メガリス

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私の写真についての“撮影者としての権利”は放棄します。

史実の坂本龍馬は「天才」とは言えない。

2015年11月07日 23時38分03秒 | 幕末維新

 史実の坂本龍馬は「天才」とは言えない。

 平成27年8月31日にテレビ朝日系で放送された『ぶっちゃけ寺&Qさま!!合体3時間SP 新学期!現役東大生・京大生が選んだ天才だと思う偉人ランキング ベスト30から全問出題!アナウンサー・キャスターvsインテリ芸人SP』(ゼネラルプロデューサー樋口圭介)の録画を途中まで観て放っておいたのだが、今日最後まで観た。
 第7位に坂本龍馬が登場し失笑した。“龍馬が薩長の和解連携を発案し、彼が仲介して両者を説得し手を結ばせた”とか“龍馬が大政奉還を発明し、彼の奔走によって実現した”とかいうような架空のウソ話「龍馬伝説」をテレビ・小説・萬画などでさんざん吹き込まれているのだから、それは、東大生・京大生でも騙されるだろう。
 どうせまた、そういう架空のウソ話「龍馬伝説」が紹介されるのだろうと思って観ていたら、今回は少し事情が違った。「龍馬に関する問題」ということで5・6問出題されたが、何故か、龍馬本人がどんな「業績」を遺したのかという説明が殆ど無かったのだ。他の「天才だと思う偉人」は殆どその業績が紹介されているにも関わらずだ。(所謂「亀山社中」について「坂本龍馬が中心となって結成 日本最初の商社と言われている」というウソの内容のテロップが出ただけである。所謂「亀山社中」は薩摩藩家老小松帯刀により「結成」されたものだ。「結成」当時龍馬は長崎に居ない。また所謂「亀山社中」は薩摩藩お雇いの海運担当臨時職員の集団に過ぎず「商社」と呼べる実態はない。そういう説を唱えた当人が後に自説を撤回している。「亀山社中」という名称も明治以降に創作されたものだ。)
 第7位という比較的上位でありながらその「業績」をろくに紹介しないというのは、かなり不自然で明らかに作為的である。何故なのだろう。
 ゼネラルプロデューサー樋口圭介氏は、坂本龍馬に関してよく知られている「業績」が殆ど全部ウソであるということを知っているのだろう。それで、アンケート結果に従って龍馬の名前を出し申し訳程度に架空のウソ話龍馬伝説「亀山社中設立伝説」「亀山社中日本初商社伝説」は出したものの、龍馬の「業績」についてそれ以上踏み込んで言及することを避けたのかもしれない。
 龍馬本人の「業績」に殆ど触れないにも関わらず「龍馬に関する問題」が数多く出題されたのは、実在の坂本龍馬とは全く異なる“架空の幕末スーパーアイドル坂本龍馬”を金儲けのネタにしていて龍馬の“商品価値”が低下すれば死活問題になる「悪質龍馬業者」連中から、ゼネラルプロデューサー樋口圭介氏に対し何らかの圧力がかかったからではないのか?そんな下種の勘繰りをしてしまう。

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龍馬「日本を今一度せんたくいたし申し候」は横井小楠のマネ

2015年10月29日 01時21分25秒 | 幕末維新

 平成27年10月26日(月)にテレビ朝日系で放送された『ぶっちゃけ寺×Qさま』(ゼネラルプロデューサー樋口圭介)で坂本龍馬を取り上げていた。

 有名な「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申し候」という一節が書かれた龍馬の手紙の実物が登場した。
  よく知られていることだが、この言い回しは龍馬自身が思いついた物ではない。元々は肥後の学者横井小楠(よこい しょうなん)の言葉である。横井は「天下一統人心洗濯希うところなり( 
  てんかいっとう じんしん せんたく ねがうところなり)
」というのが口癖だった。横井に会ったことがある龍馬がこれを拝借し姉乙女への手紙に用いたわけだ。
 龍馬の「日本を今一度・・・」は「右申す所の姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打ち殺し」という言葉に続けて書かれている。つまり“幕府のクサレ役人どもを戦争をして打ち殺し、日本をもう一度洗濯したい”と龍馬は言っているのだ。

  番組内では、横井小楠の口癖を頂いたものであることも、“クサレ役人どもを戦争をして打ち殺す”と書いていたことも、触れられなかった。 

  “他人が思いつかないようなことを発想し行動する独創的開明的な人物であった”とか“戦争が嫌いな平和主義者であった”とかいうような、史実の龍馬と全く異なる“架空の幕末スーパーアイドル坂本龍馬”の拡大再生産に加担して、『ぶっちゃけ寺×Qさま』ゼネラルプロデューサー樋口圭介氏に何の得が有るのだろうか? 虚像の“架空の幕末スーパーアイドル坂本龍馬”を金儲けのネタにしている「悪質龍馬業者」連中の片棒を担ぐようなことはお止めになるべきだろう。      


 
 
 
 
  

「日本を洗濯」御本家 横井小楠先生 ↓      

 

      

 

 




悪質龍馬業者への加担はお止めください。テレビ朝日『ぶっちゃけ寺×Qさま』樋口圭介さん

2015年10月27日 03時14分06秒 | 幕末維新

 平成27年10月26日(月)にテレビ朝日系で放送された『ぶっちゃけ寺×Qさま』(ゼネラルプロデューサー樋口圭介)で坂本龍馬を取り上げていた。
 “相変わらず”と言うしかないが、架空のウソ話「龍馬伝説」を、ほぼなぞった内容だった。
 普通に調べれば“坂本龍馬が大政奉還に尽力し成し遂げた”とか“「亀山社中」が日本初の商社である”というような話がフィクションに過ぎないことはすぐに判る。
 大政奉還策は幕臣大久保一翁(おおくぼ いちおう)や福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)らが発案提唱したもので、龍馬は彼らからの受売りの大政奉還策を地元土佐藩浮揚の一手として後藤象二郎に示しただけである。大政奉還に関して龍馬がしたことはそれだけだ(実は、この話にもちゃんとした根拠は無い)。龍馬は他には一切「尽力」などしておらず、彼が大政奉還を「成し遂げた」わけではない。それどころか、後藤象二郎が大政奉還実現の為に奔走していた時期に龍馬は所謂「武力討幕派」に擦り寄っていて、長州の木戸孝允(きど たかよし)への手紙に“武力討幕派の乾(板垣)退助と相談し、後藤は土佐か長崎に引っ込める”旨の何の実力も無い彼に出来もしないハッタリを書いたりしている。
 所謂「亀山社中」は薩摩藩家老小松帯刀(こまつ たてわき)が長崎に赴任させた薩摩藩お雇いの臨時職員の集団である。彼らは薩摩藩から給料を支給されていた。「亀山社中」には「商社」などと呼べるような実態は無い。最初にそういう主張をした当人が後にその説を撤回している。
 「亀山社中」という呼び名も明治以降の創作である。自分らでは「社中」と言ったり、外部からは「坂本社中」と呼ばれることもあった。「社中」というのは“仲間”とか“グループ”といった意味の、当時はごく普通に使われていた言葉である。秘密結社でもあるまいし、独立した組織らしい名称が無いのは、独立した組織ではないという証拠である。

 龍馬殺害事件も今では「(幕末)最大のミステリー」ではない。
 京都守護職の任にあった会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)〔或いは、正式な命令系統からは外れるが、彼の実弟である京都所司代を勤めていた桑名藩主松平定敬(まつだいら さだあき)〕の「御指図(おさしず)」により、彼の配下の警察組織であった京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)が殺害した、というのが歴史学者の間で定説となっている。未だに「後藤象二郎黒幕説」「薩摩藩黒幕説」などを主張しているのは、他人と違う話を書いたり話したりしたいという作家や研究家を自称する素人だけだ。”源義経が大陸に逃れてチンギス ハーンになった”という「説」と同じようなモノである。
 京都見廻組は警察組織たる彼らの公務として「坂本龍馬を捕縛せよ。手に余る場合は殺害してよい」という上司命令に従って行動したのであるから「暗殺」ではない。また命令を出した会津藩主松平容保(又は桑名藩主松平定敬)も「黒幕」などではない。

