認知症になると、何もわからなくなる。そう思われてきたが、認識は変わりつつある。認知症の人たちが自らの思いを国や自治体に届ける動きが出てきた。その声を聞いて街づくりに生かそうとする取り組みも始まっている。

 認知症の人たちが中心メンバーの「日本認知症ワーキンググループ」は2月、「認知症の本人からの提案」を公表し、厚生労働省などに提出した。「認知症の施策や取り組みを企画する過程で、私たちの声や力を活(い)かして下さい。私たちと一緒に進めていきましょう」と自治体に要望するなどしている。

 同グループは一昨年に11人で発足。設立会見で共同代表の一人は「『何もわからない人、できない人』と見られる。自分たちの声で変えたい」と語った。

 ログイン前の続き積極的に認知症の人の声を採り入れようとしている自治体に京都府宇治市がある。昨年3月、「認知症の人にやさしいまち・うじ」を宣言した。「認知症の人が自ら語り、心豊かに暮らしている姿は、わたしたちの未来を明るく照らす道標になります」とうたい、実現に向けて認知症の人や家族の声を政策に反映させるという。

 市はこれまでも、認知症の人の支援に力を入れてきたが、認知症の人が医療・介護サービスの利用者や患者である前に、同じ町に暮らす生活者だ、という視点が欠けていたと気づいた。

 まず、認知症の本人と家族の思いを知るため、冊子「旅のしおり」を作った。診断されてからの日々を旅に見立て、本人らの文章を紹介。「この先何をしていいのか? どうして生きていくのか? わからなくて、つらかった」「認知症になっても、元気で楽しく生活していることを同じ病気の人に知らせたい」などを載せた。

 医療・介護の分野だけでなく、周りの住民らが同行して外出や買い物をしやすくするなど、生活全般に目配りするのも取り組みの特徴だ。今月1日には、小売店や金融機関、タクシー会社など8社が会議に参加し、認知症の人に話を聞いた。21日の市の認知症フォーラムでは、案内役を店に置くことなどが提案された。市は地場産業である宇治茶の手摘みを、認知症の人に担ってもらう可能性も探っている。

 こうした市の動きに、2年前にアルツハイマー病と診断された同市の中西美幸さん(63)も、夫の俊夫さん(63)と協力してきた。美幸さんは「もっとおしゃべりしたい」。街に毎日通える認知症カフェができることを望む。利用するのではなく、「ウェートレスをするんや」と夢見ている。

 府立洛南病院がデイケアの一環として始めたテニス教室に夫妻で通うのが楽しみだ。ここで仲間と出会い、花見や紅葉狩りなどにも出かけるようになり、美幸さんに笑顔が増えた。

鳥取市藤田和子さん(54)

 「日本認知症ワーキンググループ」の共同代表を発足当初から務める。

 アルツハイマー病と診断されたのは2007年。その後、看護師の仕事をやめた。認知症の人を一人の人間として受け入れる社会になるよう活動したいと思い、「若年性認知症問題にとりくむ会」を仲間と立ち上げた。それがワーキンググループへとつながった。

 役割があってうれしい半面、今の状況については「黒っぽい、灰色の世界にいる。日中自宅に1人でいると、ものすごく長い間、1人でいると感じる」と説明する。周りの人には「遠慮せずに本人のところに行き、一緒に楽しいことができないか考えて、働きかけてほしい」という。

 「きょうは友達がくる。明日は一緒に買い物に行く……。希望のある目標があれば、気持ちを奮い立たせて、元気でいよう、家を片付けようと思える」

■京都・八幡市 山中宗一さん(78)

 退職後に一緒に地域活動や旅行を楽しんできた妻が3年前に亡くなった。その後、ごみの日を間違えたり、庭にまいた水の蛇口を閉め忘れたり。会話の内容が記憶に残らないと自覚するようになり、昨年10月に診察を受けると、認知症だった。「光が消えた気持ちになった。神様、私が何か悪いことをしましたかと」

