馬殺害に関する「
謎」や「ミステリー」は事実上存在していなかったと言ってよい。今井が京都見廻組による龍馬殺害を証言し、それに対して新撰組による殺害を固く信じる谷干城(たに たてき)らが「今井の売名行為だ」と反論したことによって、“龍馬を殺害したのは本当は誰なのか?”という「謎」「ミステリー」がこの世の中に本格的に誕生したのだ。
 榊原氏はそういう事実の流れを全く知らないか、或は理解していない。
 明治の初めに於いては“龍馬を斬ったのは新撰組”と殆どの人が思い込んでいるのだから、龍馬殺害の「黒幕」が西郷であるなら、彼はそれをそのまま維持強化すればよい。わざわざ別の「真犯人」をでっちあげ状況を混乱させる意味は無い。「寝た子を起こす」必要が何処に有るのか?

 今井が龍馬殺害への関与を自白した経緯についても榊原氏は知らないか、或は理解していない。
 函館戦争終結後に龍馬殺害の件について詮議を受けた元新撰組隊士が“新撰組ではなく京都見廻組によるもの”との証言をした為、今井が尋問を受けることになった。共に会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)の配下に在り京都見廻組と兄弟組織とも言える間柄だった新撰組には事件直後から見廻組が実行したという情報が伝わっていた。今井は元新撰組に証言されたのではシラを切り通すことは出来ないと思ったのだろう。彼は“確かに京都見廻組が実行したことだが自分は見張りをしていただけ”と、この時点では、証言した。京都見廻組が龍馬を殺害したということを今井が聞かれもしないのに自分からペラペラ喋ったのではない。この経緯に“西郷らのでっち上げ”が入り込む隙間は無い。それは知識不足あるいは理解不足からくる妄想の類でしかない。

 榊原氏は戸田雅楽(とだ うた)が作って龍馬や西郷に見せた新政府人事案『新官制擬定書』に触れているが、西郷・後藤らの名前は挙げているのに、何故かこの本の主役であるはずの坂本龍馬の名前については書いていない。『新官制擬定書』には「参議」として坂本の名もちゃんと挙がっているにも関わらずだ。
 “龍馬が『新官制擬定書』を作り、それに彼自身の名前が無いことを不審に思った西郷が理由を問うと、龍馬は「役人は嫌だ。世界の海援隊をやりたい」と答えた”という龍馬伝説「世界の海援隊伝説」は有名だが、これは後世の作り話だ。『新官制擬定書』はかつて三条実美の側に居て朝廷の役職に関する知識があった戸田雅楽が作ったもので、龍馬はそれに「参議」として名前が挙げられている。もちろん龍馬は承知だろう。西郷に『新官制擬定書』を見せたのも戸田である。
 榊原氏はもしかすると素人同然に架空のウソ話龍馬伝説「世界の海援隊伝説」を信じているのかもしれない。

 ほんの一部を読んだだけなのに、これだけおかしな点が見つかるというのは異常だ。

 “幕末維新史に関心も知識も無かった榊原氏が、『龍馬伝』による龍馬ブームに便乗した本を出せば売れると考え、慌てて関連書籍をかき集めそれらを参考に書き上げた即席B級ブーム便乗本”。私はそういう印象をもった。

 くどいが私は全体を通読していない。しっかり読んではいない人間の“ゲスの勘ぐり”であることをお断りしておく。

 


龍馬伝説「亀山社中設立伝説」はウソである。「亀山社中日本初商社伝説」もウソである

2015年03月17日 00時44分42秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬が「亀山社中」を設立した”という龍馬伝説「亀山社中設立伝説」はウソである。また“「亀山社中」が日本初の商社である”という龍馬伝説「亀山社中日本初商社伝説」もウソである。

