なおじい(HOBBY:カメラ・ビデオ撮影・DVDオーサリング/資格:ラジオ体操指導員・防災士・応急手当普及員)

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雅子さま 警備費も光熱費も削減!令和の“職住一体”新生活

2019年04月12日 18時30分53秒 | 皇室ニュース

雅子さま 警備費も光熱費も削減!令和の“職住一体”新生活

 

(C)JMPA

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4月10日にご成婚60周年を迎えられた天皇皇后両陛下。

「夜には、皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻、黒田清子さん夫妻と、食卓を囲まれましたが、昭和・平成の思い出話をされるとともに、きたる令和の御代についても語り合われたのではないでしょうか」(皇室担当記者)

平成が幕を閉じようとするなか、刻々と迫ってきている新天皇のご即位。5月1日の「剣璽等承継の儀」の後に行われる「即位後朝見の儀」で、雅子さまは新天皇とごいっしょに“新皇后”としてお出ましになるのだ。皇太子さまと雅子さまが静かに温め続けられている“令和スタイル”。その一端が、新元号が発表された日に明らかにされた。

「4月1日に産経新聞が、従来は皇居・宮殿で行っていたご公務の一部を、新天皇と新皇后は、お住まい(現在の東宮御所、5月1日以降は赤坂御所と改称)で実施する方向であることを報じています」(皇室担当記者)

皇居・宮殿が公的施設であるのに対し、天皇皇后両陛下の私邸といえるのが御所。両陛下が高輪皇族邸に移られた後に、御所は改装され、皇太子ご夫妻が入られるのは’20年春を予定されているという。皇太子ご夫妻は、それまで赤坂御所(現在の東宮御所)
 

本当は世界一"日本フレンチ"の実力と課題

2019年04月12日 17時00分41秒 | 食・レシピ

本当は世界一"日本フレンチ"の実力と課題

 
 
2019/04/12 15:15
メゾン・ド・タカ芦屋所属の髙山英紀シェフ © PRESIDENT Online メゾン・ド・タカ芦屋所属の髙山英紀シェフ

フランス料理の祭典「ボキューズ・ドール」。メゾン・ド・タカ芦屋の髙山英紀シェフは、4年越しの本大会に今年出場し、世界一の座に挑んだが、結果は7位だった。高山シェフは「日本のフランス料理は技術や質では世界トップレベル。それでも勝てないのはもっとほかの部分に原因がある」という――。

「料理界のオリンピック」に挑んだ日本人

フランス料理の祭典である「ボキューズ・ドール国際料理コンクールフランス本選」。「料理界のオリンピック」とも評される本大会に挑んだ1人の日本人がいる。日本代表として、フランス料理の頂きを目指した髙山英紀シェフ(メゾン・ド・タカ芦屋)は、日本大会、アジア大会を優勝し、本戦の舞台に立っていた。

日本中のフランス料理人にとって憧れの場である本大会。出場への道のりは険しい。まず日本予選を突破し、6人で争われる日本大会の決勝を優勝し、アジア大会に駒を進めなければならない。それから11カ国が出場するアジア大会を勝ち抜き、はじめてフランスで行われる本戦への出場権を得られる。ここまでに2年間の時間を要する。

日本勢の過去最高順位は、13年の浜田統之シェフの3位。今回、本戦までを圧勝で勝ち上がってきた髙山氏は、15年の本戦でも世界5位に輝き、4年越しの再挑戦となった今回は世界中からも注目が集まっていた。

「ボキューズ・ドールは大げさではなく、自分の人生をかけて勝負してそれでも届くかはわからないもの。料理人たちは何年もかけて準備をして、アメリカなんかでは代表選手に数億円の補助金が出るともいわれています。それだけ、世界中の料理人にとって栄えある舞台でもあるんです」(髙山シェフ)

日本のフランス料理は世界トップレベル

24カ国の代表選手たちが、5時間35分の間に皿盛り料理、大皿料理の課題料理を調理し、採点を競うのが大会のルールだ。今回の課題料理は「野菜と貝のシャリュトリューズ」と「骨付き仔牛のロースト」。トラディショナルでシンプルな料理をいかにモダンに独創性や自国の文化を反映し、様々な視点から完成度を高めるかということが評価のポイントとなった。

