むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

31、若菜(下) ⑨

2024年02月25日 07時42分03秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・宮は何心なく、
おやすみになっていたが、
身近に男の気配がする。

「?・・・」

と思っていらっしゃると、
六條院(源氏)より、
若々しい男の声で、

「驚きなさいますな。
怪しい者ではございません。
お声を立てないで下さい。
決して失礼はいたしません」

そういいながら、
男は軽々宮を抱き上げて、
御張台の下に下ろした。

宮は悪夢にうなされたような、
気持ちにおなりになって、
物もわからず、
されるままになさっていて、
ぼんやりとご覧になると、
源氏ではない、
未知の男である。

何か低い声で、
しきりに訴え続けているが、
驚愕された宮には、
耳に入らない。

気味悪くて恐ろしくて、
やっとのことで小さな声で、
人をお呼びになるが、
近くには誰もいない。

ただふるえていらっしゃる。

冷汗は水のように流れ、
手足は冷たくなり、
半ば正気を失っていらっしゃる。

「お気をたしかに。
私は怪しい者ではありません。
私の申し上げることを、
お聞き頂きたいだけです」

青年は必死にささやく。

そのうち、
やっと宮のお耳にも、
青年の言葉が入ってきた。

それは、
心の奥底から出てくるような、
傷みを持った深い声である。

青年の言葉で、宮は、

(では、
あのいつも手紙をよこす、
柏木衛門督なのだ)

と気がつかれた。

あの情熱的な手紙を、
ひそかに届けてくる青年が、
とうとう忍び込み、
現実に身近にいると、
気づかれた宮は、
戦慄と不安を感じられた。

お声も出ないで、
わなないていらっしゃる。

「宮さま。
何かおっしゃって下さい」

青年は宮の体をゆすぶる。

「驚かれるのも無理はありません。
あまりにつれなくなさるなら、
かえって男は自暴自棄になります。
どうか、あわれな、
とひと言だけでもお言葉を。
それだけをなぐさめとして、
退出いたします」

青年はかきくどくが、
宮はものをおっしゃらない。

柏木が想像していた宮は、
端麗で近寄りがたい気高さを、
持っていられた。

だから、
心のほんの端ばかりでも、
お耳に入れて退がろうと、
とてもそれ以上のふるまいは、
出来ないと思っていたのに、
現実にお見かけすると、
なよなよとしていられて、
上品でやわらかな、
暖かいお体である。

柏木が抱きしめると、
淡雪のように消えてしまいそうな、
はかなげな宮のおんありさま。

青年は自制心を失ってしまった。
分別も何も一瞬に消えてしまった。

柏木は思い乱れて、
闇の情熱に押し流されてしまった。

夜の闇の向こうには、
人影もなく、物音もない。

柏木は、
あれほど愛した人生の楽しみ、
社交の楽しみ、
音楽や恋文の楽しみは、
今は遠くなってしまった。

宮のことで、
青年の心は、
いっぱいになってしまった。

宮と二人きりで、
この世を捨てて暮らせるなら、
他のすべてのものを捨てよう。

夢を見ているとしか思えない。
夢のうちに猫が啼いた気がした。

あの唐猫を、
宮にさしあげようと思って、
抱いてきたような気もするが、
それは空耳であった。

宮は死んだように、
目をつむっていられる。

何もおっしゃらずに、
涙をこぼしていられた。

(どうしよう・・・)

宮はどうしていいかわからず、

幼い子供のように、
お泣きになるばかり。

(源氏の君に知られたら、
どんなお叱りを受けるだろう。
どうしよう)

ということしか考えられない。

夜は明けてゆく。

青年は帰らねばならない。
いっそう惑乱して帰れない。

「お別れしたくない。
今お別れしたら、
もうお目にかかれないかも。
憎んでいられますか、私を。
でも、ひと声だけでも、
何かお言葉を下さい」

それでも宮は、
お言葉もなく顔をそむけて、
うつぶしていられる。

「よくせき、
お嫌いになったのですね。
つれない方ですね」

空はみるみる白々と明けてゆく。

「もっと申し上げたいことは、
たくさんあるのですが、
こうもお嫌いになっているのでは、
仕方ございません。
やがては私のことも、
わかっていただけましょう。
露にぬれて帰ってゆきます」

柏木は泣いていた。

宮は青年が(帰る)
といったのにほっと安心なさった。

柏木は、
妻のもとには帰らず、
父大臣の邸へ忍んで戻った。

以後、柏木は、
外出もしないで、
ひきこもっている。






          


(次回へ)

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