 後世に「亀山社中」と呼ばれるようになった集団は薩摩藩家老 小松帯刀によって「設立」された。
 慶応元年(西暦1865年)五月に薩摩に滞在していた坂本龍馬ら土佐浪人一党のうち、坂本は他の浪人仲間より先に薩摩を発ち熊本・大宰府を経由して長州に入った。(薩摩と長州の和解連携は他ならぬ薩摩が構想し小松帯刀・西郷隆盛達が中心となって工作を進め実現したもので、薩摩の庇護下に入った坂本龍馬らは西郷・小松帯刀らの指示を受けてその工作に関わった。この時の坂本の行動も小松・西郷達の意を受けてのものである。“坂本龍馬が薩摩と長州の手を結ばせることを発案し、彼が仲介して気乗りしない両者を説得して実現した”という龍馬伝説「薩長連携発案仲介伝説」はウソである。
 龍馬出立後、彼を除く土佐浪人らを長崎へ連れて行き海運の仕事の道筋をつけてやったのは薩摩藩家老小松帯刀である。(龍馬らには操船技術はあっても船その物や海運業についての知識・人脈等は無い。それを持っていたのは薩摩である。)
 長崎に居なかった龍馬は「亀山社中」の「設立」には関わっていない。

 「設立」経緯などよりも重要な事だが、「亀山社中」は独立した会社・商社のようなものではない。
 正式な薩摩藩士ではないが薩摩に雇われ薩摩藩から給料をもらっている、現代の言葉で例えるなら臨時職員の集まりだ。勤務地が長崎で仕事が海運だったということだ。「亀山社中」には会社・商社と呼べるような実態は無く、“「亀山社中」が日本初の商社である”という説を唱えた当人が後にそれを撤回している。

 「亀山社中」という名称は後世になって創作されたもので、当時彼らは自分たちを単に「社中」と呼んでいた。現代なら「仲間」「グループ」という程度の意味の当時は普通に使われた一般的な言葉だ。独立した組織らしい名称が無かったので、便宜的にそういう呼び方が使われていたわけだ。秘密結社でもあるまいし世間様に対しちゃんとした名前を名乗らないというのは、彼ら「社中」が実は薩摩藩という組織の一部であり、当人達もそういう意識を持っていた証拠だ。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

新説 坂本龍馬 [ 町田 明広 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2019/12/31時点)






坂本龍馬は詐欺師である。「龍馬いろは丸詐欺事件」

2015年03月16日 21時48分23秒 | 幕末維新

 坂本龍馬は紀州藩から3万両前後、現代なら15億円前後の金を騙し取っている。
 龍馬は立派な詐欺師である。

 「いろは丸沈没事件」 は有名だ。
 慶応3年(西暦1867年)4月23日、海援隊運用中の「いろは丸」と紀州藩軍艦明光丸が衝突し、いろは丸が大破、後に広島県宇治島沖で沈没した。龍馬はミニエー銃400丁等武器3万5630両や金塊など計4万7896両198文を積んでいたと主張し、紀州藩に8万3526両198文を弁償させる約束をさせ、後に減額して7万両を支払わせた。

 ところが、平成元年(西暦1989年)に「いろは丸」船体が海中で発見され、以後数次に渡って潜水調査が行われた結果、積荷には龍馬が主張したミニエー銃や金塊等は一切含まれていなかったことが判明した。
 
 鮫皮や水銀朱などが積まれていたのが確認されたが、その金額が武器金塊の「4万7896両198文」には到底及ばないのは明らかだ。実際の積荷の代金が幾らなのかはっきりとは判らないが多めに見積もってもせいぜい 数千両というところだろう。いろは丸船体の弁償額は7万両の約半分で残りが積荷代ということになるので、龍馬は3万両前後の金を紀州藩から騙し取ったことになる。

 この時期の1両は現代の5万円に相当するという或る研究者の見解があり、それに従って計算すると15億円前後の金を龍馬は詐取したわけだ。

 かなり以前にテレビ放送された歴史上の偉人有名人の人気度を視聴者投票で順位付けし発表するという内容のバラエティ番組で、タレント島田紳助氏が坂本龍馬について「嫌い」「商売人やんか」と語っていたのを覚えている。