優勝に輝いたのは、デンマーク。次いでスウェーデン、ノルウェー、フィンランドと続き、髙山氏は7位となり、アジア勢最高の順位を残した。大会をこう振り返る。

「正直にいえば、この結果はただただ悔しい。長期間における準備と大げさではなく、料理人としてのすべてを注いだので。ただ個人だけで勝てないのもよくわかりました。わかりやすく言えば、この大会はF1のようなものなんです。ドライバーにあたる料理人がいて、それを支える何十人にもわたるチームジャパンで戦っていく。上位の北欧勢とは、このチーム力というか組織力に差を感じました。一方で、日本の和を取り入れたフランス料理には無限の可能性が広がっているという自信を深めることができた。課題もあるものの、日本のフランス料理は、世界のトップを争えるレベルなんだ、と」

最高峰の料理店で働くために上京

日本人でありながら、世界一のフランス料理人を目指した髙山氏。その姿を追うことで見えてきたのは、世界における日本のフランス料理の立ち位置と、秘めたる可能性だった。

髙山氏がフランス料理に初めてふれたのは18歳の頃のこと。

牧歌的な雰囲気を残す福岡の田舎町で育った髙山氏は、料理好きな祖母の影響もあり中学を卒業する頃には自然と料理人を志したという。だが、当然のように町中にはフランス料理はなく、洋食を食す機会もほとんどなかった。漠然とフランス料理への関心があった程度だったが、叔父の「社交の場では世界中どこに行ってもフランス料理が中心だ」という言葉がなぜか脳裏からはなれなかった。

料理人を志す友人たちは、当然のように料理学校に進学していった。だが、髙山氏の選択はちがった。叔父の紹介もあり、1996年当時日本でも最高峰との呼び声高かった「シェ・イノ」で働くために上京することになる。髙山氏は当時をこう振り返る。

「高校卒業後の進路として、私の中で3つの選択肢があったんです。1つはフランス、もう1つは福岡。そして、最後に日本で一番厳しい環境で修行するということでした。現場でこそ技術が伸びると考えていたので、料理学校に行く気になれなかった。それなら、日本一厳しいといわれる料理店で、どこまでやれるか勝負してやろうと考えました」

新しいスタイルはどうすれば創造できるのか

日本で一番厳しいフランス料理屋の看板は、髙山氏の想像以上のものだった。最初の一年間は、まともに包丁に触れる機会もなく、ひたすら先輩の動きを追うだけで一日が過ぎていった。激務で職場を去る同僚もいるなか、自身も何度も心が折れかけたこともあったという。だが、歯を食いしばり睡眠時間を削ってでも、フランス料理にしがみついた。空いた時間に、料理を試行し、休日も暇を見つけてはフランス料理を食べ歩いた。

髙山氏は日本一厳しい環境に耐え抜くことで、飛躍的に技術を伸ばしていく。上京から5年が経つ頃には、一通りの技法を身に付け、調理場も任されるまでになっていた。しかし、料理の技術の向上と比例してある想いも募っていったという。

「日本のフランス料理は、本場のフランス料理を“再現”することが最も良しとされている面があったんですね。悪くいえば、ブランドの踏襲というか、パクっているというか。たとえばこの3つ星ホテルのシェフが、3つ星レストランではこういう作り方をしているから、それをそのまま作ろう、といったふうに。ガストロノミー(美食学)に関していえば、日本のお客様もそれを求められて来店される方も多い。ただ、本来フランス料理は感性を生かし、常に独自性を持ち新しいスタイルを追求していくものだと思っていたんです。どうすれば新しいスタイルを創造することができるのか。それで僕は行き詰まってしまった。本場のフランスを知らずに、本当にフランス料理に携わってよいのか、という想いもありました」

「フランス料理って、こんなに自由だったんだ」

結果的に、8年間勤務した「シェ・イノ」を退社し、髙山氏は単身フランスへわたることになる。知り合いのツテをたどり、パリの3つ星レストランの「ラムロワーズ」「レジス・エ・ジャックマルコン」「ジル」の名だたる名店で修行を積んだ。フランスでの日々は、壁に直面していた髙山氏を羽化させた。休日には地方に足を運び、ガストロノミーだけではなく、町のビストロ料理店や大衆食堂にも足繁く通ったという。

