楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

もう秋 (お題)

2006-09-03 01:31:36 | 自然
 今日の帰り道、いつものように駅から自転車に乗ってイトーヨーカドーの脇を通った。鈴虫の大合唱に「おお!もう秋だ!」と感じた。見上げるとちょっと前に満開だった藤棚には実がぶら下がっている。その中で鈴虫が合唱している。大都会では季節感がなく哀しい。でも、こういう一角があるとほっとするね。

 秋は歌が似合う。「今は~もう秋、誰もいない海~~」、「小さい秋小さい秋~見つけた」とか「秋桜(コスモス)が~」とか、感傷にひたって歌いたい気分になるね。私は晩秋の田舎の広大な田んぼの稲刈りの後、もみの焼く匂いが大好きだった。

 そうだ!この感傷こそ、昨日わけの分からなかったマルクスの「人間とは自然の有機体」という意味だ!有機体とは生きているものという意味。自然なしに生き物としての人間は生きられない。抵抗できない自然の大いなる懐の中の一部ということだね!きっと。
 それに対し「自然とは人間の非有機的身体」とは、大都会の風景のことだ、自然の一部のみを科学と技術によって切り取り加工する相手としての死んだ(非有機体)自然。しかし、それだけでは人間は生きられない。自然の中の大いなる一員のはずの人間が「疎外」されている姿なのだ。マルクスは、切り出された石と人工物に囲まれたヨーロッパのあの狭苦しい都会と、大規模に発展する産業革命で、ぼろぼろに人間がないがしろにされていく中に「疎外」を見たのだねきっと。そして、ドイツの都会の周りには広大な森があり、そこにはどうしようもない自然の一部としての人間がいる。確かにこの関係は「人間と自然との関係はどうなってんの」を科学する環境科学の基本課題そのものだね。でもマルクスの時代は、ニュートン力学の勝利以来、「科学は神を超えた」として最も科学が権威を持っていた、人類史の中での科学傲慢の時であったね。しかし、そこでは人間が自然からはじき出される「疎外」が悲劇的でさえあった。だからマルクスは運動に走った。科学がそれを解決するには、実はあまりにも未成熟であった。でも今では科学が(すなわち人間が)知っていることより、知らないことの方が遥かに多いことを「ちょっと」自覚している。
 90年代以降の環境科学はその最たるものだね。世界に、日本にこの名を冠した大学の教室は山のように出来た。ただ、まだ統一された学問としての体系は全然ないね。マルクスの時代より人間はちょっと賢くなっていると思いたいけれ、まだまだだね。
 「環境科学とはなんぞや?」
秋の話題から、とんでもないところまで引っぱってしまった。初秋の土曜日の深夜。
さ~、来週から忙しいぞ!
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