<忍ぶれど 色にいでにけり わが恋は
ものや思ふと 人の問ふまで>
(ぼくは 自分の思いを
じっと胸に秘め隠してきたが
おのずと顔や雰囲気に出たのか
“君は恋しているんじゃないか
物思わしげにみえるよ”と
人にたずねられるほどになってしまった)
・平兼盛(たいらのかねもり)は、
光孝天皇の玄孫で臣籍に下って平氏を名乗った。
十世紀後半の代表的歌人で、
三十六歌仙にも入っている。
この兼盛は、
才女の赤染衛門の実父ではないかといわれている。
赤染衛門の母は、はじめ兼盛の妻だったが、
懐妊したまま別れて、赤染時用(ときもち)と再婚した。
そして生まれた娘が赤染衛門といわれている。
彼女の歌才は実父の兼盛ゆずりかもしれないが、
事実かどうかはわからない。
しかし伝承や俗説は、
意外に事実を伝えていることが多いのも、
この頃ようやく、人々が気付きはじめた通りである。
この美しい恋の歌は、
『拾遺集』巻十一・恋に
「天暦の御時の歌合わせ」として出ている。
これは村上天皇の天徳四年(960)三月三十日に、
内裏で催された歌合わせである。
この時の歌合わせは後世の模範とされ、
以後、歌合わせはこの時の盛儀にのっとることになった。
村上天皇は当代切ってのインテリで、
芸術愛好家でいられ、
ご自身でも典雅な歌をよまれる歌人である。
しかも朝廷の実力も富も充実している時だったから、
豪奢にして華麗なセレモニーを催すことができた。
当時の一流歌人が左右に分かれて勝敗を争う。
芸術作品をゲームにするというのは、
場違いのようであるが、
しかし優劣を争いたくなるのは、
人情の常である。
時は弥生のつごもり、
陰暦では明日から夏である。
場所は清涼殿、
天皇や女御がたがご臨席で、
百官や女房たちも居流れてこの世紀の歌合わせを、
見守る。
時に村上天皇は気鋭の三十五歳。
それはどんなに美々しき盛儀であったか。
申の刻(午後四時ごろ)天皇が臨御、
殿上人がみな揃ううちに日が暮れ、
灯がともされ、
庭上にかがり火があかあかとたかれる。
左右に分かれた方人(かたうど)の頭には、
天皇のお妃(更衣)を頂くというのもなまめかしい。
題は「霞・鶯・柳・桜・藤・暮春・・・」
とはじまって「恋」に至るまで二十番、
講師(こうじ)が歌をよみあげ、
判者(はんじゃ)が、勝ち負け、
あるいは引き分けを判定してゆく。
さて歌合わせは次第にすすみ、
あるいは左が勝ち、あるいは右が勝ち、
ゲームはいよいよ白熱する。
いよいよ最後の「恋」の部になった。
恋の歌は五番勝負である。
この時の出詠歌人は、
藤原朝忠、大中臣能宣、壬生忠見、源順ら、
女流歌人も中務(なかつかさ)らすべて十二人、
そうそうたる一流歌人である。
さて、いよいよ大詰めの二十番「恋」
兼盛の歌は右である。
左に配せられたのは壬生忠見の、
<恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり
人しれずこそ 思ひそめしか>
どちらも珠玉のような秀歌である。
左右の歌が披講されたとき、
人々はどよめいたことであろう。
勝負のあいだ、酒肴がめぐったというから、
盛興はいよいよたかまったであろう。
兼盛か忠見か。
どちらも佳品で、
容易に軍配を上げられない。
判者も困ってしまった。
天皇に申し上げるよう、
「左右ノ歌、供ニ以ツテ優ナリ。
勝劣ヲ定メ申スコト能(あた)ハズ」
天皇は仰せられた。
「各々(おのおの)耽美スベシ。
タダシ、ナホ、之ヲ定メ申スベシ」
半者は困って、大納言の源高明の意見を求める。
高明も、
<お任せします>と頭を下げるのみ。
そのあいだ、左と右の方人は互いにわが方の歌を詠みあげ、
示威するのであった・・・
(次回へ)