 番組内で“土佐勤王党が倒幕を主張し結成された”旨の話が出ていたが、全くのデタラメ。それがもし事実なら忽ち「謀反」のカドで全員捕縛され切腹か死罪になっている。
 土佐勤王党結成時の目標は「破約攘夷」である。即ち幕府が諸外国と結んだ条約を破棄し攘夷を実行することだ。
 “その為に、個々の志士で行動するだけではなく、土佐の藩論を攘夷で纏め藩全体で攘夷を実行する”というのが、発起人の武市半平太(たけち はんぺいた。サムライせんせい)の構想だった。結党時に勤王党に属していた龍馬が後に脱退し更に脱藩したのは、武市半平太の現実的常識的な方針に対し、口先だけだが過激な武闘派攘夷青年だった龍馬が物足りなさを感じたからだろう。「そんな呑気なことでは埒が明かんぜよ!すぐに行動し異人をぶった斬るぜよ!」とか思っていたのだろう。

 “架空の幕末スーパーアイドル坂本龍馬”を金儲けのネタにしている「悪質龍馬業者」の連中は、坂本龍馬の商品価値を落とさない為に、とうに明らかになっている史実を無視し架空のウソ話「龍馬伝説」の拡大再生産に必死になっている。『ぶっちゃけ寺×Qさま』ゼネラルプロデューサー樋口圭介氏はそんな「悪質龍馬業者」連中に加担するつもりなのだろうか?バカなことはお止めになるべきだ。

 だだ、架空のウソ話「龍馬伝説」を“ほぼ”そのままなぞった内容だったのは事実だが、従来の坂本龍馬を扱ったバラエティ番組と比較すると良い方向への変化を感じる点もあった。

 “坂本龍馬が薩長の和解連携を発案し、彼が仲介して気乗りしない両者を説得し手を結ばせた”というウソ話「薩長連携発案仲介伝説」は全く登場しなかった。簡単な年表が映され其処に「龍馬の人生」として「1866年(32歳)」に「1月 薩長同盟締結」と書かれてあったのみで、其の他ナレーションなどでは一切触れられず「薩長同盟」のサの字も出てこなかった。
 また大政奉還についても「成し遂げた」「尽力した」と語られただけであり、“大政奉還を龍馬が発明し、彼の奔走で実現した”というウソ話「大政奉還発明奔走伝説」をそのままの形では紹介しなかった。
 『ぶっちゃけ寺×Qさま』ゼネラルプロデューサー樋口圭介氏も或る程度は史実を認識しており、それを完全無視はしていないようである。

 別に気になったことが一つ有る。
 番組中、原作:武田鉄矢 作画:小山ゆうの萬画『お~い!竜馬』の作品内容が何回も画面に登場したのだが、画面右下に「©小山ゆう/小学館」と表示されているだけで、「原作」の武田鉄矢氏の名前は紹介されなかった。『お~い!竜馬』の表紙が映された時に其処に武田鉄矢氏の名前が印刷されているのが判っただけである。
 何故なのだろう?権利関係の問題にはテレビ屋さんは非常に敏感なはずだ。ミスでそうなったとは思えない。
 一部の絵(とセリフ)を出すだけなら「原作」については表記しなくてよいと判断したということなのだろうか?
 或いは、龍馬ファンとして知られる武田鉄矢氏が、
司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』の武田流焼き直しである『お~い!竜馬』に関して自分の名前がテレビで改めて紹介されることを拒絶したのだろうか?もしそうだとするなら、実に興味深い注目すべき事実である。


坂本龍馬記念館 森健志郎館長「龍馬は戦争が嫌い」 思い込みに過ぎない

2015年10月09日 21時42分14秒 | 幕末維新

> 龍馬の思想で最も輝いているのは「平和」と言い切る。「龍馬は戦争が嫌い。薩長同盟。大政奉還、船中八策も目指したのは平和やき」

 “坂本龍馬は「戦争が嫌い」な平和主義者だった”という話はフィクションに過ぎない。
 坂本龍馬記念館
館長の森健志郎氏は
 
 
一体何を根拠に「龍馬は戦争が嫌い」などと 断言しているのだろうか?

 史実の坂本龍馬は状況によって所謂「武力倒幕派」と「大政奉還派」の間を右往左往している。(が、両派の間に大きな溝が有ったわけではない。両者は連絡相談をしながらそれぞれの運動を進めている。実際、土佐の大政奉還路線の主役だった後藤象二郎は大政奉還建白を提出する直前に薩摩の小松帯刀・西郷らに相談している。)もし「龍馬は戦争が嫌い」な平和主義者だったなら、そんなことは有り得ない。

 幕末・近代の政治思想史の研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊) より引用する。文字強調は私メガリスによる。

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 龍馬は大政奉還側

   さて、いよいよ大政奉還の十月である。土佐主導で薩摩がしぶしぶ(或いは策略含みで)付き合っている大政奉還と、その大政奉還の「上表」と奇しくも同じ十 月十四日になった薩摩・長州へのいわゆる「倒幕密勅」と。この二つの、からまりあいながらしかし峻別されるべき路線で、龍馬が大政奉還の側にいて、討幕密勅の側にいないことは明瞭である。

  平和主義者だというのではない。 既に十分に指摘されていることだが、前述八月十四日付吉慎蔵宛書簡では、長州本藩・長府藩・薩摩藩・土佐藩の軍艦を集めて一組として幕府と戦うという構想が語られているし、九月二十日の木戸宛で土佐に鉄砲を運んで乾退助に引合と書くのも、土佐藩を可能な限り武力討幕路線に引寄せておこうというデモンストレーションである。 

 引用終了----------------------

 ----------------------引用開始 

  しかし八月から九月と、土佐藩の大政奉還建白が平和路線に傾いていることが明瞭になったとき、木戸は龍馬に不満を呈した。龍馬は木戸に強く言われて、精一杯武力討幕路線に近寄ってみせる。この揺れが龍馬独特で、討幕一点張りでもなければ、絶対平和主義者でもない。後藤象二郎が土佐藩の大政奉還建白を京都まで持参したものの薩摩藩の反対で提出できなくて困っているとき、崎から高知に鉄砲を運ぶ途中の龍馬は木戸に返事して、これから土佐に帰り乾退助(板垣退助=武力討幕派)と相談の上、京都に出て後藤を引込めるとまで書いたのである。  

   龍馬が武力討幕派だという面を最も強調したのは、故飛鳥井雅道の『坂本龍馬』(一九七五年・平凡社)だった。苦心の力作だが、討幕派寄りになったところばかりを拾いすぎた憾みがある。龍馬が高知を経て上京したときには、既に土佐藩の大政奉還建白は在京薩摩藩代表の了解を得て提出済みとなっていた。龍馬は後藤象二郎ともども、ただただ土佐の建白が受け入れられることを願うのみだったのである。 

 引用終了---------------------- 

  有名な「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申し候」という龍馬の手紙の一節 は、「右申す所の姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打ち殺し」という言葉に続けて書かれている。
 “幕府のクサレ役人どもを戦争をして打ち殺し、日本をもう一度洗濯したい”と龍馬は言っている。
 「戦争が嫌い」な平和主義者はこのようなことを書かない。

 ついでに言うが、この「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申し候」という文句は熊本出身の学者横井小楠(よこい しょうなん)の口癖の真似で、龍馬が思いついたものではない。「天下一統人心洗濯希うところなり  (てんかいっとう じんしん せんたく ねがうところなり」というのが横井の口癖だった。横井に会ったことがある龍馬がこれを拝借したわけだ。 

 慶應二年(西暦1866年)の「龍馬寺田屋事件」で龍馬は伏見奉行所の捕り方2名を拳銃で射殺している。捕縛を逃れる為であっても「戦争が嫌い」な平和主義者はそんなことはしない。

 龍馬は、大政奉還後に福井藩士三岡八郎との会談で「不戦なり」と語ったり、若年寄永井尚志に面会した折に「決して兵力によらずして行われるべき条理あり」と言ったりしているが、其の時の状況下で其の時の龍馬がそう語ったというだけの話である。「戦争が嫌い」な平和主義者だからではない。

 “薩長同盟、大政奉還、船中八策も目指したのは平和やき”
 森館長の哀しい思い込みに過ぎない。

 所謂「薩長同盟」は他ならぬ薩摩が構想し小松帯刀・西郷隆盛らが中心となって工作を進め実現したもので、当時自ら進んで薩摩庇護下に入っていた龍馬は小松・西郷らの指示を受けて動いていただけである。所謂「薩長同盟」は龍馬が発案したものでも龍馬の主導によるものでもない。”龍馬が薩長の和解連携を発案し、彼が仲介して両者を説得し実現した”という「薩長連携発案仲介伝説」はフィクションだ。
 大政奉還策は元々幕臣大久保一翁(おおくぼ いちおう)や福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)らが提唱したもので、
 