 だが、まともな「商売人」は他人を騙して金を詐取したりしない。坂本龍馬は立派な「詐欺師」と言うべきだろう。






龍馬伝説「薩長連携発案仲介伝説」はウソである。

2015年03月16日 09時36分57秒 | 幕末維新

 “薩摩と長州が手を結ぶことを坂本龍馬が発案し、彼が薩長を仲介し気乗りしない両者を説き伏せて実現した”という龍馬伝説「薩長連携発案仲介伝説」はウソである。 

 彼が薩摩・長州の和解連携運動に関連したことや、慶応二年(西暦1866年)正月に京都で結ばれた薩長間の六箇条の密約の成立に貢献したのは事実だ。
 
だが、その薩長密約が結ばれる前年に事実上成立している、薩長密約の前提となる薩長の和解連携自体を龍馬が発案したという話には一切根拠は無い。  薩長の和解連携を第三者として最初に提唱したのは福岡は「筑前勤王党」の加藤司書(かとう ししょ)・月形洗蔵(つきがた せんぞう)・早川勇(はやかわ いさみ)らで、彼らに共鳴し運動を行ったのが土佐の中岡慎太郎(なかおか しんたろう)と土方久元(ひじかた ひさもと)両名と言われる。
 しかし、実際に成立した薩長の和解連携は他ならぬ薩摩藩が構想し西郷隆盛などを中心に工作を進めて成立したもので、当時薩摩の庇護下にあった龍馬は小松帯刀・西郷らの指示を受けて動いていた。
 幕末維新史に詳しい作家桐野作人氏のブログ『膏肓記』「龍馬伝30」より引用する。「龍馬伝30」はNHK大河ドラマ『龍馬伝』第30回「龍馬の秘策」に対する氏の感想を述べた文章である。文字強調は私メガリスによるものである。
----------------引用開始

薩摩藩は慶応元年前半、すでに対幕自立=割拠方針を藩論として定めており、その方針に沿って動き出していたのです。その要点は、藩政改革による軍事力強化、そのための封建商社育成構想、そして対外的には対長州接近策です。
近藤長次郎たちや龍馬が相次いで鹿児島入りし、近藤らは長崎に行き、長州の武器購入を斡旋したのも、龍馬が陸路から太宰府の五卿に会い、長州に行って木戸貫治(のち孝允)と会見したのも、薩摩藩の対長州接近方針に沿った動きでしょう。
すなわち、龍馬たちは薩摩藩の対外方針を実現すべく動いていたといえそうです。
長崎でのあれこれはどうもかったるいというか、歯がゆい動きですね。
龍馬の先見性と国事周旋力を際立たせるために、薩摩藩がまだ時勢に遅れており、薩長和解に踏みきれずにいるという演出になっていますが、実際は逆だと思うんですけどねえ。

引用終了----------------

 また、同ブログ「龍馬伝31」より引用する。同様に『龍馬伝』第31回「西郷はまだか」に関する文章であり、文字強調も私メガリスによるものである。

----------------引用開始

時系列が混乱しているのと、龍馬の居所がフィクションばかりなので、肝心の薩長和解の流れが寸断されて、よくわからないようになってますね。

その最大の要因は、龍馬やその仲間たちの鹿児島行きをスルーしてしまったことです。
それはかなり意図的な操作と思われ、薩摩藩が長州との和解に前年の元治元年暮れあたりからすでに乗り出したことつまり、龍馬の登場とは別のところで、すでに薩長和解が動き出していたことを意識的に無視し、薩長和解における龍馬の主導権を強調し、薩摩藩の迷いや逡巡を際立たせることにあるのでしょう。

龍馬は同年5月に鹿児島に行き、西郷の世話になっています。その後、薩摩を出国した龍馬が横井小楠、太宰府の三条実美ら、長州の桂小五郎に会ったのは単なる偶然ではなく、薩摩藩の意向を受けての行動だと推測するのが合理的です。

