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牛肉じわり高騰、20年間で最高値 牛の「少子化」で?
2016年3月25日19時05分
牛肉がじわじわ値上がりしている。子牛の数が減る「少子化」が原因らしい。何が起きているのか。
東京・豊洲の食品スーパー「たつみチェーン」は今冬、牛肉全般を約1割、100グラムあたり平均50円値上げし、今もそのままだ。店を訪れた女性会社員(36)は「牛肉を買うのをやめて、安い豚や鶏を買う回数が増えた」と話す。
農畜産業振興機構によると、今年2月の国産和牛100グラムあたりの小売価格は、肩肉が797円。前年同期より2割近く高く、この20年間で最高値をつけた。豪州産も前年同期より1~2割高くなっている。
肉牛農家は子牛を増やす「繁殖農家」と、繁殖農家から競りで買った子牛を育てる「肥育農家」に分かれる。子牛と大人の牛では、えさや飼い方が違うためだ。このうち、繁殖農家の減り方が深刻で、昨年は約4万7200戸と、10年前よりも約38%も減った。
肥育農家が100頭以上を飼う大きな農家が多いのに対し、繁殖農家は主に10頭前後を飼う小さな農家が米などをつくりながら手がけている。北海道や東北、九州に繁殖農家は多いが、後継者不足と高齢化が著しく全国的に離農が進んでいる。ほとんど休みがないことや、出産時期には夜通し見回りをすることもあり、体力がなくなると続けられなくなるためだ。
さらに追い打ちをかけたのが口蹄疫(こうていえき)と東日本大震災だ。子牛の一大産地の宮崎県で2010年に口蹄疫が発生。多くの母牛が処分され、繁殖をやめる農家が相次いだ。松阪牛や近江牛といったブランド牛は、宮崎県の子牛を購入し大きく育てて出荷する場合もあり、影響は各地に広がった。
東日本大震災でも、エサとなる稲ワラの放射性物質による汚染や風評被害などで子牛価格が下がったことから繁殖を諦める人が増え、子牛の供給基盤が細っている。
昨年度に取引された子牛は約33万4千頭で口蹄疫や震災の影響を受ける前の09年度より14%減った。子牛の価格も高騰し、今年2月の黒毛和牛の競り価格は、75万9千円。約20年間で最高を記録し、45カ月連続で前年を上回る。高齢化した繁殖農家の中には高く売れるうちに子牛を売って廃業するケースもあるという。
繁殖農家だけでなく、高い子牛を買い取らなければならない肥育農家の経営も厳しさを増す。
肉用牛の飼育頭数が全国3位の宮崎県。県中部にある新富町の児湯(こゆ)地域家畜市場で昨秋にあった子牛の競りでは、買い付けに来た農家のため息が漏れた。
「信じられない高さだ」
子牛を見つめる宮崎県西都市の肥育農家黒木輝也さん(68)は、60万円台で10頭買う予定だったが、この日競り落とせたのは2頭だけで、ともに70万円を超えた。1頭あたりの平均価格は前年同期より10万円以上高かった。今年3月は1頭あたり平均82万6千円となり過去最高値となった。
子牛のエサとなる飼料の価格も円安で高止まりし、昨年12月の1トンあたりの平均価格は約6万6千円。10年前より5割高い。生産コストが上がる割には、肉牛の販売価格に転嫁できず、黒木さんは「採算割れに陥りかねない」と話す。
環太平洋経済連携協定(TPP)も心配の種だ。日本への牛肉の輸入関税は現在の38・5%から発効16年目までに9%まで下げられる。黒木さんは「価格競争が激しくなれば肥育農家は一層苦しくなる。農家を続けられるか先行きが見通せない」と心配する。(渡辺洋介)
「君が代」が今まで滅びず生き延びてきた理由 「消極的な肯定」という言葉に尽きる
全国の学校で開かれる卒業式がピークを迎えている。来月には各地で入学式も開かれる。この時期、改めて意識されるのがそこで歌われる国歌「君が代」だ。「君が代」は、明治期初期、英国王子の来日で急遽、国歌が必要になったために慌ただしく誕生したものだといわれている。それ以来、歌詞の解釈はじめ、「君が代」をめぐる議論は現在まで絶えることなく続いている。近現代史研究家の辻田真佐憲氏の『ふしぎな君が代』(幻冬舎新書)から記事を抜粋しつつ、「君が代」をめぐる国民の態度を振り返りたい。
戦後の日本人の「君が代」に対する態度は、「消極的な肯定」という言葉に尽きる。
日本人の多くは「君が代」を積極的に人前で歌ったりしないし、歌詞の意味もよく理解していない。しかし、だからといってこれを別の国歌に変えるつもりはないし、質問されれば「いい歌じゃないですか」「これが国歌でいいんじゃないですか」と答える。学校行事やスポーツの試合で、斉唱・演奏されても「まあ、こんなものか」と思って受け入れ、次の日には忘れてしまう。
「君が代」に関しては、とかく絶対肯定と絶対否定という両極端の意見が目立ちがちだ。だが、日本人の多くは両者の対立を冷ややかに眺めているのではないだろうか。
そんな「君が代」に対する態度は、1960年代前半の各種の世論調査からも見て取れる。この時期は、1964(昭和39)年の東京オリンピックの開催を控え、元号、国旗、国歌など国の公式制度に対する関心が高まっていた。政府機関がこれらの法制化を検討したこともあり、「君が代」をめぐっても盛んに調査が行われたのである。
最初に、1961(昭和36)年6月、内閣官房広報室によって行われた「青少年に関する世論調査」の結果から見てみよう。対象は満16歳から19歳までの未婚の男女3000人。つまり、戦後に教育を受けた世代ということになる。
