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俳諧誌上の人々 榎本其角 えのもときかく

2024年06月08日 08時18分47秒 | 文学さんぽ

俳諧誌上の人々 榎本其角 えのもときかく

『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著 

昭和7年11月発行 俳書堂

一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

草庵に樋梗あり

    門人に其角、嵐雪あり

と師の芭蕉から鍾愛された其角は、寛文元年(1667)丑七月十七日、江戸日本橋堀江町に生れた。

父、東順は竹下氏近江堅田の人、堅田の榎本氏の女を娶り、榎本氏を冒すに至つたと云へば、養子したものではあるまいか。医を業として本多下野守から扶持せられ、安穏な生活をしてゐたのであるが、何れり年か江戸に移り堀江町にト居した。この堀江町の寓居に其角が生れたのである。

 

其角の門人淡々が、其角十七回忌に上梓した「十七囘」には、其角の自伝が収録されて居る、傅記的文献として最も精確なものであるから、それに準拠して此の小傅を立てる事とする。

其角の父も母も文雅の嗜みがあった、この父母の雅懐に養はれた渠は、九歳の時、

 

    馬なればいかほど跳ねん丑の年

      さてもはねたり寛

 

と口吟した。この歌は略年譜の九歳の條に記入してあるが、『ト養狂歌集拾位』にある歌であるから、其角角が何気なく手録しておいたものを、『みゝな草』の著者などは其角の自詠であると云って居るのであらうとの説もある。

「十歳入学大圓寺、十四歳於堀江町本草綱目寫、修治、主治、発明」とある。

十歳から大圓寺に寺小屋生活をなし、十四歳のには父の業を継ぐべく、医書を勉強しかけたものである。

「本草綱目」は明の李時珍の著薬物学の書で五十巻ある。「五元集」に

      父が医師師なれば

    鰒(ふぐ)汁に又本草のはなしかな

 

とあるのは、此頃の回想であろう。

 

  十五歳、内経素本、易経素本寫。

  蒲生五郎兵衛需にて伊勢物所書之、右表紙出来、

本多下野守殿へ献之、右之御褒美として刀申請候

 

とある、「内経」は支那古代の医書、易経などと共に、その白文を筆寫したものらしい。また、渠は俳壇

屈指の能筆家であるが、十五歳の頃既に能書の名が聞えて居たものである。

 

  十六歳、草刈三越講筵、服部平助撰述。

  十七歳、桃青廿歌仙。

 

三越は医学者で通称永伯。平助字は紹卿、将軍家宜の侍講を勤めた儒者、それらの講義を聞き、尚この時代に圓覺寺の大嶺和尚に詩や易を學んで居る。「桃青門弟獨吟二十歌仙」の版行されたのは延宝八年(1680)であるが、その歌仙の巻かれたのは、其角十七歳の延賓五年(1677)である事が知られる。渠の作は地の巻第四番目にあり。

 

  脈を東籬の下にとって本草に對すと美子か薬もいまたうつけを治せず

    月花閑素幽栖の野巫の子有

 

と冒頭にあって、当時早くも自分の生活な詠んで居るようである。「桃青門弟廿歌仙」より一年前の延宝七年に梓行された、才麿の「俳諧板東太郎」に

 

    朝鮮の妹や摘らん紫人參

    なら茶の詩さこそ廬同も雪のはて

    雁虎蟲とばかり思ふて暮けり暮

 

など入集して居る、板本に見える渠の作の最初のものかと思はれる。いったいはいっ芭蕉の門に入ったかといふに、芭蕉がはじめて江戸に来たのが寛文十二年、種々の文獣によれば延宝二年十四歳で入門したらしい。元禄十四年まで年譜を自ら認めて、芭蕉に入門した年を記録してゐないのは、後の研究者には物足りない気がする。

 

