俳諧誌上の人々 杉山杉風 すぎやまさんぷう
『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著
昭和(しょうわ)7年(7ねん)11月(11がつ)発行(はっこう) 俳書堂(はいしょどう)
一部(いちぶ)加筆(かひつ) 山梨県(やまなしけん)歴史(れきし)文学館(ぶんがくかん) 山口素堂(やまぐちそどう)資料室(しりょうしつ)
芭蕉が、去来は西三十三國、杉風は東三十三國の俳諧奉行と戯れに云った事がある、従来の文献は杉風を三河の人と傳へ居れど、これ誤であった。
杉風十六代の孫杉山権兵衛氏の依嘱により、杉風二百年祭に當り杉風傳を草すえう為、杉山家に傳はる系圖その他の文書を調査して、摂津国西の宮附近今津の、藤道有の二男 賢永が江戸に出で小田原町に住み、幕府に魚類を納める所謂御納屋を営むだ、
杉風は正保四年(1647)三月五日、賢水の長男として江戸小田原町に生れた者である事が、初めて明かになった。賢水は通称鯉屋市兵衛。俳諧を嗜み杉風と称した。杉風には女二人あり、長女「かめ」の焉に三州池鯉鮒生れにて、多年鯉屋の店に勤めたる手代元治郎、號(隨夢)を迎へて婿としたる一事が、杉風三河生れの説を生じた原因である。
杉風は通称を鯉屋藤左衛門、また市兵衛とも称した。後、隠栖して一元と號し、茶舎、採茶庵、蓑翁、衰杖などの別號があり、芭蕉庵とも號したが、この庵號は桃青に譲ったとの事である。
俳諧は初め芭蕉と同様に談林風であったが、芭蕉の東上と共に入門し、蕉風の初期から随身して、常にこれが庇護者であり同情者であった、芭蕉が新風開発に就ての功防者であるばかりでなく、新風開発以前にその基礎を固め。土豪を築いた者は實に杉風であった。負荷側六間堀の芭蕉庵は杉風の別業であった。そこに芭蕉を住まはせて、蛙の飛込む音などをきかせて置いたのである。杉風が養子の隨夢に渡した財産目録には、江戸市中四ケ所の家屋敷と、下総手賀沼新田に4丁7反餘の川畑等がある。
芭蕉一人を扶養するくらいの事は、殆ど介意しなかったであらうと思はれる資産である。撲質な性格にて師弟の情のこまやかであった事は、諸書に傳ふる所である。芭蕉の訃音を聞くとひとしく、門を閉ぢ簾をおろし、中陰おごそかに勤め、長慶寺に発句塚をいとなみなどした。芭蕉の七回忌には、手向の発句歌仙を輯めて「冬かづら」の編あり、
師におくれ既に七回に及ぶと雖も、四序のけしきにっれて忘るゝ事なく。月々の忌日は此庵において談懐奮の句を綴り像前に供ふ。思ふに残多き物のたぐひ、花を書くとも匂ひはゑがかす、鳥は画くとも轉はゑがかず。さればこの像に向ひて師の花の句を吟ずれば、花のうるはしきに猶匂をまし。杜鵑を鳴すれば、正に聲あって、悌いまだ世にいます思ひをなし、風雅忘れ難し。
言の葉をこまかに慕へ冬かづら
と言って居る。平常多病にして且つ聾なれば、其角曾て芭蕉に向ひ「渠は耳聾したれば、三年の流行に後れたり」と云へるに、芭蕉殊の外不機嫌にて、「かれ談林より我が門に入りて以来、作者として正しきこと、この上もなき重畳なり」と答へたといふ。湿厚な杉風も、支考の妄暴には甚だしく憤慨して「彼は芭蕉の名をうりて、風雅を銭にするあさましの坊や、もし東武に脚を入りなば、両足を切らんと牙を噛みて怒りし」と「頭陀物語」にある。
畫は狩野昌運に師事したと云はれて居るが全く素人放れのした逸品を縷々見受る。許六、渠を評して曰く「杉風は二十餘年の高弟、器も鈍ならす。熱心もかたの如く深し、花實は過ぎたり、常に病がちにして、しかも聾なり、師は不易流行を説いて聞かせ給へども、杉風が耳には前後半ならでは入り雖し、故に半分は流行して、半分は二十餘年動かず、然れども久しく名人に従ふ故に「別座敷」に少し血脈あらはれたり」と。別座敷には渠の一座せる連句が多いが、茲には発句だけを挙げてみやう。
挑灯の空に詮なし時鳥
卯の花にぱつとまばゆき寝起哉
卯の花にもてなされたる坊主哉
卯の花のうるみは露の朝日哉
澤潟はとり残されしかきつはた
五月雨に蛙の泳ぐ戸口哉
橘や定家机の有る所
ずっと来て袖に入りたる蛍哉
ひつかりと雨の雫を行く蛍
蝉の音やおさへて通る山颪
夕顔やあたりえを見れば炭俵
凌荼庵夏
月の頃寝に行夏の川邊哉
行馬の跡さへ暑きほこり哉
水無月や本末斗の風ゆるき
落着の古郷やてうど麥時分
享保十七年(1732)六月十三日八十六歳にて歿す、築地本願寺中成勝寺に葬り、東京市指定史蹟なりしも、大正十二年(1923)の大地震に墓石粉砕し、寺は東京世田ケ谷区世田ケ谷(小田急線経堂駅附近)へ移り、昭和七年(1932)六月、二百年祭に、杉山権兵衛氏が新たに墓を封じ記念碑を建てた。