龍馬がしたことは、彼らからの受け売りの大政奉還策を 土佐藩浮揚の一手として後藤象二郎に示したとされることだけである(実は、この話にも確たる根拠があるわけではない)。他に何もしていない。自分で後藤に教えておきながら、所謂「武力倒幕派」と「大政奉還派」の間をフラフラし後藤を裏切るようなことをしていたのは前述した通りである。”龍馬が大政奉還を発明し、彼の奔走で実現した”という「大政奉還発明奔走伝説」はフィクションである。
 『船中八策』は明治以降の捏造と観る研究者が多く、ほぼ定説となっている。
 以前から専門家の間では〝龍馬が『船中八策』を提唱した〟という話には疑問が持たれていた。
 理由1 龍馬本人や『船中八策』を聞いたという長岡謙吉による自筆も、信頼できる写本も存在しない。
 理由2 同時代の記録や、龍馬に関連した人々の証言等に一切登場しない。土佐海援隊の日誌にさえ記述が無い。
 理由3 後年の龍馬自筆が現存する『八義』(所謂『新政府綱領八策』)  よりも、先行するはずの『船中八策』の方が内容が充実している。
 近年になって『船中八策』捏造の経緯がほぼ明らかになってきており、大雑把に言うと次の通り。
 明治29年西暦1896年に刊行された龍馬親族だという人物の著した伝記『阪本龍馬』(何故か「阪」)にその原型が登場する。
 『船中八策』の内容が今我々が知る形でほぼ確定したのは明治40年西暦1907年。
 そして『船中八策』という名称そのものが生まれたのは大正5年1916年のことである。
 
 
 
 

   森健志郎館長  は、  龍馬と関連は有るという程度のものや後世の捏造と考えられているものを龍馬の功績と見做し、それを無理やり「平和主義者伝説」と混ぜこぜにして、  龍馬が「目指したのは平和」と言い切っているらしい。
 単なる哀しい思い込みに過ぎない。
 
 
 


平成27年(西暦2015年)10月9日の西日本新聞夕刊から引用。
----------------引用開始

龍馬の思い「平和」を発信
高知の坂本龍馬記念館リニューアルに道筋を付けた館長
森健志郎さん
 高知・桂浜に近い浦戸城跡に立つ記念館のトップに2005年に就任して丸10年。博物館機能を持たせ、幅広い展示を可能とするリニューアルに道筋を付けた。「これまでは『龍馬を発信』が合言葉だったが、これからは『龍馬の殿堂』ぜよ」
 高知新聞社を定年退職後の05年8月、当時の橋本大二郎知事から請われ館長になったが「特別な思い入れはなかった」。手紙の紹介が中心の記念館を繰り返し訪れるファンの熱意に触れる。専門家の学芸員と話し、龍馬本を手に取るうちに引き込まれた。「今では人後に落ちぬ龍馬ファン」
 龍馬の思想で最も輝いているのは「平和」と言い切る。「龍馬は戦争が嫌い。薩長同盟、大政奉還、船中八策も目指したのは平和やき」
 龍馬が残したメッセージの発信を記念館の使命と位置付けた。8月15日には「夏休み子ども龍馬フォーラム」を13年から開催。よさこい祭りにも、龍馬をアピールするチームを率いて参加する。
 10年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」放送以降、「もっと本物が見たい」という来館者の声の高まりを痛感。県議会有志からの「観光の目玉づくりを」との提案もあり、15年5月に県が基本設計をまとめた。18年1月オープン予定の新館は、温度や湿度の調節が可能で、龍馬に関わる重要文化財や国宝が展示できる。
 「人との交流が本当に大事と龍馬は教えてくれる。若い時に分かっていれば」と苦笑する73歳。60歳から2年間、中国の新疆ウイグル自治区に語学留学した行動派だ。

引用終了----------------

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「薩長同盟」は薩摩が望んで成立した。『花燃ゆ』

2015年08月25日 07時56分19秒 | 幕末維新

 所謂「薩長同盟」は他ならぬ薩摩が構想し西郷隆盛が中心になって当時薩摩配下にあった坂本龍馬らを使って工作を進め成立したもので、“坂本龍馬が薩長の和解連携を発案し、彼が仲介して気乗りしない両者を説得し手を結ばせた”という「薩長連携発案仲介伝説」は数多い架空のウソ話「龍馬伝説」の一つに過ぎない。

 NHK大河ドラマ『花燃ゆ』の第34回「薩長同盟!」を観た。所謂「薩長同盟」は薩摩が望んだもので其の結果成立したものである、という描き方がされていた。その点は史実の通りである。『龍馬伝』からすると大変な進歩だ。
 だが、「薩長同盟」を坂本龍馬が“仲立ちした”というウソ話龍馬伝説「薩長同盟仲介伝説」が相も変わらず踏襲されていたのはガッカリである。
 当時坂本は薩摩の配下にあって「薩長同盟」成立を画策する西郷・小松帯刀らの指示を受けて動いていたに過ぎない。上司命令に従って働いた単なる“お使い”のした仕事を「仲立ち」とは言わない。


 番組内で「亀山社中」「薩長同盟」という呼称が登場したが、両方とも明治になってから創作された言葉である。




”負け犬の遠吠え史観” 原田伊織『明治維新という過ち』

2015年05月05日 19時09分55秒 | 幕末維新

 原田伊織という人物の著した『明治維新という過ち』という本が有る。
 明治維新が「過ち」であったと言いたいなら、一定の蓋然性の有る、当時の日本が歩むべき「正しい」道筋を示さねばならないが、それは無い。単に長州を中心とする新政府側への批判と恨みつらみを述べているだけだ。

 「テロ」を計画しただけの吉田松陰が「テロリスト」なら、彼やその他多くの有為な人材を表面上は合法的手続きで実際に殺害した“白色テロ”「安政の大獄」の大老井伊直弼も「テロリスト」である。
 そもそも、“まずは話し合い、それで埒があかなければ、刀に訴える”というのは武士という存在にとっては当然のこと。あの時代の武士に、今で言うところの「テロリスト」的発想をしない者はほぼいない。原田氏はそんな基本的なことも理解していない愚かな人物なのだろうか?

 自分の語りたい物語を先にたて、其れに都合の良い事柄を選び出して並べ、都合の悪い史実はほとんど無視する。謂わば「歴史トンデモ本」である。
 いや、歴史云々というよりプロパガンダ=政治的宣伝として書かれた本なのだろう。

 “負け犬の遠吠え史観”。私はそう呼ぶことにする。




龍馬伝説「大政奉還発明伝説」はウソである。絲屋寿雄「竜馬の虚像・実像 ―司馬遼太郎『竜馬がゆく』によせて―」

2015年03月19日 16時04分03秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬が「大政奉還」を思いついた”という龍馬伝説「大政奉還発明伝説」はウソである。

  司馬遼太郎が空想歴史小説『竜馬がゆく』の中でそういうフィクションを書き、それが世間に事実であるかのように広まってしまったわけだ。一部には、事実ではないことを知りながら自分の金儲けの為にこの作り話を必死に喧伝し続けている“悪質龍馬業者”も居る。
 『竜馬がゆく』は架空の幕末スーパーアイドル坂本“竜” 馬の物語(フィクション)に過ぎない。歴史的実在の坂本“龍”馬の実際とは大きく異なっている。(龍馬本人は自分の名を“竜馬”と表記したことはないそうだ。)

 専門誌『歴史評論』(317号 昭和51年9月号)掲載の思想史家:絲屋寿雄氏の「竜馬の虚像・実像 ―司馬遼太郎『竜馬がゆく』によせて―」より引用する。(文字強調は私メガリスによる。)