「フランスの料理人たちは、一つの皿にいかに個性を出すかに腐心していました。それは、町のビストロ料理屋さんも同じです。フランス料理は、芸術作品と同じで、自分をどう表現するかということに価値があるということを再認識しました。フランス料理とは、こんなに自由なものだったんだ、と。私が感銘を受けたのは、これまで積み重ねてきた伝統を継承しリスペクトしながらも、新しいかたちを料理人たちが常に追い求めていたこと。国民性もあるでしょうが彼らの料理には、一皿にかけるこだわりや、一瞬のひらめきやアイデアが詰まっていたんです」

フランス滞在が1年を超えたことを境に、花形である肉部門のシェフを任されるようになっていた。この頃から、髙山氏は技術に対する自信を深める一方で、自身の課題も明確になっていく。

突破口は日本文化の探求

「技術や質でいえば、日本のフランス料理は世界的にもトップレベルといえると思います。ただ、オリジナリティでいえば他国に負けている。自分に足りないものも“感性”だと気づいた。お客様を感動させるようなスペシャリティを提供するにはどうすれば良いのか、と自問自答しました。もっといえば、日本人の料理人がフランス料理でトップを目指すにはどうすれば良いのか、と」

「結果的に、フランス人がそうであるように、日本人だからできる和食のテクニックや素材をフランス料理に落とし込むことが、独自の表現につながるという結論に至ったんです。割烹、懐石、居酒屋も『切って、煮て、提供する』という基本はおなじ。それをフランス料理に取り入れるとどうなるか。日本の文化を突き詰めることで、私自身を表現したいと考えました。具体的には食材の素材を大切にし、海、山に恵まれた日本の地方ごとのテロワールを活かすこと。そこに日本人ならではの、繊細で細部にとどく感性で“作品”を作り上げるということです」

07年に帰国し、フランスの「ジル」の日本初店舗となる「メゾン・ド・ジル芦屋」の料理長に就任の打診を受けた。和食とフランス料理の融合を目指す髙山氏にとって、格好の環境だった。

7年間かけて自身の表現に磨きをかけ、ボキューズ・ドールの日本予選、アジア大会を優勝し、15年の本戦へと挑戦する。初出場で5位という快挙を達成し、フランスで深め、日本で実戦した自信は確信に変わっていた。翌16年には、「メゾン・ド・タカ芦屋」を総合プロデュースする傍ら、再挑戦への準備も着々と進めた。

日本がフランス料理「世界一」になる日

「ここ数年はボキューズ・ドールへの準備を最優先にしてやってきた」。4年越しの挑戦に、大袈裟ではなく料理人人生をかけたという髙山氏だったが、それでも頂点に届かなかった。

上位国が軒並み、大企業や国からの巨額のバックアップを受けて大会だけに集中していたのに対して、自店舗の運営との二足のわらじを履かざるを得なかったことも響いたのかもしれない。とくに近年はこれらの体制の差が諸外国と日本で顕著になってきている。

それでも、ボキューズ・ドールが自身にもたらした影響は大きかったという。

「バブルをピークに、日本のフランス料理店の数は減少傾向にあると思います。ただ、日本人が作るフランス料理の可能性は確実に広がっているし、間違いなく世界に誇れるものなんです。ガストロノミーだけではなく、ビストロも含めてこれまでの“こうあるべきだ”、というフランス料理像は良い意味で変わってきています」

労力と必要な時間を考えると「私の挑戦は今年で最後です」と話す髙山氏の想いは、次世代の料理人へと継承されていく。

「ボキューズ・ドールで世界一を狙うには、挑戦した料理人が次の代表に蓄積されたノウハウを伝えていかないといけない。そうやって経験を紡いでいくことが今の私の使命です。日本の持つ伝統と文化を独自性に昇華できた時、世界の頂きにとどくと信じています」

この大会で日本が優勝すれば、フランス料理の国内での位置づけは大きく向上するだろう。それは日の目を見るまでに時間のかかるフランス料理人の育成をはじめ、未来への投資にもつながる。

来年の本戦へ向けて、日本大会、アジア大会を目指す料理人たちはすでに始動している。先人たちの紡がれた想いを背負い、日本代表の挑戦は続いていく。

髙山 英紀(たかやま・ひでき)

 

