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俳諧誌上の人々 向井去来

2024年06月10日 15時13分49秒 | 文学さんぽ

俳諧誌上の人々 向井去来

 

『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著 

昭和しょうわ7年7ねん11月11がつ発行はっこう 俳書堂はいしょどう

一部いちぶ加筆かひつ 山梨県やまなしけん歴史れきし文学館ぶんがくかん 山口素堂やまぐちそどう資料室しりょうしつ

 

 

 篤實温厚、蕉門の君士人を以て聞える去来は長崎の人、通称平次郎、また、治郎太夫、名は兼時、また、義焉、世々儒家にして長崎の聖堂の祭酒(今の大学総長の如きも)なりしといふ。萬治元年に兄(医)『益壽院法印)及び父と共に京に出で、洛東聖護院に住み、嵯峨の別墅(べっしょ)を落柿舎と號した。

 その人となりに就ては、佐々木尚義の「落柿先生行状」は詳悉を極めて居るが、聊か長文であるから節録する事としよう。

 

 先生氏は向井、貴名兼時、姓藤原、河邊左大臣魚名の末裔、その先肥前の人、其考より御都にうつる。

 世々儒家にして賢徳を以て称す、かつてまた医術に達す、天下の良医なり、いまの益壽院法印は先生の兄也。落柿舎は嵯峨に在先生寓居の處なり、往歳.芭蕉翁桃青此處に来て此の舎の記を述しよりこのかた、此舎をさして落柿舎と號く。此故に諸友よんで落柿先生と称す。去来は俳集に載る所の名也。

後洛東聖護院にうつり、幽窓のうちにかげをひそむといへども、春のけはひは東山の風景にあらはれ、月は加茂川の清きながれにうつり、時鳥の折にふれ五月雨の窓をうつ音夕の嵐あしたの雨、自然に先生幽居の意にかなひ、山水のたのしびを枕として終焉の地とはなりぬ。

先生もとより天資孝悌、克養純固にして平居恂々たる儒也。……はじめ紫陽に在てひとへに武事を講習し、弓馬の故実をきはめ、御術は大坪式部大輔廣秀が嫡流福山某にきゝ,和は笠原氏の門にならひ、剣術は安部の何某に學び、共にその大意をさとす、軍は甲州一流の奥をきはむ。その後洛に帰りてまた薄田某の門にあそぶ事年あり。八重垣の神法および王法陣の圖を傅受す。かつ橘家傳来神道の秘奥、三種の神器五科十種神籬神垣風水盤坂干満土金等の,諸傳を相承す。かねて餘力あれば古今の人物を論じ、忠義純確なるものはみづから撰で監とせり……。

 文武両道に達して然もその行ひが篤賓謙譲であるから、俊秀林の如き蕉門の高弟中にあっても、衆望自然この人に帰し、長者上席として推されたのは無理からぬところ、芭蕉もその人物を徹鑑したればこそ、一時の戯れにせよ渠を西三十三ケ國の俳諧奉行に比擬したのである。

 

 落柿舎と號した由来は、舎の側に柿の木が多くあり、或日商人の求むるまゝ、一貫文にて売る約束をした。然るに夜もすがらころ/\と柿の落ること引きも切らず、翌日商人が来て

「生来斯くばかり落つる柿を知らす、昨日の一貫文を返して給れ」

といふ、云ふまゝに返してやって以来、落柿合去来と號したと自ら書いてゐる。

芭蕉は暫らくこゝに滝留して、かの「嵯峨日記」が出来たのである。その一節に

 落柿舎はむかしのあるじの作れるまゝにして、處々頽破す、なか/\に作りみがかれたる昔のさまよりも、今のあはれなるさまこそ心とゝまれ、彫せし梁、畫ける壁も、風に破れ雨にぬれて、奇石径松も葎の下にかくれたる竹縁の前に、柚の二もと花かうばしければ

    柚の花やむかし偲ばん料理の間

    ほとゝきす大竹薮をもる月夜

などあり、落柿舎の光景が目に見えるやうである。また落柿舎制札といふもの、かの西三十三ケ國の俳諧奉行と云ヘる芭蕉の戯れに相和して書けるものであらうが、面白いものである。

   落柿舎制令    俳諧奉行 向 去来

一 我家の俳諧に遊ぶべし    世の理屈をいふべからず

   一 雑魚寝には心得あるべし   大鼾かくべからず

   一 朝夕堅く精進を思ふべし   魚島を忌にはあらず

   一 速に灰吹をすつべし     たばこを嫌ふにはあらず

   一 隣の居膳をまつべし     火の用心にはあらず

     右 條 々

 