天和元年(1681)年 二十一歳には桃青、其角、才麿、揚水の四人で著した「次韻」、言水の「東日記」等が上梓された。当時既に俳人として書家として、一家をなして居たらしく、「東日記」二巻は其角の筆蹟をそのままに用い、渠の発句は廿八句入集して居る。天和三年には堀江町から、芝の金地院前に移り、「虚栗」「新二百韻」等の編著があった。

父の東順は六十歳限り、医業を脱して文筆に親しんだといふ、東順の六十歳は天和二年に當る、其角は医名を順哲と呼んでゐたが、果して医業に携ったものか、明らかでない。想ふに、東順 其角の父子は天和二年の頃、百味箪笥を抛(ほお)り出し、其角は俳諧専門家として立つ事になり、芝へ移ったものではあるまいか。天馬行空的の渠の性格はこの頃から発揮し、酒を被り高楼に放吟するなど、いよいよ磊落(らいらく)放縦な生活は、渠をして短命に終らしめたかの感がある、仔細らしく坊主頭を傾けて、医業に邁進していたら、或は長命したであろうが、榎本順哲老で医人伝の一頁を占め得るや否や覚束ない。

「無窮の壽を保たん事を要す、著者須らく書に托すべし」

といふ古人の言が思い出される。

 

芭蕉は其角の大酒を戒めるため、飲酒一枚起請の寫しを渠に附贈った事がある。

 

右飲酒一枚起請は、尊重親王御作の由承候、

さる人の許には鰐筆にて懸物にして、

床に掛り在候餘り/\面白き御作故、

ちよと寫し来候、貴丈常に大酒をせられ候故、

此御文句を心して、大酒は御無用に存候、仍一句

     朝顔に我は飯くふ男かな    はせを

 

 元禄時代の或る一面は、紀伊国屋文左衛門、奈良茂、其角、一蝶、佐々木文山、柏筵等が代表するやの観がある。記文、奈良茂は豪富の商人、遊里に驕りて金銭を土芥の如く消費した。其角。文山、一蝶等に顕門富豪に夤祿(いんろく)して、花柳の巷に放浪し風騒を助けた。柏菰(市川団十郎)は荒事師の本家、また文事あって其角に相親しみ多くの俳優の中に蔪然頭角をあらはしていた。

而して豪遊一世を驚かした紀文は、俳諧に千山と號し、其角の門人、また其角の保護者にして且つ遊び仲間であった、渠は一蝶と共に常に其の宴席に侍してゐたようである。

   

 暁の反吐はとなりかほとゝきす

    大酒に起てものうき袷かな

      酔登二階

    酒の瀑布冷麦の九天より落るらん

 

 酒仙其角の面目を髣髴(ほうふつ)たしめる句は多くある、又、嗜好としては鮓好であった事が、渠の

僕にして俳句をやり、後医道に入った是橘が

     

  わが檀那鮓をこのみてくはれければ

    しらせばや蓼くふ蟲にすしの味

 

といふ句な作りて居る事によって知られる。渠はまた泥を一蝶に學んだ。一蝶は狩野安信の門人であるが、才気煥発、師家の規矩を守る事をなさず、安信の門な斥けられ、自ら一流を開かんとしたものである。

 其角は性格豪放、その俳諧には江戸兒気象の顕れたものがすくなくない。また鬼面人を嚇(おど)すようなもの、難解のものも少なくないが、画は俳諧矛ほど豪勁(ごうけい)で至極落ち着いた作を見せている。

    お汁粉を還城楽のたもと哉

饅頭で人をたづねよ山桜

      意馬心猿の解

立馬の日は猿の華心

いさよひや龍眼肉のから衣

軍兵を炭團でまつや雲礫

      前書略

    土手の馬くはんを無下に菜つみ哉

      接木を畫て

    来ませる申継とや見えつらん

 

これ等は謎の句、難解の句と称される側のものである。

 

    鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春

    猫の子のくんずほくれつ胡蝶哉

雛のさま宮腹/\にまし/\ける

明星や櫻さだめん山かつら

    子規一二の橋の夜明かな

    越後屋にきぬさく音や子規

うの花やいつれの御所の加茂桜

 笋(たけのこ)や丈山などの鎗の鞘

鎌倉やむかしの角の蝸牛(かたつむり)

水うてや蝶も雀もぬるゝ程

鶏頭や松にならびの清閑寺

秋の空尾上の杉をはなれたり

背面達摩の贅

    武帝には留守と答へよ秋の風

    むら時雨三輪の近路たづねけり

    からびたる三井の仁王や冬木立

    鹽擔子(しおくみ)や投てたゆたふ磯鵆

 

これらの句は、一読清新り感にうたれ、人をして豁達(かったつ)ならしむるものがある。

 

其角の逸話として最著名ものは、「雨乞い」と「赤穂義士」に関するものであろう。

 

「五元集」に

       牛島三遶の神前にて雨乞いする者にかはりて

    夕立や田を見めぐりの神ならは

 

圍の句がある、そして句の次に「翌日雨降る」と書いて居る。「近世奇跡考]によれば、

 

元禄六年午六月廿八日、渠が隅田川に舟遊びせし行、

三圍社頭に雨乞する者の請にまかせて詠んだところ、

翌日雨が降つたといふ。

 

義士闘係の逸話は、両国橋上、煤竹売りの子葉(大高源吾)との邂逅は桃中軒に任せておく事とし、討入の晩、吉良家の隣の土屋邸に居て、てこれまた子葉との邂逅、君時の状況を秋田の文鮮へ報じた書簡は、百歳の下尚儒夫を起たしむるほど痛快な光景を、目のあたり見るやうな文章である。

 

  歳暮の為御壽例の如く遠来の處、酒量一封、

蕗漬一桶被贈下、御厚志の程幾久敷致受納候、

御序御家内はじめ御社中にも宜敷御傳可被下候

   しかれば去十四日、本所都文公に於て忘年の一興御催有

嵐雪、杉風予等も出店にて、折柄雪雨白く降出し、風情手にとる如く、

庭中の松杉はゆきをいただき、雪間の月は暗を照し、風興今は難捨と、

夜いたく更ゆくまゝもはや丑みつ頃に成行き、犬さへ吠えず打しづまり、

文臺料紙もおしかたよせ、四五人あつまりて蒲団をかつぎ、

夢の浮世といふ間もあらせす、はげしく門をたゝくものあり、玄闘に案内し、

予等は浅野家の浪人堀部彌兵衛、大高源吾にて、

今夕御隣家吉良上野介屋敷へおしよせ、亡君年来の遺恨を果さんとして、

大石内蔵之助をはじめ都合四十七人門前に進み、唯今吉良氏を討亡し候處、

御近隣の好み武士の情、

萬一御加勢も下され候はば末代の仰恨稀代の御不畳と奉存候、

願くば門戸をきびしく御防、火の元御用心被下候はば忝く存候とて

いひもはたさず忽ち出づる其の聲神妙なることいふべくもあらす。

今は俳友も是迄なりとて、其角幸い爰にあり、生涯の名残見んとて、

門前に走り出ければ、各吉良家に忍ひ入りしほどに

      わが雪とかもへば軽し笠のうへ

   と高々と呼ばり、門戸を閉て内を守り塀越に提灯を高くし始終を窺ふところ、

そのあはれさ骨身にしみ入、女人の叫び、童子の泣聲、風諷々と吹さそふて、

僥天に至りては本懐既に達したりとて、

   大石主税、大高源吾、穏便に謝義を述べたるは、武士の誉といふべきなり

      日の恩や忽ちくだく厚氷

   と申捨たる源吾の精紳、いまだ眼前に忘れがたし、

其公年来熟懇故、具に認申候、早春は彼是御彼是御指繰御出府も候はば、

彼落着も承り無餘義及伏劒候はゞ窃かに追善も相榮申度候、

先は餘日も無之書餘期貴面時候、恐惶謹言。

    十二月二十日。

 