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  『坂本竜馬海援隊始末』の記事によると、一八六三(文久三)年一月二五日、竜馬は江戸におり、沢村惣之丞らとはじめて幕臣大久保一翁と会談している。一翁は当時、勝とならんだ幕府の先覚者で、かつて蕃書調所頭取、外国奉行を勤めただけに、世界事情に通じ、その識見も群を抜いていた。
  彼は、幕府は天下の政治を朝廷に返還し、徳川家は諸侯の列に加わり、駿・遠・三の旧領地を領し、居城を駿府に定めるのが上策であると論じて、幕吏たちを唖然とさせたことがあった。また文久二年の春、政事総裁松平春嶽に上書し、大小の公議会を設け、大公議会の議員は諸大名を充て、全国に関する事件を議し、小 公議会は一地方に止まる事件を議する所とし、議員と会期は適宜の制を定めればよいと論じた。
 竜馬たちが大久保一翁と会談したとき、一翁は、万一の場合、殺されるかもしれないのを覚悟で、思い切って自分の意見を述べたところ竜馬と沢村の両人は手を打たんばかりにして共感した。
 同じ頃、竜馬は、勝が千代田城の大広間で将軍ご辞退の大議論をやってのけたという話を勝から直接聞かされ、こんな調子で議論をすれば先生の命が危いのではないかと手帳に書きつけている。
これらの話は竜馬に大政奉還論をはじめて吹き込んだのは大久保一翁や勝海舟のような幕府側のブレーンであることを語っている点で重要な資料であるが、何故か司馬遼太郎によっては正面からとりあげられていない。

引用終了--------------------

 『竜馬がゆく』は娯楽のための単なる空想歴史小説に過ぎない。そういったものも史実に絶対に忠実でなければならないということはない。当該資料を司馬遼太郎が「正面からとりあげ」ないからといって、其れが彼の落ち度であるということにはならない。「何故か」などと否定的ニュアンスで語られる理由はない。(ただ、もし、司馬が“『竜馬がゆく』は史実に忠実に書いてある”旨のことを言ったり、そのように理解されるような言動をとったとしたら、それは問題である。)

 最初の提唱者である大久保一翁(おおくぼ いちおう)よりも熱心に大政奉還論を説いたのが福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)である。

 坂本龍馬が大政奉還実現のために奔走したという話もウソである。彼は後藤象二郎に一翁・春嶽らから受け売りの大政奉還策を教えた(とされているが、実はこの話にも確たる根拠は無い。)が、他には一切何もしていない。“龍馬が大政奉還策を発明し、彼の奔走で実現した”という「大政奉還発明奔走伝説」はウソである。


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龍馬殺害「黒幕」は会津藩主松平容保か、実弟の桑名藩主松平定敬

2015年03月18日 19時01分53秒 | 幕末維新

 >「暗殺の黒幕は見廻組の上部団体だった京都守護職の松平容保が有力ですが、

 これは、その通り。
 京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)のリーダー佐々木只三郎(ささき たださぶろう)の兄である会津藩士手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)が、亡くなる少し前に、「御指図(おさしづ)」を受けた旨を示唆している。〔正式な命令系統からは外れるが、「御指図」を出したのは容保の実弟であり京都所司代の任にあった桑名藩主松平定敬(まつだいら さだあき)である可能性もあるらしい。〕

 松平容保(まつだいら かたもり)は京都守護職の任務である警察活動の一つとして、龍馬の捕縛または殺害を指示した。幕府側から見れば龍馬は徳川の天下と京都の治安を乱す不逞の輩であり、かつ「龍馬寺田屋事件」で伏見奉行所の捕り方2名を殺害した殺人犯でもある。龍馬殺害は「暗殺」ではないし、容保は「黒幕」などでもない。

>徳川慶喜を新政府の盟主にしようとした龍馬の行為は許されないと考えた薩摩藩の陰謀説もあります」

 ”源義経がジンギスカンになったという説があります”というのと同じ程度の話。他人と違う面白い話が出来ればよい小説家や自称研究家等が主張しているだけで、近代史を専門とする歴史学者で薩摩藩陰謀説を唱える者はほぼ皆無である。俗説の一つに過ぎない。
 殺害された頃の龍馬は2度目の脱藩を許され正式には山内家家臣の身分だったが、実質的には浪人と変わらない。何の実力も後ろ盾も無い龍馬の言動は当時の政局に殆ど影響力を持っていない。
 薩摩の西郷・小松帯刀・大久保らも龍馬が何をし何を言っているかにあまり関心が無い。当時西郷らは大政奉還直後に朝廷より命じられた島津久光(しまづ ひさみつ)の上京〔久光の病の為、実際に卒兵上京したのは藩主茂久(もちひさ)〕の準備にてんてこ舞いであり、龍馬などに関わりあっている暇が無い。
 史実の坂本龍馬とは異なる”架空の幕末スーパーアイドル坂本竜馬”が大活躍する司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』や其の焼き直しのテレビ・映画・萬画などの影響で、龍馬が浪人でありながら幕末の政局に大きな影響力を持っていたという事実誤認が広まり、其れが元となってこのような妙な論が出てくるわけだ。(”暗殺者のターゲットは中岡慎太郎だったという「巻き添え説」”は、龍馬は王政復古運動の中ではほぼ無名、要するに小物だったという事実を踏まえた説だ。)

 龍馬が名を知られるようになったのは、明治時代になってから高知『土陽新聞』の記者だった坂崎紫蘭(さかざき しらん)という人物が、龍馬を自由民権運動の先駆者と位置付け、最初の龍馬伝記小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』で大々的に売り出した後のことだ。”神戸の勝海舟の海軍塾で塾長だった”とか”新政府人事案に龍馬の名前は入っていなかった”とかいうウソ話を広めたのも坂崎紫瀾である。(NHK『龍馬伝』で、”坂本龍馬の話を聞かせてください”と言って岩崎弥太郎のもとに頻繁に押しかけていたアノ人。)

 この記事で取り上げられている現在京都伏見に存在する「寺田屋」は、龍馬が伏見奉行所の捕り方に襲われた「寺田屋」とは別の建物である。元々の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失した。明治になってから、道路側から見ると左隣に再建されたものである。
 経営している人物も元々の寺田家とは関係が無い。

>幕末の英雄だけに、作家たちもそれぞれに思いを巡らせ、いろいろな暗殺説が創り上げられたのかもしれない。

 その通りです。特に「作家たち」と明言している所が良いです、山田淳史記者さん。 

 

 以下、iZaより引用。 

--------------------引用開始 

死に向かう志士、寺田屋と近江屋 龍馬ゆかりの地を行く
2010/01/30 13:22更新
【龍馬ゆかりの地を行く】
 

 坂本龍馬ゆかりの宿として有名な寺田屋(京都市伏見区)は、焼板に格子窓をしつらえた伝統的な日本家屋のたたずまいだ。1階には、当時の女将だったお登勢の部屋、2階には龍馬が愛用していたとされる龍馬の部屋がいまも残る。

 龍馬はお登勢を「おかあ」と親しみ、後に妻となるお龍を養女にしてもらうなど、何かと世話になった。「お登勢は、志士たちの面倒見がよかったとされている し、龍馬も『お国みたい(高知と同じだ)』と手紙に記しており、とても寺田屋が気に入っていたのでしょう」と、霊山歴史館学芸課長の木村幸比古さんはいう。 

 薩長同盟締結後の慶應2(1866)年1月23日夜、龍馬は長府藩士の三吉慎蔵と寺田屋の2階にいた。1階ではお龍が入浴中だった。そのとき、幕吏50人が寺田屋を取り囲んだ。司馬遼太郎「竜馬がゆく」では次のように記されている。

 〈(捕吏。-)と思ったとたん、おりょうはそのままの姿で湯殿をとびだした。自分が裸でいる、などは考えもしなかった。裏階段から夢中で二階へあがり、奥の一室にとびこむや、「坂本様、三吉様、捕り方でございます」と、小さく、しかし鋭く叫んだ。竜馬はその言葉よりも、むしろおりょうの裸に驚いた。昂奮しているせいか、目にまばゆいほどに、桃色に息づいている。〉 

 寺田屋にはいまも裏階段が残る。お龍は愛する男のため必死になって駆け上ったに違いない。龍馬は、高杉晋作からもらったという短銃で幕吏数人を射殺した。自身も負傷はしたが、お龍のおかげでなんとか命拾いした。 

   ×    ×

  身に迫る危険を幾度も回避してきた龍馬だが、慶應3(1867)年11月15日、醤油(しょうゆ)商の近江屋で暗殺された。現在、河原町通り沿いの近江屋 跡地はコンビニエンスストアなどが入るビルになっており、ビル前には龍馬と中岡慎太郎が遭難した地であることを示す碑がひっそりと立っている。 

 龍馬の霊は京都霊山護國神社(同市東山区)に祀られ、墓前では手を合わせるファンの姿が見受けられる。 

 33歳で非業の死を遂げた龍馬。暗殺の背景については、これまで数々の検証が試みられてきたが、真相はいまだに解き明かされていない。 

 新選組隊士の鞘が近江屋に残されていたため、当初は新選組の犯行とみられていたが、明治時代、新選組隊士の証言から京都見廻組だったことが判明した。 

 その後、見廻組隊士だった今井信郎が、龍馬を襲撃した一人だったことを告白した。隊士8人で近江屋を襲撃したとみられ、京都市東山区の霊山歴史館には現在、龍馬を切ったとされる桂早之助の刀が展示されている。 