 

西郷はすでに前年の元治元年(1864)12月、豊前小倉で、中岡慎太郎とも会い、さらに筑前藩の月形洗蔵や早川養敬らの勧めで馬関海峡を渡り、下関で長州藩の諸隊長と会見しています。すでに薩長和解のレールは敷かれていたのです。
龍馬の役割はそれを促進したことであり、主導したわけではありません。
 

引用終了----------------

 “龍馬が薩長に手を組ませることを思いつき、彼が薩長を仲介して乗り気でない両者を説得し実現した”という「薩長連携発案仲介伝説」は司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』その他により世間に広まった、数多くのウソ話「龍馬伝説」の一つに過ぎない。

 正式発足後の神戸海軍操練所は浪人を受入れないことになり、龍馬は「塾頭」どころか一練習生にさえなれなかった。
“龍馬が神戸の勝海舟の海軍学校で塾頭だった”という「海軍学校塾頭伝説」も作り話である。『氷川清話』の中で勝海舟が「坂本龍馬が塾頭であった」と語っているが、仮に海舟が「塾頭」という言葉を使いこの通りに新聞記者に語ったとしても、これは文脈からして、勝のもとに集まった塾生達のリーダー格であったという程の意味だ。現代風に言うと生徒会長(あるいは番長)だったということだ。
 
『氷川清話』(勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫)より引用。
----------------引用開始
 塾生の中には、諸藩の浪人が多くて、薩摩のあばれものも沢山居たが、坂本龍馬がその塾頭であつた。当時のあばれもので、今は海軍の軍人になつて居るものがずいぶんあるョ。
引用終了----------------
現代で言う理事長・学長・教授を兼ねるような本当の意味での「塾頭」は、後に日本最初の鉄道建設に尽力し「鉄道の父」と呼ばれることになる佐藤与之助〔さとう よのすけ。後に政養(まさやす)〕である。

 行き場を失いつつあった龍馬ら土佐浪人一党が助けを求め、其れに応じたのが薩摩の西郷・小松帯刀だった。
 彼らに導かれて龍馬は慶応元年(西暦1865年)五月に半月ほど薩摩に滞在した。その薩摩滞在中に龍馬は西郷・小松らから薩長連携構想を明かされたと思われる

 その後、
小松帯刀が龍馬を除く土佐浪人一党を長崎に連れて行き、後世に「亀山社中」と呼ばれるようになった、現代の言葉で例えるなら“鹿児島県庁長崎支所勤務の臨時職員”の集団を作ったのも、彼らに薩長和解連携の為に働いてもらう為である。(念の為に繰り返すが、いわゆる「亀山社中」を作ったのは龍馬ではなく小松帯刀である。そもそも「亀山社中」成立時に坂本龍馬は長崎に居ない。“龍馬が「亀山社中」を作った”という「亀山社中設立伝説」もウソである。

 京都で出版された『その時、龍馬は、新撰組は 維新の胎動 幕末年表帖 京都観光便利帖3』(株式会社ユニプラン)という本がある。書名を見てもわかるように坂本龍馬の行動を重要視して書かれた本だが、その中にも龍馬の鹿児島滞在後の出来事として次のように記述されている。

 

(引用開始)

 5月16日 ■龍馬(31歳)、陸路長州を目指し、鹿児島を出立。西郷吉之助の配慮で、薩摩藩士児玉直右衛門、同行。西郷に薩長和解実現を指示されたのか?