 吉良邸討入は云う迄もなく元禄十五年である、而して上の文中にある「わが雲と」の句は、元禄四年出版の「雑談集」に「笠重呉天雪」と前書して出て居り、享保五年版の「綾錦」には「東坡賛」と前書きして出て居る。「綾錦」は兎も角とするも、此際、十年餘前の偽作を思ひ出して「高々と呼ば」はつたであらうか、また同一書簡が数通現はれたとやらで、眉唾物のように説くく者もある。

 

赤穂の士人には俳句を嗜む者少なからず、大高源吾(子葉)の他、茅野三平(涓泉)、富森助右衛門(春帆(神崎輿五郎(竹平)、吉田忠左衛門(白砂)、岡野金右衛門(放水)等は沾徳門の俳人にして、其角の門にも出入したものであった。文涜に燈ったといふ書簡は。よし贋物なりとするも、其角の句集を読めば、侠骨稜々たる渠の面目躍如たるものがある。

「五元集」には

    故赤穂城主浅野少府監侵長矩奮臣大石内蔵之助等四十六人、

同志異體報亡君之讐(むくい)、今茲二月四日官裁下令一時伏刄斉屍

          萬世のさえづり黄舌をひるがへし肺肝をつらぬく

       うくひすに此芥子酢はなみだ哉

          富光春帆、大高子葉ご岬崎竹乎これらが名は

          焦尾琴にも残り聞えける也

 

など見える。義士の応分は時の大問題であったが、其角等が横議を挿むべくもない、元締十六年二月屠腹の事行はれ、追善供養は素より、墓参をすら許されなかったのであるが、熱情漢の彼は同人を會して追善り句会を開いた。

 

  萬世のさえづり血行を韓し黄舌をひるがへす

    鳶にこの芥子酢は涙かな     晋 子

      ちる約束や名残ある梅    應 三

    船頭の喧嘩は霞むまでにして   沾 徳

      物書捨しあみ笠のうら    澁 斎

    隼の祭見る間や峯の月      周 東

      無地には染ぬ千丈の蔦    貞 佐

                                (以下略)

 

元禄十六年七月十三日 泉岳寺に亡友の墓を望見し、烈士の鬼に手向けた一文を渠の文集「類柑子」

から披く事としよう。

  

文月十三日、上行寺の墓にまふでてのかへるさに、いさらごの坂をくだり、

泉岳寺の門をさしのぞかれたるに、名高き人々の新盆にあへるとむもふより、

子葉、春帆、竹平等が悌まのあたり来りむかへるやうに覚えて、

そぞろに心頭にかゝれば、花水とりてとおもへど墓所参詣をゆるさず、

   草の丈けおひかくして、かず/\ならびたるも、それだに見えねば、

心にこめたる事を手向草になして、

亡魂、聖霊、ゆゝしき修羅道のくるしみを忘れよとたはぶれ侍り。

    几人聞のあだなることを観ずれば、我々が腹の中に屎と慾との外の物なし

五九輪五體は人の體何にへだでのあるべきやと、披傀儡にうたひけん、

公卿、太夫、士庶人、土民、百姓、工商乃至三界萬霊等、この屎慾をおほはんとて、

冠を正し、太刀はき、上下知着て馬にめす、

法衣法服の其の品まち/\也といへども、生前の蝸名蠅利成り

     たらちねに借賤乞はなかりけり

 

 人間生路のいとなみ、一朝一タを貪る事ことはり也、いきてなき人何のこたへかあるべき、

 それに一口の棚経よんで、家々をありくは何事やらんとあやし、

是かのなき玉のために奏者取次とおもへば、墓をならぶる而々其名暗からず、

地獄にて馳走せらるべしとこそ

      かへらすにかのなき王の夕べかた

    微書記が生きてかへりしよりも、死をいさぎよくせし兵。

ふるさとに思ひのこす事露なかるべし

 