   ×    × 

 「暗殺の黒幕は見廻組の上部団体だった京都守護職の松平容保が有力ですが、徳川慶喜を新政府の盟主にしようとした龍馬の行為は許されないと考えた薩摩藩の陰謀説もあります」 

 幕末史に詳しい霊山歴史館学芸員の木村武仁さんは、こう指摘する。 

 黒幕をめぐっては、大政奉還の功労を独占しようとした「後藤象二郎陰謀説」や、暗殺者のターゲットは中岡慎太郎だったという「巻き添え説」といったさまざまな説がある。 

  「一般的に暗殺に関する史料は少ないものですが、龍馬暗殺の史料は40点にのぼって多く、記述もそれぞれ少しずつ違っているので混乱するほど。龍馬暗殺だけで1冊の本ができるぐらい」と、木村さんはいう。幕末の英雄だけに、作家たちもそれぞれに思いを巡らせ、いろいろな暗殺説が創り上げられたのかもしれない。

     ◇ 

 「龍馬とお龍」 龍馬とお龍の出会いの時期は諸説ある。龍馬は姉の乙女にあてた手紙の中で、「私しニにており候」(木村幸比古著『日本を今一度せんたくい たし申候』より)と、お龍が自分と同じ名前であることを紹介している。また、父・将作が病死して家が没落した後、悪者にだまされて女郎に売られた妹を、お龍が取り戻したことも手紙に記されており、姉にお龍を認めてもらおうとした思いが伝わってくる。(山田淳史)

引用終了--------------------

 

 


坂本龍馬は一登場人物でしかない。幕末維新史

2015年03月17日 23時22分33秒 | 幕末維新

 坂本龍馬は幕末維新史の一登場人物でしかない。

 平成22年11月5日放送のテレビ東京『この日本人がスゴイらしい。Brand New Japan』という番組で幕末をとりあげ、幕末に関心や関係がある著名人らに意見を聞き幕末の代表的人物上位5人を選出していた。

 1位:勝海舟
 2位:坂本龍馬
 3位:小栗上野介
 4位:吉田松陰
 5位:大久保利通

 奇妙な結果である。大久保を除く全員が「脇役」だ。
 幕末維新劇は、薩摩藩主島津斉彬が舞台・大道具・小道具・役者を用意し、ペリーが幕開けの太鼓を叩き、芝居を演じたのは主に島津久光・西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通ら薩摩藩の人間だ。

 勝・小栗・吉田など、それ以外の人物もそれぞれ重要な役割を果たしてはいるが、やはり脇役である。彼らの中に徳川の世を揺さぶり動かし変える思想・才覚・胆力と経済力・軍事力・政治力を併せ持った者はいない。それらを全て持っていたのはただ薩摩藩のみである。龍馬に至っては脇役と言えるかも疑問だ。一応セリフは有るという程度のただの一登場人物でしかない。

 主役だけではなく脇役にも注目するというのは大事なことだが、それが行過ぎて主役無視というのはおかしい。

 意見を聞いた人々に実は幕末維新の歴史に詳しくない人々が多く含まれていた為こういうおかしな結果になったのだろう。行動力は有り海舟や西郷・小松帯刀らの部下として忙しく走り回ってはいたものの、実は大勢に影響を与えるような仕事は殆どしていない坂本龍馬が2位に挙がっているのはその証拠だ。彼らの多くが、龍馬が薩長を結びつけたとか大政奉還を実現したとかいう、司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』等で世間に広まったフィクションを未だに信じているのだろう。

 第三者で薩長提携を最初に提唱したは福岡藩の加藤司書(かとう ししょ)・月形洗蔵(つきがた せんぞう)・早川勇(はやかわ いさみ)らであり、彼らに共感し周旋活動をしたのは中岡慎太郎・土方久元(ひじかた ひさもと)だ。
 だが、実際に成立した薩長和解提携は他ならぬ薩摩が構想し西郷隆盛が中心になって工作を進め実現したもので、当時薩摩の庇護下にあった龍馬は西郷・小松帯刀らの指示を受けて関与した。(龍馬が締結に立ち会った六箇条の薩長密約は、薩長和解提携が事実上成立した後に、その提携関係を前提として結ばれた約定だ。)

 大政奉還の提唱者は幕臣大久保一翁(おおくぼ いちおう)と福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)で、龍馬は彼らから学んだ受け売りの大政奉還策を後藤象二郎に提示しただけだ。大政奉還建白実現の為に土佐・薩長の関係者の間を奔走し調整したのは後藤である。その間龍馬は大政奉還に関して何もしていない。何を思ったか知らないが、徳川慶喜が大政奉還を決意したことが周囲の目にも明らかになったに、後藤宛てに“励ましのお便り”を書いている。

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即席B級『龍馬伝』便乗本か?榊原英資『龍馬伝説の虚実 勝者が書いた維新の歴史』

2015年03月17日 01時01分57秒 | 幕末維新

 経済学者榊原英資氏の『龍馬伝説の虚実 勝者が書いた維新の歴史』(朝日新聞出版刊)はNHK大河ドラマ『龍馬伝』に便乗した即席B級本、というのが私の印象だ。
 本屋で見かけ一部を立ち読みした後の単なる“印象”に過ぎない。念のため。 

 明治維新以後の日本のあり方に疑問を呈するのがこの本の主旨らしいが、立ち読みした部分だけでも基本的知識の欠落や不十分な理解に起因すると思われる奇妙な記述が目に付き、購入し真面目に通読する気は起きなかった。
 時間とお金が有り余っている方は暇つぶしに読んでもいいかもしれないが、決してお奨めは出来ない。

 龍馬殺害の“黒幕”に関するくだりで、榊原氏は“武力倒幕を目指す薩長にとって、大政奉還を建策した龍馬は憎んでも憎みきれない相手だったはずだ”という意味のことを書いている。
 榊原氏の幕末維新史に関する知識・理解は司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』に登場するフィクションと同程度のモノらしい。榊原氏は大政奉還の主役は龍馬だったと勘違いしている。
 大政奉還策自体は、榊原氏もちゃんと書いているように、もともと幕臣大久保一翁(おおくぼ いちおう)や福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)らが提唱したものだ。彼らからの受け売りの大政奉還策を龍馬は地元土佐が王政復古運動の先頭走者に跳び出す為の離れ技として後藤象二郎に提示したが、大政奉還実現に関して龍馬がやったことはそれだけだ。(何を思ったか知らないが、徳川慶喜が大政奉還を決意したことが周囲の目にも明らかになったに、後藤に“励ましのお便り”を書いただけである。)土佐藩や薩長の関係者の間を調整に奔走したのは後藤象二郎である。
 薩長が大政奉還に関して誰かを恨み殺害まで考えるなら、それは後藤象二郎である。大政奉還運動に関して殆ど何もしていない龍馬を殺す理由が無い。

 後藤は、大政奉還建白を前土佐藩主山内容堂に提出する前に、薩摩の小松帯刀・西郷らに相談している。はじめ反対されたので後藤は提出を延期したが、やがて“反対はしない”旨の同意を得たので建白書を出した。(所謂「武力倒幕派」と「大政奉還派」が方針を巡って鋭く対立していたという理解は誤りだ。もしそうだったなら、前述した後藤の行動はあり得ない。両派の関係を例えるなら、一本の「王政復古トンネル」を山の両側から掘っている二つの班のようなものだ。)
 仮に、薩長にとって土佐の大政奉還運動が関係者の殺害を考える程の大問題だったとしたなら、後藤が建白書を出す前に後藤その人を斬らねばならない。大政奉還が成った後に、関係が有ると言えば有るという程度の龍馬を斬っても全然意味が無い。

 榊原氏は、京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)の一員だった今井信郎(いまい のぶお)の龍馬殺害に関する自白について、“龍馬暗殺の黒幕と思われる西郷らが今井を言い含めて、彼ら京都見廻組が龍馬殺害犯であるというウソをでっち上げたのではないか”という旨のことも書いている。
 榊原氏は、明治30年代に今井の証言が広く世に知られるようになるまでは“龍馬殺害は新撰組の仕業”というのが龍馬殺害直後からの殆どの人々の認識であり通説だったという事実を知らないか、知っていてもしっかり頭に染み込んではいないようだ。
 今井にとっては不本意な形ながら龍馬殺害に関する彼の証言が世間に公表されるまでは、龍馬殺害に関する「
謎」や「ミステリー」は事実上存在していなかったと言ってよい。今井が京都見廻組による龍馬殺害を証言し、それに対して新撰組による殺害を固く信じる谷干城(たに たてき)らが「今井の売名行為だ」と反論したことによって、“龍馬を殺害したのは本当は誰なのか?”という「謎」「ミステリー」がこの世の中に本格的に誕生したのだ。
 榊原氏はそういう事実の流れを全く知らないか、或は理解していない。
 明治の初めに於いては“龍馬を斬ったのは新撰組”と殆どの人が思い込んでいるのだから、龍馬殺害の「黒幕」が西郷であるなら、彼はそれをそのまま維持強化すればよい。わざわざ別の「真犯人」をでっちあげ状況を混乱させる意味は無い。「寝た子を起こす」必要が何処に有るのか?

