<秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ
わが衣手は 露にぬれつつ>
(みのりの秋の田の
番小屋に 私は泊っている
屋根を葺いた苫は粗く
漏る露に 私の袖は しとどにぬれた)
・「百人一首」の巻頭の歌として名高い。
もっともこの歌は天智天皇の作ではない。
『万葉集』をかじった人ならすぐ気づくことだが、
この歌のよみぶりは王朝のもので、
天智帝の七世紀ごろの歌風ではない。
『万葉集』巻十に、詠み人知らずとして、
「秋田かる 仮穂を作り わが居れば
衣手さむく 露ぞおきにける」
というのがあり、
これが世にひろまるにつれ、
平安朝の歌風に変えられ、
作者にいつしか天智帝が擬せられるようになった。
それで『後撰集』秋の部に、
「題知らず 天智天皇御製」としてのせられ、
さらに定家も百人一首を選ぶとき、
そこから採って冒頭に据えたのだろう、
といわれている。
なんで天智天皇をまっ先に据えたかということも、
古来から議論のたねである。
一説には、奈良時代の皇統は天武系であったが、
都が京都へ遷って平安時代になってからは、
天智系皇統になり、王朝の皇室や宮廷人は、
天智帝を尊崇すること篤かった。
それゆえ定家も、平安朝詞華集というべき、
「百人一首」の冒頭に皇統の始祖・天智帝を、
もってきたのだといわれる。
比類なき歌学者であった定家が、
「秋の田の・・・」の歌は天智天皇の御製ではないことを、
知らなかったはずはない。
しかしいつとはなく天智帝のお作と伝承されてきた、
その伝承の居心地よさに、定家はうまく乗りかかり、
利用したのであろう。
定家の功績は大きい。
歌聖といわれるゆえんである。
ところがせっかくの民族遺産が現代は、
宝の持ちぐされになっている。
私は「百人一首」ぐらいは、
小学生の時から暗誦させるべきだと思う。
これをおぼえると、
ふしぎに古文の文法がすらりと頭に入る。
(次回へ)