今週やっと授業が終わった。6月と7月は週4回。それぞれ90分なので、へろへろである。学生の側は眠たければねて、休みたければ休む。遅刻するのも権利。しかし、教える側はそうはいかない。若い時はへっちゃらであったが、年をとると実にしんどい。まして、事前にパワーポイントの準備やらプリントの準備やら、そもそも講義内容の準備やらでたいへんだ。昨日夜、アメリカ人と話をしていて、「ひゃー、週2回もやったら他に何も出来ない!ティーチングアシスタントはいないの?」と聞かれた。
アメリカでは基礎的な講義はもっぱら教育専門教員と院生をティーチングアシスタントとして雇って教育をする。そして研究のための時間を作り出す。日本は管理業務を含めて何から何まで平等。そして、研究の成果だけを求めるし、評価の対象はそれだけ。これっていいようで悪平等。できるわけないじゃん!と思う。全てをやろうとすると睡眠時間を削るしかなくなる。そして、本来は楽しいはずの研究も義務感でするようになる。こんな状態で創造的研究なんかでるわけないじゃん、と思う。大量の紙くず論文を書くことがだけ評価の対象だなんて、絶対におかしいぞ!書かねばどうしようもないけれどね。それは、やった!と心から沸き上がる満足のいくもんであることが理想。文筆家や音楽家だって一緒だね。粗製濫造は滅びる。
来週はまたサンフランシスコで会議だ。
アメリカでは基礎的な講義はもっぱら教育専門教員と院生をティーチングアシスタントとして雇って教育をする。そして研究のための時間を作り出す。日本は管理業務を含めて何から何まで平等。そして、研究の成果だけを求めるし、評価の対象はそれだけ。これっていいようで悪平等。できるわけないじゃん!と思う。全てをやろうとすると睡眠時間を削るしかなくなる。そして、本来は楽しいはずの研究も義務感でするようになる。こんな状態で創造的研究なんかでるわけないじゃん、と思う。大量の紙くず論文を書くことがだけ評価の対象だなんて、絶対におかしいぞ!書かねばどうしようもないけれどね。それは、やった!と心から沸き上がる満足のいくもんであることが理想。文筆家や音楽家だって一緒だね。粗製濫造は滅びる。
来週はまたサンフランシスコで会議だ。