 皮肉と詼謔をつきまぜたこの手向草には、地下の鬼雄も莞爾として得度した事であらう。

「黒双紙」に……師(芭蕉)の目、其角は同席に建るに一座の興にいる句をいひ出て、人々をいつとて感す、師は一座その事なし、後に人のいへ名句はある事も有となり……と、句合の席上などにて、喝采を博する句を作るのは、芭蕉よりは多かったであらうと思はれる。

許六曰く

「諸集の中目立つ句有候は大かた晋子なり、彼に及ぶ門弟も見えず」

と、また曰く

「晋子其角が器極めてよし、人のとりはやするも、

生得活景むもてに上手をあらはせし故に、諸人の耳目を驚かす」と。

 

 初め螺合、麒角、後に其角と改む、米元章の用ひたる硯を三弄子から附られ、

その硯の裏に■(不明)りたる寶晋斎の文字より寶井晋子。寶晋斎と號するに至った、

狂雷堂等の別號もあった、宝永四年(1707)二月廿日三日。青流が其角の病床を訪ねて、

 

    鶯の眺寒しきり/\す     其 角

      筧の野老髭むすぶ     同

 

青流、第三を附け両吟を試みたるに、裏の三句目に至り「晋子ねぶたきけしき」にて分れたるに、これを最後の吟詠として、同廿九日茅場町の草庵に歿した。

年四十五。芝二本復上行寺に葬る、法號 喜覚居士。

著書は虚栗、新山家、花摘、雑談集、枯尾花、わか葉合、末若葉、焦尾琴等約三十種に及ぶ。

 渠の門人中、巴人、淡々、貞佐、湖十、秋色等は錚々たるものである。

而して所謂「江戸風」の沿革に就ては、山口黒露の「俳論」その他に種々の説あり、其角以前に不角によって起りしものとの説もあれど、江戸座の俳諧が其角によって勃興したものなるは争はれない所である。

 


桐壺 『源氏物語』画巻 作品解説

2024年06月08日 07時31分32秒 | 文学さんぽ

桐壺 『源氏物語』画巻 作品解説

 

 

篠原昭二 氏著

 

一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

光源氏の出発

 

光の出現

 

ある帝(みかど)の御代……後宮に仕える多くの妃たちのなかに、低い身分ながら際だって帝の深寵愛を蒙る更衣(こうい)がいた。身分の高い女御たち、また同輩の更衣たちの憎悪と嫉妬とが集中するのは当然であろう。更衣は心労の絶えぬ日々を過ごしていた。しかし宿世の因縁というべきか、更衣はこの世のものとは思えぬ玉のごとくに美しい皇子を生んだ。この物語の主人公、光る君である。

 皇子の母となった更衣に対する帝の愛はますます深く、ために周囲の迫害も異常の度を加えた。更衣の局(つぼね)の桐壷(きりつぼ)は清涼殿(せいりょうでん)からは遠く、参上する道々、さまざまの陰湿ないやがらせが待ち受けていたので、彼女は堪えがたい屈辱と脅えに惟悴(しょうすい)した。これをいたわる帝は、その局を近くの後涼殿(こうりょうでん)に移したりしたが、それがまた他の夫人たちの恨みを倍加させたのである。

 

桐壺 きりつぼ

 

「桐壷」(きりつぼ)……帝は7歳になって学問を始める。神才ぶりを発揮する光源氏を高麗(こま)から訪れた高名な人相見に会わせるために,鴻櫨館(こうろかん・外国使臣を接待するための施設)に遣わした。相人(そうにん)は頭を傾けながら光源氏の数奇な運命を予言し,たまさかに彼のような運勢を持つ人間に会いえた喜びと,そしてすぐに別れなくてはならない悲しみとを詩に歌った。光源氏もまた感興深く感じて,詩を作って和した。

東京都国立博物館

 

