・宮は何心なく、
おやすみになっていたが、
身近に男の気配がする。
「?・・・」
と思っていらっしゃると、
六條院(源氏)より、
若々しい男の声で、
「驚きなさいますな。
怪しい者ではございません。
お声を立てないで下さい。
決して失礼はいたしません」
そういいながら、
男は軽々宮を抱き上げて、
御張台の下に下ろした。
宮は悪夢にうなされたような、
気持ちにおなりになって、
物もわからず、
されるままになさっていて、
ぼんやりとご覧になると、
源氏ではない、
未知の男である。
何か低い声で、
しきりに訴え続けているが、
驚愕された宮には、
耳に入らない。
気味悪くて恐ろしくて、
やっとのことで小さな声で、
人をお呼びになるが、
近くには誰もいない。
ただふるえていらっしゃる。
冷汗は水のように流れ、
手足は冷たくなり、
半ば正気を失っていらっしゃる。
「お気をたしかに。
私は怪しい者ではありません。
私の申し上げることを、
お聞き頂きたいだけです」
青年は必死にささやく。
そのうち、
やっと宮のお耳にも、
青年の言葉が入ってきた。
それは、
心の奥底から出てくるような、
傷みを持った深い声である。
青年の言葉で、宮は、
(では、
あのいつも手紙をよこす、
柏木衛門督なのだ)
と気がつかれた。
あの情熱的な手紙を、
ひそかに届けてくる青年が、
とうとう忍び込み、
現実に身近にいると、
気づかれた宮は、
戦慄と不安を感じられた。
お声も出ないで、
わなないていらっしゃる。
「宮さま。
何かおっしゃって下さい」
青年は宮の体をゆすぶる。
「驚かれるのも無理はありません。
あまりにつれなくなさるなら、
かえって男は自暴自棄になります。
どうか、あわれな、
とひと言だけでもお言葉を。
それだけをなぐさめとして、
退出いたします」
青年はかきくどくが、
宮はものをおっしゃらない。
柏木が想像していた宮は、
端麗で近寄りがたい気高さを、
持っていられた。
だから、
心のほんの端ばかりでも、
お耳に入れて退がろうと、
とてもそれ以上のふるまいは、
出来ないと思っていたのに、
現実にお見かけすると、
なよなよとしていられて、
上品でやわらかな、
暖かいお体である。
柏木が抱きしめると、
淡雪のように消えてしまいそうな、
はかなげな宮のおんありさま。
青年は自制心を失ってしまった。
分別も何も一瞬に消えてしまった。
柏木は思い乱れて、
闇の情熱に押し流されてしまった。
夜の闇の向こうには、
人影もなく、物音もない。
柏木は、
あれほど愛した人生の楽しみ、
社交の楽しみ、
音楽や恋文の楽しみは、
今は遠くなってしまった。
宮のことで、
青年の心は、
いっぱいになってしまった。
宮と二人きりで、
この世を捨てて暮らせるなら、
他のすべてのものを捨てよう。
夢を見ているとしか思えない。
夢のうちに猫が啼いた気がした。
あの唐猫を、
宮にさしあげようと思って、
抱いてきたような気もするが、
それは空耳であった。
宮は死んだように、
目をつむっていられる。
何もおっしゃらずに、
涙をこぼしていられた。
(どうしよう・・・)
宮はどうしていいかわからず、
幼い子供のように、
お泣きになるばかり。
(源氏の君に知られたら、
どんなお叱りを受けるだろう。
どうしよう)
ということしか考えられない。
夜は明けてゆく。
青年は帰らねばならない。
いっそう惑乱して帰れない。
「お別れしたくない。
今お別れしたら、
もうお目にかかれないかも。
憎んでいられますか、私を。
でも、ひと声だけでも、
何かお言葉を下さい」
それでも宮は、
お言葉もなく顔をそむけて、
うつぶしていられる。
「よくせき、
お嫌いになったのですね。
つれない方ですね」
空はみるみる白々と明けてゆく。
「もっと申し上げたいことは、
たくさんあるのですが、
こうもお嫌いになっているのでは、
仕方ございません。
やがては私のことも、
わかっていただけましょう。
露にぬれて帰ってゆきます」
柏木は泣いていた。
宮は青年が(帰る)
といったのにほっと安心なさった。
柏木は、
妻のもとには帰らず、
父大臣の邸へ忍んで戻った。
以後、柏木は、
外出もしないで、
ひきこもっている。
(次回へ)