(引用終了) 

 歴史的実在の坂本龍馬について勉強している本物の龍馬ファンは「薩長連携発案仲介伝説」に根拠は無いことをちゃんと知っているのだろう。
 平成20年度NHK大河ドラマ『篤姫』をご覧になった方は、第41回「薩長同盟」で、小松帯刀(瑛太)・西郷隆盛(小澤征悦)・大久保利通(原田泰造)・坂本龍馬(玉木宏)の4名が車座になり、小松が薩摩長州が手を結ぶ構想を語り始めるという場面があったのを記憶されているかと思う。薩長連携発案の史実に近い描写と言えるかもしれない。






龍馬伝説「世界の海援隊伝説」はウソである。

2015年03月15日 23時18分26秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬が作った新政府案に龍馬本人の名が無いことを西郷隆盛が指摘すると、坂本は「役人は嫌だ。世界の海援隊をやりたい」旨の発言をした”という有名な龍馬伝説「世界の海援隊伝説」はウソである。
 そもそも新政府案いわゆる『新官制擬定書』は坂本が作ったものではない。作ったのは当時坂本の近辺に居た戸田雅楽〔とだ うた。後の尾崎三良(おざき さぶろう)〕という人物だ。西郷に見せたのも戸田だ。龍馬ではない。戸田は以前三条実美に仕えていた人物で朝廷の組織官職に関する知識があったので其れを作成することが出来た。
 そして、その「擬定書」には「参議」として坂本の名がちゃんと挙がっている。無論、坂本は承知だろう。坂本本人の言動から判断しても彼が新政府に参加するつもりでいたのは間違いないと思われる。

 明治時代に龍馬の伝記『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』を刊行し彼を自由民権運動の先駆者に無理やり位置づけた坂崎紫蘭(さかざき しらん)という人物が『維新土佐勤王史』を執筆した際に、“龍馬の名前が後の明治政府高官たちと一緒に掲載されるのはマズイ”という判断から龍馬の名前を除外したのが間違いの大元だ。後に其れに「世界の海援隊」云々という話が付加された。

 幕末維新史に詳しい著名な歴史作家 桐野作人氏のブログ『膏盲記』「新官制擬定書」より引用する。NHK大河ドラマ「篤姫」第44回「龍馬死すとも」についての文章である。

---------------------引用開始

それと、龍馬の「新官制擬定書」についてです。
これも二重三重におかしいでしたね。

擬定書を龍馬が小松に見せておりましたが、2人にそんな時間はありませんでした。
それに擬定書を作成したのは龍馬ではなく、龍馬の側近だった戸田雅楽、のちの尾崎三良(さぶろう)です。
尾崎はそれを小松ではなく、西郷に見せに二本松の薩摩藩邸を訪れましたが、西郷は帰国の準備中で、会うことができませんでした。でも、西郷が尾崎に一緒に船に乗らないかと勧めてくれたので、一緒に帰っています(ただし、大宰府の三条実美に会うために下関あたりで下船)。
尾崎の回想によれば、船中で西郷に擬定書を提示したところ、西郷が面白いと答えたとのこと。小松に見せたとは書いていません。

まあ、西郷の代わりに小松に見せたくらいは許容範囲としましょう。
しかし、擬定書のなかに後藤と福岡孝弟の名前はありましたが、龍馬の名前がなかったのはおかしいですね。
そして、それに疑問を呈した小松(従来は西郷でしたが)に対して、龍馬が「世界の海援隊をやるきに」というお決まりのパターン。

これが『維新土佐勤王史』を編纂した坂崎紫瀾あたりがつくったフィクションであることは間違いないところでして。

じつは、擬定書は5種類くらいあります。それを厳密に史料批判した石井孝氏は、『尾崎三良自叙略伝』に収録されたのがもっとも古く、オリジナルに近いものだと結論を出しています(石井孝「船津功氏「『大政奉還』をめぐる政権構想の再検討」を読んで」 『歴史学研究』380号、1972年)。