帯木 ははきぎ

 

「帚木」(ははきぎ)……五月雨のしとしとと降る夜,桐壷に宿直(とのい)する光源氏のもとに親友で義兄にもあたる頭(とうの)中将が訪ねてくる。好色者(すきもの)の彼は厨子(ずし)棚からさまざまな女手の消息を取り出し,これはあの人,などとあて推量に言うので光源氏は取り隠し,君の所に届いているものも見せるならこれも見せよう,などといって2人の話題が女性談義に移っていくころ、折よく左馬頭と藤式部丞が参上してきた。

東京都・徳川黎明会

 

★この『源氏物語画帖』は,

京都国立博物館蔵のものが土佐光吉ほか筆、徳川黎明会蔵のものが土佐光則筆である。

 

空蝉 からせみ

 

「空蝉」(うつせみ)……心を許さない空蝉に業(ごう)をにやした光源氏は弟の小君に手引きさせて、その寝所に忍び込もうと,中川辺りの邸にやってきた。のぞくと2人の女が熱心に碁を打っている。横を向いた方が空蝉で,そそとした風情に慎ましい動作,いかにもたしなみのほどがうかがわれる。真正面を向いた相手の女は暑さに小袿(こうちき)を形ばかり着て腰紐の辺りまで胸もあらわである。目鼻立ちのはっきりした大柄の美人であるが,彼にはこのにぎやかな美人よりは,はれぼったい目をしたやや地味な空蝉の方が好もしく思われた。

京都国政博物館

 

「夕顔」(ゆうがお)

 

光源氏はやっとの思いで六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)をわがものとしたのだったが,その後はさほどご執心とは見えなかった。たまさかに訪れた秋の後朝(きぬぎぬ),帰っていく彼を御息所はわずかに頭をあげて見守るのだったが,咲き乱れた前栽(せんざい)の草花の風情に足を止めた彼の目には,見送りに出た中将の御許(おもと)の析にあった紫苑色の羅(うすもの)の裳を着けた腰つきのなまめかしさが見過ごし難く,隅の勾欄(こうらん)に引きすえて恋の思いを訴えた。庭には朝霧の晴れ間を待たぬ朝顔が咲いていた。

京都国立博物館

 

「若紫」(わかむらさき)

 

北山の僧庵。昼間見た由緒ありげなたたずまいにひかれて,光源氏は夕暮れの霞に紛れて立ちのぞき,心に聯も忘れることのない藤壷女御(ふじつぼのにょうご)に酷似する10歳ほどの少女を発見した。ともに遊ぶ子だちとは似るべくもなく,成長した姿の美しさが思いやられて,かわいらしい顔立ちであった。

京都国立博物館

 

末摘花 すえつむはな

 

十六夜(いざよい)の月の明るい早春の一夜,光源氏はかねて大輔の命婦(みょうぶ)に吹きこまれていた常陸官(ひたちのみや)の姫君のうわさにつられて官邸を訪れた。しかし姫君の琴(きん)の音ばかりはわずかに干引きの命婦の機転で耳にすることができたが,もの深い宮家の姫君にそれ以上近づくことはかなわなかった。少しでも気配をうかがおうと透垣(すいがい)のもとに立ち寄るとそこには先客があった。一緒に宮中を出たはずの頭(とうの)中将である。彼はいたずら心から光源氏の恋の現場を押さえようとしてぃたのである。

京都国府専物館

 

「紅葉賀|(もみじのが)

 

光源氏は藤壷へのかなわぬ思いを二条院に引き取った紫の上によってわずかに慰めていたが,乳母(めのと)の少納言はそうした彼の手厚い待遇を受ける幸運を仏の加護かとさえ思った。しかし当の紫の上は幼く無邪気なばかりで、雛(ひいな)遊びなどに夢中で,正月,朝拝のために参内する光源氏を彼女は見送ると早速,雛の中に光源氏を見立てて参内させたりして遊んでいる。少納言は夫を持つ人はもっと大人にならなければ,などと意見したが、紫の上にはそれがどういうことなのか,まだわからなかった。