メゾン・ド・タカ芦屋 料理長

1977年福岡県生まれ。18歳でフランス料理の道へ。東京京橋のフレンチレストラン「シェ・イノ」にて約8年間すごす。2004年からフランスにて約3年半の修行。帰国後「メゾン・ド・ジル芦屋」の料理長に就任。2015年「ボキューズ・ドール2015」で5位、魚料理特別賞を受賞。2017年「ボキューズ・ドール国際コンクール」の日本大会で優勝。2018年「ボキューズ・ドール アジア・パシフィック大陸予選」で優勝。(写真=ボキューズ・ドールJAPAN)


まんぷくで喫茶店主、加藤雅也さん語る「何もない奈良」

2019年04月12日 07時17分58秒 | ニュース

まんぷくで喫茶店主、加藤雅也さん語る「何もない奈良」

奈良市出身の俳優、加藤雅也さん(55)が、イベントで奈良の観光について熱く語った。これまで地元と縁の薄かった加藤さんが「奈良推し」を前面に出し始めた、そのきっかけとは――。

 加藤さんは奈良市出身で、市立春日中学校、県立奈良高校を卒業している。北野武監督の「BROTHER」への出演などで知られ、最近ではNHK連続テレビ小説「まんぷく」でおちゃめな喫茶店主を演じて話題になった。

 イベントは市職員の高松明弘さん(37)が代表を務め、地域活性化に取り組む団体「編集奈良」が企画。2月、会場のはぐくみセンターで、自治体職員や観光関係者ら約50人が聴き入った。

 「俳優としては、これまで地元との縁は薄かった」という加藤さん。だが、奈良市出身の映画監督・河瀬直美さんに「なぜ奈良の映画に出ないんですか」と言われたことを機に、奈良県天理市で撮影された新作映画「二階堂家物語」で主演を務めた。奈良市の観光特別大使にも就任が決まり、改めて奈良の街を歩き回った。

 ログイン前の続きその中で目にとまったのが奈良市の柳生(やぎゅう)地区だった。剣豪の柳生十兵衛の出身地としても広く知られる山あいの里だ。「自然が残っていて、何百年前にタイムスリップしたような場所がある」。新しいものを作るよりは「柳生をそのまま温存すればいい」と話す。

 「何もない奈良」を逆手にとって売り込もうというのが加藤さんの発想だ。2025年の大阪万博を訪れる観光客を呼び込むため、京都や神戸、大阪と同じことをしていてよいのか。「何もないんじゃなくて、何もないというものがある。例えば、柳生で野宿してみませんかと提案する。テントを借りて、1晩2晩不自由な生活をしてみませんかと」。その体験が災害時の避難所生活への備えになるのでは、と述べた。

 河瀬直美さんがエグゼクティブディレクターを務め、同市で隔年開催される「なら国際映画祭」については「選ばれている映画のクオリティーが高い」とたたえた。その上で、開催期間中に観光名所でコンサートを開くなど、エンターテインメント的要素をもっと加えるべきだとも語った。

 来場者の質問にも丁寧に応じ、最後はこう締めくくった。「色々偉そうなことを言いましたけど、僕の思いは一つ。奈良を何とかしよう。『奈良再起動元年』という気持ちで、出来るだけのことをやっていこうと思っています」

     ◇

 加藤さんは4月13日、プロバスケットボールB2のバンビシャス奈良(0742・20・1800)のホーム戦(奈良市のならでんアリーナで午後6時開始)を観戦する。午後5時半から観衆にあいさつをする。

     ◇

 トークの概要は以下の通り。

 観光特別大使の話が出たのが、去年の11月ぐらいだったかな。ちょうど(その2カ月前に)、なら国際映画祭で「二階堂家物語」を上映したんですね。

 奈良っていうのはなかなか映画を撮る場所じゃないんですね。殺人事件、爆破事件が起きるようなところではなくて、エンターテインメント的にはかなり遠い。本作も地味な家族の話なんです。

 なかなか撮影場所にならない、人を呼ぶには難しい場所であるな、というのが僕の印象。大使の話をいただいてから街を歩いてみたり、色々と食べてみたり、僕なりにやってみたんですね。

 そこで目についたのが、柳生だったんです。自然が残っていて、何百年前にタイムスリップしたような場所がある。柳生十兵衛、柳生一族、柳生但馬守(たじまのかみ)。みんな知ってる。みんなが知っているということは、ヒットしやすい。

 奈良は新しいものを作るよりは何も作らない、今のままでいたほうが奈良らしい。テレビ出ても、奈良は何もないしなあ、地味やしなあと。だったらそれを売りにすればいい。柳生はそのまま温存して、柳生に人を来させるんです。