では、尾崎の自叙伝にある擬定書に何と書いてあるかといえば、

内大臣 一人 (中略)暗に徳川慶喜を以て之に擬す。

参議 若干人 (中略)後藤、福岡、坂本等を以て之に擬す。

徳川慶喜の名前があるばかりか、龍馬の名前もちゃんと記載されています。

ところが、坂崎紫瀾は『維新土佐勤王史』を執筆した際、尾崎の自叙伝から写したと書きながら、意図的に龍馬の名前をはずしました。
それは、坂崎が龍馬の伝記『汗血千里駒』を刊行して、龍馬を自由民権運動の先駆者に位置づけてしまったため、反政府運動だった自由民権運動のなかで、龍馬の名前がのちの明治政府高官たちと一緒に掲載されるのはまずいという判断から、龍馬の名前を除外したと考えて間違いないと思います。

そのような作為がなされ、そこからさらに派生して「世界の海援隊」のエピソードが拵えられたわけです。
擬定書に名前があったら、「世界の海援隊」にとっては具合が悪いことになりますからね(笑)。

もういい加減、そうしたフィクションによる「龍馬伝説」の拡大再生産はやめにしたらどうでしょうかね。
史実の龍馬像からどんどん遠ざかるばかりだと思いますけど。史実の龍馬はそんなに魅力がないのでしょうか?

引用終了---------------------

 「史実の龍馬はそんなに魅力がない」と思われているのであろう。
 だから、“架空の幕末スーパーアイドル坂本龍馬”を金儲けのネタにしている「悪質龍馬業者」の連中は、坂本龍馬の真実の人となりや事績が世間に広まらないよう、必死に“「龍馬伝説」の拡大再生産”をやり続けているわけだ。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

龍馬暗殺 (近世史) [ 桐野 作人 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2019/12/27時点)



[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

海援隊 米 10年古酒 25度 720ml 土佐鶴酒造 焼酎
価格:1349円(税込、送料別) (2019/12/27時点)




龍馬伝説「平和主義者伝説」はウソである

2015年03月13日 23時48分33秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬は平和主義者であり大政奉還を推し進めたのも内戦を避ける為である”という、NHK『篤姫』でも無批判に採り入れられ、『龍馬伝』でも踏襲された「平和主義者伝説」はウソである。

 坂本は状況によって所謂「武力倒幕派」と「大政奉還派」の間を右往左往している。(両者は連絡・相談をしながらそれぞれの仕事を進めている。土佐の大政奉還路線の主役だった後藤象二郎は大政奉還建白を提出する直前に西郷・小松帯刀らに相談している。両派の間に大きな溝が有ったわけではない。)彼が「平和主義者」だったらそんなことは有り得ない。

 幕末・近代の政治思想史の研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)より引用する。文字強調は私メガリスによる。

----------------------引用開始

龍馬は大政奉還側

 さて、いよいよ大政奉還の十月である。土佐主導で薩摩がしぶしぶ(或いは策略含みで)付き合っている大政奉還と、その大政奉還の「上表」と奇しくも同じ十月十四日になった薩摩・長州へのいわゆる「倒幕密勅」と。この二つの、からまりあいながらしかし峻別されるべき路線で、龍馬が大政奉還の側にいて、討幕密勅の側にいないことは明瞭である。

 平和主義者だというのではない。既に十分に指摘されていることだが、前述八月十四日付吉慎蔵宛書簡では、長州本藩・長府藩・薩摩藩・土佐藩の軍艦を集めて一組として幕府と戦うという構想が語られているし、九月二十日の木戸宛で土佐に鉄砲を運んで乾退助に引合と書くのも、土佐藩を可能な限り武力討幕路線に引寄せておこうというデモンストレーションである。

引用終了----------------------

----------------------引用開始

 しかし八月から九月と、土佐藩の大政奉還建白が平和路線に傾いていることが明瞭になったとき、木戸は龍馬に不満を呈した。龍馬は木戸に強く言われて、精一杯武力討幕路線に近寄ってみせる。この揺れが龍馬独特で、討幕一点張りでもなければ、絶対平和主義者でもない。後藤象二郎が土佐藩の大政奉還建白を京都まで持参したものの薩摩藩の反対で提出できなくて困っているとき、長崎から高知に鉄砲を運ぶ途中の龍馬は木戸に返事して、これから土佐に帰り乾退助(板垣退助=武力討幕派)と相談の上、京都に出て後藤を引込めるとまで書いたのである。 