 年明けから、大阪府枚方市にあるデイサービス「デイサロンあさひ」に通い始めた。音楽の時間は、音楽療法士らスタッフがピアノやフルート、ギターを奏でる。それに合わせてほかの利用者と歌い、ハーモニカで合奏もする。合唱団歴は30年。今もテノールの高い音が出せる。

 「ここに来ると、本格的なクラシックの曲に、大好きなヨハン・シュトラウスやシューマンにも、会えるんです。病気になっても、希望はあると伝えたい」

■静岡・富士宮市 佐野光孝さん(67)

 営業マンだった58歳のとき、認知症と診断された。落ち込んだが、観光案内所のボランティアなどをきっかけに、少しずつ認知症を受け入れた。悩んでいる人の参考になればと各地で講演し、「認知症になってもできることはたくさんある」と伝えてきた。妻・明美さん(63)との講演は80回を超えた。

 いま一番の楽しみは週2回、近くの福祉会館で卓球をし、スマッシュを決めることだ。週3回は介護用品をつくる地元の工房で働く。認知症になって再開したギターの練習も日課だ。「自分が好きなことやるのが一番いいだよ」

 今月6日に開かれた全日本認知症ソフトボール大会には、地元チームの4番で出場した。周りから「がんばって」「かっこよかった」と声がかかった。明美さんに普段から言っている。「人と会うのがいい。たくさんの人と話したい」

宇都宮市・福本知恵子さん(75)

 約10年間介護した認知症の夫を昨年末に亡くした。その直後、自分も認知症と診断された。

 車の運転ができなくなり、夫と一緒に通っていた認知症の家族会に行くのが大変になったが、メンバーが送り迎えすると言ってくれている。

 「車をこすったり、エアコンを消し忘れたり、おかしいなと思うことはあったから、早くわかってよかったわ。認知症だった夫の気持ちが今になってわかる気がするの」

 日々の暮らしは変わらない。毎朝5時すぎに起きてラジオ体操をする。3度の食事の用意、掃除に洗濯、買い物、庭の草むしり。玄関に花を生け、奉仕活動にも参加する。「前進あるのみ。くよくよしても仕方がないからね。私は私なりに、明るく生きていくのが一番いいと思っています」

東京・町田市 鈴木克彦さん(82)

 長くデザイン関係の仕事をしてきた。1年前に認知症と診断された後も、外出時はメモ帳を何冊も持ち歩き、頭に浮かんだ言葉を書き留める。メモ帳は自分で紙を切ってテープを貼って作った。表紙に「忘れないうちに新鮮なうちに記入」「まあ後でいいや。は忘れてしまう」などと自身に向けた言葉が並ぶ。

 かつて同人誌に詩やエッセーを執筆していたこともある。「いまも小説を書きたい気持ちがあります。できるかどうかわからないけど。何か書いていないとダメなんです」。仕事で使っていた「すずき」という自分の名前入りの原稿用紙をずっと愛用している。

 思い描くテーマの一つは鈴木さんが20代のときに亡くなった母のことだ。「認知症になった後の自分のことも書いてみたい。みなさん心配するけど、ごくごく普通に生きていられます」

 

北海道恵庭市 波多野和さん(91)

 認知症の人と走り、日本を縦断するイベント「RUN伴(ランとも)」のプロモーション動画に出演している。撮影から約4カ月後の今月半ば、グループホーム長の寺沢道恵さん(41)がスマホで再生し、「覚えてる?」と尋ねると、「みんな忘れてる」と笑った。

 80代半ばまで、今は亡き夫が営む紳士服店を手伝い、その後に妄想などが出始めた。「認知症を恥ずかしいとは思わない。代わりにみっちゃん(寺沢さん)が思い出してくれるから安心。ここでご飯の支度して、お店に買い物に行って。それが一番楽しいね」

 「ランとも」は、NPO法人「認知症フレンドシップクラブ」が開催する。昨年は650人余の認知症の人が参加した。今年は6月に北海道を出発し、沖縄までたすきをつなぐ。寺沢さんに初参加を促され、「うれしいこと言ってくれるね。まだなんでもできる。走れる!」。