楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

ネガから入る討論とポジから入る討論

2007-02-07 06:31:53 | 科学
通りすがりの研究者からコメントいただいた。
私も全く賛成。日本は討論の訓練がないので、アメリカなどでの多くの議論の仕方と様相が180度異なる。
前にもどこかに記した気がするのだが、改めて。
今日は終日、修士論文の発表会でもあり、きっとまた繰り返されると思うので。
日本の討論形式は、ネガから入るのがほとんどである。
すなわち、
『そこのところ、あなたはこういったが、おかしいのではないか?」
とか、
『そこの何々は、私は反対である!』
とか、とにかく否定から入るのがほとんど。
そのことによって、発表者の側に緊張が走り、瞬間反発で、時には「炎上」騒ぎのごとく激論となる。
発表者の側には、<いやな奴>との後味の悪い印象が残り、尾を引く。
公衆の面前で頭から否定されるとプライドが傷つけられ、長く遺恨が残るものである。
十分に反論できない場合はなおさらである。
後からこっそりと「いや実は面白いと思っているのだがね」などと慰められてもその傷は簡単には消えない。
遺恨が残る。そしてその恨みがまた同じ形で繰り返される。「出る杭は打つ、打たれる」の連鎖は解けない。


それに対し、アメリカでは、
「そこはすばらしいと思う!」
とか、
「そこはおもしろい!」
とかまずポジから入る。
そうすると発表者の心はほぐれ、いい雰囲気になる。
そして、その後に、にわかに、
「ところで、質問なのだがーー」
と本題に入る。
発表者のこころは開かれているので、冷静沈着に答えることができたり、素直に
「そこは確かにまだ問題があります」
などと冷静で論理的ないいやりとりが成立する。
そして講演が終わったあと、知り合いやその質問者などは必ず、「Good job!」とか「Good talk」とか「quite interesting!」
とか褒め言葉で近づいて来て討論が深まる。
私はそのような場面に遭遇すると、
<なんとうまいやり取りか、このやりとりでは遺恨は残らず、むしろそこに新しい人間関係が生まれるね>
といつも思う。
徹底した競争社会の中で最も強いのは共同である、というパラドックスがあるのであると思う。
アメリカ社会は激烈な競争社会であるから、皆そのことが身にしみている。
個性を全面に押し出し、互いに尊重し、かつそのことによって共同する社会の1つの姿であろう。
日本のような「横並びこそ美」である価値観の社会では難しいのかもしれない。
しかし、サイエンスは個性なくして突き抜けられない。
討論のあり方1つから、変えていくことが重要だとつくづく思う。

おもしろいのはフランス。そこは意外とネガから入る人が多いね。というのが印象である。
私はアメリカ人だフランス人だとレッテルを張るのは大嫌いであるが、あくまでも数少ない経験の一こま。

さてさて、今日の発表会はどうかな?
この場は学会発表ではなく教育の場。そのような場ではなおさらのように、そのような配慮が必要である、と思うのだが、
多くの人はいつものように「ネガ入り」かな?
「ネガ入り」「ポジ入り」の統計でもとってみようかな?

私はいつもあえて意識して、聞きながら「新しいところはどこだ?いいところどこだ?」を探すようにしているのだがーー。



コメント (3)
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