  龍馬が武力討幕派だという面を最も強調したのは、故飛鳥井雅道の『坂本龍馬』(一九七五年・平凡社)だった。苦心の力作だが、討幕派寄りになったところばかりを拾いすぎた憾みがある。龍馬が高知を経て上京したときには、既に土佐藩の大政奉還建白は在京薩摩藩代表の了解を得て提出済みとなっていた。龍馬は後藤象二郎ともども、ただただ土佐の建白が受け入れられることを願うのみだったのである。 

引用終了---------------------- 

  大体、「平和主義者」がピストルなんか持ち歩き、奉行所捕り方を二人も射殺したりするわけがない。 

  坂本が土佐の大政奉還路線のきっかけを作ったのは、王政復古運動において薩長に遅れをとった郷里土佐藩を大政奉還建白という離れ技で一気に先頭走者に押し出すのが狙いだった。また、王政復古後の新体制の実をあげる為には徳川幕府による支配を形式のみではなく実質的に完全に解体すべしと考えた薩長と違って、坂本は徳川氏・土佐山内氏ら旧幕府勢力を温存することも可と考えていたので、その為でもあった。 

  司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』で、司馬は”坂本竜馬は既に土佐人ではなく幕末の日本で唯一人の「日本人」だった”という意味のことを書いている。これは空想歴史小説の主人公=坂本”竜”馬の話であって、実在の「坂本”龍”馬」とは関係無い。実在の龍馬は死ぬまで土佐人としての意識を強く持っていたと思われる。 

  後藤象二郎と共に土佐を海から援ける為の「土佐海援隊」を作り活動したのはその証左と言える。(「土佐海援隊」から「土佐」を意図的に省き単に「海援隊」と呼ばれることが多いのは、司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』の中で生まれた「当代唯一日本人伝説」がウソであることが広まると困る連中、即ち”架空の幕末スーパーアイドル坂本龍馬”を金儲けのネタにしている「悪質龍馬業者」が多いからだろう。) 

 幕藩体制を終わらせ王政復古を実現し天皇を中心に堅く纏まった新日本を建設することを目指した幕末維新の志士達のなかでは、坂本はむしろ保守的な部類の人間と言えるかもしれない。


龍馬伝説「海軍学校塾頭伝説」はウソである。

2015年03月13日 22時55分25秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬が勝海舟の海軍学校で塾頭だった”という「海軍学校塾頭伝説」はウソである。

  平成21年西暦2009年9月3日0時現在、平成22年度NHK大河ドラマ『龍馬伝』に関するNHKウェブサイトのページに【坂本龍馬・岩崎弥太郎の生涯】という年表が掲げられ、その中にこういう記述がある。

----------------引用開始

  文久3年(1863年)29歳 龍馬、勝海舟の海軍塾の塾頭となる。

引用終了----------------

 ウソである。
 〝坂本龍馬が、勝海舟が神戸で運営する海軍学校の「塾頭」「塾長」であった〟という「海軍学校塾頭伝説」は作り話だ。数多い架空のウソ話「龍馬伝説」の一つに過ぎない。

 海舟が関わった神戸の学校は二つ存在する。勝個人の私塾と、勝が責任者として設立した幕府の海軍操練所だ。その何れに於いても坂本龍馬が「塾頭」やそれに相当する立場であった事実は無い。後世の作り話だ。