東京都・徳川黎明会

 

「花宴」(はなのえん)

 

2月20日ごろ、紫宸殿(ししんでん)に桜花の宴が催され,光源氏は人々の新望により「春鶯囀」(しゅんおうてん)の一節を舞った。月光のもと,宴の名残の尽きない宮廷を彼は藤壺中宮を求めてさまよい歩くうち,弘徽殿(こきでん)の細殿(ほそどの)に紛れこんだ。すると若く趣があって,とても並みの人とは思えない声で「朧月夜に似るものぞなき」と吟誦しながらやって来る女に出会った。一夜の契り交わした2人は,扇を記念に取り交わして別れたが、女は東宮妃に予定された右大臣家の姫君だった。

京都国立博物館

 

「葵」(あおい)

 

光源氏に憧れて集まり寄った祭の群衆の雑踏の中にあって,その光源氏との愛に悩みながら六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)は慎ましく人目を避けて,一目でも男の晴れ姿を見ようと行列を待っている。そこへ左大臣家の威光を笠に着た葵の上こ一行がやってきて,たちまちに修羅場が現出する。わめき叫ぶ男達の声は身分や教養の故に自らの真実を胸中深く隠さざるをえない女主人の内面の悲鳴であると聞くこともできる。

京都国立博物館

 

「賢木」(さかき)

 

あわれ深い晩秋の野営(ののみや)に光源氏は伊勢下向を句日にひかえた六条御息所を見舞った。生害事件の後,男の態度にその冷えきった心を知って,女はわが執着を断つためにもと別離を決意したのであったが、男を目前にしてしみじみとしたやさしい言葉に接すると,さすがに心はあやしく揺れた。男も薄情であると恨みを買ったまま別れるに忍びず,女を慰めるために訪れたのだったが,深い教養によって洗練された女に接してみると,過ぎた月日を取り戻したいと思うのだった。

京都国立博物館

 

[花散里」(はなちるさと)

 

弘徽殿人后に(こきでんのおおぎさき)方の圧迫がますます露骨になって行き,光源氏は世の中の何もかもが厭になったが,また昔を恋うる気持も抑えがたく湧きおこって,五月雨の晴れ間,花散里を訪れた。姉は桐壷院の女御(にょうご)で姉は彼の愛人であるが、光源氏の援助によってひっそりと暮らしていた。彼にとっては心を開いて語り合えるわずかに残った人達である。二十日の月がれるほど,「昔の人の袖の香ぞする」と歌われた橘が香り,ほととぎすが喝いて渡った。

東京都・徳川黎明会

 

 

須磨 (すま)

 

須磨退居を前に、光源氏は別れの挨拶のために人目を忍びつつ左大臣や藤壷女院を訪れたが、彼の援助によってようやく暮らしを立てている花散里の心細げな様子も気の毒で、いま一度会うこともなく旅立ってしまったら悲しみも大きかろうと、多忙な特をさいて訪れた。しみじみとした月光のもと、たとえようもない光源氏の訪問を、花散里は少し端近くいざり出て迎えたが,ともに月を眺めるうちにはかなく明方近くなってしまった。別れを惜しむことさえままにならず,涙顔の花散里に対して、かえって光源氏が慰めの言葉をかけるのだった。

  東京都・徳川黎明会

 

「明石」(あかし)

 

 初夏ののどかな夕月夜、明石の浦のの住居から見渡される海面に、光源氏は都のわが邸の池が思われて言いようもなく恋しく,久しく手にしなかった琴(きん)を取り出して奏した。悲涙をしぼる琴の音を遠く耳にした明石の人道も堪えられずに、勤行もそこそこに訪れてきた。2人は互いに琵琶や筝(そう)の琴を奏して心を慰め、音楽談義に夜は更けていったが、醍醐天皇より伝えたという人道の手(演奏)より上手という娘の噂に、彼は心をひかれた。       