「君が代」に関する質問事項は次のとおり。まず、「『君が代を聞くと、身が引きしまって頭が下がるような気持がする』という人がいますが、あなたもそのような気持ちがしますか、それとも、別にそのような気持ちはしませんか」という質問。これに対し、実に71%の人々が「別にそのような気持はしない・不明」と回答した。「君が代」はもはや神聖なシンボルと見なされなくなっていたようだ。
もっとも、そんな彼らも「君が代」を批判しようという意識は乏しかった。先に「別にそのような気持ちはしない・不明」を選択した人々を対象にした「また『君が代の歌を聞くと、時代に逆行するような感じがしていやだ』という人がいますが、あなたもそのような感じがしますか、それとも、別にそのような感じはしませんか。」という質問には、61%が「別にそのような感じはしない」と回答している。積極的に肯定はしないが、だからといって否定もしない。そんな「君が代」に対する「消極的な肯定」の態度が見て取れる。
同年11月には、同じく内閣官房広報室によって、満20歳以上の男女1万人を対象にした「公式制度に関する世論調査」も行われた。ここでは、戦前育ちの世代が多いこともあってか、「君が代」に対する感情では、「尊敬または愛着」が59%でトップになった。ただし、「反感」は1%にとどまったものの、「特別な感情なし」は36%もあり、「君が代」に対する無関心も相当あったことがわかる。
「君が代」の良し悪しについては、やはり肯定的な「(単に)いい歌だ」が68%でトップ。これに無関心な「別になんとも思わない・不明」が23%で続いた。否定的な、「(単に)よくない」(2%)、「節はいいが文句がよくない」(5%)、「文句はいいが節はよくない」(1%)などの立場は、軒並み低い結果に終わった。
さらに、「君が代」が国歌のままでよいかという問いについては、「賛成」が79%。これに「賛成」と答えた者の71%は、学校の式などでの斉唱の可否にも「賛成」と回答。以上の結果を見る限り、少なくとも「君が代」絶対否定派が少数にとどまったことは間違いないといえる。
次に、翌1962(昭和37)年12月に行われた「朝日新聞」による世論調査を見てみよう。この調査は、戦後の日本人が「君が代」を肯定しつつも、それが消極的なものにとどまったということを端的に教えてくれる。
「朝日新聞」の調査でもやはり「君が代」に対する肯定感は強く、85%が「君が代」を「よい歌」と答え、81%が「国歌のままでよい」とし、新しい歌に変えるべきだという意見には79%の人が「反対」と答えた。
ところが、そんな「君が代」に肯定的な人々も「歌詞はどういう意味か」という問いには、戸惑いを見せている。
「国家が長く栄えるように」との歌……22%
「天皇をたたえる」歌……………………15%
「天皇と国家、国民をたたえる」歌………8%
はっきりわからない…………………………8%
考えたことがない……………………………4%
その他とわからない………………………39%
「その他」を含むものの、無関心や不明との回答は全体で半数以上にも達している。当時はまだ戦前の教育や式典を体験した人が多かったにもかかわらず、この結果には驚かされる。国民の多くは、「君が代」に対して「意味はよくわからないが、これでいい」という態度を取っていたらしい。
このような「君が代」に対する消極的な肯定は、多少の数字の変動はあるものの、戦後の調査では一貫して見られる。なるほど「君が代」は法律によって国歌と定められていたわけではなかった。戦後の日本は民主国家なので、事実上の国歌に収まるためには国民の支持や同意も必要だろう。ただ以上の数字を見る限り、戦後の日本でも「君が代」は事実上の国歌として通用し続けていたのではないかと思われる。政府も長らく慣習としてそのように扱ってきた。
ところで、このように歌詞の意味が混乱したのは、「君が代」の由来にもよるだろう。第一章でも述べたように、もともと「君が代」は「題しらず」「読人しらず」の古歌だった。戦前期の日本では「天皇讃歌」と解釈され、国歌として教えられていたものの、敗戦によってその解釈が宙に浮き、意味がよくわからない状態に陥ってしまった。
ただし、それには「君が代」の存続にプラスの面もあった。というのも、オリジナルの意味がわからず、所詮すべてが解釈にすぎないとすれば、「君が代」は天皇絶対の歌でも、軍国主義の歌でもないと主張することができたからである。1950(昭和25)年に天野貞祐によって「君」が「象徴天皇」と解釈されたことはすでに紹介したとおりだ。
もうひとつの「軍国主義」についても、「いや、もともとは平和的な歌だった」という反論がこの時代には現れてきた。例えば、1963(昭和38)年2月9日「読売新聞」には、次のような富山県の中学教師の意見が載っている。
また戦争中にうたわれた歌として反対する人は、他国の国歌の歌詞をご存知ないからである。アメリカ、ソ連、フランス、中国、イタリアなどいずれも「戦いののろしの旗」「血と肉をもってきずかん」「銃と剣」「たて、たて」など血のにおいのする歌詞である。わが国歌ほど平和で人々の真心をすなおにし、しかも永遠性を願っている歌はない。
「君が代」は民主国家・平和国家という理念と矛盾しない。こうした「君が代」の再解釈は、現在の日本では広く普及している。憲法が根本から改まり、歌詞に対する批判も多いにもかかわらず、「君が代」が生き延びることができたのも、このような様々な解釈が可能だったからに他ならない。
ただ、「意味はよくわからないが、これでいい」という国民の態度は、「君が代」の存続を可能にはしたが、一部の人たちの間で「これが本当に国歌でよいのか」という論争を引き起こす結果となった。それは戦後の激動期を「君が代」が生き延びた副産物だったといえる。