 今井が龍馬殺害への関与を自白した経緯についても榊原氏は知らないか、或は理解していない。
 函館戦争終結後に龍馬殺害の件について詮議を受けた元新撰組隊士が“新撰組ではなく京都見廻組によるもの”との証言をした為、今井が尋問を受けることになった。共に会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)の配下に在り京都見廻組と兄弟組織とも言える間柄だった新撰組には事件直後から見廻組が実行したという情報が伝わっていた。今井は元新撰組に証言されたのではシラを切り通すことは出来ないと思ったのだろう。彼は“確かに京都見廻組が実行したことだが自分は見張りをしていただけ”と、この時点では、証言した。京都見廻組が龍馬を殺害したということを今井が聞かれもしないのに自分からペラペラ喋ったのではない。この経緯に“西郷らのでっち上げ”が入り込む隙間は無い。それは知識不足あるいは理解不足からくる妄想の類でしかない。

 榊原氏は戸田雅楽(とだ うた)が作って龍馬や西郷に見せた新政府人事案『新官制擬定書』に触れているが、西郷・後藤らの名前は挙げているのに、何故かこの本の主役であるはずの坂本龍馬の名前については書いていない。『新官制擬定書』には「参議」として坂本の名もちゃんと挙がっているにも関わらずだ。
 “龍馬が『新官制擬定書』を作り、それに彼自身の名前が無いことを不審に思った西郷が理由を問うと、龍馬は「役人は嫌だ。世界の海援隊をやりたい」と答えた”という龍馬伝説「世界の海援隊伝説」は有名だが、これは後世の作り話だ。『新官制擬定書』はかつて三条実美の側に居て朝廷の役職に関する知識があった戸田雅楽が作ったもので、龍馬はそれに「参議」として名前が挙げられている。もちろん龍馬は承知だろう。西郷に『新官制擬定書』を見せたのも戸田である。
 榊原氏はもしかすると素人同然に架空のウソ話龍馬伝説「世界の海援隊伝説」を信じているのかもしれない。

 ほんの一部を読んだだけなのに、これだけおかしな点が見つかるというのは異常だ。

 “幕末維新史に関心も知識も無かった榊原氏が、『龍馬伝』による龍馬ブームに便乗した本を出せば売れると考え、慌てて関連書籍をかき集めそれらを参考に書き上げた即席B級ブーム便乗本”。私はそういう印象をもった。

 くどいが私は全体を通読していない。しっかり読んではいない人間の“ゲスの勘ぐり”であることをお断りしておく。

 


龍馬伝説「亀山社中設立伝説」はウソである。「亀山社中日本初商社伝説」もウソである

2015年03月17日 00時44分42秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬が「亀山社中」を設立した”という龍馬伝説「亀山社中設立伝説」はウソである。また“「亀山社中」が日本初の商社である”という龍馬伝説「亀山社中日本初商社伝説」もウソである。

 後世に「亀山社中」と呼ばれるようになった集団は薩摩藩家老 小松帯刀によって「設立」された。
 慶応元年(西暦1865年)五月に薩摩に滞在していた坂本龍馬ら土佐浪人一党のうち、坂本は他の浪人仲間より先に薩摩を発ち熊本・大宰府を経由して長州に入った。(薩摩と長州の和解連携は他ならぬ薩摩が構想し小松帯刀・西郷隆盛達が中心となって工作を進め実現したもので、薩摩の庇護下に入った坂本龍馬らは西郷・小松帯刀らの指示を受けてその工作に関わった。この時の坂本の行動も小松・西郷達の意を受けてのものである。“坂本龍馬が薩摩と長州の手を結ばせることを発案し、彼が仲介して気乗りしない両者を説得して実現した”という龍馬伝説「薩長連携発案仲介伝説」はウソである。
 龍馬出立後、彼を除く土佐浪人らを長崎へ連れて行き海運の仕事の道筋をつけてやったのは薩摩藩家老小松帯刀である。(龍馬らには操船技術はあっても船その物や海運業についての知識・人脈等は無い。それを持っていたのは薩摩である。)
 長崎に居なかった龍馬は「亀山社中」の「設立」には関わっていない。

 「設立」経緯などよりも重要な事だが、「亀山社中」は独立した会社・商社のようなものではない。
 正式な薩摩藩士ではないが薩摩に雇われ薩摩藩から給料をもらっている、現代の言葉で例えるなら臨時職員の集まりだ。勤務地が長崎で仕事が海運だったということだ。「亀山社中」には会社・商社と呼べるような実態は無く、“「亀山社中」が日本初の商社である”という説を唱えた当人が後にそれを撤回している。

 「亀山社中」という名称は後世になって創作されたもので、当時彼らは自分たちを単に「社中」と呼んでいた。現代なら「仲間」「グループ」という程度の意味の当時は普通に使われた一般的な言葉だ。独立した組織らしい名称が無かったので、便宜的にそういう呼び方が使われていたわけだ。秘密結社でもあるまいし世間様に対しちゃんとした名前を名乗らないというのは、彼ら「社中」が実は薩摩藩という組織の一部であり、当人達もそういう意識を持っていた証拠だ。

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坂本龍馬は詐欺師である。「龍馬いろは丸詐欺事件」

2015年03月16日 21時48分23秒 | 幕末維新

 坂本龍馬は紀州藩から3万両前後、現代なら15億円前後の金を騙し取っている。
 龍馬は立派な詐欺師である。

 「いろは丸沈没事件」 は有名だ。
 慶応3年(西暦1867年)4月23日、海援隊運用中の「いろは丸」と紀州藩軍艦明光丸が衝突し、いろは丸が大破、後に広島県宇治島沖で沈没した。龍馬はミニエー銃400丁等武器3万5630両や金塊など計4万7896両198文を積んでいたと主張し、紀州藩に8万3526両198文を弁償させる約束をさせ、後に減額して7万両を支払わせた。

 ところが、平成元年(西暦1989年)に「いろは丸」船体が海中で発見され、以後数次に渡って潜水調査が行われた結果、積荷には龍馬が主張したミニエー銃や金塊等は一切含まれていなかったことが判明した。
 
 鮫皮や水銀朱などが積まれていたのが確認されたが、その金額が武器金塊の「4万7896両198文」には到底及ばないのは明らかだ。実際の積荷の代金が幾らなのかはっきりとは判らないが多めに見積もってもせいぜい 数千両というところだろう。いろは丸船体の弁償額は7万両の約半分で残りが積荷代ということになるので、龍馬は3万両前後の金を紀州藩から騙し取ったことになる。

 この時期の1両は現代の5万円に相当するという或る研究者の見解があり、それに従って計算すると15億円前後の金を龍馬は詐取したわけだ。

 かなり以前にテレビ放送された歴史上の偉人有名人の人気度を視聴者投票で順位付けし発表するという内容のバラエティ番組で、タレント島田紳助氏が坂本龍馬について「嫌い」「商売人やんか」と語っていたのを覚えている。