 「去来抄」三巻は、まことに蕉門の論語とも云ふべく、去来が俳諧に對する意見を見るべきのみならず、俳句作者並に研究者の見逃すべからざるものである。

先師評、同門評、故実、修行の四扁に分たり、故実篇の省かれたものが流布されて居る。

 

 去来曰く、俳諧の修行はおのがすきたる風の先述の句を、一筋に尊み學びて、一句一句に不審をおこし難を構ふべからす、若し解き娯き句あらば、いか様故あるらんと工夫して或は功者に尋ねべし、我俳諧の上達するに従ひて人の句も聞ゆるものなり、始より一句一句を咎めがちなる作者は、吟味の中に日月重なりて、終りに巧の成りたるを見ず(去来抄)  

 

去来曰く、句案に二品あり、趣向より入ると詞道具より入るとなり、詞道具より入る人は、頓作多句なり、趣向より入る人は遅吟寡句なり、されど案方の位を論ずる時は、趣向より入るを宜しとす、詞、道具より入る事は和歌者流には嫌ふと見えたり、俳諧は穴勝に嫌はず。(去来抄)

 

 元禄十年、其角が「末若葉」を編む時、其角の句風を苦諌し「贈晋氏澁川書」を送ったが、其角は勝手に改め、末若葉の附録にした。ものに拘泥せぬ其角の態度も面白いが、去来の方では餘いゝ心持はしなかったであらう。去来の甥の風國は、向年「菊の香」を編纂し,それに去来の原文を載せて居る。去来が其角を苦諌したこの文に就て、許六が去来に書を送りて問答が行われ、後に「俳諧問答」といふ単行本になって居る。許六の文は其角を辯難し、惟然坊を罵り、更に一轉して去来にケシかけて曰く、

 

 予短才未練なりといへども、一流の俳諧に赴いては大敵をうけて一方の城をかため、大軍をまつ先がけ一番にうち死せんとする志鐵石の如し……願はく高弟予と共に志を合せて、蕉門をかため大敵を防ぎ給へ……。                        ’

 

去来もさるもの、此書に對し或は其の言に服し,或は其の言を駁し、容易に許六の煽動に乗らず、うま

い事を云って居る。曰く、

 

 予が性もと柔弱にして、敵に當るの器にあらず、兼ねて十月はじめより心虚労えきを兼病す、今日薬をおこたらず、向来弓を引き矛を振の力なけん、幸に強将の下に弱兵なし、益々兵を養ひ陣を練て、大敵を破りたまへ、雅兄の如きは實に蕉門の忠臣、一方の大将軍……。

 

 許六は、どうかして去来を陣頭に立て、一旗挙げんとの野心があったのであらう、去来の此の書に對し「先生例の物くさき口辺を先とし給ふ事を嘆く、予が如きの勇士はいふに及ばす、關羽張飛が大勇あれども、将器なければ荊州に犬死す。千兵得易く先生の如き一将は得難き事と和漢のことぐさにも見えたり」

 

など云ひ送って居る。倨倣尊大、同門の諸俳士を見ること塵芥の如くなりし許六も、「第一先生の風雅を諭ぜば、その器すぐれてよし」と、恭敬な態度を持して居り、傲岸なること許六に譲らぬ支考も、落柿先生挽歌に、

 

 誠に此人よ風雅は武門より出づれば、堅き所に柔みありて、先師もそれをゆるし給へりしが、我はやはらぎたる處に堅みあらんをと逢ふときは戯れて云ひもしつ、まして蕉門の高弟にして吾輩の先生なるをや、何にか此人を惜まざらん、我のみかく惜むにやあやし。

 

と痛悼して居る。宝永元年九月十日聖護院の寓舎に歿す。

享年五十四(また、五十三)、洛東眞如堂後山の墓地に葬る。去来抄、猿蓑集、俳諧問答等の編著の外、其角と応酬したる「柿晋問答」、許六の篇突を評諭したる「湖東問答」、妹千子と参宮せし時の「伊勢紀行」、俳諧の法を實例を挙げて解説したる「玉襷」などの著がある。

 

   元日や家に譲りの太刀佩かむ

   五六本よりてしだるゝ柳かな

   上り帆の淡路はなれぬ潮干かな

   瀧壹もひしげと雉子のほろゝ哉

   一昨日はあの山こえつ花盛り

   湖の水まさりけり五月雨

   名月や橡とりまはす桼のから

   柿ぬしや梢はちかき嵐山

   秋風や白木の弓に弦張らむ

   鴨なくや弓矢を捨てゝ十五年

   尾頭も心もとなき生海鼠(なまこ)かな

   箒こせ真似ても見せむ鉢たゝき