 忍者という言葉は、世界ではすごい有名です。柳生には忍者がいるということにして、海外にアピールする(柳生一族は忍者だったという設定の映画や小説も知られている)。あと、柳生までのバスを真っ黒に塗ってしまって、忍者バスにする。運転手も忍者の格好してくれたら。これをやってくれると、僕らテレビに出たとき、奈良に忍者のバスがあるんですと言える。

 では国内向けで、どうやって柳生に人を持ってくるか。今かき氷が奈良ですごい有名。色々な所で作っている。だったら、柳生で作って、柳生には興味なくてもかき氷が食べたいと言う人をそこに誘い出せばいい。

 奈良は何もないなあ、遅れてるなあ。よく言われます。そんな中で例えば、会社の研修の場に奈良を選んでくださいとかアピールします。何もないところでやって意味があるんですか?って言われたら、夜遊ぶところもない飲むところもない、でも、考える時間があるやないかと。

 物事は言い方によって肯定にもなるし否定にもなる。何もないんじゃなくて、何もないというものがある。ホテルを建てることができないんであれば、柳生で野宿してみませんか?テントを借りて、1晩2晩不自由な生活をしてみませんか。日本はいつ地震が来て、避難所生活になるかわかりません。そういうことやっといたら何かあったときに備えられると言えば。

 2025年、大阪万博が決まりました。おそらく人がめちゃくちゃ来ると思うんですね。ということは、あぶれる人が絶対いる。それを京都や神戸、大阪が手ぐすね引いて待ってる。

 奈良も何もしないわけにいかない。でも、そのためにホテルを造ろうとかお金をかけようとか言うよりは、逆に、人混みで大変でしょう、インターネットに疲れてるでしょうと。だからちょっと何もないところに来ませんかと。そうすれば何もないのが逆に売りになる。2025年に乗り遅れると、奈良はその後10年、20年遅れていく可能性もあるんです。

 今日ふと思ったんだけれど、東大寺の大仏さん立ったら、めっちゃ人来るやろなあ。大仏さんずっと座ってますけど、立ったってなったらめっちゃニュースになる。

 立たせるのは絶対無理やんね。仏像やから。でも、ホログラム(立体映像)で、立ったらこうなるでって見せればいい。夜、真っ暗にして、立ちまっせって言って、バーって立ったら、みんな見に来る。結局ニュースになってくれればいい。認知すればそのうち何%かが行ってみようかなって思う。来れば、商品が売れる。ネタを作らないとテレビ局も来ない。

 来年になると、なら国際映画祭っていうのがあるんですね。(同じ年に)オリンピックで、河瀬直美監督が記録映画を作ります。これすごいことです。その河瀬直美がやってるんです。

 実際、僕は河瀬さんから映画出演の声かかってこなかったんですよね。奈良の人間なのに。「なんでやねん」って言うたら、「声かけにくかってん」って言われたんですよね。

 奈良の人ってそういう気質があって、どっちかって言うとあまりガツガツしてないんですよ。まあ一説には、「大仏商売」って言うらしいんですけど。

 だから僕が河瀬さんに会いに行って、「河瀬さん、同じ奈良やねんから、1回ぐらい仕事したいですわ」って言ったことがきっかけで今回、(なら国際映画祭の企画で制作された)「二階堂家物語」のオーディションに行った。それで奈良の映画に出るようになったんですね。

 なら国際映画祭も、奈良の人あんまりピンと来てないかもしれないけど、芸術文化の面で、選ばれている映画のクオリティーが高いです。映画祭というと、派手にハリウッドの人たちが来ると、それがすごい映画祭と思うけれど、そうではない。

 ただ、なら国際映画祭の映画も小難しいものばっかりじゃなくて、どっかエンターテインメントなことをやろうとか。開催期間中にイベントをやって人を呼ぼうとか。芸術芸術言うったって無理。やっぱりその辺も考えなきゃ。東大寺興福寺平城宮跡で、コンサートとかも同時開催できたらいいんじゃないかなと思ってます。

 色々偉そうなことを言いましたけど、僕の思いは一つ。奈良を何とかしよう。「奈良再起動元年」という気持ちで、やるからには出来るだけのことをやっていこうと思っています。(根本晃)