 だが、まともな「商売人」は他人を騙して金を詐取したりしない。坂本龍馬は立派な「詐欺師」と言うべきだろう。






龍馬伝説「薩長連携発案仲介伝説」はウソである。

2015年03月16日 09時36分57秒 | 幕末維新

 “薩摩と長州が手を結ぶことを坂本龍馬が発案し、彼が薩長を仲介し気乗りしない両者を説き伏せて実現した”という龍馬伝説「薩長連携発案仲介伝説」はウソである。 

 彼が薩摩・長州の和解連携運動に関連したことや、慶応二年(西暦1866年)正月に京都で結ばれた薩長間の六箇条の密約の成立に貢献したのは事実だ。
 
だが、その薩長密約が結ばれる前年に事実上成立している、薩長密約の前提となる薩長の和解連携自体を龍馬が発案したという話には一切根拠は無い。  薩長の和解連携を第三者として最初に提唱したのは福岡は「筑前勤王党」の加藤司書(かとう ししょ)・月形洗蔵(つきがた せんぞう)・早川勇(はやかわ いさみ)らで、彼らに共鳴し運動を行ったのが土佐の中岡慎太郎(なかおか しんたろう)と土方久元(ひじかた ひさもと)両名と言われる。
 しかし、実際に成立した薩長の和解連携は他ならぬ薩摩藩が構想し西郷隆盛などを中心に工作を進めて成立したもので、当時薩摩の庇護下にあった龍馬は小松帯刀・西郷らの指示を受けて動いていた。
 幕末維新史に詳しい作家桐野作人氏のブログ『膏肓記』「龍馬伝30」より引用する。「龍馬伝30」はNHK大河ドラマ『龍馬伝』第30回「龍馬の秘策」に対する氏の感想を述べた文章である。文字強調は私メガリスによるものである。
----------------引用開始

薩摩藩は慶応元年前半、すでに対幕自立=割拠方針を藩論として定めており、その方針に沿って動き出していたのです。その要点は、藩政改革による軍事力強化、そのための封建商社育成構想、そして対外的には対長州接近策です。
近藤長次郎たちや龍馬が相次いで鹿児島入りし、近藤らは長崎に行き、長州の武器購入を斡旋したのも、龍馬が陸路から太宰府の五卿に会い、長州に行って木戸貫治(のち孝允)と会見したのも、薩摩藩の対長州接近方針に沿った動きでしょう。
すなわち、龍馬たちは薩摩藩の対外方針を実現すべく動いていたといえそうです。
長崎でのあれこれはどうもかったるいというか、歯がゆい動きですね。
龍馬の先見性と国事周旋力を際立たせるために、薩摩藩がまだ時勢に遅れており、薩長和解に踏みきれずにいるという演出になっていますが、実際は逆だと思うんですけどねえ。

引用終了----------------

 また、同ブログ「龍馬伝31」より引用する。同様に『龍馬伝』第31回「西郷はまだか」に関する文章であり、文字強調も私メガリスによるものである。

----------------引用開始

時系列が混乱しているのと、龍馬の居所がフィクションばかりなので、肝心の薩長和解の流れが寸断されて、よくわからないようになってますね。

その最大の要因は、龍馬やその仲間たちの鹿児島行きをスルーしてしまったことです。
それはかなり意図的な操作と思われ、薩摩藩が長州との和解に前年の元治元年暮れあたりからすでに乗り出したことつまり、龍馬の登場とは別のところで、すでに薩長和解が動き出していたことを意識的に無視し、薩長和解における龍馬の主導権を強調し、薩摩藩の迷いや逡巡を際立たせることにあるのでしょう。

龍馬は同年5月に鹿児島に行き、西郷の世話になっています。その後、薩摩を出国した龍馬が横井小楠、太宰府の三条実美ら、長州の桂小五郎に会ったのは単なる偶然ではなく、薩摩藩の意向を受けての行動だと推測するのが合理的です。

 

西郷はすでに前年の元治元年(1864)12月、豊前小倉で、中岡慎太郎とも会い、さらに筑前藩の月形洗蔵や早川養敬らの勧めで馬関海峡を渡り、下関で長州藩の諸隊長と会見しています。すでに薩長和解のレールは敷かれていたのです。
龍馬の役割はそれを促進したことであり、主導したわけではありません。
 

引用終了----------------

 “龍馬が薩長に手を組ませることを思いつき、彼が薩長を仲介して乗り気でない両者を説得し実現した”という「薩長連携発案仲介伝説」は司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』その他により世間に広まった、数多くのウソ話「龍馬伝説」の一つに過ぎない。

 正式発足後の神戸海軍操練所は浪人を受入れないことになり、龍馬は「塾頭」どころか一練習生にさえなれなかった。
“龍馬が神戸の勝海舟の海軍学校で塾頭だった”という「海軍学校塾頭伝説」も作り話である。『氷川清話』の中で勝海舟が「坂本龍馬が塾頭であった」と語っているが、仮に海舟が「塾頭」という言葉を使いこの通りに新聞記者に語ったとしても、これは文脈からして、勝のもとに集まった塾生達のリーダー格であったという程の意味だ。現代風に言うと生徒会長(あるいは番長)だったということだ。
 
『氷川清話』(勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫)より引用。
----------------引用開始
 塾生の中には、諸藩の浪人が多くて、薩摩のあばれものも沢山居たが、坂本龍馬がその塾頭であつた。当時のあばれもので、今は海軍の軍人になつて居るものがずいぶんあるョ。
引用終了----------------
現代で言う理事長・学長・教授を兼ねるような本当の意味での「塾頭」は、後に日本最初の鉄道建設に尽力し「鉄道の父」と呼ばれることになる佐藤与之助〔さとう よのすけ。後に政養(まさやす)〕である。

 行き場を失いつつあった龍馬ら土佐浪人一党が助けを求め、其れに応じたのが薩摩の西郷・小松帯刀だった。
 彼らに導かれて龍馬は慶応元年(西暦1865年)五月に半月ほど薩摩に滞在した。その薩摩滞在中に龍馬は西郷・小松らから薩長連携構想を明かされたと思われる

 その後、
小松帯刀が龍馬を除く土佐浪人一党を長崎に連れて行き、後世に「亀山社中」と呼ばれるようになった、現代の言葉で例えるなら“鹿児島県庁長崎支所勤務の臨時職員”の集団を作ったのも、彼らに薩長和解連携の為に働いてもらう為である。(念の為に繰り返すが、いわゆる「亀山社中」を作ったのは龍馬ではなく小松帯刀である。そもそも「亀山社中」成立時に坂本龍馬は長崎に居ない。“龍馬が「亀山社中」を作った”という「亀山社中設立伝説」もウソである。

 京都で出版された『その時、龍馬は、新撰組は 維新の胎動 幕末年表帖 京都観光便利帖3』(株式会社ユニプラン)という本がある。書名を見てもわかるように坂本龍馬の行動を重要視して書かれた本だが、その中にも龍馬の鹿児島滞在後の出来事として次のように記述されている。

 

(引用開始)

 5月16日 ■龍馬(31歳)、陸路長州を目指し、鹿児島を出立。西郷吉之助の配慮で、薩摩藩士児玉直右衛門、同行。西郷に薩長和解実現を指示されたのか?

(引用終了) 

 歴史的実在の坂本龍馬について勉強している本物の龍馬ファンは「薩長連携発案仲介伝説」に根拠は無いことをちゃんと知っているのだろう。
 平成20年度NHK大河ドラマ『篤姫』をご覧になった方は、第41回「薩長同盟」で、小松帯刀(瑛太)・西郷隆盛(小澤征悦)・大久保利通(原田泰造)・坂本龍馬(玉木宏)の4名が車座になり、小松が薩摩長州が手を結ぶ構想を語り始めるという場面があったのを記憶されているかと思う。薩長連携発案の史実に近い描写と言えるかもしれない。






龍馬伝説「世界の海援隊伝説」はウソである。

2015年03月15日 23時18分26秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬が作った新政府案に龍馬本人の名が無いことを西郷隆盛が指摘すると、坂本は「役人は嫌だ。世界の海援隊をやりたい」旨の発言をした”という有名な龍馬伝説「世界の海援隊伝説」はウソである。
 そもそも新政府案いわゆる『新官制擬定書』は坂本が作ったものではない。作ったのは当時坂本の近辺に居た戸田雅楽〔とだ うた。後の尾崎三良(おざき さぶろう)〕という人物だ。西郷に見せたのも戸田だ。龍馬ではない。戸田は以前三条実美に仕えていた人物で朝廷の組織官職に関する知識があったので其れを作成することが出来た。
 そして、その「擬定書」には「参議」として坂本の名がちゃんと挙がっている。無論、坂本は承知だろう。坂本本人の言動から判断しても彼が新政府に参加するつもりでいたのは間違いないと思われる。