  勝海舟が『氷川清話(ひかわせいわ)』(ひかわきよしばなし、ではない)の中で「坂本龍馬がその塾頭であつた」と語っているが、仮に、実際に文章を書いた新聞記者に対して海舟が「塾頭」という言葉を使いこの通りに話したとしても(『氷川清話』は新聞に掲載された勝の談話を纏めた本で、元々の談話は勝が語ったことを新聞記者が文章化した物である。勝が自分で文章を書いたわけではない)、文脈からして“海舟のもとに集まった塾生達のリーダー格であった”という意味であることは明らかだ。現代の学校に当てはめるなら生徒会長(あるいは番長)といったところだろう。

『氷川清話』(勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫)より引用。

----------------引用開始

 塾生の中には、諸藩の浪人が多くて、薩摩のあばれものも沢山居たが、坂本龍馬がその塾頭であつた。当時のあばれもので、今は海軍の軍人になつて居るものがずいぶんあるョ。

引用終了----------------


 そもそも、現代で言う理事長・学長・教授等を兼ねた本当の意味での「塾頭」「塾長」に当たる人物は別に存在している。勝海舟と共に長崎海軍伝習所で学び新政府でも技術官僚として活躍した、生涯勝と交流があった佐藤与之助(さとう よのすけ)という人物だ。
  佐藤与之助(後に政養[まさやす・まさよし・せいよう])は、幕臣時代には、江戸湾各地を測量した結果を元に当時の横浜村開港を提言し、海舟の海軍学校では実質的塾頭として多くの人材を育成した。更に明治新政府では、初代鉄道助(てつどうのすけ)として日本最初の鉄道建設に尽力した。陸海両方で日本の近代運輸発展の基礎を築く多大な功績を残した「日本近代運輸の父」と称してもいいぐらいの大人物である。
 こういう超優秀な人物を差し置いて、殆ど学問らしい学問の無い坂本龍馬が海軍塾の「塾頭」になれる道理が無い。

 以下、幕末明治期の政治・思想史研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)から引用する。

 

---------------------引用開始

  前記『坂本龍馬関係文書』収録の坂崎紫瀾編「坂本龍馬海援隊始末」の年譜では「文久三年(日不詳)龍馬神戸海軍所ノ塾長トナリ勝ヲ助ク」と書かれており、 これが龍馬塾長説の最大の根拠となっているのだが、全く根拠の無い記述である。「神戸海軍所」が何を指すのかも不明である。坂崎は年譜的記述の典拠のようにして海舟の文章を無理に引いているけれども、その文中の「海軍局」は幕府の海軍操練所を指しており、これは準備中で発足は翌年だった。完成しても龍馬が 「塾長」になることは絶対にありえない。そもそも「塾長」というポストが無い。
 もう一つの大坂から神戸に移転した海舟の私塾は、もし強いて塾長を求めるとすれば、それは佐藤与之助である。

(中略)

  十二月九日付で神戸の様子を報じた与之助の書簡がある。塾については「御塾中は昌蔵教示にて文典前編は追々相済候体に相成、外にも至って勉強仕候事に御座候」と書いている。むろん与之助単独の手紙で、龍馬との連名ではない。土佐藩邸に宛てた海舟の要望書には「坂本儀は塾頭申付置、御船手足不申節は乗組せ候儀に候」と書いたようだが、これでは神戸塾の塾頭だったとは決められない。流動的な土佐グループの首領、あるいは江戸赤坂海舟宅に存続する海軍塾の頭という程度のものと感じられる。また龍馬の必要性を強調するためのサービスもあるだろう。いずれにしても九月から十月に掛けての長い江戸滞在、また十二月にも江戸にいるようでは、神戸の塾頭は勤まらない。神戸の塾頭を強いて求めれば、大坂塾(与之助の江戸から大坂への移動と共に成立)に続いてやはり佐藤与之助である。

引用終了---------------------

 付け加えるなら、正式発足後の幕府の神戸海軍操練所に関しては、龍馬は「塾頭」どころか一練習生にさえなっていない。練習生受入れに資格制限が設けられ、龍馬のような浪人は入れないことになったからだ。

 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

検証・竜馬伝説
価格:3080円(税込、送料別) (2020/1/1時点)