東京都国立専物館

 

澪標(みおつくし)

 

光源氏は願果たしのために住吉明神に詣でた。折しも例によって詣でた明石の君は松原の深緑の中に花紅葉を散らしたかに見える一行の華麗な栄えある様子に、取るに足りないわが身のほどを思い知らされることになった。かしずきたてられた夕霧に比して,光源氏の子ともまだ認められないわが腹の子を思うと、女は,言いようもなく悲しく,一行を避けて,参詣も延引したのだった

京都国立博物館

 

蓬生(よもぎう)

 

 光源氏が流滴(るたく)生活を送る間、頼る人のない水滴花(すえつむはな)の生活は困窮の一途をたどっていた,それでも彼女は光源氏を信じて待っていたのだが、彼は帰京しても彼女を訪れることはなかった。忘れていたのである。帰京した翌年の四月,花里散邸へ赴く途中、彼は見覚えのある邸宅の前を通りかかり,供の惟兄(これみつ)に問わせると、荒れきった邸内に末摘花が咲いていたのだった。兄源氏はわが心の情なさが思い知られて、生い茂った草の露もいとわず中に入って女を慰めた。

京都国立博物館

 

関屋(せきや)

 

空蝉(うっせみ)は夫に伴われ,任国常陸(ひたち)におり,光源氏との音信も長く途絶えたままになっていた。彼らが任果てて上京の途次,逢坂山を越えるころ偶然に石山詣に赴く光源氏の一行に出会った。

秋も末,さまざまに紅葉した樹々の間に車を立てて道をさける空蝉の一行を,光源氏は深い感慨をもって見たが,人前のこととて意を伝えるすべもなかった。女も昔のことを忘れずにいたから,御簾(みす)に隠れて前を渡る彼の姿に,人知れず懐旧の涙に頬をぬらすのだった。

京都国立博物館

 

絵合(えあわせ)

 

3月下句、清涼殿におぃて絵合が催された。左方は光源氏の後見する斎宮女御 (さいぐうのにょうど),右方は権(ごん)中納言の後見する弘徽殿(こきでんの)女御で,判者は螢宮(ほたるのみや)である。藤壷女院も出席して,双方趣向をこらしたこの盛儀は光源氏の流滴(るたく)生活を描いた絵日記によって左方の勝ちとなった。当代の栄えが結局は彼の,自分を犠牲にした忍苦によってもたらされたものである限り,光源氏方の人々の感涙は当然のこと,相手方の中納言も認めざるをえなかったのである。

京都国立博物館

 

松風(まつかぜ)

 

光源氏は父人道の計らいで上京し,大堰(おおい)の山荘に入った明石の君母子を見舞った。それは嵯峨の御堂とか桂の院とかさまざまに口実を設けてやっと叶った訪問であったが,女には男の誠意はそれとして,行動の不自由な男の身分と自分との違いが絶望的に思われる。人々にせかされてのあわただしい出発,乳母に抱かれて見送る姫君の愛らしさに彼は胸が一杯になって,思い乱れて几帳(きちょう)の陰に嘆きふす女に,姫君を二条院に引き取るとはついに言えなかった。

東京都・徳川黎明会

 

薄雲(うすぐも)

 

姫君を二条院へ引き取って後,光源氏は明石の君のことをつねに気にしながらも、天変地異や藤壷女院,大政大臣等の死去など公の多忙のために訪れは絶えていた。女が何故もっと気楽に東院にも住まないのかと,その誇り高い態度を身分不相応に生意気だとは思うものの,やはり人気違い山肌のわびしい暮らしには同情されて,初秋のある日,例の嵯峨の御堂の常念仏にことよせて見舞いに赴いた。明石の浦に通う大堰川の水辺の情景に,彼ら2人の不思議な因縁が思われるのだった。

京都国立博物館