 明治時代に龍馬の伝記『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』を刊行し彼を自由民権運動の先駆者に無理やり位置づけた坂崎紫蘭(さかざき しらん)という人物が『維新土佐勤王史』を執筆した際に、“龍馬の名前が後の明治政府高官たちと一緒に掲載されるのはマズイ”という判断から龍馬の名前を除外したのが間違いの大元だ。後に其れに「世界の海援隊」云々という話が付加された。

 幕末維新史に詳しい著名な歴史作家 桐野作人氏のブログ『膏盲記』「新官制擬定書」より引用する。NHK大河ドラマ「篤姫」第44回「龍馬死すとも」についての文章である。

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それと、龍馬の「新官制擬定書」についてです。
これも二重三重におかしいでしたね。

擬定書を龍馬が小松に見せておりましたが、2人にそんな時間はありませんでした。
それに擬定書を作成したのは龍馬ではなく、龍馬の側近だった戸田雅楽、のちの尾崎三良(さぶろう)です。
尾崎はそれを小松ではなく、西郷に見せに二本松の薩摩藩邸を訪れましたが、西郷は帰国の準備中で、会うことができませんでした。でも、西郷が尾崎に一緒に船に乗らないかと勧めてくれたので、一緒に帰っています(ただし、大宰府の三条実美に会うために下関あたりで下船)。
尾崎の回想によれば、船中で西郷に擬定書を提示したところ、西郷が面白いと答えたとのこと。小松に見せたとは書いていません。

まあ、西郷の代わりに小松に見せたくらいは許容範囲としましょう。
しかし、擬定書のなかに後藤と福岡孝弟の名前はありましたが、龍馬の名前がなかったのはおかしいですね。
そして、それに疑問を呈した小松(従来は西郷でしたが)に対して、龍馬が「世界の海援隊をやるきに」というお決まりのパターン。

これが『維新土佐勤王史』を編纂した坂崎紫瀾あたりがつくったフィクションであることは間違いないところでして。

じつは、擬定書は5種類くらいあります。それを厳密に史料批判した石井孝氏は、『尾崎三良自叙略伝』に収録されたのがもっとも古く、オリジナルに近いものだと結論を出しています(石井孝「船津功氏「『大政奉還』をめぐる政権構想の再検討」を読んで」 『歴史学研究』380号、1972年)。

では、尾崎の自叙伝にある擬定書に何と書いてあるかといえば、

内大臣 一人 (中略)暗に徳川慶喜を以て之に擬す。

参議 若干人 (中略)後藤、福岡、坂本等を以て之に擬す。

徳川慶喜の名前があるばかりか、龍馬の名前もちゃんと記載されています。

ところが、坂崎紫瀾は『維新土佐勤王史』を執筆した際、尾崎の自叙伝から写したと書きながら、意図的に龍馬の名前をはずしました。
それは、坂崎が龍馬の伝記『汗血千里駒』を刊行して、龍馬を自由民権運動の先駆者に位置づけてしまったため、反政府運動だった自由民権運動のなかで、龍馬の名前がのちの明治政府高官たちと一緒に掲載されるのはまずいという判断から、龍馬の名前を除外したと考えて間違いないと思います。

そのような作為がなされ、そこからさらに派生して「世界の海援隊」のエピソードが拵えられたわけです。
擬定書に名前があったら、「世界の海援隊」にとっては具合が悪いことになりますからね(笑)。

もういい加減、そうしたフィクションによる「龍馬伝説」の拡大再生産はやめにしたらどうでしょうかね。
史実の龍馬像からどんどん遠ざかるばかりだと思いますけど。史実の龍馬はそんなに魅力がないのでしょうか?

引用終了---------------------

 「史実の龍馬はそんなに魅力がない」と思われているのであろう。
 だから、“架空の幕末スーパーアイドル坂本龍馬”を金儲けのネタにしている「悪質龍馬業者」の連中は、坂本龍馬の真実の人となりや事績が世間に広まらないよう、必死に“「龍馬伝説」の拡大再生産”をやり続けているわけだ。

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龍馬伝説「平和主義者伝説」はウソである

2015年03月13日 23時48分33秒 | 幕末維新

 “坂本龍馬は平和主義者であり大政奉還を推し進めたのも内戦を避ける為である”という、NHK『篤姫』でも無批判に採り入れられ、『龍馬伝』でも踏襲された「平和主義者伝説」はウソである。

 坂本は状況によって所謂「武力倒幕派」と「大政奉還派」の間を右往左往している。(両者は連絡・相談をしながらそれぞれの仕事を進めている。土佐の大政奉還路線の主役だった後藤象二郎は大政奉還建白を提出する直前に西郷・小松帯刀らに相談している。両派の間に大きな溝が有ったわけではない。)彼が「平和主義者」だったらそんなことは有り得ない。

 幕末・近代の政治思想史の研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)より引用する。文字強調は私メガリスによる。

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龍馬は大政奉還側

 さて、いよいよ大政奉還の十月である。土佐主導で薩摩がしぶしぶ(或いは策略含みで)付き合っている大政奉還と、その大政奉還の「上表」と奇しくも同じ十月十四日になった薩摩・長州へのいわゆる「倒幕密勅」と。この二つの、からまりあいながらしかし峻別されるべき路線で、龍馬が大政奉還の側にいて、討幕密勅の側にいないことは明瞭である。

 平和主義者だというのではない。既に十分に指摘されていることだが、前述八月十四日付吉慎蔵宛書簡では、長州本藩・長府藩・薩摩藩・土佐藩の軍艦を集めて一組として幕府と戦うという構想が語られているし、九月二十日の木戸宛で土佐に鉄砲を運んで乾退助に引合と書くのも、土佐藩を可能な限り武力討幕路線に引寄せておこうというデモンストレーションである。

引用終了----------------------

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 しかし八月から九月と、土佐藩の大政奉還建白が平和路線に傾いていることが明瞭になったとき、木戸は龍馬に不満を呈した。龍馬は木戸に強く言われて、精一杯武力討幕路線に近寄ってみせる。この揺れが龍馬独特で、討幕一点張りでもなければ、絶対平和主義者でもない。後藤象二郎が土佐藩の大政奉還建白を京都まで持参したものの薩摩藩の反対で提出できなくて困っているとき、長崎から高知に鉄砲を運ぶ途中の龍馬は木戸に返事して、これから土佐に帰り乾退助(板垣退助=武力討幕派)と相談の上、京都に出て後藤を引込めるとまで書いたのである。 

  龍馬が武力討幕派だという面を最も強調したのは、故飛鳥井雅道の『坂本龍馬』(一九七五年・平凡社)だった。苦心の力作だが、討幕派寄りになったところばかりを拾いすぎた憾みがある。龍馬が高知を経て上京したときには、既に土佐藩の大政奉還建白は在京薩摩藩代表の了解を得て提出済みとなっていた。龍馬は後藤象二郎ともども、ただただ土佐の建白が受け入れられることを願うのみだったのである。 

引用終了---------------------- 

  大体、「平和主義者」がピストルなんか持ち歩き、奉行所捕り方を二人も射殺したりするわけがない。 

  坂本が土佐の大政奉還路線のきっかけを作ったのは、王政復古運動において薩長に遅れをとった郷里土佐藩を大政奉還建白という離れ技で一気に先頭走者に押し出すのが狙いだった。また、王政復古後の新体制の実をあげる為には徳川幕府による支配を形式のみではなく実質的に完全に解体すべしと考えた薩長と違って、坂本は徳川氏・土佐山内氏ら旧幕府勢力を温存することも可と考えていたので、その為でもあった。 

  司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』で、司馬は”坂本竜馬は既に土佐人ではなく幕末の日本で唯一人の「日本人」だった”という意味のことを書いている。これは空想歴史小説の主人公=坂本”竜”馬の話であって、実在の「坂本”龍”馬」とは関係無い。実在の龍馬は死ぬまで土佐人としての意識を強く持っていたと思われる。 

  後藤象二郎と共に土佐を海から援ける為の「土佐海援隊」を作り活動したのはその証左と言える。(「土佐海援隊」から「土佐」を意図的に省き単に「海援隊」と呼ばれることが多いのは、司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』の中で生まれた「当代唯一日本人伝説」がウソであることが広まると困る連中、即ち”架空の幕末スーパーアイドル坂本龍馬”を金儲けのネタにしている「悪質龍馬業者」が多いからだろう。) 

 幕藩体制を終わらせ王政復古を実現し天皇を中心に堅く纏まった新日本を建設することを目指した幕末維新の志士達のなかでは、坂本はむしろ保守的な部類の人間と言えるかもしれない。